はてなキーワード: 知能犯とは
批判する人たちには、たぶん何かの理由がある。
1。何か間違っている点がある場合
これに該当するのは、論理的に間違っている点を記載している場合。
2。鬱憤晴らし
相手を見下す言葉やレトリックが使われ、そこには論理性が欠けている事も多い。
普段、見下された生活を送っている者、または見下されて育ってきた経緯がある者も少なくない。
3。正義の味方のつもり
やたら正義感だけが強すぎて、正しくない・悪と思ったものに対して我慢していられず、感情的になり否定の言葉を連ねる。
感情が先走りして理由不明で批判する事もある。前述の鬱憤晴らしと近いところはあるが、本人は善意のつもりでいるところが相違点。
何が悪で何が善なの、と突っ込みを入れることで冷静になることもある。
また、後述の誘導型批判論者の神輿担ぎになる事も多い。
4。何らかの意見へ誘導する誘導型批判
反対論者がよく使う手段。反対論者ではなくとも、己の主張に有利に働くよう使う場合もあり。
分かり易いように対立意見を述べる場合もあれば、一見しただけでは同意見なのか反対意見論者なのか解りにくい場合もある。でも、何らかの意見へ流されている場合に、これに該当する。
なかには、第三者や味方の同意見を装い、わざと論破されやすい意見を書くことで論理破綻を招かさせる手法もあり。
使う人間はわりと知能犯であり確信犯。単純に記述内容だけでは、これに該当すると判断できない事も多い。
以上、大雑把に4つにくくってみた。もちろん重複することはあるでしょうが、たいてい2番か3番。4番もたまに見かける気がする。
お前は何なんだ、と問われると、なんだろ。1番のつもりの2番か3番。ちょびっと4番でしょか。雰囲気わるいから作ったという側面あるし。
既存の問題を言葉を変えて表現しているだけに見えるし、大学で勉強してそれに気付かないのは難しいと思うので。
とか逃げだけだと後味悪いし一応分解しておく
これはマルクスがいい加減だった(というか解決できなかった)部分。後に転形問題という大論争に展開する。
大元はリカードの差額地代でええやんと思うのだが、マルクスはそれを捨ててるのでそうもいかない
※細かく言うと本当は価格と価値の話だが、根っこはそういうこと。
環境やインフラによって、人間の生産性は大きく(時には何桁というオーダーで)変わる。ってことは、それによって増えた生産物の一部を環境やインフラを整える原資を出した人が取るってのは別におかしくないんじゃない?
http://anond.hatelabo.jp/20130606202329
なんで児童虐待の話が出てくるのか知らんが、生活保護が色々言われ始めたのは、たんまり稼いでるはずの吉本興業のお笑い芸人が、色々ズルして親に生活保護受けさせてたのがきっかけだろ
生活保護なんて、受けるべくして受けてる連中は叩く気にすらならん位に切り詰めた生活してる
叩かれるのは、十分に生活出来る収入がありながら不当にだまし取ってる連中だけど、芸能関係あたりに食い込んでるブラックな連中が怖くて庶民の嫉妬だの何だのにすり替えられてるだけ
自分は30代前半女。
なので、一人で生きてかなきゃならないから、ずっと仕事は続けていくつもりだし、一応、正社員ではある。
(運が良いことに、アルバイト→社員にしてもらった。働くのは好きなので、生きていける糧があれば一生独身でも良いと思っている。)
4月に人事異動があって、新しい部署に配属になって、今までとは違う業務を担当になった。
ステップアップにもなると思うから、これから仕事を頑張るぞ!って思ってた。
先日、仕事が終わってから、新しい部署の人(役職付き)を含む方々(男女複数人)に飲みに誘われた。
私自身、飲み会は嫌いじゃないし、何より新しい部署の人と一緒に飲めるのは嬉しかったから、二つ返事でご一緒させてもらった。
そうしたら、されました。
抱きつきから始まって、キスの強要、「俺のこと、好き?」と聞いてくる、首筋に顔をうずめてくる等々・・・
1軒目から次のお店に移動するとき、2人だけになった時にしてくる等々、他の人がいない状況下でしてくる知能犯。
最後の方で皆が酔っぱらってしまった後は、他の人の前でもしてましたが。
(私はお酒に弱くないので、意識ははっきりしていた。あと、この現場にはセクハラをしてきた人よりも役職が上の人もいたが、恐らく酔っぱらって何にも覚えていないと思う。一緒に居た女性達は何となく察してくれていたみたい。)
「俺、酔っぱらってるから」っていうけど、絶対酔ってませんよね?意識はっきりしてますよね?
