心の優しいみな実さんはいつも窘めてるよ。
こないだ金玉とダイバーシティの話が増田で述べられていて、もとの金玉の話はまぁ作り話だとは思うけど、ダイバーシティってそういう側面もあるよなって感じだった。
で、現実の話として煽り魔の石橋容疑者ってまさにダイバーシティの典型だと思う。
あれは個人の悪意とかで裁断できるものではなくて、おそらく遺伝的な脳要因に加えて環境要因によるものであって、おそらくほぼ全員が同じ遺伝子同じ環境に生まれたらあーなっていただろう。
最近仕事をできないやつや共同生活をこなせない一昔前なら困ったちゃん扱いされてたやつもADHDなーんていって社会で受け入れるようになってきた。
石橋容疑者みたいなのも適当にカテゴリーを作って社会で受け入れ、彼の問題行動を未然に防ぐべく社会がケアするべきではないだろうか?
自分は自動車、自転車、バイクすべて日常的に乗っているので以下考察。
1.音に頼る度合いついて
自動車の場合には音以外のミラー類を自転車よりも多く装備しているためそもそも音に頼る情報量が少ないというのはありそう
主に後方からの情報。バイクでもサイドミラーは必ずついているし、最近の自動車はミラー以外にもレーダーセーフティなどハイテクで守られている(車線変更時に斜め後ろなど死角に車がいると警告、緊急自動ブレーキなど)。
自動車の場合には一時停止や信号など基本無視しない(無視した場合の罰則があるので&自分が加害者になるのは嫌なので)が、自転車に乗るときは一時停止は守らないとか、赤信号も状況によっては無視することがある(例えばT字路の直進部分の直進の場合や小さい交差点など)
※これは元増田が交通法規を自転車でもしっかり守っているのであれば除外してもらっていい(が、例えば一時停止をしっかりしている自転車はあまり見ない気がする。。。)&私の自転車乗車時の交通マナーについて文句を言わないでほしい
3.サングラスについて
サングラスや眼鏡はそれほど危ないと思わないが、イヤホンは危ないと思うので使わない。
アイウェアという意味だと、サングラスではなく水中めがねみたいなものをつけていたら視野が狭く危ないと思う。
もしくは(いないとは思うが)夜サングラスをするのは禁止してもいいくらい危ないのではないか。
以上考察してみたが、元増田の言いたいことはわからないでもない。
捕まったら平謝りして(自転車は多少違反しても丁寧に謝って反省してるふうにすれば罰則までは行かない印象)、イヤホンし続けてもいいのではないかと思う。
ただ、私は安全のためにイヤホンはしないし、自分の子供や身近な人が同じようなことを言い出したら上記考察をもっと深掘りして納得の上やめさせると思う(幸い今の所言われていない)。
知るかバカうどん(しるかバカうどん、1991年11月26日 - )は、日本の女性漫画家。本名非公開。独特なペンネームの由来は「一発でわかる名前にしようと思ったのがきっかけ」と語っており、特に意味は無いとしている[1]。
向こうの性に合わせるよ
事業者の"わがまま"と被雇用者の"わがまま"。お互いの"わがまま"を許容できるマッチングシステムをつくるほうが先で、移民(に準じるシステム。外国人を受け入れること)はそれからじゃないかとぼくは思っていました。
でもこのタイミングで外国人を受け入れることが、ぼくたちの苦しめてきた精神を壊す起爆剤になるかもしれません。
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残念なことに、日本ではいまだに「働かざる者食うべからず」の精神が根付いていて、それはずっと日本人に刷り込まれ続けています。
無職であることを無意識に非難し、生きていることさえ否定してしまう自虐思想は、いま働いている被雇用者たちや、働かせている事業者たちにすら、「四六時中働かないといけない」というふうに、大きなプレッシャーをかけていないでしょうか。
このプレッシャーは、いずれ受け入れる移民にも悪影響を与えると思います。もっというと、先の外国人実習生の失踪の気持ちの裏側だと思います。もしぼくが外国からやってきたとして、日本人が「食うべからず」の精神で迫ってきたなら、拒絶するし、必死に逃げます。そしてやりたいことをして暮らすと思います。
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ぼくはいじめや成績不良から学校を二度も(高校と大学で)ドロップアウトして、引きこもりになってからずっと、「どうして自分はダメなのか」ということばかり考えてきました。
・・・もっと真面目に人と接したら良かったのかとか、成績が落ちてももっと頑張れば良かったのかとか。皆よりも劣っているからダメだったんだろう。そんなぼくに生きている価値なんてあるのか。・・・
あるとき、こんな思考の大本が「働かざる者食うべからず」にあると気づくのです。働けない者を、社会は許さない。
