はてなキーワード: ロベスピエールとは
最近は、もりだのかけだの蕎麦のような話題がニュースを賑わしていたり、昨日は稲田防衛大臣が失言したとかで大騒ぎしている
自称リベラルの人たちは好き勝手に他人を断罪しているけど、自分が裁判官にでもなったつもりなんだろうか。
だいたい裁判官だって、証拠もなしに判決を決めることができるわけじゃない。
有名な「疑わしきは罰せず」という原則もリベラルの人たちは大好きじゃないか。
他人を好き勝手に断罪できるのであれば、自分も断罪される可能性があることぐらい分かりそうなものだと思うのだけど。
大体、そうやってロベスピエールからスターリン、毛沢東、ポルポト、連合赤軍に至るまで、敵や味方を虐殺しつづけてきたんじゃないか。
誰かしらの前座に必ずこういうピエロを据えるのは伝統的だったのだろうか。
ルイ16世は貧困時、小麦やパンの価格レートを下げたりして、少なくとも国民を労わってた。
ロベスピエールの失策を見れば明らかだった。その点ルイ16世を錠前作りの達人程度にしか見て来なかった同国の元大統領サルコジなんかは真性の阿呆だと思った。
また塔に幽閉して、処刑の前日までにはシャルル皇太子が近親相姦を行ったという根も葉もない虚構記事で不当裁判を起こした時、
母親のマリー・アントワネットが否定した時の声明は様々な子を持つ母親に共感を抱かれたという。
これを見るとマリー・アントワネットが悪女だったというのも後世の作り話だろう。
劉禅は暗愚だったか?暗愚なら50年以上も国は続かなかったと思う。
よく人の意見を容れていたから、国は安定していた。どっかの軍事馬鹿が年々国費を費やさなければ100年は安定してたはずである。
今川義元は信長の野望をプレイしたり歴史書を読めば大体の人が信長が起つための典型的かませ役だったのは明らかだ。
東海の弓取りという異名もあったし、三河を安寧させた政治手腕も高く評価されている。それなのに酷い所は麻呂だから泣ける。
むしろ狡猾だったのは信長と後に同盟した松平元康こと徳川家康とか武田信玄とかだと言える。
田母神氏は都知事選を終えて会見を開いた。田母神氏は「保守運動をこれからも盛り上げていきたいと思っている」と締めくくっていた。それを承けて、記者から「それはどのような保守政党になるのですか」と問われて、次のように答えている。
「日本の政治家はね親中派、中国派の政治家がいっぱいいますよね。それに対して保守派と言われる政治家がいる。でも、この保守派の大半というのはアメリカ派なんですね。アメリカの言う通りにしなきゃいかん、と。だから日本の政治状況は中国派とアメリカ派が喧嘩しているような政治状況なんですよね。で、日本には日本派の政治家なんてほとんどいないんですよ。で、よその国を見ればね、アメリカの政治家ってみんなアメリカ派なんですよ。イギリスはイギリス派、フランスはフランス派です。つまり、日本だけ日本派の政治家が大変少ない、という状況だと私は思うんですね。だから、日本派のたくさん集まった政党が出来ないと、日本を取り戻すことは出来ないと私は思いますね。」(http://www.youtube.com/watch?v=LwEMM349-SQ 45:00付近の発言)
もちろんこの記者会見の場は、「日本派」とは具体的にどのようなものであるのか、を打ち出す場所ではないので、こんな大雑把な説明になっているのは致し方ないとして、それでもなお「日本派」が一体何を指し示すのかサッパリ分からなかった。いや、感覚的に言わんとしていることは分かるんですよ。でもでもね、右翼にせよ左翼にせよ、「日本という国がよくなってほしい、日本国民が幸せになってほしい」という動機から行動しているんじゃないのか、って思うんですよ。そういう意味では政治家には基本的に日本派しかいないし、その日本派がどのようなものであるのかを解釈する点において異なっているんじゃないの、ってね。「あいつは親中派で日本のことを考えていない」なんて意見を聞くことは往々にしてあるけど「おまえが考える"日本"のことはかんがえてねーよ」っていう話に過ぎない。例えばですけど、アメリカと融和的である政治家はたしかにいますけど、それって段階論でしょ? つまり、究極的な理念においては肯定できなくとも、現時点においては仕方ない、と容認するような、ね。