はてなキーワード: ライツとは
★佐野デザイン騒動で思ったが、もはやここまでデザインで溢れている現代社会だと
『ゼロから創作して、前に存在したデザインを被らないようにする』ということ自体が、もはや無理ゲーなんじゃないか?
デザインに限らず、音楽でも文学でもマンガでも、ゼロからの創作にこだわるには、既存作品が多すぎる
『既存の〇〇のデザインをオマージュしました』『既存の〇〇のマンガをオマージュしました』のように、
適正なライツフィーを支払う前提で、オマージュを活用した方が、いろいろうまく行くような気がする。
著作権法をその方向で変えてみては?
★例えば、『ドラえもん』は、アニメだと新作をテレビ朝日が毎週作ってますが、マンガだと故藤子F先生の作品以降、読めないのです
『ドラえもんの一話完結マンガを藤子プロ管理の電子書籍フォーマットに投稿して、収益をオマージュ作者と藤子プロで折半』というプラットフォームがあったら受けるのでは?
★新人のマンガ家が、いきなりオリジナルの世界観を打ち立てた作品を世の中に公表しようにも、読者はまずその世界に没入するのに『コスト』が掛かる。
それよりは、日本人ならだれでも知ってるドラえもんの世界観をそのまま『借用』して、オマージュ作品を創作する、という建付けの方が、スムーズだと思う
そんな感じで『夏目漱石へのオマージュ作品』とか。『こころ』の『先生』『K』のスピンアウト作品を募集するコンテストなんてのを開けば、文学青年が多数応募するかも
『怪人20面相と明智小五郎の世界観をオマージュした作品を募集』・・・って、もうマンガで既にあるじゃん。
ルパン三世なんてのは、フランス原作をオマージュしながら、それ以上に華麗なワールドに昇華してるなあ
怪人20面相に至っては、マンガでオマージュされるどころか、リアルでオマージュされてるもんな。かい人21面相とか。
ぼくもやってみることにした
年代別に代表的な長編を英米と日本でそれぞれで10作えらんでみたよ
この手のベストだと叙述系が挙げられがちなので
あえてベタにえらんでみました
長編しばりでなので
ま、有名だしね
黄金期にミステリの臨界点を冷静に見つめていたバークリーらしい作品
『第二の銃声』とかもバークリーらしいけど
こっちのほうが一般向けかな
複雑なフロットでグイグイ読ませる
長編しばりなので
名作揃いの初期短編ではなくこれを
言わずと知れた奇作かつ傑作
マニアの人ごめんなさい
インパクトのつよさでこれを
これも本格復興期の名作
亜愛一郎シリーズも必読
なんでこれなんだ、とかいわれそうだけど
多分これが一番読みやすいと思うので
『神様ゲーム』もそうだけど
うっかりしてました
酒飲みながら書いてたので注意力散漫だったようです
ってことで
トレードも配信も飽きることが大事、ドキドキしているうちは甘い
投資が祈りに変わったらその瞬間に負けなんだよ
新興の王者のこの俺がなんで結果出せないんだよ。為替つまんねえ
凡人ほど五分五分の勝負を臨みたがる
株で勝つ為には95%の冷静な理論・判断、5%だけ暖かい人間の感情がなきゃ勝てない
相場の女神は理不尽なんだよ・・・・だけど・・そこに惚れちまったのかな、ぐふへへへへへ
勝ちに慣れ過ぎて(印象に残った勝ちは)ない
25歳より若くして1億持ってる人はライツベにいない、失望だよね、俺が凄いとかじゃなくてw
凡人ほど100か0かを求める。8割勝つということを覚えるともっと上手くなる
1万2万をはした金と思うようになったら投資家として終わり
『「寄生対象に見られる事≠好意」だから。これを当然の如くイコールしてある論調には頭痛が。
"男"としては軽蔑してるから"金"の部分を経済的に利用してやろうとする女もいるんですよ。女性はそういう目に遭う事ないのかな』
というブックマークコメントを付けるのもなんだし、もっとちゃんと書きたくなったので、久しぶりにエントリを立てました。
以前、「寄生対象としてだけではなく人格を尊重して好きになって欲しい」という交際相手への要求を、
「幼稚な願望」だか「男らしくない願望」だかと皮肉っていた女性がいた。その女性はきっと、
交際相手から人格を無視されATMや庇護者としてだけ扱われることに全く異議を唱えないご立派な人なんでしょうが、
わたしはひとをそんな目で見てつきあいたくはないし、実際にそんな交際はしてこなかったし、
「人格はいらない。財布としての機能だけが欲しい」と本気で思っているような女性も真っ平です。
人間らしいお付き合いがしたいよねー。ということのどこがお子様レベルの高望みなんでしょうね。
