2007-06-13

今夜の増田

一連の書き込みを見て、本棚の奥から村上龍の『オーディション』の文庫版(幻冬舎文庫)を手に取った。

斎藤学が解説を書いているんだが、当時読んで印象的だった言葉を思い出して、それを読もうと思ったから。

彼女たちは頼りなげで、神秘的で、弱々しくて、それでいて愛に飢えていることを全身で訴える力を備えている。こうした女性に弱い一群の男たちがいるところから、この恐怖劇が始まる。彼らは本質的なところで自己評価の低い、だからこそ人に頼られることを生きがいにしているような男たちである。彼らは、彼女たちに魅かれ、彼女たちの苦境を救い、その一部は結婚にまで至る。こうした男たちは、実はナルシシスト(自己愛人格者)である。彼らの一見したところ利他的に見える行動は、他人を用いて自己評価を高めたいという、自閉的で自己愛的な動機に発しているからである。

(中略)

考えてみると、夫婦関係とは子供返り競争のようなものである。居酒屋アル中二人の関係に良く似ていて、先に酔い潰れた方が勝ちである。負けた方が金を払ったり、酔った者を家まで運んだりする。

(中略)

最も稀なのは、親密でありながら対等な男女関係が、結婚後も維持されているという場合である。成熟した大人どうしの関係が、長年にわたって続くためには、一方が他方の子どもになろうという野心が、意識的、意志的に排除されていなければならない。だから、こうした二人は、二人ともどこか寂しい。それで良いのであって、大人とは、寂しさと共存して生きられる人のことである。

俺はかつてやはりそういう女性に振り回されることを自ら選び、共依存関係となって、二人で手首の同じところに傷を作ったりしたことがあって、けど、ちょっとしたきっかけから俺が彼女に振られ、そしてその二週間後に彼女が泣きながら俺に電話してきたときに、何か憑きものがすっと落ちたかのように冷静になって、「こういう繰り返しはもうやめにしよう」と言って彼女との関係を本当に終わりにして、それ以来、誰かを救うことなどは不可能なことであって、倒れている人に手を差し伸べることはできても、立ち上がるのはその人自身の力であり、俺の手によって立ち上がらせようとしても一緒に倒れるだけだということを悟り、そして、そうした誰かを救いたいという思い(引用部にあるように、まさにそれは俺の弱さが為すものでしかない自己愛なのだが)を捨て、自分の手の短さを知り、共依存として誰かを好きになるのではなく、お互いに独立した一個人として尊敬と愛情を持って一生を共に過ごすような関係をいつか持てればいいと生きてきた。

が、そんな字面だけの理想を体現するのはほんと難しいものだなと、最近プライベートが上手く行かないことで思い知らされている。いっそ憎めればいいのにと好きな人のことを考えたのはいつ以来だろうと過ごす日々。自分の弱さを認めて受け入れて、その上でそれに甘えることも開き直ることも自己否定して強がることもなく、ただ全てをあるがままのものとして自然生きるというのはつくづく難しいものよ。

  • つくづく思うけど、恋愛って鏡に映った自分の姿だよね。 ボジの場合もネガの場合も。 そこから逃れることは不可能なのかもしれないけれども、せめてどんな像を投影しているのかを自...

  • 共依存的関係は不毛だし、自律した個人の友情は不可能だ。と悟ってしまったらもう独りで生きるしかないんだよな。

  • 彼は間違っている。彼の行いは益より害が大きい。 しかし、彼は結果を省みず、常識を軽んじ、己を見つめない。 「確信」したとき、行為が目的となり、常識は信念に置き換えられ、確...

    • マルコたんは、一度粘着のストーカータイプな変態につけ回される経験したほうが良いようだ。俺、実体験あるけどマジシャレにならんくらい怖かった。

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