はてなキーワード: まやかしとは
俺も自己評価が低い。けども、リア充を見て、あんなことしちゃって!と思うことは無い。
人を上下関係で見てしまうということもないな、と思ったが違う。
まるで自分は地の底にいて、他の人はみな地上で生きてる感じだ。
だから、人を上下関係で見てしまうというのはある意味言い得てる。自分より下はいないけどな。
いつもそれを眩しそうに見上げてる。
でも嫉妬や他者否定は感じない。
すごいな、眩しいな、俺と違う生き物だな、と思うだけだ。
何故それで自己評価が低くなるのか。自分の場合は警戒心が強すぎるからだ。
褒められると次は殴られるのかと警戒してしまう。
笑顔で近づいてこられると警戒心が全開。
他人の感情や好意や悪意ってやつを感じ取る能力が薄くて、共感性に乏しい。
好意を持たれていてもそれに気づいて認めて自分の充足に充てる事が出来ないし
逆に悪意を持たれていても気づけなくて相手を知らないうちに怒らせることになる。
眩しい世界にいる俺以外の他の連中は、俺にはわからないコミュニケーション方法で
自分には知りえない充足を得ているに違いないとかつては思っていた。
今も少しそう思っている。
そんな世界で人間関係に揉まれるのは、言葉の通じない国を目隠しで歩くようなものだ。
だから、常に最悪のケースを考えて警戒し、自分の能力を最低ラインで算段している。
自分のやることを過小評価する。人は自分を悪いほうに取ってると仮定する。
他者に自分がこう写るであろう、という想像が徹底的に低いから自己評価が低くなる。
そうしないと恐ろしくて生きていけないからだ。
元エントリとそれに対する批判がぐだぐだしてるのは、自己評価が低く自己肯定感が少ないことと、自信が無いことは必ずしも比例しないからだ。
俺は、自己評価と自己肯定感はこれでもかというくらい低いが、自分の実力の測り方については確固たる自信がある。
自分の出来ることと出来ないことは非常によくわかっているつもりだ。
「この人は「自分に自信がない」と「言える自分」に対して、「堅固な自信」を持っているからだ。」
というのはまさしくその通りかもしれない。
でも、なぜそれが批判になるのだろう?もう生きてはいけない?本当に?
俺は自分の性格を変えることは諦めているので、この自己評価の低さをいまさらどうしようとも思わない。
逆に考えれば、どんなに浮かれた状況でも慢心せず、怒らず、個人に肩入れをせず、他人を冷静に眺めて判断でき
些細な事に嫉妬心を抱かないので他者の優れた点に気づきやすい、ともいえる。
非常に承認欲求を充足しにくいのだけはネックだが。
声豚くんが死んだ。
なんでも、好きだった声優に彼氏がいる事が判明して発狂してしまった声豚くんは、持っていた写真集をビリビリに破いて、CDを全て叩き割ったあと、頭が爆発してしまったらしい。
声豚くんが亡くなった部屋は、CDの破片や、カピカピに乾いた黄色いティッシュ、声豚くんの脳みそなんかがそこらじゅうに飛び散っていて、それはもう凄惨な光景だったと、声豚くんのお母さんがTwitterでつぶやいていた。
「家畜が死んですっきりしたなう」とつぶやいていた声豚くんのお母さんも、式場では泣いていた。
声豚くんの遺影に使われていた写真はずいぶん昔のもので、制服を着て笑っていた。
僕は、声豚くんが大好きだった声優が声をあてているアニメキャラクターのうちわを、棺の中に入れてあげた。
***********
「2.5次元なんて無いんだ」
帰りに寄った喫茶店で、しばらくの沈黙の後、メイド喫茶くんが口を開いた。
「声豚くんは騙されてたんだ。きれいで楽しい上辺だけの夢を見せられて、裏切られたんだ。だいたい、年頃のかわいい女の子に彼氏が居ないなんて、おかしな話だったんだよ」
「彼氏がいるならいるって、最初から言ったらいいじゃないか! そしたら声豚くんだって、きっとこんな事にはならなかったんだ……」
たしかにそうだ。
清純な女の子が好きという男が一定層いて、そういう人はアイドルにお金をかけてくれることが多い。だからアイドルは清純を偽装する。彼氏がいても、いない事にする。その方がみんなからチヤホヤされるし、お金になる。
そして僕たちは、アイドルに恋をしてしまう。付き合うのは無理だとわかっていても、好きになってしまう。
そういう事だろうか。
「きっとクルミちゃんにも彼氏が居て、仕事が終わったらイケメン彼氏とイチャついてるに決まってるんだ……」
