>どっちでもええやん
価値観の定義は「何に価値があると認めるかに関する考え方」らしいのだけど、価値観という判断基準ほどわかりにくいものはないかもしれないということを思う。
相手が自分の望み通りに動いてくれたら「価値観が合う」といい、相手が自分の望み通りに動いてくれなかったら「価値観が合わない」ということになるのだろうか。 もし価値観がそのようなものであると断定した場合、価値観というものは「利害の一致」と言い換えることもできる。
だが、それだと少し違うような気もする。 利害が一致せずとも、好きなものが一緒であるとか、同じ感覚を抱いたというときには「価値観が合う」という場合もあるからだ。
たとえば演劇や映画などを鑑賞したときに、この演出やシーンがよかったとお互いに合意が取れた場合、「価値観が合うね」と言い合うことがある。 ただ、同じものを見たときに違う印象を持った場合には、それについて「価値観が合わない」とはなかなか言わず「そのような捉え方もあるのだ」とむしろ合点する場合さえある。
つまり、当人だけでは気づいていない捉え方を指摘されたとき「価値観が合わない」とは言わず「新しい着眼点だ」として、その内容を受容するような状況がしばしば発生するのである。
もっとマクロに捉えてみて、もし2人が同じ状況を指向している状態であれば、価値観が合うとみなすことが可能なのだろうかということについても考えてみる。 例として、海が好きな人と山が好きな人の存在を仮定する。はたして、この人たちは価値観が合うのだろうか。
もし自然という切り口からこの関係にアプローチをする場合、この2人は「自然が好き」という共通項でくくることができる。 だが、それだからといって、直ちに「価値観が合う」と断定することはできないだろう。
自然が好きという共通項が存在していたとしても、山と海という二項対立の関係で両者の関係を分析した場合、この2人はお互いに対立したものが好きなのだと見なすこともできるからだ。 そのため、同様の関係ながらも「価値観が合わない」と判断を下すことも可能であるからだ。
こうした問いを繰り返していくと、価値観というものは、その時の自分の気持ちに大きく依存するものなのかもしれないとさえ思えてくる。
自分の想定する通りに相手が動いてくれなかったらといって「価値観が合わない」と安易に判断を下せるわけでもないし、自分が想像できない状態を相手が保持していることを「価値観が合わない」というわけでもなければ、共通項がないからと言って必ずしも「価値観が合わない」ということができるわけでもない。
となると、私が日常的にふと思う「価値観が合った」と思える瞬間は一体何なのだろうという疑問もまた湧いてきて、最初の問いに改めて戻るのである。
「日本eスポーツのコーチング」が主題なのに、在留カードの取り扱いは何の関係もない。
ついでに言うと、シャドウバースの件は経理担当の不在が原因だから、更にコーチングと関係ない。
忠臣蔵の四十七士が多すぎるって話があったけど
三国志とかのほうが多いし、
そもそも四十七士って「赤穂浪士」っていうかたまりとして捉えてるから
近代のフランスにしても軍事政権末期の韓国にしても、市民の暴動とかデモで政権が倒れた「実績」があんのね
日本にはそういう先例がない、大日本帝国が滅亡したのはただの外圧、民力にあらず
まあ日本古来の「成功する政変」のモデル像考えたら宮中クーデターなんだろうけど、仮に前政権の打倒には成功しても新政権が支持を得るとは限らない(建武の新政)
1000作品以上集めてわかった「マンションポエム」に隠された“ワナ” | 文春オンライン
http://b.hatena.ne.jp/entry/bunshun.jp/articles/-/10004
この記事では、マンションの売り文句にマンションを超えた詩的な表現が使われている多くの例が挙げられている。
建築業界にはマンションに限らず痛い詩的な表現が蔓延している。
この建物はいかに素晴らしいか、いかに洗練されたデザインか、そしてそれが施主に認められるかどうかで莫大な金が動く。
このような詩的な表現が多くみられるのは、マンションのような客に対する広告宣伝の場のほかに、個性的な設計をする建築家のプレゼンの場がある。
自分のまちの公共施設なんかの公開プレゼンに出向いたことがある人や、建築家に頼んで家を設計してもらったことがある人には実感があるのではなかろうか。
例えば新しく公共施設を建てようということになると
「水の軸、緑の軸、そこが交わるこの建物が地域の拠点となり賑わいの種となる」とか「エンガワのような集いの場」とか妙にひねった表現が横行する。
住宅であれば「ゆるく繋がる」とか「漏れだす光のぬくもり」とか何が何だかよくわからない。
一応これらの表現について説明すると、水の軸というのは川のこと。緑の軸は並木通りなんかを往々にして示す。
んで、その川と道が交差したここにみんなが集まってくるんですよ! (なんでだよ。集まってこねーよ。)
昔ながらの縁側に座って星を見るような雰囲気に仕上げたので、ここに人が集まるんですよ!
