はてなキーワード: 芥川龍之介とは
昨日から急にどこかにカテゴライズされないと!という不安に襲われているのでだらだらと調べているんだけど、
性欲はあるけど恋愛感情が(分から)ない人のことは何て言うんだろう?
わたしは人が好きで、
この好きってのはなんていうかな……うまく言えないけど、人のかわいそうなところとか人間臭いところとかを見ると同情したり胸がぎゅっとなって
と、同時に人にひどいことをしたい衝動がずっとだらだらと渦巻いていて、
このひどいことっていうのは自分じゃうまく言えないんだけど
例えば暴力だったり、言葉で傷つけたり、性的なことを一方的にしたり
そのあとに抱きしめてごめんねごめんねって言いながら甘やかしてあげて
それからまたひどいことをしたい
こういう支配欲とか加虐欲、暴力衝動が性欲に絡まって複雑に肥大した感情を性別年齢問わず、もう言ってしまえば「人」というジャンル(人以外も対象ではあるけどややこしくなるから今回はナシで)に抱いている
多分、幼い頃から
わたしはずっとこの性欲のようなものを恋愛感情だと思い込んでいて、
だって芥川龍之介も「恋愛はただ性欲の詩的表現をうけたものである」って書いてるらしいし(前後の分脈を知らずにこの言葉だけを受け取るのはダメかもしれないけど)
でもこれってもしかして恋じゃないな……って少し前に気付いた
気付いたというか、そういう話を唯一するクラスメイトの男子にそう言われて、あっそうかも……と納得した
わたしの性欲は一方的で、必ずしも直接的な性が絡んでるわけでもなくて、なんというか……子どもの癇癪がそのまま大人になってちょっとめんどくさいオプションが付いて残りました、みたいな?
まとめるのが下手過ぎて自分が嫌になってきた……
恋愛はしてみたい……でもセックスしたくないし人前で何かを曝したくない
仮に恋愛感情だとしてもそれを不特定多数に持ってる時点で何もできなくない?
アセクじゃないんだよね……アセクって性欲ないんだよね……?
初めてはてな匿名ダイアリーを書くので読みにくいかもしれませんが、ご容赦を。
最近よく見聞きする言説の一つが「小説は誰にでも書けるわけじゃない」という物です。私自身の感覚としてそれって本当かな、というものがありこんな文章を書きます。
上手くはないですし、評価をされていると言うこともありません。
感想もあまりもほとんどもらいませんし、もらっても批評未満の意見が多いです。
たまにもらう感想で心がほっこりし、自分の欲求を満たすために小説を書いています。
そんな人が思うのは「小説ってやっぱり誰にでも書けるよね」です。
卑下しているわけではありませんし、貶め炎上することが目的でもありません。
ですがどうしても「誰にでも書けるよ」と思ってしまうのです。
ある人は毎日空想をします。そして「あ、これは面白いな」と思えば140文字でも500文字でも1000文字でも書きます。
もっと言うなら、ノートの端に「○○が●●と△△する。きっとかわいい」などと書きます。
ここまでで察しのいい人は「そういうことか」と解ってもらえるかもしれません。そうでない方にも、解ってもらいたいので私は続きを書きます。
私が言いたいのは「どんなに短文でも、どんなに体裁が整っていなくても、一文、単語の羅列であってもそれは小説だよ」ということです。
空想をして、ひいては感じたことを何かに書き付けたその時、人は小説家になるのです。
多くの人は「小説って書けないよ」と言います。でもその「小説」は川端康成だったり芥川龍之介だったり清少納言だったりする、後の世であろうと通用する作品を指して言っているのだと思います。
もしくは、自分の心に残っている作品を指しているのだと思います。
素晴らしいことです。
他人の心には残らないかもしれないけど、自分の心には色濃く残る文章って誰しも持っているのだと思います。
それは単純に「夕日がきれいだった」「おいしかった」でいいのです。
その裏にある、自分がその時感じた心の動きを思い出せるなら、小説なんて「○○が●●と△△する。きっとかわいい」でいいのだと思います。
人は「それは小説じゃない、ただの感想」と言うかもしれません。
ですが私は、ただ自然と「おいしかった」と書くことは、心のままに「かわいい」「格好いい」と書くことは、それだけで小説家になる行為そのものなのだと思います。
絵に関しても詳しくはありませんが、同じなのかもしれないな、とも思います。
誰かが何かを書いた時、絶対に馬鹿にしてはいけないと思います。
委縮してしまうと色々なことを考えても、表現することが出来なくなってしまうからです。
ですが、明らかに間違っているのだとしたら「間違っているよ」と言うことはあるかもしれません。
間違いは正すべきものです。そして、馬鹿にしてはいけないものでもあるのです。