あと、「交際相手として扱われたいなら対等な人間として扱われることは諦めろ。両方望むのは男の欲張りだ」
という理屈を振りかざす人も存在するのですが、わたしにとって恋愛対象の人は同時に対等な人間なので、
これもちょっと何言ってるんだかわからないですね。
要するにこういう人々は、「女性様に利用価値を見出してもらっているのに文句を言うとは何様のつもりだ?」、
あるいは「私は結婚相手として意識されたことすらないのに、男ときたら、あれはいやだこれもいやだと贅沢なんだよ!」と
言いたいだけなのだと思われるが、こちらとしては「あなたに寄生対象として見てくれと頼んでない」、あるいは
「あなたが経済的不安を抱くのは勝手だが、やつあたりするのはやめてほしい」としか言いようがない。
そういうおかしな人たちは横に避けておくとして、たいていの人は性別に関係なく、
人格を無視された上で見栄だの金だのだけに執着されても侮辱としか思えないものだ。
男女ともにそうであるはずだ、と思う。
「仕事や経済力に惹かれてもらえば嬉しいでしょ。甲斐性があると見られてるってことなんだから」
「男として認められてると思えばいいのに」
と無邪気にのたまう女性が多く見えるのに対して、なぜ男性の多くはそれを嫌悪するのだろうか。
それは男性にとって「寄生対象としてのみ扱われた時に生じるリスク」」が、圧倒的に高いからに他ならない。
想像してみて欲しい。人として尊重していない男性、その経済力だけが目的である男性に対して、
いざその男性の目が離れた状況になった時の女性がどうふるまうものか。
もっとも最悪な可能性は結婚詐欺(オプションとして睡眠導入剤、練炭)だが、問題はそれのみにとどまらない。
結婚することに合意したとして、まず、その女性は、夫婦間の貞操に対して非協力的である可能性が高い。
浮気しないでくれと言っても、ATM―――いわばお財布なんちゃらとしか思っていない男の人格を
「うっかり別の男の人と生で中出ししちゃったテヘッ」と言ってカッコウ戦術に出ることにも
罪悪感や抵抗を感じないだろうことは想像に難くない。
また、身勝手な要求をされる可能性も非常に高い。何度も言うがその女性にとって相手は体裁・金銭のための道具にすぎないのである。
嫌だと拒否することを、強制的にされたりさせられたりする可能性が高いということだ。
拒絶したら生活を人質に取られるか、恫喝でやらされるか(何せ男性の気持ちなど尊重していないのだから躊躇はないし、
興奮状態にある女性が通常より利己的になることは言うまでもない)、
「ドラマのように出来ないお前は男失格だ」など言葉の暴力で攻撃されることもある。
「以前からやりたかったことをお前の金で試せない私は被害者だ。何のために結婚しているのだ」という自己中な理屈で逆ギレされる可能性もある。
一言で言ってしまえばヒューマン・ライツの問題であり、人格を無視され現金引出機としてだけ扱われるということは、
そうした生活の自己決定権を侵害される危険性が極めて高いということだ。
歴史的に男性はそれを侵害されてきたし、今なお世界中の国や文化圏では、婚姻関係において上述のような暴力的状況が出来(しゅったい)している。
夫婦が本格的はじまりである。
結婚をする関係にある女性に、「人として」尊重した上で好意を抱いてもらわなければダイレクトに心身に損傷を負う危険がある。
それが男の抱えている深刻なリスクである。お子様願望だの、ありのままのボクを愛してだのというぬるい話ではない。
だからこそ男性は「自分を寄生対象としてしか見ようとしない女性に対する嫌悪感」が無意識レベルでも強い。
この女はアレだと勘づいたら早急にシャッターを下ろしてそれ以上近寄らせないように「自衛」するのも当然である。
でなければ「結婚をする関係性」になる以前に、まずを食らう可能性がある。
とにかくそういう女性が近寄ってくることには「リスク」しかないのだ。
「「収入・地位に関心=好意を持たれてる=モテてるってことだよね~♪」」などと
、無邪気に喜んでる場合ではないのである。
その女性の経済的関心がちゃんとこちらを一個の人格として尊重した上で付随されているものなのか、
それとも完全に「財布」という記号にしか見えていないのか、見極めなければ手酷い傷を負うことになる。
「養ってと迫る女がいるだけで甲斐性だと考えている男もいる。理屈に合わない」
「男をモノとして扱う鬼女に平気で給料全部吸い上げられてる奴隷男が山のようにいるじゃないか。何がリスクだ」