米軍基地を保守派が認めているのもそうじゃないか! もし田母神が親米じゃなくて「日本派」であるならば、米軍基地を日本から全て追い払わなければならない。「普天間基地移設問題」について石破がよくやるような偽善的態度、つまり「沖縄の皆様には本当に申し訳ないと思っているけれど…」なんていう、気色悪い芝居は一切やめて米軍基地を一掃してほしいね。三島由紀夫だって自決する際の檄文で「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」と言ってるよ。もし原理主義的な日本派が存在するならば、喫緊の課題である米軍基地問題を対処せよ、と私は声を大にして言いたい。(http://www.youtube.com/watch?v=ZgyRYLkGFVU こういう"親米派"と独善的人間がいる限りはね。この動画で話している人物は、「戦後レジームの脱却」をあらわすどころか、沖縄返還前への逆戻りを進んでいるぞ、と怒りを込めて言おう。 http://www.youtube.com/watch?v=7bi5ZZrG62g こっちの動画では「選挙に民意が反映されていない」等と言っている。投票率77%だよ、なに言ってんの、こいつ。沖縄を馬鹿にするんじゃない。 http://www.youtube.com/watch?v=4lwpRSMvL6Y ここでは水島氏が一人の漁師から話を聞いて、彼にあたかも名護市民の”ホンネ”を代表させようと、プロパガンダを企んでいるけれども、実際の選挙結果を見ると、いかに”偏向報道”であるのかがうかがえる。「日本派」はこういう不逞な輩を一掃するところから始めなければならない)
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それからもう一つ。「戦後レジーム」を脱却して、「真の日本」を取り戻そうという試みはじつによろしい。じゃあ、「真の日本」って何? そもそも「日本」が「真の日本」であった時代ってあるの? 具体的に何時代? あのね、そういったことを言うためにはやっぱり歴史を勉強しなければいけない。竹田ナントカみたいなトンデモはやめてくれよ。神武天皇が実在したかどうかなんていうバカみたいなハナシは聞きたくないんだよ。それは純粋に歴史的学問としては興味深いが(竹田が興味深いわけじゃないよ。念のため。)、今の日本を考える上では少なくとも参考になるものは少ないね。歴史を論じるならば、むしろ江戸時代とは何であったのか、明治と江戸の間にいかなる断絶/連続があったのか、っていうのを「日本派」の人びとには考えていただきたい。「日本派」の人びとは、日中戦争や第二次世界大戦を(陰謀論的に)語ることは大好きだ。で、それを説明するために、だいたい明治以降の歴史を考察するのはだいたい常道といってもよかろう(http://www.ganbare-nippon.net/official.html 例えば、この綱領を見ても明らかである)。でも、「明治」っていう時世自体そもそも薩長という田舎者にでっち上げられた「捏造品」だったことを忘れはいまいか? それに、江戸生まれの知識人達の身につけていた教養のたいていは、和文よりも、唐山仕立ての「漢籍」なわけですよ。ようは、きみたちの嫌いなシナこそが絶対的だったわけ。田母神氏がフランスの話を引き合いにだしていたから、ちょっとフランス語の事情から言ってみると、「歴史histoire」という言葉は同時に「物語histoire」でもある。お察しの通り、「ストーリーstory」という言葉も歴史historyからきている。「真の日本」っていう歴史的問題は、つまりストーリーの問題でもあるわけ。「天皇」だってストーリーの問題でしょ? で、ストーリーっていうのは、小説家や歴史家なら当然知っているように、始点と終点がすごく重要なんですよ。例えばフランス革命だってロベルピエール処刑を終点とした一定のストーリーをもとに語られることが多いけど、ナポレオンの時世までをフランス革命の物語として考えたら、少なくとも、ロベスピエールの立ち位置っていうのは少ならず変化する。「真のフランス革命」を探究しようとしたって、じつはそう簡単に出てくるものじゃないし、歴史をストーリー抜きに語ることの困難さっていうことは歴史家が身に染みて分かっていることだ。私は「真の日本」にも同じ問題を感じるよ。もしね、もしだよ? 「日本派」の人びとが、自分たちの語るストーリーだけが真実だって言い出したら? うん、それはカルトと呼ばれるもののはじまりです。だからね、私はカルトになんてなってほしくないわけですよ。「真の日本」なんてそう簡単に見つかるものではないんですよ。それは江戸時代の複雑な歴史をちょっと知っていれば分かるはずなんですよ。だから、戦後レジームとか、そういうカルト的言動は慎んで、とりあえず江戸時代に沈静して、マトモな日本人になってほしいな、と思うわけです。
