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2012-03-15

1年前の今日、妻子を関西に返した「疎開記」の作者です

http://anond.hatelabo.jp/20110319172127

の作者です。

丁度1年前の今日、渋る妻を強引に説得して関西に返したのですが、

改めて振り返ると、自慢ではないですが、自分の読みがかなりの部分「的中」していて、

政府部内でも、自分が想定していた

ワーストシナリオ首都圏避難」をシミュレーションしていたようですなあ。

後日談を書いておくと、2011年4月の初旬に妻子は東京に戻しました。

の子の2年生の始業式はあるし、下の子幼稚園年少組の入園式あるし、

でもなんか冷却は思い通りにいかないし・・・と言うことで、

「戻す」決断は、それはそれで大変だったのですが、

「戻す」決断の理由は

★4月初旬の時点で、不安定ながらも原発が「小康状態」になってきた

原発内部に関する様々な情報が得られているため、

 関係者も4月初旬時点の方が、「3月15日時点と比較しても」

 それなりに対処できる知見をストックしてきていると思われる。

アメリカフランスの協力体制が出来てきた

 (もっとも、フランスの協力はあまりロクなものじゃなかったことが後日わかりましたが・・・

自分の側も、3月15日時点と比較しても、4月初旬までの2週間の間に

 様々な情報源キュレーターを入手したので、より確度の高い判断を下すことが出来るようになった

というところでしょうか。

金町浄水場ヨウ素パニックの際、

からあなた疎開判断が正しかったようだ」と関西から電話が掛かりましたが、

金町浄水場のヨウ素レベルでは、そんなに神経質になることなかったんですけどね。

しかし、「疎開記」を書いたのは3月19日でしたが、

当時「政府首都圏住民の避難検討している」と言ったら「デマ認定」されていただろうなあ・・・

自分が3月15日の段階で妻子一時疎開決断したのは、

「容器の健全性が損なわれている」と3月15日朝のニュースで判断したからなんですが、

その判断も結果的には正しかった・・・

で、1~2ヶ月経過して、

「まず首都圏大丈夫だろう」という確信は持てましたが、

その半面「福島県内の状態は看過できない」と思い、知人のキャリア官僚などに

福島子供の20ミリシーベルト許容は論外だ、早期に対策を講ずるべきだ、

 表土除染するとか、RC造の家に転居させるとか、水入りペットボトルで遮蔽するとか、

 とにかく予算範囲内で出来る限りのことをやれ」と言いつづけた、という感じ。

今は生活の上では特に対策講じていないかな?

妻はペットボトル買い込んでいましたが、基本的には内部被曝とかもそんなにナイーブに気にしていません。

(今の厳格化後の食品安全基準は、それなりに科学的に妥当と考える)

2012-03-11

司法試験撤退した(しそうな)増田たち

俺はhttp://anond.hatelabo.jp/20120310231910だけど、検索したら何人かいたのでメモ程度にまとめておく。

今の日本社会では弁護士社会のために働いている、という漠然としたイメージ蔓延しており、仕事の実質が正確には伝わっていないのではないかと思います。だから社会的弱者のためになる仕事弁護士」となるのかなぁと思うのです。しかし、弁護士でなければできない仕事というのは極めて限られていて、また、弁護士固有の仕事の実質はあまり理解されていないのではないかと思うのです。

