2011-04-26

「式」をやらない人の面倒臭さ

世の中には「社交」というものがあって、知り合いの人生になんらかのイベントが起きたとすると、それなりの交流が発生することになる。たとえば結婚とか誕生とか病気とか死とか。特に多数の人が関わることになる最初最後の奴については、その「社交」にかかるコストの効率化を図ることが重要になる。


職場で誰かが入院したとして、全員が個々に「お見舞い」に行ったら、こちらも大変だし先方も迷惑だ。ロスが膨大すぎる。だから誰かが代表して「お見舞い」に行くことで、コストの低減を図ることになる。一番親しい仕事上密接に関係あるメンバーとか、あるいは輪番制の単なる名目の代表が、「全員の適切な距離感に基づく見舞いの意」を表明しに行く。これをしとかないと、その人が復帰してきたときとか、ちょっと微妙空気になってしまう。「あいつは見舞いに来たけど、あいつはこなかった…」とか、そういう空気になると困る。だから、大抵そういう「適切な距離感で多数の人が気持ちを表明する機会をつくる」というやり方をすることになっている。

つまり、「式」というのはそういうもんで、これを省かれると、『多数の(微妙距離感の)人』にとって大変面倒なのである。適切な距離感で祝意なり弔意なりを表明する機会が与えられないと、『社会』が困るんである。当人とか家族とか近しい人ではなく、『社会』が効率化を求めた結果として「式」は存在するのである。個人による心からの祝意とか弔意とかと「式」とは、本来無縁のもので、そういうのは別な機会に表明することになるだろう。『社会』による結婚や死の承認の場として「式」は存在する。従って、自分が『社会』に所属しているとき、また『社会』と深く関わる生活をする結婚親族の死を抱えた当人にとって、「式」は必要不可欠で便利なものであることは自明である。同じ理由で、「近しい知人」あたりには、「式」というもののメリットがさっぱり見えてこないのも、また自明であろう。しかしだからといって、「自分は式をしないでおこう」と考えるのは、やめてもらいたい。それは、そういう人の気づかないところで随分迷惑なことだからである

http://anond.hatelabo.jp/20110423105428

記事への反応 -
  • ここ5年ほどで、10人くらい知人をなくしている。 たぶん無宗教なのかだからと思うんだけど、葬式というのが理解出来ない。 結婚式はわかる。 これからの旅立ちを祝うのは意味がある...

    • 世の中には「社交」というものがあって、知り合いの人生になんらかのイベントが起きたとすると、それなりの交流が発生することになる。たとえば結婚とか誕生とか病気とか死とか。...

      • 当人以外の周囲の者を「社会」っていう風に置き換えて、 より重視すべきようなことにしているけれど、世間論的で嫌だな、そういうの。 周囲の者が、面倒臭く思わなければいいだけ。...

      • 一番親しいか仕事上密接に関係あるメンバーとか、あるいは輪番制の単なる名目の代表が、「全員の適切な距離感に基づく見舞いの意」を表明しに行く。これをしとかないと、その人が...

    • 死んだ人のためにやるものじゃないよ 残された人たちが死を受け入れるための儀式

      • 葬儀なんかしたって受け入れられないときは受け入れられないし、しなくたって受け入れられるときは受け入れられると思うんだけど。 いちばんケアされるべき遺族は故人の関係者への...

        • それでも今の葬式はずいぶん簡便になっている。 昔は葬式っていったら、隣近所が総出であれやこれやとやるもんだったのよ。 それを通じて、いろんな人が死を確認したんだね。 今だ...

        • いちばんケアされるべき遺族は故人の関係者への連絡と、葬儀の段取りで大忙しじゃん。 忙しいのは遺族のケアになるんだよ。 忙しいと悲しみを忘れられるんだ。 一番悲しみが強い...

    • わざわざ知人の葬儀に出るなんて凄いじゃん!(社交辞令かどうかは置いといて 課税をしちゃうと宗教団体が潰れそうなとき国が助けなくちゃいけないからやってないって聞いたこと...

    • 通夜、葬儀、告別式とバタバタ大忙しだし 悲しみは時間が癒してくれる。 とりあえず49日までは忙しいからそれまでの間は悲しんでる時間がない→それで時間が稼げる 3週間もあれば...

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