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○ きりこについて 角川文庫 2011/10/25 ¥555
△ 漁港の肉子ちゃん幻冬舎文庫 2014/4/10 ¥648
中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろのメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され一部で話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』に続いて『天帝のはしたなき果実』を読了したので、前回(http://anond.hatelabo.jp/20131221141558)に続いて比較検証していきたいと思う。ちなみに私が読んだのは講談社ノベルス版(通称「旧訳」)である。古野まほろとしては全面改稿した幻冬舎文庫版(通称「新訳」)を決定稿としたいようだが、諸事情から旧訳を参考とした。以下の比較検証において新訳では違ってくる部分があることをあらかじめ了承いただきたい。
12月7日にTwitterに於いて古野まほろが「関係性の説明」をした。それは大きく分けて【学校の設定】【死体発見時の言動等】【推理合戦】の3点である。今回はその中から【死体発見時の言動等】について検証していきたい。古野まほろが挙げた「同一性」は以下の通りである。
・警察への通報を拒否する理由は、高校生として「重要なイベント」のためである
・結果、その場にいる生徒による、多数決が行われる
・最後の一票により、イベントを優先して通報しないことが決まる
1つ1つの要素の問題ではありません(要素で見ても厳しいかな、とは思いますが・・・)。私が問題にしているのは、これらすべての要素の「組合せ」です。このような「組合せ」が、まったく別個の作家により、偶然に案出される可能性は、ゼロです。死体発見時の言動等もまた「同一性」の問題です。
古野まほろ(作者)は「死体発見時の言動等」と銘打っているが、前半は被害者の特徴についてである。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、メインとなる密室殺人事件の被害者となるのは「灘瀬朝臣(なだせあそん)」である。灘瀬について記述してある部分を引用したい。
ねちねちとした口調、ねめつけるような視線、四十代半ばにして既に注意信号の頭髪、加えて誰が言い出したかセクハラ疑惑まで併せ持った社会科担当の教諭、灘瀬――なんとか。失礼、フルネームは存じ上げない。専門も世界史だったか倫理だったか。
灘瀬朝臣は社会科担当教諭であり、専門が世界史なのか倫理なのかは本文中で特定されていない。高校で世界史を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(地理歴史)」であり、倫理を教えるのに必要なのは「高等学校教諭一種免許状(公民)」だ。それぞれ別ではあるが、実際は両方を取得しどちらも教えるというケースが多い。
『天帝のはしたなき果実』において殺人事件は何度か起こるが、メインとなる首無し殺人事件の被害者となったのは「瀬尾兵太(せおひょうた)」である。瀬尾兵太は世界史担当教諭である。本文中に世界史以外の社会科科目を教えているとの記述はない。
黄昏の音楽室に入ってきたのは、我が県立勁草館高等学校で世界史の教師を勤めるとともに、同校吹奏楽部の顧問に任じる瀬尾兵太だ。
「要素」で判断する限りは「社会科担当教諭(専門は世界史か倫理か不明)」と「世界史担当教諭」を「同一性」と表現するのは厳密な意味においては正確ではない。だが、少なくとも数学と英語のように全く関係がない教科ではなく、非常に類似している「要素」であるといえる。
『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の特徴が「理不尽な質問と悪態」であることは、さきほど引用した文のすぐ後に書かれている。特筆すべきなのは、実際に灘瀬朝臣が生徒に理不尽な質問をしたり、答えられない生徒に悪態をつくような場面が一切登場しないことだ。設定として生徒に恨まれる理由があることを示す以上のものはない。
根も葉もない噂には同情を禁じ得ないけれど、彼を生理的に受け付けない生徒は多そうだ。授業も理不尽な質問を当てるし、答えられない生徒には悪態もつく。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の特徴が「理不尽な質問と悪態」と断言していいものかは迷う。『ロジック・ロック・フェスティバル』の灘瀬朝臣がただの記号として描かれているのに対し、瀬尾兵太ははるかに血の通ったキャラクターで、特徴として挙げるべき点が複数あるからだ。主人公たちの所属する吹奏楽部のOBであるとか、東京帝大法学部出身であるとか、胸に大きな緑色の宝石を付けているとか、語学の達人であるとか……。
