はてなキーワード: 明鏡国語辞典とは
「数(すう)」もしくは「数回(すうかい)」で調べてみた。
少ない回数を漠然という
二,三回から五,六回程度の回数。
三〜四回、五〜六回ぐらいの回数をばくぜんという語。
「三、四から五、六の」「わずかの」などの意を表す。「数人」「数回」
三、四から五、六ほどのかずを表す。「─日・─万人・一〇─か所」
三、四の。五、六の。〔文脈により、多い意にもわずかの意にもなる〕
概ね3~4もしくは5~6ぐらいが適用の目安と言えそうなので、元増田には「使うべきではない」というのが回答になる。
とはいえ、大辞林では2も適用内とされているので、相手が大辞林ユーザか確認して2の適用を考えるのがベター。
逆に大辞林ユーザと話をする時は少なく見積もられる傾向があるので気をつけよう。
広辞苑は何かを語っているようで何も語っていない。じゃ、少ないっていくつやねん。
個人的にはどうしても「しかたない」感、「ちっ、うっせーな」感が出てるように読めるんだけど、本当に「快く受け入れる」という意味でいいの? 辞書に「本来は」って書いてあるのは、今ではそういう用法が稀だからでしょう? なんで現在ほぼ通用していない用法で謝罪文を書くのか意味がわからないんだけど。ちなみに明鏡国語辞典では「与えられたものが不十分であってもそのまま受け入れる。特に、しかたのないものとして受け入れる。」とあるけど、これは間違ってるってこと?
あと、辞書の定義が絶対だと思い込んでるのはやばい。言葉の意味というのは辞書の定義とは違う。こんなのは言語学の基本中の基本なんだけど。
それに本来的な意味を論じるのになんで現代の国語辞典を例示してるんだろう。謎すぎる。
というか今度は「しかたない」「やむをえない」の意味がわからなくなってきた。「本当はそうしたくないのだけど、そうせざるを得ない」感を感じてしまう。自分が間違ってるのか? はてなブロガーがなんか言ってたけど。よくわからんなー。
周知のように、「貴社」と「御社」には使い分けが存する。たとえば、『明鏡国語辞典』(第2版、大修館書店)の「御社」項に「「貴社」が多く書面で使われるのに対し、「御社」は多く口頭で使われる」と記載されていることからも、この考え方がひろく受けいれられていることは明らかである。
上記のような使い分けが生じた理由は、一般につぎのごとく説かれる。「同音の言葉が多く紛らわしい「貴社」に代わり、主に話し言葉において使われ始めた*1」。一見、もっともな説明であるが、はたして首肯してよいのだろうか。
よく考えてほしい。「貴社」と「記者」「汽車」「帰社」などの語を混同する文脈など、にわかには想定しがたい。したがって、この説明は「まゆつばもの」のたぐいである。むしろ、日本語変換ソフトを利用する機会の多さを考えると、「貴社」をこれらの語と誤変換するおそれのほうがはるかに大きいはずだ。
さきに引用した『デジタル大辞泉』によると、「御社」の語は1990年代に使われはじめたものであるらしい*2。「ビジネスマナー」なるものをでっちあげ、喧伝して飯の種としている人びとがつくりだした俗信なのであろう。
もっとも、現にかような「ビジネスマナー」が通念になってしまっている以上、これにしたがわないと「非常識」の烙印を押されることになる。不承不承、「貴社」と「御社」を使い分けつづけるしかあるまい。(有坂)
*1 『デジタル大辞泉』、https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E7%A4%BE-455811#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89、2017年1月8日閲覧。
*2 同上。
日本が異常
元増田氏の論旨と全く関係ないのにさりげなく共産党への偏見をまき散らしてますなあ。
共産党(communist party)の支持率が5%あると言うと大概の外国人は仰天するし、地方議会で三桁人、国会で数人に議席数があると言うと絶句されるぞ
えっ?
「大概の外国人」って、どこの国々の人たちなんだろう?
