すると、エンターテイメント産業である日本の報道各社は、障碍のある方々の、その障碍を克服して素晴らしい躍動を発揮する姿を広く伝え、感動を得ようと、いや、つまりは視聴率をあげ、スポンサーからの広告収入を得ようと躍起になる。
そういう背景があるということを潔しと思わないからか、何かこう、素直に感動出来ない自分がいる。
いや、それでもいいじゃないか、感動をもらえれば。その素晴らしい姿に勇気をもらえれば、という意見も多いだろう。
その前に、と思う。
さて、かつて同級生で、事故で肩から先の腕をなくした奴が居た。
ごく自然に彼の片腕がないことを受け入れ、どうしても片手では出来ないことは周囲の誰かが手助けしていて、彼自身もそれ自然に受け入れていた。
周囲の同僚も、その不自由な部分を自然に受け入れ、時間がかかる作業も待ち、彼らの出来ないことは無理強いはしない。
障碍があろうとなかろうと、更に言えば肌の色が黒かろうが白かろうが、その人の個性として受け入れて、付き合うことが必要だろう。
その一方で、一見、健常に見える人でも、相対する人を認めず、その人格を否定する、という心の障碍をかかえた人を何人も見てきた。
そういう、目に見えないところで健常でない人は、身体に障碍がある人より、よけい人間として厄介な存在だ。
公共交通機関のシルバーシート。「お年寄りや身体の不自由な人に席を譲りましょう」という趣旨から設置されているはずなのに、松葉杖を使い足が不自由そうな人が前に来ても、ひとりも席を譲ろうとしない人々の姿を、何度も見てきた。
あまっさえ、車椅子を使う人や盲導犬に誘導された人を、満員電車の中であからさまに邪険にする場面にも、何度か遭遇している。
そんな、「他人の身になって考えられない、想像力の欠片も持ち合わせていない」ひとたちこそ、実はとんでもない「障碍者」なのではなかろうか。
身体障碍者の姿を公共の電波で世間に広め、「感動しろよ」と強制するテレビ局も、実はそんな、とんでもない障碍者の集まりなのではなかろうか。
「自然に相手の劣ってる部分を個性と言い換えて多くを求めず助けすらする」それって特別扱いなんだよ、世界中どこの国でだってね。 でも仕方のない事、平等公平に優劣分けたら特に...