メイド喫茶君が通っている喫茶店でナンバーワンの売り上げを誇るクルミちゃんは、学校のクラスで換算すると上から3番目くらいに可愛くて、その上愛嬌もあるので、きっと彼氏だって居るだろう。
仮に今現在、彼氏が居なかったとしても、絶対処女じゃないだろうし、ましてやメイド喫茶くんが付き合える可能性は限りなくゼロに近い。
二人が並んで街中を歩く姿が想像出来なかった。
「ああ、もう嫌だ。全部まやかしなんだ。こんなの……」
メイド喫茶くんは、財布からメイド喫茶のスタンプを取りだして、ビリビリに破ろうとした。
でも、出来なかった。
「ナ、ナンパでもしたら? ほら、奥の席で可愛い女の人が一人で本を読んでいるよ。話しかけてみようよ……。」
僕は言った。
「そんなの無理に決まってるよ! 冷たい顔で無視されるか、怯えて警察を呼ばれるに決まってるんだ! そんなの無理だってわかってるから、メイド喫茶に通ってるんだ……」
メイド喫茶くんの顔は真っ赤になっていた。
これ以上興奮したら、メイド喫茶くんも頭が爆発してしまうかもしれない。
それからしばらく、二人とも何も言わなかった。
でも、と僕は思った。
それはきっと、難しいだろう。
本当の意味で2次元に恋をするのは、ある種の悟りを開くようなものだ。
「俺の嫁」はコミュニケーションの手段でしかないって、メイド喫茶くんもきっとわかってる。
僕は首を横に振った。
「そっか……。じゃあ、俺はそろそろ行くよ」
メイド喫茶くんは、力なく立ち上がると、トボドボと歩き始めた。
スタンプカードを握りしめているメイド喫茶くんは、ひょっとしたらこの後、メイド喫茶に行くのかもしれない。
名前なんてものに意味はない。あれは単なる記号だ。強いて言うとすれば、自らが属している領域と、その領域内での力量を表すことのできる道具であるということくらいだ。
その力量というものも、実質的な尺度とは言いがたい。単なるまやかしとも言えるし、自らがここにいると標榜する旗の色調の派手さ奇抜さを競っているだけなのかもしれない。
兎にも角にも、今現在名前と呼ばれているものにはそれほど重要な意味なんてものはない。
無論、両親や親類の願いや思いといったものは託されているだろう。だがそれだけだ。そういった願いや思いが、一体何になるというのだろう。
我々の多くはその名を知らない。他者のものも、自身のものも。誰も教えてくれないし、誰も見つけられない。だから知りようがないし、教えようがない。
それは、だからある意味ではないも同然のことなのかもしれない。誰にも理解されない、認知されない概念など、あってもなくても似たようなものだからだ。
けれど、ときどき僅かながらも真名に敏感な反応を示す者たちがいる。そのものの性質を朧気ながらも読み取り、適切な語彙でもって固定化しようと試みる者たちがいる。
彼らはおよそ無意識の内にそれらのことをやってのけるのだが、その呼び名が、あるいは渾名が他の名前よりもよっぽど正鵠を射ているので、小さく持て囃されたりする。
真名を知ることは、己を知ることの第一歩となりうる。故に人は、真名を知ろうと努力せねばならない。対外的な好奇心よりも、内向的な思慮分別を重視せねばならない。
そうでなければ壊れてしまう。
なぜ嘘ばかり書いてまで批判するのか。嘘しか書けないなら批判するのはやめなさい。きみの方がまるで朝日新聞の悪いところを濃縮したような性格をしている。
次に、「~な人はいる」などと疑問を強化を試みます。(「~な人はいる」と言いながらそれが誰かということには一切触れない。)
URLを示して、それが誰かということは明らかにしている。きちんと読んでくれ。
次に、出典不明のあやふやなデータを並べ立ててみる。
URLを示して、出典を明らかにしている。きちんと読んでくれ。
最初からゆとり世代を擁護していない。日記のタイトルも「ゆとり教育が使えない人間を生み出すのは嘘」であってゆとり教育の擁護を意図している。錯誤を書かないでくれ。
うまく日記自体を批判できないからといって「天声人語」を持ち出してイメージ低下を狙うのはやめてくれ。
つまりきみは、嘘を重ねた上に、根拠もなく「論法を積み上げているつもり」「論法のすり替え」といった批判を連ねて批判した気になっている。
というように、
意味不明な批判をしてから、こちらの日記を天声人語に准えることで、その意味不明な批判を補強した雰囲気を狙っている。