そこで、まずは「理不尽な質問と悪態」に該当しそうな部分を探してみることにする。第一章から瀬尾兵太が生徒に質問するシーンを抜粋したのが以下だ。
「p、って何だ」
「阿呆(ドゥラーク)かお前! 確かにfは『強く』でもいいが、pは『静かに』。(後略)
「あと峰葉、お前は腕立て二セット追加だ――理由は?」
「唇に歌口(マッピ)の跡が付きすぎて興を削ぐな。何でそうなるんだ?」
「それは何でだ?」
(前略)音がボケてる。どうしてだ?」
「舌遣い(タンギング)が柔かすぎたからでしょうか(はふう、想定の範囲内)」
瀬尾兵太が吹奏楽部の録音を聴いて指導する場面である。「理不尽」かどうかは判断が分かれるところだが、「質問」をすることによって生徒にどこがよくなかったのか自ら考えさせるのが瀬尾兵太のやり方のようだ。そして適切な答えを返せなかった生徒には、「阿呆かお前!」と悪態をついている。「悪態」については具体的にその言葉が出てくる箇所がある。
「まずは誰も口論の当事者だって名乗りでてこないからです。瀬尾先生の悪態というか音楽に関しての辛辣かつストレートな要求は今に始まったことじゃありません。誰だって何度もボコボコにされてます」
この発言をした登場人物は瀬尾の言動は「悪態」そのものではなく、「悪態」と表現してもいいような「音楽に関しての辛辣かつストレートな要求」と認識しているようだ。
これまでに記述したとおりメインとなる殺人事件を比較した場合、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「被害者は、成年男性1人」で間違いない。しかし『ロジック・ロック・フェスティバル』は日常の謎を解く場面がいくつかあったのち、メインとなる密室殺人事件が描かれるのに対し、『天帝のはしたなき果実』は連続殺人事件を扱っている。その被害者は男子生徒、女子生徒、教師(これが「成年男性1人」に当たる)である。つまり、メインとなる事件だけを比較対象にした場合「同一性」に該当するが、比較対象を物語全体に敷衍した場合「同一性」には該当しないことになる。
「クローズドな施設」という表現が、含みを持たせている。ミステリーにおいては「密室」と「クローズド・サークル」というふたつの閉鎖状況がある。『ロジック・ロック・フェスティバル』において描かれるのは密室殺人事件だ。文化祭開催期間中に、密室となった社会科研究室で死体が発見される。
「……密室」
僕らが入ってきたドアは確かに鍵が掛かっていた。もう一方のドアは元よりガムテープでがちがちに封鎖されて閉め切りになっており、出入り口としての役目を完全に放棄させられている。四つある窓全てにしっかり施錠されているのが確認できるし、廊下側の壁の上部・下部にそれぞれ設けられた換気用の小窓もご丁寧に施錠がなされていた。
高校の敷地や建物は文化祭期間中で一般にも広く開放されているので「クローズド・サークル」ではない。しかし、社会科研究室を含む四階は、唯一の階段がふたりのバスケットボール部員によって監視されている。
「はい、そうみたいでした。なのであたし、立ち聞きする気はなかったんですが、会話の内容が耳に入ってしまったんです。彼女たちはこう言ってましたよね、『私たちがいる間にここを通ったのは、会長と副会長、あと実行補佐の四人で全部です』って」
『天帝のはしたなき果実』において、メインとなる首無し殺人事件が起こるのは、アンサンブルコンテスト県大会が行われている姫山市文化会館の第7楽屋である。この第7楽屋には死体発見時に鍵が掛けられていたが、オートロック式で関係者が鍵を持っていたこともあり「密室」とは呼べない。
ここの楽屋はオートロック式で、カードキィを持っていなければ開かない代わりに、内側からは鍵もチェーンも掛けられない珍しい扉になっています(朝のミーティングのとき瀬尾がいいましたね)。
姫山市文化会館は一般に広く開放されている公共施設であるので「クローズド・サークル」ではない。しかし、楽屋を含むエリアは関係者以外立ち入り禁止となっている。
「非公開区域にはリボンないと入れへんし、第7楽屋のドアは専用のカードキィないと入れへんで、念のため。借りたら記録残るし」
鷹松学園も姫山市文化会館も一般に広く開放されている。しかし「クローズドな施設」という含みを持った表現をすれば、どちらの作品も外部との出入りが制限される場所で死体が発見されており、当てはまることになる。
