中学受験の時は通える範囲で1番偏差値の高い学校を受験して、合格したからそこに進んだ。
大学受験はとりあえず東大を目指した。落ちたから、自動的に合格した中で1番偏差値の高い早慶のとある学部に進学した。
もちろんこの中でも、浪人するか否かや、どの学部に行くかの選択はしないといけなかったけど、そんなに大した問題ではなかった。どれを選択しても、そのあとでいくらでも修正が効いた。
会社選びというのは違う気がする。もちろん修正しようとすればいくらでも出来ると思うけど、今までとは全然違う。
受験の軸は偏差値というブレないものだったのに、就活の軸は自分で決めないといけないらしい。自分が今まで何も考えずに生きてきたことの壁にぶち当たってる。どうしようかなあ
有能なオッサンが生意気なガキをやり込める物語って気持ち悪い。
正確に言えば、少年向けの、少年を主人公とした物語をファンタジーとして否定し、「オッサンの物語」をリアリスティックなものだとして持ち上げている人々が気持ち悪い。
冴えないオッサンが有能なガキに叩きのめされる。これが現実だ。リアリティだ。冴えないオッサンが勝てるのは冴えないガキを相手にした時だけだ。そしてそのガキはやがて年を経て冴えないオッサンになるのだ。
35歳まで処女だったがギリシャ人とワンナイトラブでセックスをした。
ちんこをまんこに入れることは思い描いていたような強烈な体験ではなかったが、今後2度とない体験かもしれないので覚えているうちに書き留めておく。
物語に描かれるセックスはとても魅力的にみえたしそう描かれることが多いように思う。
だから興味はあったがセックスには相手が必要なのでこれまでする事がなかった。。。でももしかすると性に関して人並みの興味がなかったのかもしれない。
ネット環境があったのにエロ動画を初めて検索したのは30過ぎてからだし、女性がオナニーをすることを知ったのは19歳の時だった。
浪人生活中のお昼休み、地下のフードコートで高校時代のクラスメイトで同じ予備校に通っていた女子が自分は性欲がないからオナニーもほとんどしないんだと言っていた。
なんと返答したかは覚えていないが部屋に帰り下宿先のこたつの上に設置されたノートPCで「オナニー 女 方法」と検索したことは覚えている。
机の角にこすりつけたり、鉄棒に登る等の方法を目にしたがとてつもなく痛そうに感じられて心底驚いた。
そんなことが気持ち良い事になるとは到底思えず信じられなかったが、しかし今にして思うとはっきりと性的に気持ち良い感覚を私は知らなかった。
性的なイラストや映画を見て乳首が立ったり若さゆえにまんこが濡れまくってパジャマまでびしょびしょになっていたが、それはじんわりとしたものでそれ以上自分の体を触って性的な気持ち良さを追求出来るとは夢にも思っていなかったというか発想がなかった。
オナニー=ちんこを擦って気持ちよくなることだったので、ちんこのない女はできないと思い込んでいたんだと思う。
男性のオナニー描写は成人向けでない漫画や小説や映画に描かれているが女性の描写は少なく、完全な成人向けの表現は当時ゾーニングもされず売っていた雑誌の印象が強く、それがあまりにもグロく映ったので手に取りたい知りたいと思う事もなかった。
3大欲求の食欲も睡眠欲も生まれてすぐに自動的に行われて実施しないと死ぬが、性欲はこれが性欲であると意識しないとわからない人間もいるし別に死なない。
多分自分はとろい。
男性から好意を示されると全く意中にないと強烈に拒絶しそこそこだと2回のデートまでは合わせるがそれ以降どうしても肉体的な接触に進む事が気持ち悪くなり逃げ出してきた。
なのでそもそも男性とセックスがしたくないのかとも思っていたがだからと言ってレズビアンでも無く自認は明らかにヘテロだった。
そして今回初めてセックスしたギリシャ人に会って分かったがセックスしたい人間に会うとちゃんと自分は発情してセックスしようとしていた。
つまりただただ理想が針の穴を通すように小さくこれまでそういう人に出会ってこなかっただけだった。
性欲が沸き起こるというよりはこの男性とならセックスが出来る、みんながしているセックスというものを私も出来るチャンスが来た、という感覚だったので性欲だったのか難しいところだがセックスが出来ると感じれた事は喜びだった。
そのギリシャ人は陸上の選手で大会出場のために来日していた男性だった。
大会中だったので20代後半の筋肉質な非常に良い身体をしていた。それに私は発情した。