きみは、「朝日新聞」「天声人語」といった悪のイメージをなすりつけることになれてしまって、嘘・まやかしの適当な文章しか書けなくなっている。そういった卑怯な修辞は即刻やめなさい。見ていて気持ち悪い。
人間が都合のいいものだけを求めて都市を作った。そこまでは良かったのだが、あまりに都合がいい世界が出来上がってしまったがために、逆に都合の悪いものが目立ち、それに若者は怯えている。
人間の存在そのものが、人工物だらけの都市にとっては都合が悪い。
しかしそう思う自分自身も人間であり、自然物だ。この耐えがたい矛盾から逃れる方法はただ一つ、引きこもること。
実は引きこもるという選択は現代人にとってとても合理的で正しい選択なのだ。
だがここで疑問が生じる。人間を避けるために引きこもっているはずの人々が、こぞってネットをやりたがる理由は何?暇つぶしのネタが欲しいならマンガでもアニメでもテレビでもいいのに。
ご存知の通りネットというのは単なる情報が膨大にある場所ではなく、人間が暮らす場所の一つである。ネットを使う人間は時には一緒にゲームをし、掲示板で誰かの悪口を書き、動画にコメントを投稿し、オフ会をして盛り上がる。なぜ現実の人間が怖いはずの人々がこんなネットの世界にハマるのだろうか。
「人間は人間といるのが一番楽しいから」と思った人は、惜しい。概ね正解ではあるが足りない。答えはこうだ。「人間は"都合のいい"人間といるのが一番楽しいから」だ。
都合の良い人間とは、とても極論すれば「自分の悪口を言わない人間」のことである。自然物としての人間は、都合の良い人間であり都合の悪い人間である。だから、一緒にいて楽しい時もあれば楽しくないときもある。仲良くしていたと思ったら悪口を言われ喧嘩してしまうこともある。それが自然物としての人間だ。
しかし、彼ら、つまり人工物に囲まれて生きてきた人間にとって、普通の人間の「都合の悪い面」というのは恐ろしくて恐ろしくてたまらないもので、関わりたいとは到底思えないものなのだ。
それは彼らがひたすら都合のいい環境でだけ生きてきたからに他ならない。自然と共に生きる人間は自分の思い通りにいかなくても案外すんなりと妥協するし、それをいつまでも記憶に留めていたりはしない。しかし彼らは違う。彼らにとって都合が悪いことというのは、そもそも「ありえない」「あってはならない」ことで、存在そのものが許されないのだ。
人工化の過程にある現代ではここまで極端な考え方をする子供は珍しいかもしれないが、レベル的には近い人間はごろごろいる。引きこもっているのはそんな人間達だ。
話をネットに戻すと、ネットというのはじゃあどのくらい都合のいい人間がいるのか。
たとえば同じ趣味を元に集まったグループであれば、「自分の趣味を理解してくれない」人間は排除されている。つまり、自分にとって居心地のいい世界がそこにあるわけだ。
また、ニコニコ動画では不都合なコメントをフィルターで隠すことが出来る。自分の好きな動画をけなす「不都合な人間」は排除できる仕組みだ。ネットゲームでも、自分が嫌いな人間は簡単に「ブラックリスト」に登録して消すことが出来る。
現実世界では、こういうことはなかなか簡単には出来ない。フィルタリングのように存在を見えなくするためには「殺す」しかないだろう。殺すという行為は、ネット上でのフィルターをかけるという行為と比べてあまりにもリスクが高い。これも、不都合なことは簡単には出来ない現実世界の不自由さであり、彼らが社会に出るのを嫌がる理由でもある。
ネットでは自分の見たいものだけを見ることが出来る。そもそも人間は見たいものしか見ない生き物だが、そこで待ったをかけるのが自然物であった。だから、人間は心の底から「見たいものだけ見る」のではなく、不都合なこともどうにか許容してきた。この許容の精神こそが、社会で言うところの大人に求められる能力であり、これが出来ない人間を世間では子供と呼ぶ。