から弁護士になるのはかなりリスクがあります

ロースクール入試による競争ロースクールでの競争、新司法試験での競争就職活動での競争

全ての段階でドロップアウトする可能性があります(上位校に行かなければまともな教育は受けられず、

かつ、上位校であれば学校内の競争はし烈です。)。

また、友人から聞いた話ですが、新人弁護士の最低待遇年収300万円に

弁護士会自己負担(年間50~100万)という状況だそうです。

大学卒業後2年社会人として働いていらっしゃるようですが、

仕事がつまらないという理由と、先述したナイーブな発想で弁護士を目指すのは

まりにも頭がお花畑だといわざるを得ません。

それでも弁護士を目指したい!!と思うのならばそれは自由ですが、

かなりのリスクがあることを覚悟の上で、いかれるとよいと思います

2012-03-08

「本当に面白いブログ」がアクセスを得ると思ってる奴は目ぇ覚ませ

ホント面白いブログは当然アクセスを得る、と思ってる奴がいる。

アホか。

ナイーブすぎる。

本屋に並んでる本のほとんどは才能があるから出版した訳でもなんでもない。

出版社編集者が、その著者の本を出版することを認めたかどうかだ。

重要なのは才能じゃない。

編集者との関係だ。

無論、才能があったか編集者との関係を持つ場合もある。

しかしそんなのは幸運なごく少数の連中に過ぎない。

ブログも同じ。

本当に面白くて、その面白から自然アクセスが集まっていくとか少数の幸運ブロガーだけだって

たまたまそういうブロガーが何人かいただけで、「ブログ面白ければアクセス自然と集まるんだ」という一般法則をうちたてた、

アホどもは一生はてブの上位のカス記事読んでありがたがってればいいし、

そう思っているブロガーはどんなにアクセスなくても「これはまだ俺の記事が面白くないからなんだ」と一生自分を責め続ければいい。

そんな奴らは一生地を這う。

2012-03-07

http://anond.hatelabo.jp/20120306235742

お前の言うナイーブが何を指すかは分からん

その意見だけで何を考えろと

「生きていることに意味がない」という立場に対して

「いや、生きていたほうが良いよ 良い事あるよ それが生きている事の意味だよ」と言ってるに過ぎない

意味がない」に対して「意味がある」と正面から否定してるだけだ

そんな事を言われてもどうにもならん

2012-02-20

http://anond.hatelabo.jp/20120220115323

それと、本人たちは「真っ当な仕事をしてる」とは微塵も思っちゃいないだろうし

ビジネスサイドの人間なら確かにそんなナイーブな奴はいないと思うけど、

技術サイドだと結構いるよ。

というタイプが多い(周りにDeNAGreeに行った人掃いて捨てるほどいる)。前者は最低だと思うなあ。個人的には。

技術者倫理なんていう言葉はもはや死語ってことなんだろうな。

核兵器開発にどれだけ歴史的な苦悩があったか、知る由もないんだろうなと…。

2012-02-19

あなた虐待、わたしの虐待

 さて、世の中には虐待というものがある。

 あなたにとっての虐待定義とはなんだろうか、被害者加害者保護であるという関係を除けばあらゆる虐待存在するが、今回は主に成人と未成年の間、親と子の間に存在する虐待について論考していこうと思う、なぜなら家庭というのは非常に外部と隔たれた空間であるからだ、教育の場であったり労働環境での虐待比較するとお互いの利害に関係のない第三者の目に触れる機会は一気に減る、その分陰湿であったり陰険になるなどの諸問題は生ずるが同じ様な虐待が発生した時に他との比較が容易で無いという点において、また未だ家庭内部の隠され閉ざされた空間で行われている虐待についての個々の認識を明らかにしていく事が、この世から虐待による悲痛、声にならない声を浮き彫りにしま被害者自身がより客観的に自己の被害状況を分析し気持ちの整理をつける事でより良い明日へと繋がる事を祈り進めていきたいと思う。

 虐待の種類

 虐待にも様々なものがあるが、一つに基本的には相手の事を思っているか?という漠然とした表現にその発生源を求める事ができる。もう一つは、相手の事を思ってしているという認識行為が結果的に同じ結果を生じさせているという虐待について、また意図的、偶発的を問わず“何か”をしなかったという事が虐待になる事もあるので、それらを比較しながら論拠していきたい。

 一、【故意】例

 我が子の欲求よりも自分の欲求を優先した虐待

 二、【過失】例

 躾等と称しての行為が本来の目的を達成していない虐待

 例えば、子供が他人の所有物を不当に取得した時などに“叩く”などの痛みを与える事で子供の犯した不当な行為を是正させようというもの、これでは罪を犯してはならない理由が“叩かれる”からだとの理解を子に与えかねない。裏を返せば叩かれてもいいくらい欲しい物であれば不当に他人から奪っても良いという事になってしまう。人間なのだから例え時間をかけてでも、物には“持ち主”という所有の概念があり、他人の所有物を正当な理由なく勝手に奪ったり何かしてはいけないと教えるべきだ。こういうと小さな子供にそのような説明をしてもわからないという人がいるようだが、行為の是非は痛みが伴うかどうかだと理解させてしまう可能性を与える行為こそ余計に子供が所有の概念を理解する事を阻むだろう。