たい-がい【大概】
〘副〙
①〘名〙ある物事の大部分。ほとんど。だいたい。「シェークスピアの作品は─読んだ」「─の人は知っている」
②たいていの場合がそうであるさま。ほとんど。「ふだんは─家にいる」
③多分。おそらく。「今度は─大丈夫だろう」
(明鏡国語辞典より)
だい【台】
(2)[接尾] 数量のおおよその範囲を表す。「三千円─」「二〇─の女性」
(明鏡国語辞典)
こんな解説はあったよ
http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/154.html
「同類の動作・状態が繰り返し起こる意を表す。『行ったり来たりしている』『泣いたり笑ったりする』『高かったり安かったりで安定しない』『晴れたり曇ったりの空模様』 語法『たり』を繰り返す形が規範的」(『明鏡国語辞典』大修館書店)
例えば、時事通信社の『最新用字用語ブック[第4版]』は◆「~たり~たり」の用法について次のように記しています。「『歌ったり踊って楽しんだ』といった表現が増えているが、『歌ったり踊ったりして楽しんだ』と正しい用法を使いたい。『踏んだりけった』とは決して言わない。(以下略)」
<例>
×本を読んだり、手紙を書く暇もありません。
→○本を読んだり、手紙を書いたりする暇もありません。
何言ってるかまったくわからないところがある。
たとえば、
人の内部世界である演算領域内で組み立てられた魔法式を、無意識領域の最上層にして意識領域の最下層たる「ルート」に転送、意識と無意識の狭間に存在する「ゲート」から外部情報世界へ投射することにより、魔法式が投射対象たる「事象に付随する情報体」――これを現代魔法学では、ギリシャ哲学の用語を流用して「エイドス」と呼んでいる――に干渉し、対象の情報が一時的に書き換わる。
(1巻、pp.104-105)
文章研究としてこの本をかなり真面目に精読してたんだけど、それでもこの文章読んでなにがなんだかよくわからない。いまの中高生ってこういう文章読めるのか。冗談でもなんでもなくニクラス・ルーマンより難しいと思った。ここまでなにいってるかわからない読書体験(しかも小説、しかもラノベ)なんてはじめてだ。にわか文学ファンはトマス・ピンチョンが好きだけど、そのピンチョンよりはるかに読みにくい。
ほかにもいろいろあるけど、ちょっと驚いたのは、
達也の浮かべた苦笑いは、苦々しさのないただの苦笑に変わっていた。
(1巻、p.71)
これ。苦々しさのないただの苦笑ってなんだろう。哲学的といえば哲学的だけど。撞着語法かな? 「苦笑」って辞書的には「にがにがしく思いながら、しかたなく笑うこと」(明鏡国語辞典)なんだよね。いや、べつに辞書が正しいって言ってるんじゃないよ。ことばの意味ってのは文脈に応じてアドホックにどんどん変わっていくものだからね。でもそれにしてもこの語法は難しすぎるんじゃないか? ある種のアイロニーなんだろうか。難しい。
神話・民話などに登場する、いたずら者。秩序と混沌、文化と自然、善と悪など対立する二世界の間を行き来し、知恵と策略をもって新しい状況を生みだす媒介者。
明鏡国語辞典 (C) Taishukan, 2002-2008
(1)詐欺師。ぺてん師。
(2)神話や民間伝承などで、社会の道徳・秩序を乱す一方、文化の活性化の役割を担うような存在。
別に社会で動いてなくても引きこもって読書しながら唸っとけば書けるような記事じゃないすか すべてね。 突っ込んだ話じゃない。実はどれもこれも。
んで、実は「単に文章が書けるだけで実際たいしたことない人」って仮説を思いつきました、!!
さて、誰がこの仮説を反証できるのか?
情報を発信することで、状況が変わる。混沌と。それを それ自体を見つめて下品な笑みを浮かべてるはずだ!!11
僕はそう思っています。彼は信用できない! 信用するに足る何かがない!!11 みんなアイツに踊らされるな!!!111
き-かい【機械・器械】
??しかけのある器具。からくり。
??〔機〕(machine)外力に抵抗しうる物体の結合からなり、一定の相対運動をなし、外部から与えられたエネルギーを有用な仕事に変形するもの。原動機・作業機械など。
◇「機械」は、主に人力以外の動力による複雑で大規模なものをいい、「器械」は、道具や人力による単純で小規模なものをいうことが多い。
き‐かい【機械】??名??
動力によって作動し、一定の運動・仕事を行う装置。「工作─」「精密─」◇一般に「機械」はそれ自体に動力源を備えた規模の大きな装置をさし、「器械」は比較的小規模な装置や道具をさす。「機器(器機)」は両者をあわせた総称。
きかい 2 【機械/器械】
(1)動力源から動力を受けて一定の運動を繰り返し、一定の仕事をする装置。主に、きっかけを与えると人力を借りずに自動的に作動するものをいう。からくり。
(2)精密な作動をする実験・測定用の装置。
「観測―」
〔規模の大きいものを「機械」、小さいものを「器械」と書いて区別することがある〕
(3)(器械)うつわもの。器具。道具。
(4)書名(別項参照)。
きかい-ろん 2 【機械論】
〔哲〕〔mechanism〕あらゆる現象を機械の運動になぞらえ、因果法則によって解明しようとする説。一七世紀の科学革命を通じて広く流布した世界観。目的に向かっての現象の生成・完成を認めない点で目的論に、また、生命特有の現象を認めない点で生気論に対立する。