はてなキーワード: ベルクソンとは
言うまでもなく、彼らは読書に対する解像度があまりに低く、読書家ではない
例として、哲学の古典を比較的読めるぐらいの読書力はあり、ハイデッガーとかサルトル、ベルクソン辺りは一通り読んだ
そんな自分は元々興味範囲が広く、理系も文系も両方好きでやっているのだが、根本的な問題としてそれが現実に作用するのは迂遠的であるということ
だから、自己啓発本の意義を認めていて、それはn=1だろうが関係ない
そもそも、経営に関する本なんて大抵自己啓発チックに売られてるんだが、お前は岩波書店の単行本から探すのか?って話
もうやってたら申し訳ないけど、英語圏の文献を読むのはどうだろう?
日本の批評とかは、翻訳があって売れた、話題になった限られた冊数の文献の中で延々とやってる感あるので……最近はマシだけど。負荷はかかるけど、世界は広がると思う。
(もちろん、限られた文献を深く読解することにも価値はあるが、それにしても限られてる、という意味で)
(ハイデガーやベルクソンの研究者だって、最近のちゃんとした人は今までの海外含めた先行研究の蓄積をちゃんと踏まえるから)
いつまでハイデガーやウィトゲンシュタイン、アーレント、よくてローティやバトラーに立ち帰り続けるんだって感じ。
あとは、もちろんやってると思うけど、趣味ならどんどん分野変えていけばいいと思う。映画批評以外にも。
原著出版年が比較的新しく、かつちゃんとした日本の出版社から出てる翻訳書を読むのもおすすめ。和書は出してからしょうもないと判明することあるけど、翻訳書は、原著に価値があるというのがある程度はっきりしてから出すから。翻訳文が読みづらくても、重要度が高くて面白いことが多い。
http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html
今サーバがメンテナンスでみえないっぽいけどめちゃくちゃ面白いね。いまさらだけど。
メタな話をすれば、哲学者側は最先端の物理学者との対談で自分の論に箔をつけて業績にできるめったとないチャンスで、対する物理学者側は正直こんな本が出ても業績としてたいして価値があるわけでもなく、無難にお茶を濁しても誰も何も言わないだろう状況へこのガチなファイターの投入である。(ほめてる)
https://twitter.com/tani6s/status/1193542355975950336
https://twitter.com/tani6s/status/1193542463169810432
心の哲学が何を問題にしているのか、とか全然興味なかったけど、おかげさまで浅いなりに理解できたし興味も出てきた。谷村先生が頑張らなければひっそりと専門書の棚に気付かれることなく置かれてるだけだったかもしれない本だったかもしれず、関係者は谷村先生に感謝しすぎてもしすぎることはないんじゃなかろうか。
ところで谷村先生が指摘した部分というのは、理系の研究者や人間であれば多かれ少なかれ感じていたが言語化するのがためらわれた結果、これまで表面に上ってくることのなかった問題のように感じる。
学生の頃、人文系研究室の卒論と科学系研究室の卒論とを同じ発表会で見る機会があったけど、科学系の教授の人文系の発表への容赦ないツッコミを思い出した。
用語の定義にしろ立論にしろ結論を導く論理にしろ君たちあまりに緩すぎないか?というのが共通する雰囲気だと思う。
科学が発達していなかった昔、哲学は科学がまだ扱えない領域を先んじて論理の力で掘り起こす役目を担っていたと個人的には思う。(谷村先生の期待もこういうものではなかっただろうか。)
だが色彩論でのゲーテのニュートン批判とか、時間論でのベルクソンのアインシュタイン批判とか、科学が哲学に先行して真理を掘り起こした結果、取り残された哲学が宙ぶらりんのままになる状態が19世紀以降は顕著になってきたんじゃねえかと思う。まあ哲学のことはよくわからんのでアレだが。
ベルクソンとアインシュタインの対話の翻訳をネットで拾って読んでみたが、ベルクソンが長く理解しにくい文章で考えを述べる一方、アインシュタインは明晰で短い文章でバッサリと切っていて既視感がすごい(語彙力)
今、AIとか脳科学の研究が進んで、心に関する諸問題も哲学ではなく、科学の俎上で実際に解決される可能性が高くなってきたと思われる。
意識のハードプロブレムとかも、哲学側からの「まだまだ科学に扱えないものがあるんだよ!!」という断末魔の叫びのようにも感じられる。
だが科学は進む。