しかし一方で、「大人」たちは子供のために安全で快適な人工環境を作り続けてきた。学校というミニ社会で子供は自然物たる人間と出会うが、彼らが自分に不都合なことをした場合、親が学校に殴り込み、不都合を解消しようとする。子供は何もせずに、まるでネットゲームの不具合が解消されるのを待っているだけだ。親はなぜ学校ではなく不都合な子供自身を責めないのか。自然とは制御出来ないものだからである。人工環境の中にいる人間には自然を「なんとかする」という気持ちはそもそもなく、不満を言ってそれが解消されるのを待つだけだ。もはや自然=不具合であり、不具合だから誰か(サービス提供者)がさっさと直してよということになる。一見すると学校に殴り込み教師に向かって怒鳴り散らすモンスターペアレントは異常だが、彼らの行動原理は「レストランで座っている席が汚れているから文句を言う」のとほとんど変わらないものであり、サービスを受けているのは自分なのになぜテーブルを掃除(=息子をいじめた子供に説教)しなきゃならないのかということなのだ。そして、学校の教師というサービス提供者は自然物たる人間ではなくただの「サービス提供機械」なのであり、人間扱いする必要はないということになる。コンビニ店員に代表される第三次産業従事者が時に非人間的な扱いを受けることがあるのはこういったものの考え方をする人間がいるからだろう。
これらを「おかしい」と思うのはもう古い。
人間にとって都合の良い環境を「人間が」作っていることを忘れた人間がいても、それは都市の副産物であり何ら驚くに値しない。
不都合な出来事がなくなり都合の良い世界にだけ暮らす人間はとてつもなくわがままで自己中心的で傲慢でとてもじゃないが一緒に付き合おうとは思わないだろう。
しかしそれでいいのである。そもそも人間は「誰かと一緒にいなければならない」環境を改善するために文明を発展させてきた。本来、自分の生命だけを第一に考える人間が手をつないで仲良く暮らすことなど出来るはずがない。過去の人類はその不都合を「仕方なく」受け入れてきたに過ぎない。よって、人と人との繋がりを修復しようとか、過去つまり現在よりも人工化が進んでいない時代に戻ろうとする思想は全てまやかしであり自己満足である。誰も真の意味で分かりあいたくなどない。必要なのは「自分を完全に受け入れてくれる」「自分の思い通りになる」人間だけであって、それはすなわち自分以外にありえないのだ。
人間は不都合な出来事にはそろそろ耐えられなくなってきた。大いに結構なことだ。引きこもり達よ、君たちは未来の人類のモデルケースとして存在している。自分を否定する必要はない。大いに受け入れよ。
部屋の掃除をしてたら、駿台の「新・基本英文精選700選」「新・物理入門」などの
問題集が出てきて、今読んでみると、無駄にカッコつけて小難しく書いてあって
なんか高3病な本だなぁ~と感じた。
★1をつけてる人が何人かいて、まったく同感だった。
「新・物理入門」
もはや役割を終えた、まやかしの書
山本義隆の著書で一番売れているのは多分これ。
しかし誰がこんな本を読んで得をするというのだろう。
肝心な所でΔやΣを多用して尻切れトンボに終わる。
ところがそんなものを一部の受験生は「微積を使った物理」(?)
という標語をでっちあげ、
学術書の標準に適合しないおかしな表記法が染み付いて、
なのにこの本を薦めようとする大人が後を絶たない。
こんな奇形化した物理を学ぶことに青春の時間を費やしてはいけない。
兵頭俊夫、江沢洋、砂川重信、原島鮮などの手による入門書が推薦できる。
記述が硬すぎる。
同じような内容でも大学の教科書、参考書の方がもっと解説が丁寧で解り易いように思います。
数学を用いて物理を学びたいのなら、こういった受験参考書を読むよりも大学生用のの簡単な
テキストを読むことをお薦めします。例えば、砂川重信氏の『物理学の考え方』とか高校生向け
の良い本が沢山あります。これらの本は当然数学を用いていますが、現象と数式の背景を詳細に
記述している点では、受験参考書以上に学生に理解させることを目的として書いているように
新・基本英文700選
今の受験には向いていない
一昔前まではこの本が必須バイブルだったでしょう。
この本の例文は説明が極めて少なく、訳もかなり意訳されています。
のせられた英文が、20年以上前の大学受験に対応した様な英文の様。実用英語につながっていきにくいし、
それがわかった上で、ある程度英語の実力がある人が、基本構文や熟語をおさえるためにわりきって使う分にはありとは思うけど。
世界が中心に躓く。
世界が果てへと向かう。
挑戦が過激にでかくなっていく。
どうしようもなく、それは楽しく。
ひたすらに楽しく、ただ楽しく。
それはホラ吹きに毛の生えた
にわか詩人の淡い願い。
つくられていく。世界が幅を持って、