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追記。ちなみに、「日本派」の原理性をここでは言いたかったのだけれども、そうした右派原理主義をおしすすめると結局左派原理主義ともつながってくる、ということを確認しておく必要がある。どっちも現実を見ずに理想に邁進してしまうから当然だよね。だから、アナーキズムとファシズムには融和性もあるのだし、石原莞爾みたいな人を一人考えてもそれは分かるでしょう。あるいは、三島だってそう。でもこの話は長くなるのでまた今度。
追記その2。「中国派とアメリカ派」っていうのは、行動原理の奥底に、「中国に利するように」等の陰謀をその人が持っている、と田母神氏は考えている、ということだろう。いわゆる「田母神論文」もそうだったけれども、思考法が基本的に「陰謀」に帰着するという単細胞ぶりには、思想が右であれ左であれ、注意しなければいけないと思う。「陰謀」で全て片づけてしまうと事象の繊細なニュアンスを捉え損ねるからだ。「チャンネル桜」では、サヨクという言葉で全ての悪を表象しているわけだけれども、こういうマニ教的二元論によって自らが思考停止しているということに気がつかなくては、ネトウヨ=新右翼のコミュニティを脱して「民意」を掴むまでにはほど遠いと言わざるを得ない。これは戦術上そうなのだ。
「フランス革命は、平民(第三身分)が旧体制を打破した革命である」
のように説明されることがあります。この説明は間違っているわけではありませんが、「平民」という均質な集団が一丸となって何かをしたかのような誤解を与える点で、フランス革命の内容を分かりにくくもしています。
平民(第三身分)は、農民や都市の下層住民を総称した民衆と、民衆よりも裕福な中間層であるブルジョワからなります(職人を雇わずに家族だけで仕事をしている親方や店主ぐらいが下層のブルジョワと民衆との境界層です)。しかしブルジョワと民衆は意識の上でも利害的にもあまり仲がよくありません。
ブルジョワと民衆は協力関係にあるよりもむしろ敵対しており、それぞれ自律的に行動していたととらえる方が、フランス革命の動向が分かりやすくなります。
普通フランス革命の期間は、バスティーユが襲撃される1789年7月からロベスピエールが処刑され恐怖政治が終わる1794年7月までの5年間、またはナポレオンが総裁政府を軍事クーデターで倒す1799年11月までの10年間とされます。
しかしその当時フランスの社会構造がどのようなものでフランス革命が始まるまでどのような進展があったを知っていた方が、フランス革命の推移もわかりやすくなります。
わかりやすくなるのですが、ここではバッサリはぶきます。ブルジョワと民衆がそれぞれ自律的な勢力であるという複合革命論の考え方を前提にして書かれた
などを読んでみてください。
があります。こちらのタイプの説明の方が分かりやすいという人もいるでしょう。
(ヴェルサイユで開かれた全国三部会は、第三身分の強硬姿勢により憲法制定の議会に変身し、バスティーユ襲撃後の国内混乱を利用し封建的特権の廃止に至ります)
1789年5月5日にヴェルサイユ(パリから約25キロ)で始まった全国三部会は、採決形式でもめ審議に入らないまま紛糾します。第三身分が強硬姿勢を崩さず、特権身分の中にも第三身分への同調者が出たこともあり、7月9日に憲法制定国民会議として再出発します。
しかし7月11日に第三身分に融和的な財務長官ネッケルが罷免され、これがパリが伝わるとパリ市民は王の軍事行動が近いと恐れ、自衛のための食料調達武器調達に動き、焼き討ちや略奪が発生します。富裕市民は政府軍隊への対抗と秩序維持のため常設委員会を設置し民兵を組織します。
