大体いっつも土曜日の昼過ぎから外出して月曜の朝くらいに帰ってくる(旦那は自営業、私は会社勤め)
なにしてんの?って聞いても「ちょっと出掛けてる」ってしか言わないから分からない
なにしてんだろうなあ
それな。
あのいい大人が股間に手を当ててモゾモゾやるスポーツ、ミニスカートの若い女子にやらせるのは見世物としてはちょいとエロでよろしいが、おっさんがやるのは見ていられんな。
最近、子供の頃の、母親との辛い思い出がフラッシュバックする。
事前情報として。
私は三人姉妹の長女で、割と大人には気に入られやすい子供だった。いわゆる「いい子」。先生からも信頼され、友達の親からも行儀の良さを褒められることが多かった。友達は多くもなく、少なくもなく。父は仕事で忙しいながらも休日はしっかり子供にかまい、平日母に負担をかけてるからと、家にいる日には率先して家事もこなしていた。専業主婦の母は優しくてきれいなお母さんと評判だった。妹たちは年が近いせいで喧嘩も多かったけど、仲良くしていた方だと思う。成人した今でも、一緒に出かけたりする。普通に大学を卒業して、普通に就職して、普通に結婚した。
本題に入る。
日々子供と接する時間の中で度々自分の子供の頃の辛い思い出が蘇る。
その一部が以下の通り。
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●幼稚園
・毎昼のお弁当は冷凍食品だらけだった。友達のお弁当が美味しそうで羨ましかった。その事を母に話すと、母は「妹たちの世話でこんなにも忙しいのに」と不機嫌になるので、まずい冷凍食品を我慢して、息を止めて食べていた。(昔の冷凍食品はまずかった)
・真冬の寒い日、ストーブ1つを母と子供達で使って過ごしていたが、母がど真ん中に陣取って、昼寝をしていた。母に触れて起こしてしまわないよう、端の方からそっとストーブに手を当てて暖をとった。
・妹がテレビを観ながらご飯を食べていたので、椅子から突き落とされ、外に追い出された。妹を助けることはできなかった。
・母が怒ると謝っても許してもらえないし、無視される。なぜ怒られているのか分からない時も、ひたすら謝り続けるしかなかった。「なんで怒られているのかわかってる?」と聞かれるのが怖かった。その点妹は賢く、母を笑わせる事で事なきを得ていて、羨ましかった。
・体調が悪くて小学校を休みたいと訴えると、母は不機嫌になった。ある日「やっぱり今日は給食が美味しそうだから学校行こうかな」と言ってみると母が喜んだ。それからは体調が悪い日には母から「でも、今日の給食美味しそうだよ」と振ってきて、そう言われた日には頑張って学校へ行った。(38度くらい熱が出たら流石に休めたし、優しくしてもらえた。高熱が出るのが嬉しかった)
・小学校高学年で転校して、なかなか学校に馴染めず、誰もいない部屋の隅でぬいぐるみを抱えて泣いた。その泣き声を聞いた母が部屋に入ってきて、「泣いたって何にも解決しないんだからね!」と叱られた。メソメソしているのが、鬱陶しいのだなと思ったが、泣き止めなかった。
・友達と遊ぶ約束がないと、ため息をつかれた。友達が少ない自分は母の理想の子供ではないと、頑張って友達を作り、約束を入れた。
・他人から私や妹たちが勉強について褒められると、「勉強しなさいなんて言ったことないんですよ」と言っていた。確かに「勉強しなさい」とは言われなかった。でも「勉強しなかったら、将来苦労するよ」等、明らかに勉強する事を望む言葉を聞かされていた。他人から「優しいお母さんでいいね」と言われると心がざわついた。
・私を恥ずかしがらせることが好きだった。好きな人や小さな失敗を囃し立てて、顔が赤くなるのを見ては「かわいい」と喜んでいた。
・男性芸能人や偉人に憧れると、その人の悪い面を教えたり、「面食いなんだねぇ、私はイケメンって苦手」と肯定することはなかった。憧れるという気持ちがかなり希薄になった。(最近ようやくイケメンに対するあこがれを罪悪感なく持てるようになった。楽しい。)
・色気があると褒められたと伝えると、「全然ないよ」と否定される。これは何度もあった。私は、自分には魅力がないと理解するようになり、異性から誘われても、自分のどこに価値を感じているのだろうと邪推するようになった。
(父は単身赴任の多い仕事で、長いと年単位で他県や国外に赴任し、家族と離れている時間が多かった。そのため母と子供達だけの期間がかなりあったのだが、その期間は特に母のアタリが強かったように思う。父が家に帰ってくる日は母が優しいし、怒っても父が宥めてくれるので本当に嬉しかった。)