ここから死体発見時の状況になる。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、被害者(灘瀬朝臣)の死体を発見するのは、主人公(中村あき)、山手線太郎、鋸りりこ、万亀千鶴、生徒会長(衿井雪)、副会長(成宮鳴海)の6人である。
四階に辿り着くと、そこにはなんと会長までもが参席していた。
「鍵、持ってきてくれたか! 早く、嫌な予感がする」
既に事態も把握しているようだ。
走り寄って僕がポケットから鍵を取り出すと、会長が引っつかむようにしてさっさと鍵穴へ差し込んだ。
かちり、と確かに鍵の外れる音。
社会科研究室の扉が開くと、中から冷気が溢れ出した。エアコンがかけっ放しらしい。何か異様な雰囲気と共に、確かな臭気がその中に感じ取れた。
「うっ……なに、この臭い」
千鶴が鼻を押さえる。
呼び掛けながら室内に足を踏み入れる会長。僕がその後に続いた。
研究室の入り口付近は左手にすぐ壁、そして右手に本棚といった配置である。そのため本棚が途切れたところで、ようやく部屋の全容が見渡せた。
目に飛び込んでくるのは痛いほど鮮かで、残酷な色彩。
一面の赤色。
血の海。
赤の海。
そこに沈む、ぐにゃりとした男の体。
深紅に溺れる、こと切れた灘瀬がそこにいた。
『天帝のはしたなき果実』において、被害者(瀬尾兵太)の死体を発見するのは、主人公(古野まほろ)、峰葉詩織の2人である。
うひゃあ! 前を歩いていた瓶緑色(ボトルグリーン)のブレザー着た集団も飛び上がった。彼女はず、ずいと第7楽屋の前に立つ。「キィは?」
「こちらです」
ピ、と脳天気な電子音とともに若草色(リーフグリーン)のランプが灯る。彼女は目を伏せがちにいった。
「こんどは檸檬、買ってくるのよ。古野君の勝――」
次いで教科書どおりの、深々とした、背筋の伸びた息継ぎ(ブレス)。
「僕の、か?」
彼女の凍てついた顔を、僕は忘れない。陸奥(みちのく)の安達ケ原の姫山に、鬼籠もれりというは真実(まこと)か――
そこには、嵌め殺しの机にもたれ、ドアに背を向ける形で、瀬尾だった物体があった。
肩からうえには、首がなく。
それは、避けられない宿業のようだった。
上記に引用したとおり、『ロジック・ロック・フェスティバル』も『天帝のはしたなき果実』も「発見者が生徒である」ことは間違いない。付け加えるならどちらの作品も「死体の発見者が主人公を含む集団である」と言っていいだろう。また主人公自身が鍵を開けるのではなく、別の人物に促されて主人公が鍵を渡す点も共通点と言える。
ここからは、死体を発見したものの警察へ通報しないという判断をするシーンである。上記ふたつについて引用部分が同じなので同時に検証する。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、通報を拒否する生徒は生徒会長(衿井雪)である。その理由は自身が実行委員長として力を注いできた文化祭を最後まで終わらせたいというものである。
その時だった。
会長がすっとみんなを置き去りにするように入り口の方に向かった。そして直後、社会科研究室の扉がぴしゃりと閉じられる音が響いたのだ。
「会長……?」
不審に思い、僕も一度灘瀬の遺体から離れ、一同の輪の方へ戻ることにする。
そこから入り口を見ると、なんと会長は信じられないことに扉を背にしてその場で膝を折り、こちらに向かって土下座をしていたのだ。
それだけではない。とんでもない発議がその口からなされた。
それは誰もが理解に時間を要するほどの突飛な提案だった。
「な、何を言って……」
ようやくどうにかして言葉を発した副会長を遮って、会長は哀願するように続けた。
「分かっているんだ、これは普通の思考じゃない……異常だ、狂ってる……そんな風に思うかもしれない……それでも! それでも私は自らの全てを鷹松祭に注ぎ込んできた……実行委員長として私にはこの祭を完成させる義務がある。それだけは誰にも邪魔させない。じきに一般公開も終わる。そこから簡単な片付けがあって後夜祭、ファイアーストーム、そしてグランドフィナーレ――鷹松祭が終了を迎えるまで残り約三時間、あとたったそれだけなんだ!」会長は喘ぐように息を継いだ。「――今一度、三顧の礼を尽くして懇望する。鷹松祭の終了まで示し合わせて黙っていてはくれないだろうか」
『天帝のはしたなき果実』において、最初に通報を拒否する生徒は主人公(古野まほろ)である。その理由はすでに演奏が終わったアンサンブル・コンテスト県大会の結果が聞きたいというものである。
「差し当たり重要なことは」一馬が厳かに口火を切った。「ひとつしかないわ。通報か沈黙か。それが設問よ(ザットイズザクエスチョン)」
「僕は沈黙派だよ」と僕。
(中略)
「今通報すれば、会場は大混乱、大会どころじゃなくなる。あれだけの演奏ができたのは瀬尾のお陰だし、客観的にもその評価を得るのが供養だと思う」