7月14日にはバスティーユの要塞に武器の引き渡しを求めて民衆が殺到し、バスティーユ内で交渉が続くさなか襲撃が始まり、バスティーユは陥落します。市庁舎まで連行された司令官ドローネーは群集に引き込まれて殺され、市長フレッセルも射殺されます。
新たに組織されたパリ市政当局とブルジョワの民兵(国民衛兵)を国王政府は追認せざるをえず、他のほとんどの都市でもブルジョワが市政の実権を握ることになります。
一方バスティーユ占拠の報を受けた農村では、貴族が浮浪者を雇って報復をおこなうという噂が広がり、その恐怖から各地で領主の館の襲撃が行われ、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態になります。
自由主義貴族だけでなくブルジョワの議員の多くも地主であるため民衆の騒乱は早急に鎮める必要がありますが、正規の軍隊に頼ることは王や保守貴族の立場を強めることになるのでできません。そうしたなか8月4日の決議が行われます。
8月4日閉会後の夜に抜き打ち的に再開された議会で、自由派貴族によって領主特権の廃止が提案され、熱狂的興奮のなか課税特権の廃止など諸特権の廃止が次々と宣言されます。大恐怖の圧力を利用して封建的特権の廃止に成功し、農民の騒乱も沈静化していきます。
これで憲法の議論が進むようになり、8月26日には人権宣言が採択されます。
しかし王は特権廃止の法令も人権宣言も批准せず、9月末には治安維持の名目でヴェルサイユに軍隊を集結させます。
10月5日に食糧危機を訴えるパリ民衆がヴェルサイユに行進し国民衛兵がそれに続き、民衆は窮状を訴え国民衛兵は王に圧力を加えます。王は法令と人権宣言を批准、翌日には王一家はパリのテュイルリ宮に移されます。続いて議会もパリに移り、ここから憲法と法令の議論が本格化していきます。一方で亡命する貴族が増えていき、国内の政治分裂も本格化していきます。
(91年半ばまではフランス革命期としては平穏な時期ですが、この時期に国内の対立が進んでいきます。また国王の逃亡未遂が発覚するヴァレンヌ逃亡事件(91年6月)によって王の威信が失墜し戦争を望む声が高まります)
議会がパリに移り、諸特権廃止の内容や具体的な法律が決められていきます。ヴァレンヌ事件が起こるまで比較的平穏とされる時期ですが、国内にさまざまな対立が生じていきます。
1789年後半から91年にかけて、議会外に政治組織が形成されていき対立の構図ができていきます。
また各地で反領主騒乱が発生していますが、そうした騒乱は徐々に革命か反革命かという政治的な枠組みで解釈されていくようになります。
さらに聖職者民事基本法をめぐって宣誓拒否問題が起こります。カトリック聖職者の多くは革命には好意的でしたが、叙任式における宣誓義務に対して大多数が拒否をします。議会からの警告が出されますが、地方によって大きくバラツキがあるもののフランス全体で約半数の司祭が拒否します。教皇ピウス6世が民事基本法を否認したこともあってカトリックは内部分裂する事態になります。宣誓拒否司祭とそのもとにあるカトリック民衆は「反革命」に押しやられ、のちのヴァンデの反乱(ヴァンデ戦争 1793年3月~)の原因の一つになります。
91年6月に国王一家がパリから逃亡し途中で発見されるというヴァレンヌ逃亡事件が起こります。
これを受けて、外国に支援された亡命貴族が攻めてくる、外国の侵略が始まるという考えが広がり、国王救出を目的とした外国人が侵入してくるという予想から国民衛兵による警戒体制もしかれます。
7月には主要な政治組織であるジャコバン・クラブが、王の廃位と共和制を要求する請願書をめぐって分裂し、多数派の穏健グループはフイヤン・クラブとして分離します。
8月にオーストリアとプロイセンが、フランス国王のために武力介入もありえるとするピルニッツ宣言を出したため、亡命貴族の陰謀説にさらに拍車がかかり、外国との戦争を望む声が高まっていきます。
そうしたなか9月3日に立憲君主制にもとづく1791年憲法が制定され、9月30日に憲法制定国民議会は解散します。