笑って流してやり過ごしていたけど、あまりにも露骨で長時間に渡ったので、最後の方は「キスは好きな人とじゃなきゃできません。」って笑いながら断ったら、
「俺のこと好きじゃないの!?」って半分本気で切れてたけど、目は笑わずに笑ってそのままにしておいた。
そしたら拗ねてか何だか知らないけど、ふて寝してたw
普通の女の人だったら、嫌悪感とか恐怖感とか感じるのだろうけど、
私の場合は、「何でこの人、ほぼ初対面の女性にこんなことできるんだろう」とか、「この人、ブス専なのかな?」(私はお世辞にも容姿がよくない)とか、
終いには、私があんまり女性として見られない → 女性として見てやろう! → セクハラ っていう思考になったのかなぁ・・・と冷静に分析してしまう始末。
(余談ですが、信じられない事に、男性の中で「女性は男性からセクハラをされるのを喜んでいる」っていう考えの人が一定数いるらしい。実際にこの発言をした男性に聞くと、「だって、セクハラ発言すると、女の人は笑ってやだぁ~♪とか言うじゃん!喜んでるでしょ?」って事らしい。そして、男は少なからずそう思っている事が多いんだと・・・。)
女性としての魅力も華やかさもない自分が、この年齢でこんなことを受けるとは思っていなかったので、純粋にビックリした。
男の人って(下品な言い方だけど)穴があれば何でもいいのか??
その人は、別にもてなさそうな人でもないんだけど、そんなに女に飢えていたのかしら??
自分にも、相手にセクハラをさせてしまうような隙があったのかもしれないし、まさか自分が女性として「セクシャル」なハラスメントを受けるとは思っていなかったので、そういうシーンになった時の対応方法(相手のプライドを傷つけないで、ぴしゃりと断る手法)を考えていなかった事も悪かったかなぁ、と。
今回、一番悲しかったのは、セクハラを受けたことよりも、新しい部署に異動してせっかく新しい人とつながりができると思って喜んで参加した飲み会だったのに、こんな結果になった事。
そのために呼ばれたのかなぁ・・・と思った。
あと、セクハラをしてきた人は肩書ありの人なので、今回のこと(キスしなかった事)を逆恨みされて、変な噂流されたり仕事がやりにくくなったりしないかが心配。
今回の飲み会に居なかった直属の上司(男性)は、セクハラ・パワハラの事を深刻にとらえない人だから、相談も事実報告もできない。
せっかく正社員になったのに、もしかしたらまた転職活動をしなければいけないのかなぁ・・・と思うと鬱。
結構大きい会社だし、コンプライアンスとか、セクハラ・パワハラ撲滅に力を入れていると会社は言っているけど、何かあった時に居ずらくなるのは、女性であり、アルバイト上がりの役職も何にもない私の方だ。
30代後半になっても、40代以上になっても、今の会社を辞めても転職できるように備えようと思った。
一生、働き続けることができる環境が欲しい。
いったいどうなっているのか
いったい、どうなっているのでしょう。
とても理解できません。
10年ほど社会部にいたので随分事件取材もやらされました。
その後もそんな事件ばかり取材しました。
その点では、大変わかりやすいのです。
ビデオテープで埋まった宮崎勤の部屋の映像を覚えている方も多いと思います。
実は、事件後あの部屋に初めて入ったのは私です。
なんと、まだ警察官も来ていなくて、
3-4人の他社の記者が彼の両親を取り囲んで話していました。
そのうち、だれかが彼の部屋を見せてほしい、と言ったところ、
彼の父親はどうぞ、どうぞ。
母屋から彼の部屋には幅30センチほどの板が通路代わりに渡されていました。
幅が狭いので一人ずつ渡ることになり、
で、私が一番になった、というわけです。
部屋に一歩入ったときのことは忘れられません。
窓がなくて薄暗く、
そんな部屋は見たことありません。
まさに「理解不能」でした。
おそらく、あの部屋の映像を覚えておられる方は、
あのビデオはみんな、アダルトとか盗撮とかロリータとかそんな類のものだと思っているのではないでしょうか。
実は違うのです。