セックスする前のただのファンと選手だった時に撮影した写真がありその時の自分の表情が見れるのだが、発情のお手本のように頬に赤みが差し瞳孔が開き目がキラキラと潤んでいてすごく可愛い顔だと自画自賛出来るので撮影しておいて本当によかったと見返すたびに思う。
痩せている色白の小柄な星野源や華丸大吉が好きだったので肉体に惹かれる事に自分自身でも驚いたが頭で考えたタイプではなく原始の欲求が自分に沸き起こった事が嬉しかった。
今回セックスして嬉しかったのは自分にも欲求があるんだとはっきり分かり普通の人間になれたと思えたことだった。
世の中にはセックスという美味しい物があり皆食べたがっているしほとんどの人が一度は食べた事があり又男性はお金を払えば食べる事も出来るようになっているが、女性にはリスクが大きくまたお金を出して気軽に買えるものでもなく社会的にも恋人とのセックスという物が推奨されているが、それは余りにも手の届かない存在だがしかしセックスしたいしする事が普通の人間であり皆セックスの話をするのだ。
私はセックスを食べた事がないので知識だけで得た事をなんと無く言うだけで、セックスの話はあまりしたくないけどした事ないわけではないと言う嘘つき童貞と同じスタンスでいた。
35歳まで処女だったがギリシャ人とワンナイトラブでセックスをした。
ちんこをまんこに入れることは思い描いていたような強烈な体験ではなかったが、今後2度とない体験かもしれないので覚えているうちに書き留めておく。
物語に描かれるセックスはとても魅力的にみえたしそう描かれることが多いように思う。
だから興味はあったがセックスには相手が必要なのでこれまでする事がなかった。。。でももしかすると性に関して人並みの興味がなかったのかもしれない。
ネット環境があったのにエロ動画を初めて検索したのは30過ぎてからだし、女性がオナニーをすることを知ったのは19歳の時だった。
浪人生活中のお昼休み、地下のフードコートで高校時代のクラスメイトで同じ予備校に通っていた女子が自分は性欲がないからオナニーもほとんどしないんだと言っていた。
なんと返答したかは覚えていないが部屋に帰り下宿先のこたつの上に設置されたノートPCで「オナニー 女 方法」と検索したことは覚えている。
机の角にこすりつけたり、鉄棒に登る等の方法を目にしたがとてつもなく痛そうに感じられて心底驚いた。
そんなことが気持ち良い事になるとは到底思えず信じられなかったが、しかし今にして思うとはっきりと性的に気持ち良い感覚を私は知らなかった。
性的なイラストや映画を見て乳首が立ったり若さゆえにまんこが濡れまくってパジャマまでびしょびしょになっていたが、それはじんわりとしたものでそれ以上自分の体を触って性的な気持ち良さを追求出来るとは夢にも思っていなかったというか発想がなかった。
オナニー=ちんこを擦って気持ちよくなることだったので、ちんこのない女はできないと思い込んでいたんだと思う。
男性のオナニー描写は成人向けでない漫画や小説や映画に描かれているが女性の描写は少なく、完全な成人向けの表現は当時ゾーニングもされず売っていた雑誌の印象が強く、それがあまりにもグロく映ったので手に取りたい知りたいと思う事もなかった。
3大欲求の食欲も睡眠欲も生まれてすぐに自動的に行われて実施しないと死ぬが、性欲はこれが性欲であると意識しないとわからない人間もいるし別に死なない。
多分自分はとろい。
男性から好意を示されると全く意中にないと強烈に拒絶しそこそこだと2回のデートまでは合わせるがそれ以降どうしても肉体的な接触に進む事が気持ち悪くなり逃げ出してきた。
なのでそもそも男性とセックスがしたくないのかとも思っていたがだからと言ってレズビアンでも無く自認は明らかにヘテロだった。
そして今回初めてセックスしたギリシャ人に会って分かったがセックスしたい人間に会うとちゃんと自分は発情してセックスしようとしていた。
つまりただただ理想が針の穴を通すように小さくこれまでそういう人に出会ってこなかっただけだった。
性欲が沸き起こるというよりはこの男性とならセックスが出来る、みんながしているセックスというものを私も出来るチャンスが来た、という感覚だったので性欲だったのか難しいところだがセックスが出来ると感じれた事は喜びだった。
そのギリシャ人は陸上の選手で大会出場のために来日していた男性だった。
大会中だったので20代後半の筋肉質な非常に良い身体をしていた。それに私は発情した。