意識の問題も脳というハードウェア上に構築されたニューラルネットワークの状態空間として科学の領域に取り込まれ哲学の領域はまた一歩小さくなっていくのだ。
地動説で人間の住む地球が宇宙の中心ではなくなったように、進化論で人間が神に作られた特別な存在ではないことがわかったように、有機物が生命の作用なしに合成できることがわかったように、意識もまた特別な何かではなく、我々自身が哲学的ゾンビなのだということを認めざるを得ない瞬間が必ずくるだろう。
キリスト教が根底にある思想は最後まで魂の特別性に拘泥するかもしれないが仏教だと五蘊皆空と思えばどうということもない気もする。
まとまらず終わる。
むかしダウンタウンのコントで精神障害者を笑うものとかがあってな。
今はできへんやろうなーってのがいっぱいあんねん。
そもそも笑われる人に対しての「同情しない、心ある人と思わない」という差別の萌芽みたいなもんが存在しとってな。
この辺は詳しく知りたかったら哲学者のアンリ・ベルクソンの著書『笑い』を参照してくれたらようわかると思う。
まあ、例えると、古いディズニー映画でミッキーマウスが急にダッシュを始めて、下半身が先走りすぎて首を忘れるとするやろ。
これは笑えるわけ。でも実はここで放送されているミッキーマウスは元になった人がいまして、こちらがこの映像です。あ、この映像の方はやっぱりすぐにお亡くなりになったんですけど。
あ、ちなみにこれ私の父です。それからとても苦しくて……ではもう一度、ミッキーマウスを。となるとスゴく微妙な気持ちになるわけ。
翻って、ダウンタウンの笑いやけどな。
黒塗りに対して、黒人差別の文脈を読んで、同情してしまい笑えへん人がおる。
そこに差別を読み取って不愉快になる人がインターネットを使って発言できる時代になりました
ということやと思うわ。
今までテレビの内輪の論理で通用しとったけどな。インターネットはワールドワイドやし、いろいろモノ言えるからな。
ただ絶望するのは早い。優秀なお笑い芸人がもっとお笑いを探求しておもろいもん見せてくれるはずや。
去年のM−1でその萌芽を感じることができた。
哲学と単に言っても大体は「西洋」哲学なので、東洋人的感覚からすると「何当たり前のことグダグダいってんの?」とか「んなわけねーじゃん、バカなんじゃねーの?」ってのはありがち。その例は典型的な後者だよな。そんな薄っぺらい論理で「自然より人工がいい」と言われても、東洋的な感覚からは納得しようがない。
それに、ヘーゲルは学者の間でもわりと評価が分かれる。おれの指導教官は(さすがに異端だろうが)全否定だった。曰くヘーゲルは「太陽系の惑星の数は(キリスト教で)完全な数字である"7"なのだから、第8の惑星(海王星)は存在するはずがない」などとのたまう愚か者であって、あんなゴミクズのような書物はすぐに捨てたほうがいい、らしい。ゴミクズ・・・増田の2万円・・・
まあ・・・哲学は学者によって主張もスタイルも全く異なるので、同じジャンルに放り込まれていてもそれぞれが全く別物と考えるべき。題名や著者名でなんとなく買うようなやり方は避けるのが財布のためだろう。哲学を内側から利用する人(論文を書くなど)でない限り、「プラトン、アリストテレス、カントもヘーゲルもベルクソンも読んだ上で初めて、言ってることが吟味できます」みたいな読み方(つまり、フツーの読み方)は時間効率的にほぼ無意味に近いわけだから、立ち読みして興味を惹かれたもの以外、無味乾燥な屁理屈としてスルーするのが得策なんじゃないかなあ。
いったいこういう前進が、純然たる哲学の力で行われえただろうか。(略)超感覚的なイデアのうちへ人間のイデアをも明らかに含めているプラトンは、しばらくのけておこう、―けだし、この考えから、人間はすべてが同じ本質のものだということが続いてこなかっただろうか。この考え方から、人間たるかぎり万人が同等の価値を持っているという思想までは、またこの本質の共有によって万人に同じ基本的権利が与えられているという思想までは、ほんの一歩でしかない。しかも実に、この一歩が超えられなかったのだ。(略)ストアの哲人たちは、すべての人間は兄弟であり、賢者は世界市民だと宣言していた。だがこの方式は、要するに頭で考えられた理想の表出、それもおそらくは実現しまいと考えられていた理想の表出でしかなかった。ストアの主だった哲人たちのうちだれ一人として―帝位についたあの哲人でさえも―、自由人と奴隷との、ローマ市民とローマ市民ならざるものとの間の障壁が低く出来ると考えていたとは思われぬ。権利の平等と人格の不可侵とを含蓄するかの普遍的兄弟愛の観念が現実の力をもつためには、キリスト教の出現を待たねばならなかった。