よくわからない人向け、もしくは私の文章が下手だった場合の、要点を書いておきます。
ジャンル場所問わず世に小説はいっぱいあるよ、それを指して「小説が書けない」は違うと思うよ。
どんな者でも馬鹿にだけはしちゃだめだよ。
初めてはてな匿名ダイアリーを書くので読みにくいかもしれませんが、ご容赦を。
最近よく見聞きする言説の一つが「小説は誰にでも書けるわけじゃない」という物です。私自身の感覚としてそれって本当かな、というものがありこんな文章を書きます。
上手くはないですし、評価をされていると言うこともありません。
感想もあまりもほとんどもらいませんし、もらっても批評未満の意見が多いです。
たまにもらう感想で心がほっこりし、自分の欲求を満たすために小説を書いています。
そんな人が思うのは「小説ってやっぱり誰にでも書けるよね」です。
卑下しているわけではありませんし、貶め炎上することが目的でもありません。
ですがどうしても「誰にでも書けるよ」と思ってしまうのです。
ある人は毎日空想をします。そして「あ、これは面白いな」と思えば140文字でも500文字でも1000文字でも書きます。
もっと言うなら、ノートの端に「○○が●●と△△する。きっとかわいい」などと書きます。
ここまでで察しのいい人は「そういうことか」と解ってもらえるかもしれません。そうでない方にも、解ってもらいたいので私は続きを書きます。
私が言いたいのは「どんなに短文でも、どんなに体裁が整っていなくても、一文、単語の羅列であってもそれは小説だよ」ということです。
空想をして、ひいては感じたことを何かに書き付けたその時、人は小説家になるのです。
多くの人は「小説って書けないよ」と言います。でもその「小説」は川端康成だったり芥川龍之介だったり清少納言だったりする、後の世であろうと通用する作品を指して言っているのだと思います。
もしくは、自分の心に残っている作品を指しているのだと思います。
素晴らしいことです。
他人の心には残らないかもしれないけど、自分の心には色濃く残る文章って誰しも持っているのだと思います。
それは単純に「夕日がきれいだった」「おいしかった」でいいのです。
その裏にある、自分がその時感じた心の動きを思い出せるなら、小説なんて「○○が●●と△△する。きっとかわいい」でいいのだと思います。
人は「それは小説じゃない、ただの感想」と言うかもしれません。
ですが私は、ただ自然と「おいしかった」と書くことは、心のままに「かわいい」「格好いい」と書くことは、それだけで小説家になる行為そのものなのだと思います。
絵に関しても詳しくはありませんが、同じなのかもしれないな、とも思います。
誰かが何かを書いた時、絶対に馬鹿にしてはいけないと思います。
委縮してしまうと色々なことを考えても、表現することが出来なくなってしまうからです。
ですが、明らかに間違っているのだとしたら「間違っているよ」と言うことはあるかもしれません。
間違いは正すべきものです。そして、馬鹿にしてはいけないものでもあるのです。
よくわからない人向け、もしくは私の文章が下手だった場合の、要点を書いておきます。
ジャンル場所問わず世に小説はいっぱいあるよ、それを指して「小説が書けない」は違うと思うよ。
どんな者でも馬鹿にだけはしちゃだめだよ。
ここやネットに投稿したときに文章自体についてのコメントではなくて本文内容そのものにコメントがもらいたい。
とりあえず本を読もうと思った。そしてそれは20年くらい続けている。
私は年間100冊~300冊は本を読んでいるが内訳はだいたいアイドルの写真集だ。
本を読めば文章がうまくなったり、頭良くなったりするんじゃなかったのか?
100冊の内訳は
70~90冊が写真集で
残りの30~10冊が「入門○○」的なもの
小説は5年に1冊くらい
ちなみに上手に文章を書く方法的な本は過去に20冊くらいは読んでいるつもり。(年1冊程度)
ここ最近で読む気になった小説は以下で団地妻とメイドの話くらいしか全部読めていない
団地妻の話
メイドの出てくる話
IQ86(とても読みやすくて三分の一くらいは読んだが全く続きが気にならずに読む気になれない)
ノルウェーの森(上に同じ)
サルトルの本(哲学書らしいが小説仕立てになっていて全く面白く感じなかった)
私はどうして小説を読み進められないのだろう
面白い小説を知らないからというアドバイスが欲しい気もするが、これだけは読んでおけという小説、ドラマやアニメ・・・。
なぜか全く見続けられない。
我慢してみることはできるがアイドルや折り紙の本を読んでいるようなわくわく楽しいなという新鮮な感覚には至れずその結果二度と見るかというループにはまってしまい現在に至る。
小説が好きな人は芥川龍之介が好きで興味があってマニアなのか?だから読み終わるのか?