という反論が聞こえそうなので一応。
そういう男性は単にリスクを顧みず結婚しているだけの話であって、リスクそのものが無くなったわけではない。
女性より法的立場が弱く、扶養の義務を持っている限り、危険はどんな男性の上にも平等に降りかかる。
信頼関係を築き上げた女性が相手の時でさえ、本当に結婚に踏み切ろうと言う前には足がすくむものだ。
そういう恐怖を克服しても、この人がいい、この人を信頼した、信頼すると自分で決めたからリスクも背負う、
と思える相手でなければ結婚できませんね。わたしはね。
そのリスクを深刻な危機感として感じない男性も中には存在するというだけの話である。
えーと。蛇足だけどついでに。
「年齢がアラサーに差し掛かってるから、どうしても男性のことを考え始めると地位や年収でおおざっぱに認識しちゃうけど
オンナノコとして当然なんですう。えーんえーん。でもワタシ根は無害で純粋な子羊だから。
いざリアルで相対すれば男性をモノ扱いしたりしないよ!そんなことするのはビッチだけだよ!」
などと言う女性が時々いるのですが、メディアで年収年収・遊んで買い物して旅行は年○回・専業主婦で楽になりたいなどと
寄生虫臭いことを喚き散らしていれば、
「あー、男を生活安定させるための道具としか思ってないのね。
女としての自尊心を回復して同性に見栄を張るためのツールとしての夫が欲しいだけなのね。
単に魅力がないだけで中身はビッチじゃん」
と冷ややかに突き放されるのは当然でありまして、
「リアルでは少女の心を失わない純粋なワタシ」などと言い訳しても説得力など皆無であります。
だって、文章だけだって十分暴力になりうるからね。
このエントリだってある種の女性にとっては暴力になりうるのを見れば一目瞭然でしょう。
「私婚活中なんです。凄く焦ってるのでお付き合いしてください。まだ結婚してないのは友達の内で私だけなんです。
飲み会で友達に同情されるのはもう嫌なんです」という告白だかなんだかわからないような告白を受けて、
「そんなこと焦る必要ないと思うけど、金が欲しいだけなら風俗で働けばいいんじゃない?」
とニッコリ笑って言ってしまった経験のあるわたしですが、
風俗行けなどという暴力的な言葉を返されたくなければ、無自覚に暴力を振るわないように気をつけた方がいいと思います。
(これ言われた時は、「うわー・・・つきあったら『友達が飲み会で自慢していたことを全部私にして。経験ないのは私だけだから』
とかムチャクチャな要求をしてきそう。しかもそれを飲み会で友達に全部自慢しそう。絶対無理」と思いました)
http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2010/0517001413.php
ttp://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51454026.html
※ Newsweek記事、「Appleはなぜ日本企業ではないのか?」にみる日本論
Newsweekの記事”Why Apple Isn’t Japanese”が面白い。これは、しかし、Appleに
ついての記事ではなく、デジタル革命での敗戦の色濃い日本企業についての記事である。
iPodやiPhoneで世界を席巻するApple。だが、小型電化製品の市場というのは、本来、
日本企業が得意だったハズ、それがデジタルになった瞬間に、なぜ日本企業は太刀打ち
できなくなってしまったのか。
20世紀最後期にNTTドコモがiモードの成功を世界展開しようとして失敗したのはなぜか。
それは、iモードの操作が、日本以外では受け入れられなかったからであり、それは、ドコモ
の首脳陣に日本人しかいなく、世界マーケットの人々が何を欲してるか理解できなかった
からだ、とする。
ソニーのデジタル音楽シーンでiPodの独走を許したのは、自社グループ内の音楽セクション
に配慮して、複雑なライツマネジメント機構を導入したことが原因と指摘。
「ドコモは、いまや減少傾向に転じた日本の国内市場に囚われ、動きの早いライバル企業に
シェアを奪われることを座して見ているしかない。世界マーケットへ転じることが唯一の希望だが、
企業文化の視野の狭さと想像力を欠いたマネジメントによってそれも果たせないでいる」。
3年前には、ノキアの市場価値の10倍あったドコモは、いまではノキアの半分の価値しかない。