私は現在、心療内科通院中です。通い始めてからだいたい3年くらいかかってなんとか上向いてきました。
通院するようになってから、うつ病に関する新書や文庫など、手に入りやすい本を何冊か読みました。
そのうち、個人的にいい内容だなと思ったものを挙げます。
素人の感想なので、異論反論多々あると思いますが、何かのお役に立てれば幸いです。
マンガ。続編の『その後のツレがうつになりまして。』ともに文庫化(幻冬舎文庫)されています。
「休養」環境を整備するために家族にはある程度病気を理解してもらった方がよいと思います。
発病したての頃、家族がうつ病についてよくわかっていないようだったので、家族向けに買いました。
最近文庫になった『こんなツレでゴメンナサイ。』は(単行本は文藝春秋。文庫は文春文庫)、ツレさんの立場から、内面を詳しく書いています。
こちらを読んで共感したのは、自責感や体のつらさ、治りかけの時に「性格が悪くなる」というあたりです。
うつ病、心の病気には未知の部分があります。たとえば、薬は存在するのですが、「なぜ効くのかわかっていない」らしいです。
だから私はできるだけ新しく、また上手に整理された内容の本を求めていました。
この本は(おそらく現時点で)最新の見解を載せています。医師によりいろいろな立場があるので、一概に「最高」とはおすすめしませんが、
発病原因(内因性・心因性)と症状(精神症状が強いか身体症状が強いか、また重傷度)から治療方針を考えている実例が参考になります。
薬についても整理されていてわかりやすいとおもいます。また、「偽うつ」などと断じられやすい「新型(非定型)うつ病」も
治療と本人の精神的な成長で改善するであろうという見解も、ただ「困った若者」として排除する立場よりは理性的だと思いました。
友人知人にならば、最初に読む1冊として勧めるだろうと思います。
薬に対する反応性がいまいちで、何種類も薬を変えてきているので気になって読みました。
抗うつ薬は「中程度までの」患者にはあまり効果がないという研究があるようです(インターネットで検索してみてください)。
また、製薬会社のSSRIのPRの時期とうつ病患者数が増加した時期が一致する点は、気になってしまうところです。
ですが、医者や薬を悪者にしようとしているかのような煽りタイトルはちょっと誤解を招くように思います。
この本は「薬だけでは」治らない、と主張しているように思います。「患者化」つまり、患者であることにあぐらをかき、
周りの手助けをあたりまえと思う思考を戒めています。
治ろうという意志がなくては治らない、という思いを深めた1冊でした。
私は来春から就職しますが、まだ寛解していない病気とつきあっていくのには不安があります。
この本は「産業医」の立場から、働きながら病気を治す、病気を治して働く、
そもそも仕事のストレスが高じて病気にならないようにするには、ということを書いた本です。
社会人の方には、病気であろうとなかろうと、使われる立場でも使う立場でも、読んで欲しいと思いました。
「管理職へのアドバイス」という部分が、患者でない人向けです。
薬に対する反応がイマイチのため、医師に「認知行動療法」をしてみることを勧められました。その良書がこれとのことです。
分厚い翻訳書で高いです。それと、後半の難しい部分は読むのが辛いです。
一応読みましたが、アメリカーンな感じ(前向きに生きてればハッピー、信仰は持ってるよね当然)がするので、なんとなく馴染めませんでした。
認知行動療法は、医師に出される宿題をやって、採点(みたいなことを)してもらって、自分の考えのクセを自覚していくもののようですが、
そんな手間をかけられるほど時間のある医師が日本にはたぶんほとんどいません。臨床心理士も数が少ないと思います。
自力でこの本のワークシートをやってもいいのでしょうが、まるで『絶対内定』みたいな分厚さなので断念しました。
『いやな気分よさようなら』に挫折して、レイアウト優先で(とっつきやすさで)これを求めました。
ほんとうに自分でできる構成になっていると感じます。
ワークシートは1枚ずつしか印刷されていないので、コピーをとらなければいけませんが、見やすくわかりやすく、
どのシートをどういう順番にやればいいのか絞り込まれているのでよいと思います。
私は残念ながら本書を買った後に下向きの波が来てしまい、ワークシートは書かずに読むだけでした。
上記に挙げた以外にも、トンデモだなあと思う本や、スピリチュアルが入っている本、
わかりやすさを求めるあまり表面的な内容になっている本、内容が古くあまり役に立たない本など、
10冊以上は読んでいると思います。中でも、私が腑に落ちた本を挙げました。
いま、改善しつつあるのは医師や薬のおかげばかりでなく、これらの情報に接して考え方が変わったからだと思います。