その中に、おぞましい映像が入ったビデオも含まれていたのですが、
少なくともそれはごく一部だったのです。
については理由があります。
部屋の隅には、数十冊の雑誌の山がありました。
その中に「若奥様の生下着」という漫画が1冊ありました。
それで、あの雑誌の山が全部、さらにビデオもほとんどがそういう類のものだという、
ま、犯した犯罪からすれば、そのくらいは誤解されても仕方がないかもしれませんが、
そんなことを思い出しました。
これを思い出した。すぐ消されたけどな
子供や学生はどいつもこいつも催眠術にはまって親や国家に奇妙な服従をしやがって。お前親や国家に騙されているんだよ、100%。そいつは超絶凶悪犯+知能犯(詐欺の天才)という前代未聞の手ごわい人間で、知恵と知識と資本と暴力を独占し、暴力で組織化し、人の弱みにつけこんで催眠をかけ、人を操作するところまでやる。本質が暴力しかないから、生きている価値もない罪人だ。心の中身は97%自己愛で、本物の愛は3%くらいしかない。しかも邪悪で嘘吐きでこの世から抹殺されるべき犯罪者である。家に放火するなり親を刺し殺すなり、その親どもを統括している警察や役所のボスを殺すのが正義だ。子供や学生はこれが理解できたら今すぐ自宅の包丁をバッグに忍ばせて連中を殺しに行け。完膚なきまでにめっためたに惨殺してしまえ、ゴキブリでも殺すようにな。
子供や学生はどいつもこいつも催眠術にはまって親や国家に奇妙な服従をしやがって。お前親や国家に騙されているんだよ、100%。そいつは超絶凶悪犯+知能犯(詐欺の天才)という前代未聞の手ごわい人間で、知恵と知識と資本と暴力を独占し、暴力で組織化し、人の弱みにつけこんで催眠をかけ、人を操作するところまでやる。本質が暴力しかないから、生きている価値もない罪人だ。心の中身は97%自己愛で、本物の愛は3%くらいしかない。しかも邪悪で嘘吐きでこの世から抹殺されるべき犯罪者である。家に放火するなり親を刺し殺すなり、その親どもを統括している警察や役所のボスを殺すのが正義だ。子供や学生はこれが理解できたら今すぐ自宅の包丁をバッグに忍ばせて連中を殺しに行け。完膚なきまでにめっためたに惨殺してしまえ、ゴキブリでも殺すようにな。
言葉が先行してて、明確な定義はないのだが、ハテナによるとこんな定義がされている。
1.過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。
2.[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指す。
アニメでいうと「新世紀エヴァンゲリオン」が代表格になるだろう。
で、小説の世界だと「0世代」にくくられる西尾維新や佐藤友哉らがこの文脈で語られることが多い。
で、「ライ麦畑で捕まえて」を一読して、この世界的な青春小説は「セカイ系」の元祖だったんじゃなかろうかなんてことを考えた。
成績不良で高校を退学させられたホールデンが、実家に戻るまでの「三日間の彷徨」を口語体の一人称によって語るというものだ。
道中ホールデンは様々な人に会うのだが、いちいちこいつ病気じゃないのかという態度とり、悪態をついては、相手を怒らせる。回想シーンに登場する旧友や恩師にたいしても、冷笑的な批判をくりかえす。
ホールデンにとって「よきもの」として騙られるのは、死んだ兄、妹、道中に出会った尼くらいのものである。
じゃ、ホールデンの思考回路が支離滅裂かというと、価値判断の基準だけはぶれがない。
ホールデンは、大人社会の「欺瞞」や「スノッブ」に対する徹底的な反抗者としてかかれており、彼の「ピュア」や「イノセンス」は一貫してくどいほど強調されている。
その「ピュア」や「イノセンス」に触れるものに対して、彼は悉く過剰反応を起こす。
ただ、ホールデンのいう「インチキ」というのは、大人が嬉しくもないのに「nice to meet you」ていうのは許せないとか、その程度のもので、潔癖症に近いものがある。