いや違う。これは「全面的」こそがキモだ。動物に対するサディズムはよくないという社会的合意が日本にあるのは明らかだから、苦痛の低減が「部分的」には「罪」を減殺するという意識があるのは間違いない。ただ、その「部分的」の比重が問題だ。少なくとも日本では「気休め」程度以上に受け取られることはまずあるまい。
それは果たしてどうでしょ?「人道的な屠殺」などが偽善と反発される文脈は、肉食や捕鯨についての現行のあり方が批判された場合の反発などが主だと思うよ。逆に現行のやり方と比べて残虐と見なされる振る舞いであった場合には、容易に激しいバッシングが起こるよ、日本でもね。
つまり、日本で「気休め」以上に受け止められると単純に言うことはできない。整合的な理論として「気休め」に過ぎないって信念を持っているわけではない。
意味がわからん。あんたこそ「反証が必要」だろうが。こちらは「根拠がない」と言ってるのに、ないことを証明できるか、そんなもん。
動物の苦痛の低減が倫理的意味を持つことは、認められているものとしてこの議論は進んでいると認識している。
もちろん、この前提を疑うことは可能だし、疑う議論も実は多いし、そういった議論にも、個人的には面白いと思ってますが
今、私たちがやっているやりとりの範囲内では、この前提自体はどちらも否定していない、と理解していますし、それが一般的価値観であることも合意されている。
一方、「業の自覚」の倫理的価値についてはあなたの側しか認めていない。
つまり、「動物の苦痛の低減」には、一歩のアドヴァンテージがあるわけよね。
だから、あなたが行うべきは、以下の二つになる。
2.「業の自覚」の価値が主張。この罪悪感は、実際の動物への配慮につながるから価値があるのではなく(むしろそれは偽善として非難される)、頭の中と口先だけで完結するだけであっても、現実の動物の苦痛を低減することに匹敵するだけの価値があることの擁護。
ちなみにあなたが1を選択した場合、こっちはアニマル・ライツの人たちの代弁で議論するか、もうちょっと別の方向でゲームを続けるかちょっと悩んでいる。アニマル・ライツの議論の流用の方が頭使わなくてすむから楽だし、文脈にも合ってるけどね。
こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
ああそうか、すまなかった、では何を言いたかったか説明してくれ。
あなたが、”動物への配慮”を重視するものと考える西洋的発想のアンチテーゼ的世界として持ち出してきた東洋像への反論。アンチテーゼとして成り立たないことさえ、示せればそれで議論としては十分。
「何の倫理的問題もない」とはこの議論の中では誰も言ってないと思うのだが、この議論の外にはそういう考え方をする人もいるので、
彼らには彼らのロジックがあるのですよ、とだけ言っておきます。知ってた上で言ってるのかもしれませんが。
私がイラつくのは罪悪感を感じることや「感謝の気持ちは大切だよね」的感性それ自体じゃなくて、それで「菜食主義者」や「アニマル・ライツ」みたいな非論理的な連中を論破できると自信満々な連中なので、論理的整合性の外側での実践やおしゃべりはどうでもいいです。
ついでにいうと、「アニマル・ライツ」が肉食主義を論理的に完全に論破できるとも思ってないです。
だから、「業」論者がアニマル・ライツを超えるもっともらしい論理大系を示してくれれば、それで十分。
要するに君が理解できるか理解できないか、が基準なのか?
したがって、これにはその通り。
一般的な原理主義研究では、原理主義の特徴はその選択性にあるといわれていると思いますが(たとえば、近代的なものに対する反対物として、伝統の中から選択的にその”本質”を選び出す、とか)。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。
そのあとに「それを指摘することに特段の意味はない」と書いたのを繰り返します。そこに意味はない。グリーンピースでも何でも日本にもいるんだから、日本の文化の一部でもある。
なんでそんなに話を拡げたがるんだかさっぱりだ。
え、私が広げたの?元増田の時点で、論理的に論破してやったぜ!な人なんだからそこが起点なんだけど。
それを否定するとなるとタリバンを否定する根拠がなくなるわけだが、そんなものを当人以外の誰が認めるというんだ?理屈のための理屈はよせ。
「普遍でないものを拒否する権利」がタリバンにあり、タリバンの存在がタリバンを批判する価値観の普遍性を否定している。よってタリバンはタリバン批判を拒否する権利がある。って話?