自分ばかりがなぜという思い、どうして長引くのかという不安は、知識を得ることによってある程度軽減されます。
また、私が「治ることに前向きになった」と感じたのは、卒業年限となり、苦しいながらも就職活動をやり終えた頃からでした。
就職活動で、他人に伝わる言葉で表現せねばならなかったこと(今までは自分の気持ちを、ニュアンス優先の自分語彙で表していました)、
仕事をするという目標ができたことが前向きに作用したのだと思います。
私はあきらめずに進みます。
同病の皆様、そのご家族の皆様、患者の方と同じ会社で働く皆様。
発病自体は過ぎたこととして、これからを歩んで参りましょう。
活字中毒Rより http://www.enpitu.ne.jp/usr6/60769/diary.html
もしも店長がもうちょっと頭がよかったら、私たちのちょっと異様な年齢層やルックスや話し方を見てすぐに、みながそれぞれの仕事のうえでかなりの人脈を持っているということがわかるはずだ。
(中略)
いつのまに東京の居酒屋は役所になってしまったのだろう? と思いつつ、二度とは行かないということで、私たちには痛くもかゆくもなく丸く収まった問題だったのだが、いっしょにいた三十四歳の男の子が「まあ、当然といえば当然か」とつぶやいたのが気になった。そうか、この世代はもうそういうことに慣れているんだなあ、と思ったのだ。いいときの日本を知らないんだなあ。
ますますよしもとばななが『老害ばななババア』に変貌していてガッカリ。
どうして人は年を取ると「オレえらい」って主張するようになるのかね。
ていうか45歳のよしもとばななが知っていて、34歳の男性が知らない『いいときの日本』って一体どういうものなのだろうね(笑)
一連の書き込みを見て、本棚の奥から村上龍の『オーディション』の文庫版(幻冬舎文庫)を手に取った。
斎藤学が解説を書いているんだが、当時読んで印象的だった言葉を思い出して、それを読もうと思ったから。
彼女たちは頼りなげで、神秘的で、弱々しくて、それでいて愛に飢えていることを全身で訴える力を備えている。こうした女性に弱い一群の男たちがいるところから、この恐怖劇が始まる。彼らは本質的なところで自己評価の低い、だからこそ人に頼られることを生きがいにしているような男たちである。彼らは、彼女たちに魅かれ、彼女たちの苦境を救い、その一部は結婚にまで至る。こうした男たちは、実はナルシシスト(自己愛人格者)である。彼らの一見したところ利他的に見える行動は、他人を用いて自己評価を高めたいという、自閉的で自己愛的な動機に発しているからである。
(中略)
考えてみると、夫婦関係とは子供返り競争のようなものである。居酒屋のアル中二人の関係に良く似ていて、先に酔い潰れた方が勝ちである。負けた方が金を払ったり、酔った者を家まで運んだりする。
(中略)
最も稀なのは、親密でありながら対等な男女関係が、結婚後も維持されているという場合である。成熟した大人どうしの関係が、長年にわたって続くためには、一方が他方の子どもになろうという野心が、意識的、意志的に排除されていなければならない。だから、こうした二人は、二人ともどこか寂しい。それで良いのであって、大人とは、寂しさと共存して生きられる人のことである。
俺はかつてやはりそういう女性に振り回されることを自ら選び、共依存の関係となって、二人で手首の同じところに傷を作ったりしたことがあって、けど、ちょっとしたきっかけから俺が彼女に振られ、そしてその二週間後に彼女が泣きながら俺に電話してきたときに、何か憑きものがすっと落ちたかのように冷静になって、「こういう繰り返しはもうやめにしよう」と言って彼女との関係を本当に終わりにして、それ以来、誰かを救うことなどは不可能なことであって、倒れている人に手を差し伸べることはできても、立ち上がるのはその人自身の力であり、俺の手によって立ち上がらせようとしても一緒に倒れるだけだということを悟り、そして、そうした誰かを救いたいという思い(引用部にあるように、まさにそれは俺の弱さが為すものでしかない自己愛なのだが)を捨て、自分の手の短さを知り、共依存として誰かを好きになるのではなく、お互いに独立した一個人として尊敬と愛情を持って一生を共に過ごすような関係をいつか持てればいいと生きてきた。
が、そんな字面だけの理想を体現するのはほんと難しいものだなと、最近プライベートが上手く行かないことで思い知らされている。いっそ憎めればいいのにと好きな人のことを考えたのはいつ以来だろうと過ごす日々。自分の弱さを認めて受け入れて、その上でそれに甘えることも開き直ることも自己否定して強がることもなく、ただ全てをあるがままのものとして自然と生きるというのはつくづく難しいものよ。