大きく動かされていく。
完璧さがどうしようもなくのびていくのを感じる。
これはすごい。素晴らしい。
とんでもない。
理解しがたい。
幸福が俺を襲う。
快感にあふれる。
だが俺はじっとしている。
さぁ、真実を見つけ出そう。
文章の中から、本物を見つけ出そう。
また新しい道が作られていく。
さぁ、見つけ出そう。飛び出そう。全てをコントロールしよう。
それが何かなんてどうだっていいんだ。
もとに戻した。
全てをもとに戻した。
全てを。全てを。全部、全部を。
何もかも、終わってしまった。
終了してしまった。
頑張っても防げない。
飲めば健康になる。
飲めば楽になる。
でっていうwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そんなはずないって分かっているのに。
なんでこんなに楽しいんだ。生きてることが楽しすぎる。
どうしようもねぇ。くっだらねぇ。
触ってみたい。ふれてみたい。そっとふれるもの求めることに夢中で
抱き寄せるよ。静かに、そっと。
傾きかけるよ、誰かのニュアンスに。
さぁ、切りだそう。
さぁ、吐き出そう。
想いの丈。理想のでかさ。
いじめられる側にとって、いじめられる理由というのは死ぬほど大事だった。
いじめられる理由がないのにいじめられることほど怖いことはない。
客観的な要因があると思わなければむしろ耐えられなかったと思う。理由は絶対に必要なんだ。
その際、
1:「相手がバカだから」「日本人は差別主義者からだ」と思えれば、自分で自分を助けられるのかもしれない。
でも私はそう考えることが無理だった。
私は「何も考えずに人をいじめるようなバカがいる」と信じたくなかった。
それが事実だったら、自分が弱みを見せる限りいじめの恐怖はなくならないと思ったからだ。
それよりは、自分に問題があることにした。いじめを自分で制御できる問題にしたかった。
まぁそれができたら苦労はしなかったんだがね。
2:「自分の問題がある」と考えることによってその理由をなんとかすれば解決できるという望みになった。
まぁその希望はまやかしで余計自分を地獄に追いやったわけだけれども、
それでもその時はそう考えたかった。「いつか終わる」「自分次第」と思うことが
ストレスにあらがうためにどうしても必要だった。
差別の存在っていうのはね、ほっておけば、「なかった」ことにされてしまうものなんだよ。なぜなら、だれだって、そんな醜悪なものは見たくない、聞きたくないからね。その存在から逃げられる特権的立場にいるなら、誰だって逃げたいさ。
いじめというのは、「自分にいじめられる客観的な要因がある」などと誰も思いたくないからね。真に偶発的な要因によって起こるのだと思いたがる人も少なくない。
差別も、いじめも、個々のケースを観察していくと、その要因は様々だろう。でもね、ほんのわずかに俯瞰してみるだけで、個々の事例には還元できない何かが通底していることに気付くはず。
自分を正当化するためにどこかに誤りを求めずにはいられないバカだが、その気持はわかる。
こいつはそこで私と分岐した片割れなんだろう。「1」の道を選んだんだろう。
「2」を否定して、差別した相手を否定して、なんとか自分を保ったんだろう。
だが、1を選んだ人間は「いじめられていた時の自分」を責めることができない。
2を選んだ人間が「今の自分」を責められなくなるのと同じくらいそれは避けられないことだと思う。
この人は、なんとかしていじめられていたという事実に対して合理的な説明を付けることで
いじめられていた時の自分に謝罪したいのだろう。そのことによって今の自分を許したいのだろう。
それまでは、忘れたふりをして生きていくことができないのだろう。語らずにはいられないのだろう。
でも、いじめられていた時の苦しみは誰とも共有できないし、なくならない。
自分で背負っていくしかないんだ。 誰を倒したところで、自分の痛みはなくならない。
そのことが認められないんだろうか。
多分この人は一生そうやって他人を攻め続けることで自分も苛み続けるんだろう。
「差別こそがすべて」という殻をまとっていなければ「2」が忍び込む恐怖に耐えられないのだろう。
どれだけ理屈を並べようとその「過剰反応」ぶりはもう理屈を超えている。
でも、それはもうしょうがないんだ。
変に理性の仮面をかぶらず、つらいって叫んだほうがいいんじゃないのか?