当人ってのは私のこと?
2は微妙。「全面的」を外しただけでだいぶ変わってくる。現実問題として屠殺や動物実験において苦痛の低減は行われている。もちろん、これを偽善とする意見もあるが、事実問題として苦痛を減らす試みが行われている以上、単純に主流とはいいが高い。「全面的」とおいう形容をつけたことによる詐術じゃない?
いや違う。これは「全面的」こそがキモだ。動物に対するサディズムはよくないという社会的合意が日本にあるのは明らかだから、苦痛の低減が「部分的」には「罪」を減殺するという意識があるのは間違いない。ただ、その「部分的」の比重が問題だ。少なくとも日本では「気休め」程度以上に受け取られることはまずあるまい。
3は正当化が必要。
意味がわからん。あんたこそ「反証が必要」だろうが。こちらは「根拠がない」と言ってるのに、ないことを証明できるか、そんなもん。
こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
ああそうか、すまなかった、では何を言いたかったか説明してくれ。
アニマル・ライツや動物福祉の理論体系は理屈としてはそれなりに一貫しているという立場をこっちは取っているわけだよね?実践的には受け入れていないにせよ、論理ゲームとしては評価している。「業」論者の主張はさっぱり理解できないので評価していない。
要するに君が理解できるか理解できないか、が基準なのか?そんなことを言えば俺から見れば「人道的な屠殺には何の倫理的問題もない」という方がさっぱり理解できないが。
そもそも、これを言ってしまうとおしまいだが、倫理観の是非を論理的整合性で判断するのは危険だぞ。なぜかというと、論理的整合性に重きを置きすぎれば行き着く先は原理主義だからだ。論理的な説明というのは所詮少数の仮説から出発するしかないわけだが、実際には受容されうる倫理観の前提を全部書き下すことなんてできていないんだから、当然論理的整合性に重きを置いた判断にはアラがでまくるわけだ。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。
こちらは最初からアニマル・ライツだの動物福祉だのの教義は問題にしていないわけだから当然そうなる。要は、アニマル・ライツだの動物福祉だのだけが捕鯨反対を叫ぶなら「狂気とはいえ筋が通っている」が、一般の西洋人を巻き込んで政治問題化することが日本人を怒らせているわけだろう。散々牛肉を買わせておいて鯨を食うなとはなんだと。それだけの話にそんな大げさな前提が必要なのか。なんでそんなに話を拡げたがるんだかさっぱりだ。
そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?
それを否定するとなるとタリバンを否定する根拠がなくなるわけだが、そんなものを当人以外の誰が認めるというんだ?理屈のための理屈はよせ。
全然違う。
1. 「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という分け方は、日本では大きな賛同を到底得られる考え方ではなく、多くの感情的に反発を受ける。
2. むしろどんな形であれ、生物を殺すこと自体が業であり、それの一部なり全部なりだけを理由付けて全面正当化できると思っていること自体がおためごかしだ、という考えが現代日本では主流である。
3. この2.の考え方が、1.のような考え方に比べて劣っているという根拠はどこにもない。文化的背景に起因する生物観の違いなので、「どっちもどっち」とすべきである。
以上。
1は字面的には正しい。ただ西洋にそういう意見がまずない日本固有の発想って含意があるなら、その限りではない。
2は微妙。「全面的」を外しただけでだいぶ変わってくる。現実問題として屠殺や動物実験において苦痛の低減は行われている。もちろん、これを偽善とする意見もあるが、事実問題として苦痛を減らす試みが行われている以上、単純に主流とはいいが高い。「全面的」とおいう形容をつけたことによる詐術じゃない?
もちろん、アニマル・ライツの人に言わせれば、数多の問題点が出て来るだろうけど、君が主張するように西洋と比べて格段に軽視されているということはないと思う。
3は正当化が必要。
だから?そんなの織り込み済みで話してるっていうか俺はそれを否定しているわけでも何でもないんで。藁人形と戦うのは勝手だが俺に勝利宣言するのはやめろと。
これが藁人形だとすると、実際の君は何を言ってるんだ?こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
意味がわからん。一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら対等だと考えるべき。そもそもこれは「等価」ではなくて「前提が違うから議論にならない」という問題なんだよ。
いや、アニマル・ライツや動物福祉の理論体系は理屈としてはそれなりに一貫しているという立場をこっちは取っているわけだよね?実践的には受け入れていないにせよ、論理ゲームとしては評価している。「業」論者の主張はさっぱり理解できないので評価していない。
そこを批判しているはずなのに、「一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら」なんていわれても困る。
それが俺のことのつもりなのかどうか知らんが、「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という主張自体に、文化的土壌によらない普遍的な根拠がないことは認めるな?