セックスする前のただのファンと選手だった時に撮影した写真がありその時の自分の表情が見れるのだが、発情のお手本のように頬に赤みが差し瞳孔が開き目がキラキラと潤んでいてすごく可愛い顔だと自画自賛出来るので撮影しておいて本当によかったと見返すたびに思う。
痩せている色白の小柄な星野源や華丸大吉が好きだったので肉体に惹かれる事に自分自身でも驚いたが頭で考えたタイプではなく原始の欲求が自分に沸き起こった事が嬉しかった。
今回セックスして嬉しかったのは自分にも欲求があるんだとはっきり分かり普通の人間になれたと思えたことだった。
世の中にはセックスという美味しい物があり皆食べたがっているしほとんどの人が一度は食べた事があり又男性はお金を払えば食べる事も出来るようになっているが、女性にはリスクが大きくまたお金を出して気軽に買えるものでもなく社会的にも恋人とのセックスという物が推奨されているが、それは余りにも手の届かない存在だがしかしセックスしたいしする事が普通の人間であり皆セックスの話をするのだ。
私はセックスを食べた事がないので知識だけで得た事をなんと無く言うだけで、セックスの話はあまりしたくないけどした事ないわけではないと言う嘘つき童貞と同じスタンスでいた。
今日の合コンで一人ひとり自己紹介する流れになって、自分の番になった時に視線が一気に自分に向けられた瞬間、緊張して頭真っ白になって、上手く喋れてたか自分じゃよく分からなかった。
自分の事をどこまで喋っていいのか、喋っても説明が下手くそだから面白くない奴とか思われるんじゃないかとか、喋って話し方が変だとか声が変だとか思われて引かれるんじゃないかとか。色々考え過ぎて喋れなくなる。
喋る事が怖い。どうしたらいいんだろう。
こんな感じの人をちょくちょく見かける
自分の価値観を絶対的に正しいものだと考えていて、それ以外の価値観が全て間違ったものに見えるから
「○○なので私の考え方は正しい」
「お前の考え方は私と異なっている」
「なのでお前は間違っている」
となってしまう
正直、自分の正しさを絶対視するなんて正気の沙汰とは思えないのだが、この考え方も俺の価値観に過ぎないと思うと強く否定できるものでもない
まあ人それぞれという事になるのだろう
それに、この様に発言する人はまだマシな部類だ
自分の正しさをその人なりの理論で説明しようとはする(理解不能な時もあるが)
そういう人は
「お前は間違っている。何故なら私は正しいからだ」
言われた方は意味不明なのだが、発言した側は「こんな事も分からないの?」と思っている
自分の正しさを完全に信じ切っていて、自分の考えが一般常識レベルだと思いこんでいる
自分の考えを理解できない事が理解できないし、自分の考えを理解できる人間なら誰もが受け入れると思っている
自分の考えを受け入れない人間は酷く知性が劣っているか、極端なほどに邪悪な存在だと思ってしまう
勝手に知性が劣っている、邪悪であると決めつけて議論を向こうから打ち切ってしまうから
そんな風に自分の正しさを理解して貰う努力は一切しないのに、理解しない個人や、集団、或いは社会を批判する
なので
「お前は!」「お前らは!」「世の中は!」「「「間違っている!」」」
とでっかい声で主張する
「そんな人達は放っておけばいいだろう」と思う人も多いだろう
俺も少し前まではそう思っていた
でも最近はあまり放置するのは良くないのではないかと思い始めている
こういう人達は自分の正しさを信じ切っているから、ネットでもリアルでも声量はあるし、その主張は断定的なものになる
そこに迷いは一切ないし、説明を端折っている分だけ主張する内容はシンプルだ
迷いなく、断定的に、大きな声で、繰り返しシンプルな内容を主張する
これって洗脳の手法としてはかなり有効なのではないか? と思うんだ
この手の主張にあっさり同調してしまう人は決して少数派ではないと思う
これは危険な傾向だと考えている
この流れが繰り返される事で、自分達の正しさをひたすら肯定する、異なる考え方を否定し攻撃する、という行動様式だけ継承されて、元々正しさの根拠になっていたはずの思想や理論が失われてしまうのではないだろうか
ただただ「自分達は正しい」という事だけを信じているだけの人達が増殖する
もしかしたら一部の界隈はすでにそうなっているのかもしれない
夜にうんちをするという最高の愉悦
角煮
これなー番組の内容とか時間じゃなくて、番組名が悪いンだと思うんだよな
ニュース、って言葉が番組名にないから、ニュースだと認識されてないと思う
正しさってそれを根拠により大きな威力を召喚できる術のことだからふつうに力量として負けてるってことでしょ