 三、【認識ある過失】例

 意図偶発わず放置に至った時に、その放置によって苦痛子供に生じるかもしれないと認識しながらも「もう我が子の年齢なら大丈夫だろう」と本人を介さない判断で放置した結果、実際は子供精神的苦痛等を生じていた場合虐待

 ※本人の事前の意思を汲んだ上での放置で、実際に子供苦痛が生じても生じなくても、第三者から客観的には虐待と判断される場合も有る。

 四、【未必の故意】例

 意図偶発わず放置に至った時に、その放置によって「子供苦痛は生じる」と本人を介す介さない問わず判断し放置した結果、実際に子供精神的苦痛が生じていてもいなくても構わないと思う虐待

 ※行為としての虐待、結果としての虐待となるかどうかは別

 

 他にも虐待時の心模様は分析できるが、虐待による不都合が生じるかどうかという点では、これらの行為が多岐に又、継続的に行われるかどうか、そして被虐待児の個体差に寄ってでしか判断できない事とより効果的な虐待ラインの線引きをする為に虐待の回数、頻度、継続性やその子供の人生に不都合が生じたかどうかは度外視し“その行為虐待なのかどうか”に的を絞って進めていきたいと思う。

 それでは、ここから思いつくままに、もっとイメージを換気しやすい実例を列挙していきたいと思う。

 一、お父さんと息子がプロレスごっこをしていて上手く技が決まり泣き叫ぶ子供に対してもなかなか技を解かなかった。

 一、食事を親の許容時間内で食べられずゆっくりと遅い食事スピードの子供に対して、精神的な怒りを顕わにし、その怒りを子供に伝えた。

 一、兄弟喧嘩をした子供に対して、親の判断で判決を下し、制裁として一度の食事を与えなかった。

 一、何時にお客様が来るからそれまでに部屋いっぱいに散らかった玩具を綺麗に片づけておいてねと子供に頼んだのに、その時間になっても部屋を片づけていなかった為、児童の頭部に真上から握りしめた拳の中指第二関節の先を尖らせた部分を振り落としそれなりの痛みを与えた。

 一、子供学校から持ち帰ったテストの結果を見ると20点と書かれてあった、問題内容や平均点などがどのような状況なのかは関知していないが主観的に悪い結果だと思ったので「なにこの点数は?」と冷めた表情で悲しみを子供に伝えた。

 一、子供達数人を祖父母に預け遠方に行くことになった際に、お土産を買う事になった、その際個々の子長男、長女、次男、二女などそれぞれにお土産を買う際に、自分の子に対する好きの程度が“ひいき”としてお土産の質にも反映された。

 一、子供が食事に対して好き嫌いを顕わにした時に、栄養学的な事、勿体無い事、また添加物農薬化学調味料等による影響を考慮せず、また食べる事や残す事を“怒り”や“恐怖感”と共に子供に迫った。

 一、子供玩具を買い与える等の条件を設けてお手伝いさせたり、肩を叩かせる等した後に、その約束に対しての意識をおざなりにし約束をまだ守っていない。

 一、子供に早く寝ないとお化けや怪物、悪魔に襲われるなどと自分の信じていない事実を信じこませ嘘の恐怖感で持って子供自分意図した時間帯に寝かせてしまおうとした。

 一、家庭内でだれかの所有物が紛失した際に、証拠なく過去の行動等から子供のだれかが盗んだのではないかと疑いそれを子供に伝えた。

 一、子供が嫌がったり、将来思いだした時に嫌だと感じる可能性がある行為を何らかの脅迫や脅し、また体格差による優位条件を利用して行った。セックス

 等々、枚挙に暇が無いが、突き詰めていくと、同意や相互の了解、約束の無い事で自分保護下にある者に対して怒りの感情や、隠避の態度、また虚偽の同意や相互の了解、約束保護下にある者の言動を操作したり、当初は嘘のつもりはなく結果的に不本意であったとしても謝罪無く保護者立場を利用して子供の意思、期待を蔑ろにする行為虐待定義する事で、確かに、ほとんどは大した事のない軽度の虐待ばかりが散見するとは思うが、その浮き彫りにした小さな声の中から継続的であったり深刻な状況に陥っている児童を露わにする事で虐待から保護活動がより進むのではないだろうか。