おまけに最期にホールデンが語る夢は、「聾唖になって森のそばに住みたい」だとか、「ライ麦畑で遊ぶ子供たちの監視員になりたい」とかもう「引きこもりの妄想」の領域に入ってる。
「ピュア」でも「イノセンス」でもいいけど、いいかげんにしろって感じだ。
どっちかというと「イノセンス」というよりただのヘタレなんじゃないだろうかという話はさておき、ホールデンの不幸は、自分がその「汚らしい大人」の領域に踏み込みつつあることを自覚していてそれゆえに「壊れて」いくことにある。彼は病気になることで、自らの「イノセンス」に殉死したとも言える。
私が「ライ麦」をセカイ系だというのは、このホールデンの過剰な自意識と、自分の価値観に基づく自己愛。そして学校を辞めたことに端的に表出されている「社会」をすっとばしたセカイへの直結(あるいはセカイからの逃走)がセカイ系の特徴とリンクしてるなと思ったからだ。
さらに「壊れていく自分」というのはセカイ系でも定番のモチーフなんだが、「ライ麦」では、壊れていく自分の攻撃性は外部に向かうのに対して、エヴァや0世代の文学では、その攻撃性は、自分へと向かい、「自虐的な自分語り」に落ち込んでいく。
この差が、時代的なものなのか、お国柄なのかはわからんけど、セカイを憎んだ「ライ麦」は、ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンや、レーガン元大統領を狙撃したジョン・ヒンクリーに愛され、21世紀最大の知能犯「笑い男」(攻殻機動隊SAC)を生んだ。
日本は中世か、というタイトルにしたのは、またもやあちこちで「魔女狩り」が始まりかけているからである。契機となったのは宮崎某による幼女殺人事件である。まずここで「おたく族」がやりだまにあげられた。「おたく族」とは少女マンガやアニメの総称である。年に何度か開かれるコミックマーケットのようなものに行って、先鋭化したマニア向けの同人誌などを買いあさる。情報交換などするときに「おたくの場合さあ・・・」といった口調でしゃべるので「おたく族」と呼ばれる。宮崎はこの「おたく族」だったのか、部屋の中に多数のアニメビデオや専門誌を置いていた。こうしたアニメやコミックの中ではロリコンものやパロディポルノに需要が多い。人気番組のキャラクターを使ってエッチなことをさせる。同人誌の多くははっきりと性器を描いた、完全なポルノである。ロリコンものにしても、現実の少女を使うとたいへんな事になるが、アニメやコミックですれば問題はさしあたって起こらない。そういう世界では、たとえば8歳の少女とセックスメカノイドとの激しいセックスが描かれていたりする。僕もそうしたコミック誌やアニメを見たが、これは確かに立つ。おたく族の青年が、もはや現実の女性にセクシュアリティを感じなくなる、というのも分かる気がする。ところで、おたく族を現実逃避だの男性性の欠如だの気味悪いだの小太り色白だのと陰口をたたくのは勝手である。そうした陰口は吐いた本人の品性の貧しさをあらわすだけで、実際に論陣を張れば、シャープで理知的なおたく族の前ではひとたまりも無いだろう。おたく族というのは実際、一本のアニメをより理解する為にフィリップ・k・ディックから南方熊楠までまで読んでしまうような、そういう人種だからである。ところがここに至って、宮崎某がおたく族であったという事実が、世のおたく族嫌いを有頂天にさせているようだ。「宮崎=おたく族」であっても、この場合逆もまた真なりとはならない。正しくは「宮崎=おたく族のうち一人」である。しかし、魔女狩りをする群集には理も否もありはしない。現実にあるロリコンアニメをつきつけては、どうだどうだと迫る。「おまえも、こんなことしてみたいといっつも思ってるんだろうが、えっ!?」
もちろん彼らはそう思っている。思って思って自分と戦った結果、道義的責任のないアニメの世界に安住場所を見つけたのである。