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私は、私は母の望むような自分でないと価値がないと思うようになり、自分自身への自信をなくしていった。そして、子供が産まれるまで母は普通の親だと思っていた。むしろ、難しい子供だった自分を育ててくれてありがとうと、感謝の念でいっぱいだった。
でも子供を育てている今、必ずしもそうではないと思い始めた。
ニュースの報道なんかを見ていると、自分は全然恵まれている方だと思うし、母も1人で3人の子供を育てるのは大変だったと思う。私の経験は、誰でも経験する、小さな出来事なのかもしれない。でも、私にとっては辛い経験で、小学校高学年〜高校あたりまではうつ病の気があったのではと思う。毎日家のベランダや学校のテラスに出て、飛び降りたら死ねるかな、楽になるかな、と考えていた。
昔の思い出を伝えて、母を責め立てたい。
数年前妹が摂食障害を発症し、親子共々カウンセリングを受けた結果、母は変わったからだ。
摂食障害は親子間の問題から発症することがあるらしく、その問題を追及していった結果、母は自らが間違っていたと、自分を変える努力をし、その結果かなり寛容な人間になった。今の母のことは好きだ。
でも、子供と過ごしているとふとあの頃の辛い思い出が蘇る。もっと優しくして欲しかった。私のことどういう気持ちで育てたのと、ひたすら辛い。
子供のことは好きだ。だから私と同じような経験はさせたくなくて、子育て本を読み漁っている。すると、私の知る子育てとは真逆のあたたかい子育てを知り、またあの頃の辛い思い出にフラッシュバックする。
夫には話を聞いてもらっているし、親身になってくれる。その瞬間は気持ちが楽になるし、本当に感謝している。
なんとも中身のないアドバイス
多分、道程と非道程って試行回数の差だと思うので自分のペースで諦めずに彼女作ろうとしてれば、いつか出来ると思うよ。今はネットで探せばコテコテの出会い系以外にも出会いの場はいくらでもあるから頑張れ。
あとセックスはコミュニケーションみたいなもんだからそんなに難しく考えすぎなくていいと思うよ。痛くなかったらいいくらいの気持ちで十分。
それと最後に、自分に自信がないからって、好みとかけ離れた人と行為しようとすると普通に立たないから注意してな。こんな俺でも好きになってくれたんだってどんだけ感謝してても立たないもんは立たないからな。
まぁ、俺も道程なんだけど。
「私は英語が話せます」は…https://togetter.com/li/1234512
講談としては面白いし、英語のうんちくも「ナルホドソウデスカ」って感じだけど、日本語論のところは眉唾で、あまり信用されると困るなあという印象。以下、気づいた点をメモ。
漱石の日本語は別に近代文学の最初のものではないし、その後のスタンダードでもない。明治に近代文学の濫觴となった二葉亭とロシア語の影響、鷗外文学のドイツ語受容その他様々なジャーナリズム、公文書、そして文法学的研究など明治二十年代、三十年代の様々な文学状況を無視して、現代人に聞こえの良い「漱石」と英語との関連だけで近代日本語の成立を語るのは乱暴極まりないし、漱石の影響を一番受けた芥川は文壇の日本語としてはどこまでも異質で、そして大正の終わりには滅びたような古臭い日本語だった。代わりに現代語の基盤を築いたのは、フランス文学に影響された自然主義や新感覚派の文学であって、これらの日本語は、漱石の日本語とは似ても似つかない代物だよ。
そもそも漱石の日本語が翻訳文体だというのもほんとに漱石読んだことあるの?というレベルの話で、デビュー当初のあの奔放な江戸弁と漢文脈のミックス体は、むしろ英語の影響を見て取る方が難しいと思うのだが。
まあ、本当の意味で英文翻訳文体が漢文脈に代わって日本語の基本になるのは、正直戦後じゃないかな。その典型は、日本国憲法かなあと思う。あれ、術語こそ漢文ぽいけど、構文や何かは英語そのものだよね。
それにしても英→日ができて日→英が不便だから「欠陥OS」という言い方はちょっと頂けないね。講談としても口が滑った感じだ。じゃあ英語は何か国語を翻訳できる優秀なOSなんですか?って。機械的な翻訳を馬鹿にするが、奈良時代の昔からそれが海外の文化を一気に取り入れるときの日本語の十八番なんだよ。そうして、中国語、ヨーロッパ諸語と、複数のまったく文法体系の異なる言語を構文レベルで移入しながら独自の言語としてのアイデンティティを維持する…そんなアクロバティックな進化を経てきた言語を、軽々しく扱おうとはちょっと不見識が過ぎるんじゃないかね。
英語をやってると、とかく英語ができるってことでひとかどの知識を持っているかのように思い込む輩がいるが、この人は一応は勉強家のようだから、そういう輩の轍を踏むことの無いよう祈っておくよ。
でかく見られたくないのにヒールはくんか