「文化的土壌」で何を言ってのかわからないし、「」内部がどの範囲の人や主張を指しているかも悩むけど、たとえば、キリスト教(西洋?)の教義から導かれたものとしてる狭義のアニマル・ライツとか、その手の議論を捉えているかと言われるとNOです。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。それを指摘することに特段の意味はない。
狭義のアニマル・ライツについては、現代倫理学の議論からでてきたものとして理解していますが、議論によって育まれた理由付けの体系として把握しています。こういった議論の中で出てくる様々な前提を指して「文化的土壌」と言っているのなら、それが普遍的合意を得られるものではないと、私も思います。
道徳的直観ってのは常にそういうものです。絶対の公理なんてない。メタ的立場に立った議論はできるけど、その場合、あなたの主張もそれは適用される。たとえば「”異文化”に口を出すべきではない」の通文化性・自明性はそれほど高くない。もちろん、様々な文化の文献からそういった文章を集めることはできるが、普遍的価値とは言い難い。
そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?
その主張は普遍的(せめて通文化的、もしくは万人が認める道徳議論の前提となる公理)な根拠があるのでしょうか?そうは思えないのですが。ないのならその主張は自己論駁的です。
脳の体積よりも、行動や鏡への反応からの推測の方が大きいよ。
もちろん、それが十分な根拠になるかってのには懐疑論もあるわけだけど、
イルカ信者はそう信じている、または「他の動物よりも自意識をもっている可能性が高い以上」、他の動物よりもその分リスクがあるってことを認めるべきと考えているわけだ。
発展したものであることをお忘れなく
それは単純に不正確、動物福祉的側面は無視できないほど大きい。
例えば、マクドナルドの契約畜産業者の選別なんかにも、動物福祉思想の強まりが絡んできている。
それと「動物愛護」の問題と「屠殺従事者の精神衛生」の違いがよくわからない。
大事なのは何を殺して食べるか、とかではなく
自分の命を大事に生きることでしょうよ
これまでの意見は他人の意見の代弁だったけど、私個人の意見を言います。
反捕鯨も捕鯨もそれ自体はどうでもいいし、私も肉は食べてます。
でも「食べられた命に感謝してる自分」とか「業を背負って生きる自分」とかに酔ってる偽善は気持ち悪い。
その感謝だの業の自覚だのが牛や豚にとって何の意味があるわけ?お百姓さんや漁師さんに感謝ならわかるんだけどさ。
牛や豚相手には単なる自己満足にしか思えない。
ましてそれを大事なこととかいって偉そうにするのはやめて欲しい。
3日も寝込んだのは子供のとき以来ないなぁ
寝てられない、て起きるし(それこそ、子供もいるんでなぁ)
まぁ俺がナントカは風邪引かないてヤツなんだろうからそれはいいとして、
一般的にも、夫婦2人いて、両方揃って3日間寝込むってのは相当特殊なシチュエーションじゃね?
何年かに1回あるかないかなんじゃねぇの?
つーかそんなに俺に家事はツラいものって納得させたいのか?
自分にとってツラいものを楽しんでる人間がいるのは納得できない?
俺はそもそも、家事は「負担」ていう考え方がひとつの固定観念で、そう考えない人間もいるよ
っていう書込みをしただけなんだがねぇ。なんか神経逆撫でしちゃったかい?
YouTube は2008年3月27日、L'Arc??en??Ciel、BENNIE K、スピッツなどの国内アーティストの音楽著作権を管理する株式会社ジャパン・ライツ・クリアランス(JRC)と、日本における音楽著作権の包括利用許諾契約を締結した、と発表した。
契約により YouTube は JRC から、日本における多くの楽曲のライセンス使用を許可される。これにより、YouTube 上で配信されるレコードレーベル会社が制作したミュージックビデオとユーザーが作成したオリジナルビデオで流れる楽曲のライセンスが YouTube に与えられる。
また、今回の包括利用契約の締結したことに伴い、JRC が著作権を管理する作品のアーティストが所属するレコード会社、株式会社フォーライフミュージックエンタテインメントと、インディーズレーベルである有限会社デンジャー・クルー・エンタテインメントの公式チャネルが同日、提供を開始した。