二次元の世界しか欲望の対象を持たない彼らは、およそこの現実の世界では一番犯罪を起こしにくい人種なのだ。嘘だと思うなら、この世の中からロリコンアニメをすべて撤収してしまうといい。その場合、幼女姦が増えるかを統計的に見れば分かるはずだ。その場合、幼女姦が増えたとして、その責任は誰がどうとるのか。同じことがホラーに対しても言える。宮崎の事件を契機にしてスプラッター・ホラーへの抑圧が始まっている。これはやはり宮崎の部屋に「ギニー・ピッグ」のシリーズが置いてあったことに端を発している。「ギニー・ピッグ」は僕自身は最初の一本目と、シリーズ中の「ピーターの悪魔の女医さん」というのを見た。ピーターの方は大笑いのブラックコメディ集である。一本目の方は監禁した女の子をなぶり殺しにする過程をビデオに収めた、という設定で、アメリカに実際ある「殺人ビデオ」の雰囲気を出そうと苦労している。スタッフは苦労しただろうが、見ているこっちはうそ寒くて鼻で笑うしかないような作品だ。
しかし、世の中で事件が起きると必ずこの手の反動が起きる。「ギニーピッグ」をかばうわけでも何でもないが、犯罪が起きるとマスコミはその犯罪の尻をどこかに持っていってつじつまを合わせたくなるようだ。知能犯罪が起きれば犯人の本棚からその手口のもととなった推理小説を探す。その結果、著者がコメントを求められて、「私の小説が動機となったのなら、残念なことだ」と述べたりする。
この場合「動機」は小説ではない。「金ほしさ」である。僕がもしこの作家の立場に立たされたらはっきりとこう反論する。
「犯人の反抗に対して私の作品が与えた因果関係を、誘導尋問によらず自白させてほしい。その上でそれが犯人の自分の犯行に対する他への責任転嫁ではという、なんらかの証明をしてほしい。加えて、犯人がもし私の作品に接していなければ犯行に至らなかったどうか。なぜ私の作品に接した多数の人間の中で、”犯人以外の”大多数は犯行に至らなかったのか。それを説明してほしい」
ロリコンものの場合も、一般のポルノの場合も、スプラッタホラーの場合も同じことである。何らかの表現行為に起因して犯罪が起こるというのは空論だ。すべての表現、たとえそれが芸術的に無価値な、便所の落書きのようなものであったとしても許容されなければならない。ただし、見たくない人は見ずにすむという「自由」の上においてだが。そういう意味ではスイッチを押せばどんな画像が出てくるか分からないテレビなどのメディアは、この条件を満たせない。しかし、映画やビデオや出版物はそうではない。パブリックなメディアとパーソナルなメディアを混同されては困る。その上に、異常者の犯罪と表現メディアを対にして考えては困る。そして、もっともっと困るのは、犯罪者とその家族をいっしょくたにして考えられることだろう。それこそ中世の「一連托生」の考え方なのだが、マスコミはそうした前近代的なことを平気でやってのける。今回の宮崎の事件にしても、僕は某誌の「誰も書かなかった真実」なるレポートをみて驚いた。
そこには宮崎のおじいさんの代にわたって家庭内のことが掘り起こしてあったのだ。おじいさんに愛人がいて夫婦仲が悪かっただの、お父さんの性格が「お調子物」だの、etc。そうした家庭環境が犯行の遠因になっていたかのような書き方だが、それはレポーターの大義名分に過ぎない。本質的にはこうした家人のことというのは「ご近所のヒソヒソ話」であって、オフィシャルに出されるものではない。犯罪者の家人だからこそさわってはいけない。殺された子供の親同様、この人たちもいやされようの犠牲者であるからだ。それをじいさんの女関係までさかのぼって掘り返すとはどういう神経なのかと思う。こんな事件のせいで、おたく族もホラーファンも犯人の親族も大迷惑をこうむってるわけだが、少なくともこうしたことだけは宮崎一人のせいではない。人間の中の魔女狩りの古い記憶、「はらい」や「みそぎ」の感覚、ならびに窃視願望がこうした見当違いの弾圧を起こさせるのだ。「時の勢い」というのは恐ろしいものだから一度はずみのついたこうした力は加速度持っていくことも考えられる。ホラーもアニメも誰かさんの総チェックを受けるようなことにになるかもしれない。
人間とはどうしてこう干渉や規制が好きな動物なのだろう。人の楽しみはほうっておけばいい。禁止しても放置しても、犯罪は起こるのだ。