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2017-03-07

ガンダムUCのロニ(シャンブロパイロット)

こいつってララァやフォウポジションキャラだったんだな。言われてみれば褐色ララァだし、髪型はロザミアまんまだ。

けどバナージとは一言二言会話した程度、それで「撃てません!」とか言われてもうーん…としか思わんわ。しか悲劇ニュータイプってポジションマリーダさんと被ってる。

尺の都合で大幅に設定改変、ガンプラを売るための戦争博物館の方が好評なんて悲しいね

2016-12-31

高校教師31歳。教科は化学生物博士持ち。

2016/12/30に高校同級生3人と飲んできた。

前日の飲み会に比べて疲れたな。って感じたのは自宅で大学同級生と飲んだのと違って,

名古屋までJR使って足を延ばしたからかな。なんて考えながら帰ってきて,

夜中に酒による吐き気で起きた時に,気づいてしまたから書き残しておく。

高校同級生と合うのはたぶん5年ぶり。31歳。結構あっていなかった。

高校時代,とても仲が良かったし,5年前までは毎年のようにあっていたので自分でも今年誘われたとき

なんで5年も空いたのだろうか。と不思議だった。

メンバー医師,某ビール会社の開発(肩書き付),トヨタ完全子会社のなんか出世約束されたとこ。

世間的にみたらいわゆる受験戦争勝ち組医者以外は国立大(院)卒。

給料手取りで1千万とか,ちょっと足りないぐらいだとか言ってた。

今年は4,5回海外旅行いって,元旦からカンボジア旅行に行ってくる。とか,

結婚するから名古屋の高級住宅地に新しく家を借りた。とか,

新しい車を2回ほど買い換えた。とか,今の日本の景気状況と比べたら別世界のような話をしていた。

別にそれはいい。友達成功話,とても良い事。

でもなんか違和感があった。

アンコールワットには7年前に自分もいった。

石に刻まれ絵画歴史モチーフ。その壮大さに腰が抜けるかと思った。

シャムリアップの人々の生活は豊かではなかったが,良く笑っていた。

市場の人たちは観光地にも関わらず,

だまして売りつけるという空気感は無く,ラオスに通じるおおらかさを見た。

ベトナムホーチミン戦争博物館。すさまじい印象だった。

展示物を見た後に飯がのどを通らず,

うざい声かけしてくるおっさんタクシードライバーも,この戦争を乗り越えたんだと思ったら,

涙がでるかと思うぐらい,愛おしかった。

でも,そんな話は昨日の飲み会では通じなかった。

教科書に載ってた場所には一回行っておきたい。と彼は言った。

自分が行った時の話をさえぎり,俺もその場所旅行したことある。で,どこのホテルに泊まったの。と別の彼は言った。

でも,家のマットレスを40万の良いものに変えたらどこの高級ホテルでも寝られない。といって話は違うところへいった。

どこに行ったのか。何を食べたのか。どこに泊まったのか。そのホテルの格は何か。どんな女を買ったのか。

いくらつかったのか。

どんな贅沢をしたのか。

すべての話は結局そこに落ち着いた。

結婚式を挙げるホテルマリオット,ヒルトンウェスティン。どこが良いかな。

共働き夫婦から夕飯にいつも困って,こんな高いものを食べたよ。

かい4Kテレビを買って,見るものいかyoutubeスロット解説動画をみてるよ。

どうでも良いことで悩んでいるんだな。と思って聞いていた。

でも,さっき気づいた。この話はすべて品評会だったんだと。

俺は他の男と違ってこんな金のかけかたができる。

こんなにも裕福になった。贅沢ができる。で,お前はどうなの?そう聞かれていた。

できない嫉妬なのだろうか。いや,絶対に違う。それぞれはしたければできない贅沢ではない。全部は無理だけど。

彼らは自慢による他人比べでしか自分場所を測れないんだ。

自分を羨ましがってもらって,自分のしてきたことは正しいことなんだ。

自分経験値は間違っていないんだと正当化して欲しいだけなんだ。

そこに気づいたとき違和感があった。

東大で過ごした博士課程の3年間。とうぜん周りの人間東大生ばかり。

受験戦争結果論でいえば,昨日の同級生よりも勝ち組

でも博士課程に進学するだけあって,あまり,分かり易い欲が見えなかった。

でも,こんな経験がしたい。これが見たい。これが食べたい。これが知りたい。

そんな純粋自分欲求をみたすために,全員のベクトルは異なっていたが,貪欲だった。全力だった。

いわゆるマッドサイエンティスト的な雰囲気がそこにはあった。最高だった。

ベクトル自分と違うから見えにくいだけで,そこには確実に,なるべき自分をそれぞれに持っていた。

高校大学時代勉強しておいてよかった。と昨日の彼らは言っていた。

いや違う。君らは何も先人たちの英知を学べてはいない。

ただ,学歴を勝ち取って,そこを卒業し,資格を取り,お金という対価を比較的短い時間と交換できるようになっただけだ。

今,自分が何をしたくて,どう行動して,世界にとって必要ものは何か。何も考えていない。

君たちの言う学問とは何か。世間でいう勝ち組世間でいう高学歴とは,この人たちなのだろうか。

神を畏れることは知恵のはじめ。無知ものは知恵をも諭しをも侮る。

現勤務校にも,卒業高校にも,たまたまキリスト教高校なので,この一句が飾ってある。

勤務校ははっきり言えば底辺校教育困難校卒業高校はまぁまぁの進学校