(インフレや物価上昇により食料問題が悪化し民衆の不満は増大していきます。国内の多数が開戦を支持するなかオーストリアに宣戦布告し(92年4月)、続いてプロイセンとも戦争状態になりますが、フランス軍の劣勢となります。軍事的危機と国王への不満が積み重なり、パリに集結していた連盟兵やパリ民衆の恐慌的な敵意が王に向けられ、王の廃位が要求され、8月10日テュイルリ宮が武力制圧されます(8月10日事件)。これを受けて議会は王権の停止を宣言し、新たな憲法制定のための国民公会の召集を決議します)
憲法制定議会が解散した翌日91年10月1日に、9月までの選挙で選ばれた議員達による立法議会が開会します。再選が禁止されたため全て新人議員で、貴族がほとんど選挙に立たなかったため議員のほとんどは裕福なブルジョワです。立憲君主制を守りたい穏健派のフイヤン派が議会の最大勢力、共和制を主張するジロンド派(ジャコバンクラブのこの頃の多数派)がそれに続きます。
なお同業組合や団結を禁止したル・シャプリエ法(91年6月)に抵触する恐れがあるため、政党は存在しません。そのため、どの派でもない、審議内容ごとに立場を変える中間派(平原派)が、この時期に限らず常に議員の多数を占めます。そのため派閥の議員数だけでなく、中間派の動向(またその動きに影響を与える議会外の動向)が重要になります。
また議会内の各派の勢力数自体も確定したものではなく常に流動的で、各勢力をどう呼ぶかにかんしても文章によって違うことがあります。
議会の中心的課題は、周辺諸国からの脅威にどう対処するかです。(それと穀物価格の上昇に対する価格統制の要求に対して、革命後の基本原則である自由主義をあくまで守るのか、民衆の要求を受け入れるのかも問題になっていきます)
これに対してジロンド派は、国内の不満をそらして(インフレにより物価が上昇し各地で食料暴動が発生していた)政治のイニシアティブを獲得するために「自由の十字軍」などの言葉で対外戦争をあおります。民衆の多くも「外国と共謀する亡命貴族」への脅威と愛国感情の高揚から戦争を望んでいました。
92年3月、フイヤン派の大臣が王によって解任されジロンド派内閣が成立し、4月にオーストリアに宣戦布告、数週間後にはプロイセンとも戦争に入ります(戦争はナポレオンが二度目の失脚をする1815年まで中断もありつつ続くことになります)。
しかし緒戦から敗戦が続き、「反革命」者へのより強力な措置を求める声や宮廷への不信から共和制を求める声が高まっていきます。またセクション(区)の政治活動を通じて民衆が政治的に組織化されていきます。
そうした流れが最終的に民衆と連盟兵による8月10日のテュイルリ宮の襲撃に行き着くのですが、この事件は偶発的に起こったバスティーユ襲撃とは異なり王の廃位を求めての組織された行動だったにもかかわらず、そこに至る決定的な原因があるわけではないので要約しづらく、フランス革命の大きな転換点の一つのわりに説明しにくい事件です。
ここでは事件の結果だけ述べると、立法議会は蜂起側の勝利がはっきりした後、王権の停止を宣言し、新たな憲法を制定するための国民公会の召集を決議します。これでフランスが共和制に向かうことが確定します。また国王一家はタンプル塔に幽閉されることになります。
(戦争はフランス軍の劣勢から優勢に変わり周辺領土を占領します。93年1月には国民公会の裁判結果により国王が処刑されます。周辺領土の占領や国王の処刑を原因として周辺諸国の多くと戦争に突入し、さらに国内ではヴァンデ地方を中心に大規模な反乱が起こります。議会ではジロンド派と山岳派の対立が深まっていき、国内外の諸問題への対応のまずさからジロンド派が民衆の支持を失い、93年6月ジロンド派は逮捕、議会から追放されます)
8月10日に王権が停止しますがフランス軍が劣勢の状況にあることは変わりません。義勇兵がつどわれ前線への準備がなされる一方、反革命、裏切り者を排除する空気が広がり、家宅捜索がなされ多くの反革命容疑者が逮捕されます。さらにパリへの侵攻の脅威が高まり、義勇兵が出発したあと反革命者がパリ住民を虐殺するという噂も流れ出します。
そうした不穏な情勢のなかヴェルダン要塞陥落のニュースがパリに届きます。これをきっかけとして、囚人の多くが殺されるいわゆる九月虐殺が発生します。
この事件の結果、内の脅威が消えたと民衆が大挙して義勇兵に参加し兵数万を増やすことになります。