・・・この『社会』とはなんなのか、よくわかりません。そしてこの価値観がどこからやってきたのかもわかりません。でもなぜか、『働いてないのだからダメだ』というふうに仕向けるのです。自分のまま、"わがまま"に生きることを許さない。ただ「働け」と。金を稼げなくても働け。身体がダメになっても、死ぬまで働け。・・・
そうして好きでもないことに自分を働かせ、気づいたら身体はボロボロになっていて、一度は選んだはずのパートナーからは冷たい目で見られ、離れ、しあわせからはほど遠い場所にぽつんといる自分がいるのです。
本当のぼくは、いったいどこにいるんでしょうか。
・・・どうやら、"わがまま"に生きたいようだ。休みたいときに休みたい。昼寝したい。好きな人といちゃいちゃいたい。遊びたい。自由で、ありたい。子どもの頃のように。思うままに。"わがまま"に。・・・
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いまの日本はそんな"わがまま"を実現できるシステムをこしらえているでしょうか。もしそんな精神的な余裕のあるシステムを実現するなら、きっともう少し笑顔の数が増えるはずです。『お金がない』ひとたちですらしあわせを感じられるはずです。
お金がないひとたちは、お金がほしいのではなく、"わがまま"がほしいんです。お金は"わがまま"を叶えやすくするツールですけど、となりのひとに"わがまま"を聞いてもらえたら、お金なんていらない。でも『きっと』"わがまま"が認められないと思うから、違う何かにすがろうとする。その一つがお金です。
だから、いっそのこと、"わがまま"を許容する。たとえ無職のままであろうと、明日したいことに転職しようと、国家資格を無視しようと、公務員をしながら副職しようと、今日だけパートナーと仕事を交代しようと、一ヶ月推しのライブツアーのためにずる休みしようと、"わがまま"であることを一切許容して、ひとの"わがまま"を実現する方向にフォローする気持ちをつくるところから、はじめませんか。
やることはとても簡単なことです。あれはダメ、これはダメ、と思っていたことをひとつずつオッケーするだけ。なかには許せないと思っていることだってあるでしょうが、許せない自分だって"わがまま"のひとつなんですから、そこからオッケーする。
上に書いてあることは「ダメ」だとされていることばかりだけど、だからこそオッケーする。オッケーしたからといってするわけではないので一切犯罪ではありませんよ。ただ自分のなかにおいて"わがまま"を裁こうとしないだけです。まずは、そこからはじめる。
いずれは人を殺したいと思う自分も、万引きしたい自分も、放火したい自分も、おかす/おかされる自分も、すべての分野において範囲を広げていくわけです。ちなみに、許せる範囲=自分の受け取れるものの大きさに反映されるので面白いです。普通の人が気づかない『愛』を感じる感性も強くなります。
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さて、話を戻します。人手不足っていうんですけど、それは事業者の"わがまま"と被雇用者の"わがまま"がマッチングしていないからだと思うんですよ。
「いま働きたい」でも「明日は働きたくない」「休みたい」、「あの人の下につきたくない」「我慢したくない」「発表するのが嫌だからスピーチ役を回して欲しくない」とかの被雇用者の"わがまま"を、事業者はきっと受け入れないと思っている。
反対に事業者も「給料払いたくない」などの"わがまま"を聞いてもらえないと思っていて、もう仕方がないから外国人に頼ろうとするけれど、きっと外国人も同じ"わがまま"な反応を示す(日本人よりももっと"わがまま"に生きる)と思います。
つまり、外国人を入れたところで結局同じ問題にぶつかるはずです。これはぼくたちの"わがまま"を受け入れるまで続く問題です。
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お互いの"わがまま"を許容できるマッチングシステムをつくるほうが先で、移民(に準じる、外国人を受け入れるシステム)はそれからと書きましたけど、システムをつくるとは、そもそもぼくたちの意識が"わがまま"を許せるようになることです。
ぼくたちが変わらないと、システムは維持できないし、そもそも生まれない。"わがまま"をダメだと思っているうちは、うまくいかないでしょう。
だからこのタイミングで外国人が入ってくることで"わがまま"に生きる外国人を見て、日本人の意識が変わるのを期待するというトップの考えなら。どうして「このタイミングで改正するのか」の真意が、分かってくるかもしれません。
ママさんは「顔がいい〜!」って投げ銭に「いや、描いたのおれだし!おれの絵だし!」とか思わないんだろうか
1年過ぎるのはほんとにはよいねー