はてなキーワード: 障碍者とは
ここだぜ。ここが重要だ。
相撲は相手を土俵の土につければ勝ちだ。その為には太ったり付き人をビール瓶で殴ったりなど手段を選ぶ必要はない。
相撲チャンピオンは通常横綱と呼ばれるが、横綱と呼ばれるためには別に痛みに耐えてよく頑張る必要はない。
痛みに耐えてよく頑張って褒められたとしてもそれは横綱になれる必須条件ではない。
そのスポーツにはそのスポーツのルールがあるんだ。障碍者だったりすればハンデをもらえることはあるかもしれない。
だけれども最終的に得られるスコアは頑張ったね! って声ではなく優勝旗だったりのはずだろ。
そこを認識ずらして「けがしても頑張ったから誉めて!」って言うのは、自身でそのスポーツに敗北しましたと言っていることと同じだろうということを言っているのだ。
今、ルール上オスカー・ピストリウスが通常の五輪に参加する資格があるのかは分からん。言ってみれば物理ドーピングしている訳だから。
だが、本来目指すべきは障碍者であってもそうでない人であっても同じステージで公平に争えることだろう。
誉められたって伸びるのは鼻の下だけだぞ?
今日…じゃなくて昨日放送された R-1グランプリ で、視覚障害を持つ濱田佑太郎さんが優勝していた。
最近、ウーマンラッシュアワーの村本さんのネタなどに代表されるように、お笑いに対して今までとは違った観点からアプローチをする例が増えており、このような「新しい笑い」(とはいっても欧米などでは政治を風刺するコメディはこれまでにも頻繁に行われてきたが)について考えさせられることが多くなった。
今回のR-1グランプリについて、Twitterを見ていると、大多数の人が視覚障害ネタに肯定的であるように思えるし、僕も感覚的には肯定派である。
しかし、これも感覚的ではあるが、本当に肯定していいのだろうかという気にもなる。
なぜそんな気になるんだろう、そこを知りたい。
僕はきっと、障害者を特異な目で見ている。街中で白杖を使って歩く人を見ると、ついその人に気が向いてしまう。(僕がその障碍者に対して)他の人と同じようにはどうも見えないらしいのだ。僕はもし、障害者を差別していますか?と突然訊かれたら、まったくその気はありません、と答えるに違いないのに、障害を持つ人を注視する。ほとんど自然に、障害者を何かしら特別視している、きっとそうなのだ。だからかもしれない。視覚障害をネタにするのを、肯定しつつも何か違和感を感じるのは。
濱田佑太郎さん自身は、おそらく、他のいわゆる普通の芸人さんと同じようにみてほしい、他のネタと同じように笑ってほしいと思っているのだろう。これは、人々の障碍者に対する差別だとか配慮の足りなさだとか、そういうものに通じると思う。
引き続き、元増田です。
ただそういう人たちのことは置いておいて、今回の件は反対する側も強引だったように思います。
たまに障碍者が何かしてもらったときの態度が横柄だと叩かれることがありますが、人の助けを通常より多く受けなければならない境遇にある人間は、常にこうべを垂れて生活しなければならないのかということが問題になります。
その言い方に敢えて乗るなら、「常にこうべを垂れて生活しなければならない」のであります。
むしろ「こうべを垂れる」程度で守られるというのは恵まれたポジション。大半のひとは「こうべを垂れ」ても守られやしない。
現状、女性が守られるべきでない理由はこれとはちょっと違うと思っていて、
女性が女性側の分業を放棄したうえで「守られる」のはフリーライド以外の何物でもなく、であるならば「こうべを垂れる」しかないのでは?
確かに社会的にはもうそろそろ庇護は要らなくなってきた女性に対して、腕力の面では、腕力のある男性と比べて庇護対象である場合が多いという理屈は、
何回か書いているが、男性に対して望んだわけでもない「腕力」を持ち出すのは、「暴力」であります。
例えるならそれは、子供を産めることを特権だと主張する様なもの。
現代社会では基本的に使い道のない、女性に向けて振るわない「腕力」を持ち出して「守れ」と迫るのは男性への「暴力」。
どっちもどっちなのですが、そこで男性はずっと女性を庇護してきたんだぞというマッチョイズムで押し切るのはもうかなりの時代錯誤であるし、
差別という言葉もちゃんとした定義がなされていないまま宙ぶらりん、
女性はフェミニズムという既得権を守ろうと必死な割に、「女性は全て弱いもので、必ず守られるべき」という大昔のジェンダー観を後生大事に持ち歩く。
ここも一緒くたにするには無理があると思っている。
男性が「女性を庇護してきたんだぞというマッチョイズムで押し切る」ことは一応の筋は通せる。これからも女性を守る前提ではあるが、「大昔のジェンダー観」という規範に基づく。
こういう主張の男性が、「女性は守らない」と主張すると途端に筋は通らなくなるが。その場合は当然、非難されるべき。
しかし、女性が「フェミニズムという既得権」によって得たのは「大昔のジェンダー観」とトレードオフなので、まったく筋が通っていない。
「女性は全て弱いもので、必ず守られるべき」という価値観を放棄するのはフェミニズムである以上、フェミニズムで得られたものを持ったまま「守られるべき存在」にはなりえない。
まあ確かに、ここで口汚く罵る女性の姿も決して褒められたものではありません。
女性も男性も、こういうのが無駄なヘイトを生むのだろうなと苦々しく思います。
ただそういう人たちのことは置いておいて、今回の件は反対する側も強引だったように思います。
たまに障碍者が何かしてもらったときの態度が横柄だと叩かれることがありますが、人の助けを通常より多く受けなければならない境遇にある人間は、常にこうべを垂れて生活しなければならないのかということが問題になります。
確かに社会的にはもうそろそろ庇護は要らなくなってきた女性に対して、腕力の面では、腕力のある男性と比べて庇護対象である場合が多いという理屈は、普段から女性に対してよい印象がない男性にとっては、飲み込むのにちょっと抵抗があるだろうなということは、想像に難くない。
どっちもどっちなのですが、そこで男性はずっと女性を庇護してきたんだぞというマッチョイズムで押し切るのはもうかなりの時代錯誤であるし、差別という言葉もちゃんとした定義がなされていないまま宙ぶらりん、女性はフェミニズムという既得権を守ろうと必死な割に、「女性は全て弱いもので、必ず守られるべき」という大昔のジェンダー観を後生大事に持ち歩く。
だから女性専用車両の話もそれらをごちゃ混ぜにして拗れまくっているのでしょう。