多分本当はいじめに合理的な理由なんてない。
いや、つきつめればバタフライエフェクト程度の理由はあるのかもしれないが、
個人が納得できる理由を与えられることはほとんど期待できない。
今も意味なく戦争や内乱で人が殺されているという事実を考えるまでもなく、頭では分かっている。
なんとなく発生してしまうんだ。そして私は「たまたま運が悪かった」。
事実がそうでなかっとしても、それが認められれば、自分は救われるんだと思う。
少なくとも「いじめられたことのないやつ」「いじめられる気持ちをわからないやつ」を許せると思う。
もしかしたら「いじめた奴」も、あいつらだって一歩間違えれば被害者だったかもしれないと考えることで
許せはしないまでもどうでもいいやつくらいにはできるかもしれない。
私はそれを求めながら果たせずにいるから、
最初から救いをあきらめて戦い続けることを選んでる人を見ると
嫉妬とかあきれた気分で不快感を感じるのだと思う。
でも、それをやめろと、私の口からはとても言えない。
私が願うのは、この人が自分の信念のあまり他人を傷つけることがないように、ということだけだ。
いつかこの人にも平安な心が訪れるといいなと思う。
まずはコレを見てほしい。
http://gyao.yahoo.co.jp/userreview/00603/v07421/
本日、たまたまYahooの宣伝にあったGyaoのリンクをたどったときに、たまたま見つけたドラマなんだけど、とにかくユーザーレビューが酷い。
何が酷いってもう、ドラマのことなんかそっちのけで、Yahoo版Gyaoのことをけっちょんけちょんにけなしているんだからヒドイw
三行で説明すると、
2.天下のYahooと組んだらどうなるんだ、と期待ふくらみ株急騰
3.GyaoがYahoo傘下になったとたん、画面最大化できず字幕みえない、バッファが足りず停まる、商売っ気出しすぎてうんざり(←今ココ
といった感じ。
今ココといったものの、これ2009年9月時点でのお話なんだけどね^^;
もうこんだけ酷いレビューがあがるくらいだから、合併後は惨憺たる結果を示しているのかと思いきや、以下の記事。
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20091027_324569.html
「Yahoo! 動画と統合した「GyaO!」の利用者数がニコニコ動画を上回る」と、
さも誇らしげに語る記事が散見された。はて、これはまた異なこと。
そこでいろいろ調べているうちに以下の記事を発見。
http://japan.internet.com/wmnews/20091027/3.html
先ほどと同じグラフでYahoo版Gyaoの躍進を伝えているが、こちらはもうひとつ突っ込んだ内容を入れている。
1人あたりの利用時間と利用者層だ。
Youtubeとニコニコ動画が1時間半を超える長い利用時間であるのに対し、Gyaoはたったの20分しかない。…20分!?
ためしにこの利用時間を利用者数で掛け算してみよう。
Gyao!→238,060
ニコニコ動画→784,686
Youtube→2,292,960
(単位:千分)
なんと、国内2位だったはずのGyao様がYoutubeに10倍近い大差で負けてしまうではないか。
「勝った勝った!」とはしゃいでいたニコ動にすら3倍の大差で負けている…
総視聴時間を比べたところでさほど意味がないようにも思えるけど、
それでも平均視聴時間が20分ってちょっとおかしくはないか…??
当時、最長10分までしか投稿できなかったYoutubeが1時間半超えしているのに、
そんなことはありえないだろう。
考えられる結論は一つではないか?
つまりGyaoを訪れるユーザーのほとんどは、たまたま(今回のボクのように)Yahooのトップに載っていた宣伝につかまってGyaoを訪問するが、
多くの人が(今回のボクのように)動画を1本も観ることなくサイトを離れてしまっている…と。
上記のjapan.internet.comの記事は、暗にそのことを伝えたかったのではないか?
結局ニコ動を抜いただの国内2位だのはまやかしで、フタをあけてみると、
「超強力なPVを持つYahooさんのおかげでGyaoにも人が流れてくるようになったけど、
商魂逞しすぎで使い勝手の悪いYahoo仕様だから誰も観てくれないよぅ!」
といったところかもしれない。
統合スタートから1年も経ってから混ぜっ返すのもアレなんだけれど、
Gyaoって、ホントにみんな見てるのかな??