一方、この事件は国外からの印象を非常に悪いものにします。宥和政策を取っていた隣国スペインの首相も宥和政策を撤回せざるをえなくなり、またフランス革命開始時には革命に好意的だった知識人たちも国王一家の幽閉と九月虐殺で決定的に革命嫌悪に転じます。
戦況にも変化が生じます。フランス軍はヴァルミーの戦いで勝利し、戦況が優勢に転じていきます。なお多くの本でこの勝利はフランス兵の志気の高さによるものと説明されていますが、志気が影響するような戦いではなく兵と砲台の数の差によるものといった指摘もあります(たとえば『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』)。
普通選挙でしたが投票率は悪く、ほぼブルジョワ議員で占められています。フイヤン派は出馬していないので議会におらず、共和制穏健派のジロンド派と共和制急進派の山岳派、それに中間派という構図です。(ジロンド派がジャコバンクラブを脱退していくので、山岳派=ジャコバン派とも呼ばれます)
ジロンド派は経済的・政治的自由主義を維持し議会主導で政治をおこなうという近代的な原則をあくまで重視し、山岳派は革命の推進と防衛のためには民衆の要求も受け入れ民衆運動の利用もありと考える現実路線です。
……とまだまだフランス革命の時期は続いていくわけですが、予想外に長くなったので中途はんぱなところですがここまでとします。
93年1月に国王が処刑され、6月ジロンド派の追放で山岳派の一党独裁(ただし基盤の脆弱な独裁)になり、恐怖政治の時代が翌94年7月まで続き、ここで一区切りとなります。
あのさあ、「一般的にはこういうことが言われている」ということを主張したら、いつの間にか俺が「こういうこと」を主張していることになってるのはなんでなんですか、とさっきから何度も聞いてるんですが。「そうとしか思えないから」って、あんたの主観でしょ。しかもあんたが俺のことを色眼鏡で見てたことはあんたが自分で言ったことだし。
ほう、その辺の本には「神」なんて言葉が乱舞しとるがな。じゃあ日本の古典がどう宗教的価値に直結しとるんだ?
これは確かに読み飛ばした、失敬。
日本の古典の話をしてるんだが。とりあえず便宜的に日本の言文一致体以前以後で区切ってみようか。
なんか、今でも一般人が学ぶ意義のあるような文献がそれ以前にある?
しつこいなあ。食い下がってるのはどっちだよ。「意義」の定義によるだろ。「一般人レベル」でいうのなら、欧米先進国様の古典を学ぶ意義と同程度のものは間違いなくあるよ。日本文化のうち文学と美術と舞台芸術に優れたものがあることは君も否定せんだろうが、それらの趣味が思想だのなんだのに劣ることはあり得まい。
グレコ・ローマン文化の話じゃなかったのかよ。近代以降ならそりゃ当然だろ。フランス革命1789年と明治維新1868年の差が今更どれほど重要だとあんたが思ってるのかは知らんが(明治維新は不完全な革命とかいうなよ。そんなこと言えばロベスピエールとかナポレオンってのはどうなるんだ)。ただその意味で言うなら欧米であってもドイツなんかは後進国なんであって、あんたが言ってるのは「イギリスとフランス」の話でしかない。「欧米」ではないぞ。
君の言うステータスシンボルのような意味での「役に立つ」自体を俺は批判し否定してるんだよ。まやかしだってな。で、撤回したんじゃなかったか? やっぱ食いさがってんじゃんww
ほら、君は「??だとすれば」という仮定が読めないんだよね。背理法とか理解できてないんじゃないの?出来の悪い中学生とかで、「もし√2=p/qと既約分数で書けたとするとpもqも偶数になるが」とかいうと、「pもqも偶数なわけないだろ!」とか言って聞かないガキがいるよね。
あとさあ、まやかしはまやかしで構わないけど、そういう意味なら俺は英語の「役に立つ」もまやかしだと思うがねえ。
とりあえず、「まやかし」と「役に立つ」をあんたはどういう基準で使い分けてるのか明示してくれ。でないと話にならん。
えーと、そういう主張をしたいのならまずソースよろ。
はあ?何のソースだよ。俺は君の主張を自然に演繹しただけであって、敢えて言うならソースは君の発言だが。
東大卒は毎年数千人だ。それで、MIT卒は何人いるか知ってる?ハーバードは?プリンストンは?スタンフォードは?オックスフォードは?ケンブリッジは?