(集まってこねーよ。縁側がカタカナになっていることろもポイント。大体赤の他人と話さねーし)
使いやすい間取りや、周りのまちに溶け込まない個性的な外観を正当化させるために、ごまかしのようにコンセプトばかり考えたがる。これが建築業界に蔓延している癌である。
このような詩的な表現を用いるのは建築学科に通う学生時代からの慣例となっている。
建築学科の学生は記事のようなマンションポエム、表現系建築家に憧れ、育ち、ポエム付き建築を量産しているのだ。
こういう表現をコンセプトや売り文句に含む文化はデザインなんかが絡む建築や、グラフィックとか、映像とかそういう業界に多いように思うのだが
クレカは未成年でも作れるよ。でも引越し費用出せるほどの枠は収入によっては付かないかもね
一線を超えちゃってる例外はあるにせよ、
大人になり、アラサー近くにもなってふと思ったのは、自分の住んでいる街の一番偏差値が高い高校に行きたかったなという事。
かく言う私は、当時色々あって精神的にも肉体的にもボロボロな状態で精神科に通院するのが精一杯で中学ですらロクに行けなかったので、高校は行きたくなったのだが、親が高校だけは出ておけと強く言うので
しぶしぶ仕方なく通信制の高校に行って、とりあえず卒業はした。
当然、そんな肉体精神共にボロボロな状態が治ってもいない状態で通学してたので、正直言って中学高校の記憶は殆ど無いし思い出したくも無い。
つい最近、工業高校の思い出を語る人を見かけたんだけど、とても楽しそうだった。
私も物作り系は趣味でやったりと好きなので、そういう経緯もあって何気なく地元の工業高校について調べてたら、アクセスは悪いが、とても面白そうな授業をしているんだなと思った。
専門職に就かないと触れないような機械や知識について高校の時点で学べるんだから、羨ましいなと感じた。
次に工業高校の偏差値ってどんなもんなのかと気になり、気が付いたら地元の偏差値が一番高い高校が目に付き調べてた。
地元の一番偏差値が高い高校は、いい意味で校風が自由で、私服通学だったり余計な校則が無かったりと評判がいい。
HPを見ると部活動の記録とかあるので見てたけど、かつて私も入部してみたいなと思ってた憧れるような部活もいくつかあって惹かれた。
10代の頃もその偏差値が一番高い高校に憧れていたが、高嶺の花もいい所だった。
当時は当然病気で勉強出来る状況じゃなかったし、仮に健康だったとしても勉強は出来ない側の人間だったので、普通の偏差値の高校ですら厳しかったと思う。
(勉強も出来なければ、スポーツも出来ないタイプだったからね。)
もしも、来世というものがあるのであれば。もしも、また人間に生まれ変わるような事があれば。欲を言えば文武両道、せめて苦手な科目がない程度には勉強出来る人間と環境に生まれたいな。