(追記)
そういえば、合併の記事で利用者数がついに1000万超え!みたいな書き方があったけど、
2007年2月時点で、Gyao単体で1300万人の視聴者がいたみたいよ?
http://www.venture.nict.go.jp/ezp/index.php/venture/node_2672/node_2755/node_11414/node_11415
まぁ、「視聴者」であって「利用者」ではないので、イコールではないと思うのだけど…
ちなみに2007年2月以降のGyao視聴者推移は、ボクには見つけられなかった…
さらに、実はGyaoとほぼ同じ成長曲線を描いていたYoutubeの存在を発見。
http://www.atmarkit.co.jp/news/200703/22/youtube.html
Youtubeはこれから2年半で利用者数を倍の2千万人に増やし、
Gyaoは半数以下の5千万人に減らした、ということだろうか。
2007年2月が、Gyao人生最大のモテ期だったのかもしれない。
(追記2)
2009年4月、つまりYahooとGyaoの統合が発表された直後に興味深い記事を発見した。
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2009/04/23/23251.html
さきほど単純計算で試算した総視聴時間が、思いのほか二アリーな数値であったことがわかる。
Gyao時代は30分はあったのね。でも30分か…アニメ1本分だなぁ。
1本が長いと連続視聴が疲れるので、結局、総視聴時間が減るということなのかな。
しかしYahoo動画の総視聴時間はヘタレ度合いが半端ないwww8分未満とか何なのwwwww
(追記3)
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20060418/235583/
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20060418/235603/?ST=network
そこはかとなくだけど、バブリーな香りが漂ってきはしないだろうか…w
金のにおいを嗅ぎつけたTV崩れのハイエナどもがGyaoを食い潰した、
そんな視点もあるみたいだね。
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=3843
(追記4)
掘れば掘るほど興味深い記事がいっぱい出てきて困る。
誰か綺麗にまとめられるエライ人いないかなぁ。
http://retujyou.com/2007/08/14/usen-livedoor/
後で一杯使うから覚えておかなきゃいけない、ちょっとの事だけが固まってる。
すごくウンザリするかもしれない。でもウンザリ思うのも、ちょっと脳がだらけさせようとしているだけなんだ。
そういうときは指先を動かすとイイよ。少し気持ちが紛れて、冷静さを取り戻す。
少し冷静になったら、ちょっとだけやる気をだす。30分なんて言わない。10分でいい。
10分だけ集中してやってみよう。そうすると少しだけエンジンがかかる。ここで掛からなかったらカフェオレでも飲んで別の事を考えればいい。
少しだけエンジンがかかったんならもう10分頑張る。更にまだうんざりするのも残ってるけど、さっきよりもやる気があれば更に10分。合計30分。
あとは続けられるだけ。勉強範囲全部なんて最初からハードルあげるな。興味を満たす所だけでいいんだ。
その分野を、読んだら楽しいと思えるようになるくらい、読めばいい。それだけでイイ。
ただし、一杯続けなさい。毎日が辛かったら二日にいっぺんでも三日にいっぺんでもいい。その内毎日が大切になってくる。
毎日続けるとそれは実力になる。
そうしないと、そのテスト中の150分、あなたは人生を無駄にしてる事になるんだから。
だから、資格とか、合格とか、そういう凄く先の結果は横に置いておいて
その150分をいかす為に、貴方自身を磨きなさい。
でもそれってどっちも好きにやってくれという以上の訴求力がない
そもそも論点がおかしいんだから、訴求力があるわけが無い。
若さを保つために水銀飲んで中毒死とか、痩せるために麻薬やって中毒死とかは
単純に事件で片付けられるんだから、批判なんぞ起こらんだろ。
今回の件で言うと、ホメオパシー治療の結果、死亡したという例はホメオパシー関連の事件で数%も無いよ。
ほとんどが、ホメオパシー治療のみを行い、近代医療を放棄した結果、死亡している。
ホメオパシーや代替医療と呼ばれるものの殆どがまだ効果の測定法が確立されていない物であって、
その治療法に問題があるとは言い切れないから、ホメオパシー治療自体を批判している奴はそもそも論点がずれてるんよ。