 次に、虐待をされた側の福祉ではなく、虐待をしてしまった側の福祉を考えてみよう。確かに、認識の無い虐待の方が子供の悲痛は重いだろうが、罪悪感を認識しつつも己の言動を制御できず我が子に対してしてしまうという行為としての虐待加害者も罪を理解しているという点においては周囲が手を差し伸べるべきではないだろうかと思う。何度も閉ざされた家庭内の出来事である事は強調するが、親自身が現在において健全である因果関係の立証なくして自分の生育環境を我が子にも模倣するという事は大いにあり、その今現在健全である事はわが身が程度の差こそあれ受けた虐待が今のわが身の為になったと解釈しその虐待行為をまた我が子にしてしまうと言う物だ。

 良かれと思いやっている事なのだがこの場合本人の気分もなぜか優れないという事が多いように思う。どうも本当はこんな事はしたくはないが、我が子の将来の為に体罰や強制、十分に説明のできない因果関係の不明な理由によって我が子の言動を統制するのは止むを得ないを自己を正当かするのだが、なぜか当の親自身は心のどこかに陰りを想わせる精神状態に陥ってしまう。

 こんな時、もしも閉ざされた家庭でしか虐待というナイーブ情報について共有でき、また素直な気持ちで自分行為虐待なのか虐待でないのか話しあえる場、意見交換できる場があったらどうだろう。

 子を持つという事は責任が伴う。

 親に責任能力があってもなくても責任が伴うのだ。

 ないものは仕方がない、生殖の自由を制限することもまた違うであろう

 親になったからといって、社会は一律に保護者責任を追及しても良いのだろうか?

 そこに、責任という耐えがたい重圧感を与える事が、自らの育児教育能力自己判断し自信が持てなかったり自己否定の念の押しつけられた時、弱者である子に対し“教える”という行為をしなければならなくなった時に怒りの感情が“怒る”という形で子に向けられてしまうのではないだろうか。

 “怒る”について考えてみよう。

 子供が何か良くない事をした時に「コラーッ」と怒った場面を創造してみて欲しい。

 それは、子供スーパーで売り物を食べ始めてしまった時かもしれないし、子供自分で行きたいと言って行き始めた何かの教室勝手に休んだ時かもしれない。

 私や貴方はいったい何に怒っているのだろうか?

 子供が確かに一度はしてはいけない事だと理解したのに、私欲のために再三した事が許せないという怒りだったかもしれないし、貴方がせっかく拠出した習いごとの月謝を無駄にされた事かもしれない。他にも様々な解釈はできるが“怒り”がなぜ生じるのかをよくよく考えてもらいたい。

 そこに“悲しみ”はないだろうか?

 人は悲しくないのに怒る事はあるだろうか?

 元の感情として、自分が悲しくなる何かをされた事や身内が誰か他人を悲しませてしまう事が悲しくて、そんな思いはしたくないから“怒る”のではないだろうか?

 子供には貴方や私が怒る理由を理解するのは難しい

 まだ悲しい気持ちから怒りに転化したという実体験も希薄だろう。

 これを読んでくれた貴方には

 どうか

 どうか素直な感情で我が子と接して欲しい

 悲しい時には悲しい気持ちを我が子に伝えよう

 あなたがそんな事したら、お父さん悲しいよ お母さん悲しいよ って

 私や貴方がが無碍に他人を悲しませたいなんて思わないように

 子供純粋が気持ちとして、他人を悲しませるような事はしたくないという純粋感情がある事を期待しよう

 子供は“怒り”の感情よりも先に“悲しさ”の感情を知っている

 怒りは「快」「不快」という根本感情よりも一段階上の複雑な感情から

 親だから、大人だからといって、悲しさを隠す事なく

 例え我が子にでも、悲しい思いをさせられたら「悲しい」気持ちを表してみよう。

 きっと、わかってくれるはずだ

 今からでも遅くない 例え貴方の子供が既に成人していたとしても

 本当はどう思っていたのか? あの時は悲しかったんだよ だからあんな事をしてしまったんだと

 もし、過去の古い記憶が貴方を苦しめ

 また貴方の子がさらにまた子に対して同じ事を繰り返し、子が将来、あなたと同じ苦しみをする事を回避する為に

 勇気を振り絞って、例え過去の事であっても当時の本音の素直な気持ちを話してみよう

 きっと、貴方を許してくれるはずだ 貴方はもっと楽に生きるべき存在なのだから

@awaikumo

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