はてなキーワード: パラリンピックとは
すると、エンターテイメント産業である日本の報道各社は、障碍のある方々の、その障碍を克服して素晴らしい躍動を発揮する姿を広く伝え、感動を得ようと、いや、つまりは視聴率をあげ、スポンサーからの広告収入を得ようと躍起になる。
そういう背景があるということを潔しと思わないからか、何かこう、素直に感動出来ない自分がいる。
いや、それでもいいじゃないか、感動をもらえれば。その素晴らしい姿に勇気をもらえれば、という意見も多いだろう。
その前に、と思う。
さて、かつて同級生で、事故で肩から先の腕をなくした奴が居た。
ごく自然に彼の片腕がないことを受け入れ、どうしても片手では出来ないことは周囲の誰かが手助けしていて、彼自身もそれ自然に受け入れていた。
周囲の同僚も、その不自由な部分を自然に受け入れ、時間がかかる作業も待ち、彼らの出来ないことは無理強いはしない。
障碍があろうとなかろうと、更に言えば肌の色が黒かろうが白かろうが、その人の個性として受け入れて、付き合うことが必要だろう。
その一方で、一見、健常に見える人でも、相対する人を認めず、その人格を否定する、という心の障碍をかかえた人を何人も見てきた。
そういう、目に見えないところで健常でない人は、身体に障碍がある人より、よけい人間として厄介な存在だ。
公共交通機関のシルバーシート。「お年寄りや身体の不自由な人に席を譲りましょう」という趣旨から設置されているはずなのに、松葉杖を使い足が不自由そうな人が前に来ても、ひとりも席を譲ろうとしない人々の姿を、何度も見てきた。
あまっさえ、車椅子を使う人や盲導犬に誘導された人を、満員電車の中であからさまに邪険にする場面にも、何度か遭遇している。
そんな、「他人の身になって考えられない、想像力の欠片も持ち合わせていない」ひとたちこそ、実はとんでもない「障碍者」なのではなかろうか。
身体障碍者の姿を公共の電波で世間に広め、「感動しろよ」と強制するテレビ局も、実はそんな、とんでもない障碍者の集まりなのではなかろうか。
ニュースとかツイッター見てるとパラリンピックの存在を知らない人がすごく多そうなんだけど、みんなマジで知らないんかな。
http://anond.hatelabo.jp/20160822234119
醜いものや劣るものは憐れみの文脈か、自分より下が居るという安心感を与えるコンテンツとしてしか消費されない。
2.人間には優れたものや自分と共通点が多いものに対して共感を得る。
極端に参加者が少ないスポーツと同じで、興味を持つ人が少ない。
上記理由により、観たいと思う人が圧倒的に少ないので注目されない。
こんな事はほとんどの人が理解しているが、なぜかそれを言ってはいけない空気があるので、
特にNHKなどは、そんな事実など無いかのように「いやー、パラリンピックも盛り上がっていますね~」などと薄ら寒いことを言う。
誰かちゃんと説明できる人って居る?
感覚値だけど、オリンピックの100分の1も注目されてないよね?
この理由がよくわからない、というか、わかるんだけど、うまく言葉にできない。
誰が聞いてもちゃんと納得できるような説明ができる人って居るのかな?
よく覚えているね。読んでおもしろかった。書いてくれてありがとう。
アトランタのときの爆弾事件はアメリカの極右の、今では日本語でも通じるようになった「ローンウルフ」がやったことだったから、「爆弾テロ」とは呼ばれていなかったのだと思う。あの時代でも、テロ組織がやったものは「爆弾テロ」と呼ばれていた(レバノンのヒズボラ、スリランカのタミル解放の虎など)。
それから、ハトを一斉に放つのは、8月6日の広島の平和記念式典でやっている。
北京オリンピックのスピルバーグは、ダルフール紛争(スーダン)での民衆虐殺に対し、中国政府がすべきことをしていないということへの抗議だったね。
ISだが、オリンピック直前に「ISブラジル」が声明を出し、その数日後には警察がテロ計画の疑いで何人かを逮捕している。このまま何事もなくオリンピックが閉幕し、パラリンピックも無事に行なわれることを願っている。
おいらも覚えていることを書こう……と言いたいところだが、おいら、オリンピックに興味がなかったので、元増田の記事に書き足せるような記憶がないんだ。話を発展させることができなくて、ごめんよ。
(舛添氏辞任について)
長い目で見れば悪いことは決して続かない。
仕事をするうえで心得ておくべきことは、一にも準備、二にも準備、三にも準備。徹底した準備が仕事を成功させる。そこは当然、都民を思う心もある。準備と心が揃って、ようやく楽しい時間を過ごしてもらうことができるのだ。(都庁職員へのあいさつ)
当たり前のことを当たり前にやっていくということは、何もサービスに限ったことではない。きみたちが何か事を成そうと思ったら、一つのことをやればいいのだ。それは何か。当たり前のことを当たり前に徹底してやり抜くというそれだけなのだ。当たり前のことを当たり前に徹底してやり抜くと、そこには当たり前じゃない結果が生まれる。これが「凡事徹底」である。(都庁職員へのあいさつ)
失敗というのは明日のための経験なんです。成功へのプロセスなんです。計画変更のための一つの要因といってもいい。あきらめなければ、失敗にはならない。あきらめたときに、しっぱいになるわけであって、僕はいくつも失敗してきましたけど、全部いい経験だったと思っています。(東京都オリンピック・パラリンピック準備局 会議議事録より)
良いこと言ってる感ある。
様子がおかしい。
いつもは帰ってくるなり、お腹が減ったとか、遊ぼうとかしつこいのに、ひたすら無言。
「何かあったの?」と聞いても答えない。
これは何かあったに違いない。
ずっと黙っている娘。
6歳なのに指をしゃぶり始める娘。
ずっとくっついて抱っこをせがむ娘。
いつもならこっちから抱きつくと拒絶するのに、今日は黙って抱かれている。
おかしい。
おかしい。
おかしい。
もう一人のママ友に聞いてみる。
そういえば、パラリンピックの選手が来て、腕がないのに泳いでるビデオを見たと・・・。
「今日、腕が無いひとを見たの?」
突然泣き出した小1の娘。
腕がない人を見たの・・・
足が無い人を見たの・・・
ご無礼を承知で書くが、娘には腕が無い人や足が無い人はお化けに見えたようだ。
小学校は何のために小1の娘にそのようなイベントを企画したのだろうか。
手がないとでも一生懸命生きて、輝いていると教えるのは早くでも小学校高学年ではないだろうか?
社会経験がほとんどない小1になんのために見せたんだろう・・・。
今も、ドアが少しでも空いてると怖いという。
今も、どこかで物音がすると怖いという。
トラウマになったらどうしてくれる?
パラリンピックの選手が悪いわけではないが、小学校訪問は止めてほしい。
二度と娘の前に現れないでほしい。
ご無礼は承知だが、小さな子供たちにご自身が与える影響を考え、そのような場には積極的に行かないでほしい。