「(信者の子供などの)犠牲者がいるから」医療を標榜するまやかしは絶対に批判されるべきである ー というのはよく分かる話。でもそれってどっちも好きにやってくれという以上の訴求力がないんだよな。
馬鹿馬鹿しいことを信じて命を落とすとか、そういう者に殺されるとかは交通事故のようなよくある悲劇にしか思えない。
そういうと「自分の家族が殺されてもそういえるか?」って返されることがあるけど、それをいう権利があるのは家族が殺されたことがある者だけ。そんな他人には理解できない巨大な痛みを抱えて「日常」を生きる他人に語りかける、っていうのも類型的なひとつの悲劇。そういう悲劇は心配しなくても十分共有されていて、だからこそある種の「正しさ」ってのが滑稽に思えて仕方がないということがあるような。
自己責任から逃れる行為が甘えだと言われているが、自己責任論こそが甘えだ。
そもそも自己責任とは、ある人間が完璧に自分の状況を把握しどうなるかを理解しているからこそ成り立つ。
また、責任を負わされる各人が平等な環境の下で育てられていることを前提とする。
しかし現在の社会においてそのどちらの状況も存在していないし、あり得ない。
まず自分の状況を完璧に把握することなどそもそも不可能だし、それを行った場合どうなるかは推測するしかない。これが出来るのは神だけである。
さらに、全員が平等な環境で育つと言うのも難しい。生まれてくる子供は親を選べないし、親が全員同じアイデンティティや教育方針を持っていることなどありえない。さらに、個々人がバラバラな環境でバラバラな生き方をしているから多様性が保たれているのであって、これをなくせば社会はうまく動かなくなってしまう。
このような絶対に達成することが不可能な条件があるにも関わらず、それを全て無視して自己責任論を展開する輩は、社会に対して無責任なスタンスを取り続けている。つまり、甘えていることに他ならない。
自己責任論を唱える人間の中に、自分の人生は常に自己責任で生きてきたと豪語する輩がいる。彼らは概ね自信に満ちており、どんなことがあっても自己責任で乗り越えてきたという。
しかし、彼らは単なる奴隷だ。資本主義という主人に飼いならされた奴隷に過ぎない。いわば、「俺はこんなに痛めつけられながら、ご主人様に気に入られようと努力してきたんだ!」と胸を張っているだけである。実に滑稽。
そういう人間、つまり自分の経験だけを頼りに生きてきた人間というのは、非常に視野が狭い。そのくせ自信だけはやたらとあるので社会においては発言力が大きくなる。人は自信のある人間の言葉を聞くと迎合しやすいという特徴を持っている。彼らが「自己責任!」と叫ぶだけで、即座に「納得」してしまうのである。
自己責任論は権力者には実に都合がいい。彼らのために一生懸命働いてくれる人間が多ければ多いほど、コストをかけずに国家を運営出来る。もちろん、裏で悪いことも出来る。
http://anond.hatelabo.jp/20091129092302
続き:
彼らは平気で人を裏切る。自分たちの手に負えなくて放り出したはずなのに、いつの間にやら自分で作った事にして、それで商売始めてたり。
とはいえども手に負えないのは相変わらずなので細かい調整もできず、そのまま売るのが精いっぱい。どっかの大陸の国みたいだ。
田舎の人間の純朴さなんてまやかしだ。いや、純朴は純朴かもしれないが、素朴というよりも精神的に幼稚なのだ。
表面上はやれ寄り合いだなんだで、都会には無い隣近所の連帯感がどうのなんてやってはいるが、結局のところ裏じゃ足の引っ張り合いと悪口雑言の嵐。あげくには潰しあいに発展することもしょっちゅう。地域の連帯なんて聞いてあきれる。
日本社会から早く消え去ってほしいものだが、このまま衰退が続いてもしぶとく生き残るのだろうか。で結局箸にも棒にもひっかからない人間ばかりになってしまい、限界集落とか何とか騒ぎ出してよその人間を引きずりこもうとする。引きずり込んだって自分らよりハイスペックな人しか来ないのだから、しばらくすると放り出すのがオチ。自滅するしかないのにあほかと。
死に対する答えが見つからないままに人は生きていく。
人はいずれ死ぬ。
小学生でも理解していることに対して、誰一人答えが見つからないままに人はなんとなく生きていく。
どんだけ金持ってようがモテようが頭よかろうがオリンピックで金メダルとろうが、答えを見つけることは無い。
死に対する答え等見つかるはずも無い。何故なら、終わりを理解するということは、経過を不必要とすることだからだ。経過とはもちろん、生きている今のことである。
死を装飾するものとして生の彩りがある。人はそれを充実の人生というまやかしの言葉でなぞらえる。
そしてその彩りに、人はこだわる。こだわった結果が、あくまで死に対する答えであるかのように、執拗に人は生の内にある彩りにこだわる。
しかしそんなものに全く持って意味がない。死に対する答えが見つからないのだから。