勤務校における,卒業高校の評判は良くない。

それは進学に力をいれるばかりに,キリスト教教育を怠っているからだと宗教主任は語っていた。

それを聞いたとき,あぁ,そうですか。でもそれは勤務校の生徒がアホだからでしょ。って思ってた。

でもこの評判は,正しいのではないだろうか。

自分キリスト教徒でもない。若い時には宗教アレルギーも強かった。

はいえ,聖書に書いてある諭しや教えの多くも,学問を通じて,経験を通じて,失敗を通じて気づけていた。

から受験で使わない聖書の授業は,宗教の授業は,勤務校の生徒がアホだから「教えてあげなければならず」,

アホじゃなければ「自分で身に着けられる」と勝手に信じていた。自分で作った宗教にはまっていた。

でも恐らく違うんだと気づかされた。

昨日の3人はおそらく,知恵をも諭しをも侮る,無知もの。だと思う。勉強仕事もできるはずなのに。

さな自分価値観を,他人に羨んでもらうことでしか確認できないようになったのはいなのだろうか。

受験戦争が彼らをそうさせてしまったのだろうか。

卒業後の会社が,社会が,そうさせてしまったのだろうか。

たぶん違う。自分若い時,あっち側に近かった。

学部生の時に友人に「お前は資本主義権化だ」と言われた。その時は全く理解できなかった。

だって何か特別なこともしてないし,ものを買った覚えもなかったから。

仲が良かったということは,すくなくとも高校時代あのころは彼らも同じ価値観だったはずだ。

でも昨日の彼らは,いや,昨日の彼らも,資本主義権化だった。見ていて・聞いていて辛かった。

自分若いうちに言ってくれる友人ができて,師に会えて,幸せだったわけだ。

その後,学問の道にすすみ,お金はなかったし,挫折もしたけれど,

自分のやりたいことだけ,やりたい場所で,時間をつかえて自分を見直せてよかった。

大学で何を学んだのか。の差だと思う。教育はすごいと確信した。

ちゃんと書いておく,自分別にそんなにできた人間ではない。

5年間会っていなかった理由をこの文章を書きながら思い出してきた。

2011年に会ったとき東京計画停電自粛ムードどんよりしていた。

そんな中,居酒屋で彼は,原発は動かすべきだ。と言っていた。

でも原発はもう一度壊れるかもしれない。そこには自然があり,生き物がすんでいる。

自分は,人間だけの都合でその環境再生不可能な形に改変してはいけないと強く言っていた。

彼はそんな理由経済の再構築に劣ると言ったと記憶している。

あの時,少しの呆れと絶望を感じたので,昨日まで会っていなかったのだろう。

昨日の飲み会で生じた感情もおそらく同じだろう。自分にとって残念であった。

学ぶ時間は大切だと痛感した。彼らは良い師に巡り合えなかったのだろう。

良き友人らと朝まで色々な価値観のもと,議論できなかったのだろう。

ただ,もちろん,彼らの価値観が間違っているわけでは無いと思う。自分と相いれないだけ。

でも,仲の良かった友人たちが忌み嫌う価値観のど真ん中にいたことは自分にとって残念でならない。

人間は,もっと自然から歴史から,周りの人間から学んでいくべきであるし,そのために高等教育があるはず。

受験戦争に勝つことも,高いお給料をもらうことも,もちろん大切なことの一つであるが,それだけではない。

学問とは,大学とは,高校とは,教育のすべては本来そうあるはずだし,そうあるべきであろう。

良い就職先を探すため,資格を取るため。では絶対にない。

君らの心は貧しい。と言ってあげるべきだっただろうか。たぶん笑わるし,理解されない。

飲み会の席で今の感情に気づいていれば,あの時の自分は言っていたのだろうか。

30超えたおっさん説教しても変わらないのでしなかったと信じている。

熱く語って恥ずかしくなってもっと早く帰っていたかもしれない。たぶん,そうだっただろう。

なんだか教師としての道が見つかった気がする。

昨日までは教科教育に精一杯だったが,なんだかやりたいことが見つかった。

俺は東大出会った先輩,友人,後輩らを作りたい。

あの空間自分の生徒を送り込んでやりたい。一人でも多くの若者自分価値観の狭さを実感して欲しい。

別に東大じゃなくてもその空間はあるかもしれないが,自分があの空間経験したのが東大から仕方がない。

少なくとも一昨日まではその空間が維持されていると聞いているし。

それは私自身が生きやす世界のために必要手段であるあくまでも自分のため。

もうすぐ息子が起きてくる。

彼はどんな世界大人になるのだろうか。

2009-09-09

ウラジオストック、ナホトカ紀行(その3)

人民元建て「中国ソブレン債券」を発行

 オフショアで60億元を調達し、ハードカレンシー化への第一歩

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英紙フィナンシャルタイムズ9月9日)速報に拠れば、中国オフショア市場で初めての人民元建て国債を発行する。

香港オフショア市場を利用して総額60億元を世界投資家から調達、発行は9月28日。ただし利率、償還期間の詳細は不明。

これは中国通貨戦略の具体的発動で、自国通貨ハードカレンシー化への第一歩であり、注目される。

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ウラジオストック、ナホトカ紀行(その3)

ロシア北朝鮮中国国境では何が始まっているのか?