本当に新天地を切り開くようなエリートってのは、せいぜい数人程度だろ。その数人にどういう教育をするかと考えた場合、国内でまかなおうなどと無駄な縄張り意識を発揮するよりは、とりあえず世界トップレベルの大学に送り込めばいいんじゃないの、と。
天才信仰ですか。まあいいや。仮にそうだとしても、「年に数人」レベルの人間に「教育」なんておこがましいと思わんか。そんな人間はほっといても自分に最適な場所を探してくるし、そこが日本である可能性もあれば海外である可能性もある。
国を背負うほどのものでもない普通の東大生数百人のレベルをギリギリにチューンすることに金を使うよりは、普通の大学を出る普通の何万人のレベルを上げるほうが安上がりだし価値があるんじゃねえの、と。
誰も「普通の東大生数百人のレベルをギリギリにチューンする」なんて言ってないし、そもそも東大生の中で「教育制度がもっとよければ俺はもっと偉くなれた!」なんて言ってる奴は落ちこぼれだけだよ。だから「普通の東大生数百人のレベルをギリギリにチューンする」という発想自体がそもそも無意味。
いや、主流の座から滑り落ちたものを普通はスタンダードとは呼ばないだろう。そう言えるからには、後続のものがスタンダードを一つの目標に据えて設計されたとかそういう事情が必要だ。ちなみに釘をさしておくが、別にこの主張に固執するつもりはないから反論は不要。否定してくれてかまわん。
でも、コアの計算部分がライブラリに分離されちゃうケースが増えると、ますます低水準処理がどうこういう意味がなくなるような。
出来合いのライブラリを使ってない研究者だって沢山いるし、そもそも計算アルゴリズム自体に工夫をする人だっているわけでな。その辺は計算の規模と計算機リソースの兼ね合いと、あるいは本人が計算機を好きか嫌いかなんていう、実に卑近な事情によって決まってくる。それこそ情報工学の研究者であっても、俺が例に挙げたパターン認識や待ち行列の研究者の中には計算機の実践的側面なんかに興味がなく、Cを使ってアセンブラまがいのコードを書き、新しい言語なんて覚える暇があったらもっと他のことをするとかなんとか言ってる人だって一定の比率で存在する。おわかり?あんたの言ってる「情報工学」は「コンピュータ工学」でしかないことに気付いてほしいな、いい加減に。そこだけ理解してもらえればあとはどうでもいい。そうすれば、あんたが噛み付いてる点自体が枝葉末節だってことにも気付くだろうし。
前にも書いて綺麗に見ない振りされたけど、それ言語の選択と無関係だよね。
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元々の話覚えてるか?「低レベル寄りの言語を知識としてだけでも知らない人間に」云々という話だっただろう。どうも話が巧妙にずらされてる気がするんだが。たとえばいきなりJavaを覚えさせられた人間がそれがわかるとは到底思えない。ライブラリのソースを読めるレベルになってはじめてわかることだろう、それは。
C++の話も同様。敢えて「C++らしい」処理を書けば計算量はどんどん増えて、例えば行列をカプセル化して演算子をオーバーロードしてなんてことやってたら計算時間が倍ぐらいになってもおかしくはないだろう。一晩で終わる計算が翌日の昼までかかるということになったら作業効率には歴然たる差が出るぞ。