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(承前)

ウラジオストックの中央広場にあるフェリー乗り場からおんぼろフェリールースキー島へ上陸して驚いた。

道路ぬかるみ、舗装は溶けて泥道、大雨のあとの水たまりの悪路を日本製ランドクルーザーが進むが、生い茂った森林の伐採作業場ばかりが続き、激しい凸凹道に車酔いを感じながら一時間後、ようやくイベント会場となる現場に到着した。

普請の騒音が高い。

現場日本製クレーンが林立している。ブルドーザ、シャベルカーも殆どが日本製だ。そうか、日本抜きにして開発は成り立たないんだ。

建設現場の横に長い看板、「2012年APECサミット会場」(ロシア語)がなければ何の工事かよく分からない。俄かづくりの観が否めない。アゼルバイジャンなどからの流れ者労働者が混在している理由も分かる。

建材や鉄骨が臨時の波止場に積み上げられ、労働者が居住するプレハブマンションが周囲に建っている。「でも冬は零下二十度になるというのに、あんな住宅大丈夫か」と問うと「真冬は工事が中断」という答えが返ってきた。会場になるコンベンションホール外国代表の宿泊予定のホテルも、まだ影も形もない。

ふたたび鋼鉄が錆びてぼろぼろのフェリーウラジオストックへ戻る。80歳を越えた老女がスターリン勲章を沢山つけて誇らしげに入ってきたので、意地悪な質問。大祖国戦争って何ですか。

ビルが林立して壮観だった

さて船から市内を眺めやるとウラジオストックは意外にも高層ビルが林立して壮観である。港には軍艦が三隻、写真を撮っても誰も咎めなかった。

瀟洒なレストラン豊饒なメニューの昼飯のあと、名物の「潜水艦C56博物館」を見学した。戦争博物館を兼ねる。

展示内容が「大祖国戦争」と「第二次世界大戦」ばかりでソ連軍満州侵略に触れていないのはロシア歴史観だから仕方がないにせよ、「日露戦争」の記述があまりにも少ない。ガイドに理由を問うと「あれ(日露戦争)は『小さな戦争』ですから」と答えたのには驚いた。

翌日、立派な高速道路を飛ばしてナホトカへ行く。

ナホトカは狭い町で展望台に登ると港湾全体が見下ろせる。

港は撮影禁止と聞いていたが、軍事施設もなく、石炭のバージ船が沖合待ちをしている程度、かつて日本のバック・パッカーの出発点だったシベリア鉄道の始発駅は閑散としていた。

ナホトカで一番大きなホテル中国資本の遠東大飯店(ユンドァン)という。わざわざ見学に行ってみたが、ほぼガランドウに近く、対岸側にあるチャイナ・タウンの長い長い商店街も人が殆どいない。門前の四階建てのホテル中華風のつくりだが、そもそも中国人客の姿がない。

チャイナタウンは火が消えていた

中華門の傍で焼き鳥を焼いている中年男に「中国人か?」と訊くと「そうだ」。

「商売はどう?」、「うぅん最悪に近いな」。「中国人を殆ど見かけないが?」、「そうさ、北朝鮮キルギスウズベキスタン、そしてアゼルバイジャンからの安い労働力に奪われ、殆どの中国人は帰ったよ」と言う。

われわれ四人組が泊まったのはナホトカで高級な、ガイドブックにも出ているピラミッドホテル。だが、これとて民宿に近い。地下のレストランは客も疎らで、ウラジオストックの繁栄ぶりに比べると天地の開きがある(ただし味は旨かった)。

ナホトカの町を歩いている女性のセンスも田舎風で流行遅れ所得格差が歴然としており市内唯一のデパート「グム」を見学して品数の貧弱さに唖然とする。書店絵本小説くらいしかない。村上春樹翻訳? ナホトカでは見かけなかった。

2006年に524人の遺骨が収容され、慰霊祭も行ったというナホトカの日本人墓地は台座が毀され荒れ果てていた。

慰霊祭から僅か三年後、お墓だった場所は草ぼうぼう、日本人墓地標識落書き、おそらく大理石だった台座がインテリアの飾りにでも使うのだろう、殆ど盗まれて、まるでハゲタカの被害にあったような荒廃ぶりである。

ウラジオストックにあったお墓のほうが立派で、墓園の入り口には花屋もあったのに。

ホテルの裏にこれ見よがしにあった日ロ友好の壁が虚しい気がした。

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 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 

     平成21年(2009年)9月9日水曜日)貳

        通巻第2703号 

 
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