はてなキーワード: オルテガとは
アリアハンとかライフコッドだと一泊8ゴールドとか10ゴールドなんだけど
内訳どうなってるんだろって思う。
宿泊代、食事代(朝夜or夜だけor朝だけor飯無し)、安全性、規模、サービス・・・etc.
この中でどれがウェートを占めるのかしら。
200ゴールドの宿って飯付きだったら夜はステーキとか海鮮料理が付いて、朝はビュッフェ形式なんだろうな。
どこだったかバラモスに滅ぼされた村だと結構値が張るけど、あそこって朝になると無人になるじゃん?
食事もベッドのお粗末なのに金は十分に取るよね。
食事と安全面がどうにかなったら値段もそれほど気にならないだろうけど、特に冒険者としては。
そりゃ魔王に滅ぼされた村ですら高いんだから、環境問わずなんだろうけど。
要は魔王の城に近い所ほど宿代が掛かるのかしら。
確かにアリアハンもライフコッドも魔王城から縁遠いイメージがある。
でも場所によって値段が変わるんなら、危険度とかっていうのはモンスターが街に出入りしやすいかどうかに掛かるだろうから
それだけその町に付加価値があるのは確かだろうけど、じゃ最初の街っていうのは出入りする価値がないって事になってしまう。
でもそれって何かおかしくない?
既に魔王を退治しに毎年か例年何人かあるいは、世界的に知られてるような英雄の住まう自宅がある町だったりした場合、その条件は無効になるんじゃないか。
事実、アリアハンには英雄オルテガがいて、ライフコッドには最強の村の一族とか夢の世界でも勇者の魂が居ついてる。
この点を顧みると、どうやら安全如何で安くなってるのかもしれない。
危険性のある場所ほど宿泊代が掛かるのは、英雄や勇者がそこに本拠としてないから、とも考えられそう。
いっぱしの、熟練の戦士や魔法使いが多分門番になっている可能性があって、その人件費が宿代に重くのしかかっているのかもしれない。
実際、どういう経緯で値段が定まってるかは公式に聞くよりほかはないのかしら。
投票率とは政治に対する期待値であり、低い値は現状への満足(諦め)を意味する。
高いから良い、低いから悪いとは一概には言えないが、オルテガの著書、大衆の叛逆から考えれば、政治に関心があるエリートのみ投票する形態の方がいいと言うことはできる。
台湾では中国との関係性を巡って国内で意見が分かれることから、
国民が政治に対して積極的で投票率も高いが、汚職問題で政治家が逮捕されるケースも多く、他国に比べ優良な政治が行われているとは言えない。
投票率を上げるため、罰金制度を導入している国もあるが、こちらも他国と比べた際に目立った差はない。
投票しないというのはあくまでも投票権を行使していないだけで、国民としての権利全てを破棄している訳ではない以上、ないがしろにしていい理由にはならない。
http://game129.blog.fc2.com/blog-entry-389.html
諸君、私はドラクエ7が大好きだ。シリーズ最高傑作という確信がある。しかしながら、世の中の反応の一部は―いや、一部と言うにはいささか大きすぎるかもしれないが―ネガティブだ。さて、この中のネガティブな意見の代表的とも言える
に、私がいくらかのポジショントークや色眼鏡を交えながら答えてみたいと思う。
これは現在ではほぼ解決した問題である。というのも、このフリーズ現象はThe best!などの廉価版発売にともなって多くが解消されている。
ちなみに私はPS,PS2双方において、フリーズが多いとされる初期DISCを使っていたが、フリーズしたのはデスマシーン戦後の一度きりであり、それも一回だけなので多いという実感はない。
他のフリーズが多いとされるゲームでも同様であり、私はフリーズが多発しているプレイヤーの使用環境、ハードの状態が気になるところである。
参考までに私の部屋は埃っぽく、ゲームもケーブルに繋いだまま放置ということもザラで、いい環境ではない。DISCに細かな傷が付いているものも多い。
いわゆる「種返せ、ブス女イラネ」である。これを持って「ドラクエらしくない、ドラクエは王道でなければならない」とさえ言うものもいる。この「王道」というのはドラクエに結構重要な意味を持っている人も多いようだ。
さて、ドラクエらしさとはなんだろうか。私は天空以降のシリーズでは「離別と喪失」に見出したい。
なぜ天空以前と切り分けるかといえば、ロト三部作は主要人物に近しい人間が「作中で」離れるということはないのだ。2のムーンブルクは作中ではない。3のオルテガもゾーマ城で主人公の前にて息絶えたが、それまでに殆どの情報がないため、思い入れある人が多いとは思えない。
ところが4になると作中で主人公の町は滅ぼされ、エドガンの弟子とは生き別れ(しかも選択次第では死ぬ)、サントハイム城はもぬけの殻になり、ロザリーは人間に殺されたり、人間関係を露骨に描き出してくる。これは当然容量の都合で出来ることが増えたのはもちろんだ。4で王道らしいのは実質第一章のみであり、何も失われていないのはトルネコぐらいのものだ。
5では主人公の父母が死に、主人公夫妻も子孫を遺して仮死状態になるなど、近しい人間が失われる。モンスターを仲間にするというコンセプトも影響してか、前作よりは少ないが、親が死ぬことを強く見せたのは後にも先にもこの作品のみである。
6は毛色が変わり、「喪失したものを取り戻す」ことが強く打ち出されている。そして、失ったものを取り戻すことによって別のだいじなものが失われることを描くことに成功している。この作品のバーバラとターニアの立ち位置は象徴的である。この作品が悲愴的なのは、プレイヤーは喪失したものを取り戻す過程で、これから失われるだろう別のだいじなものに感情移入していることだ。
さて、7である。私はキーファの離脱に強く反発する理由を見いだせない。というのも、これだけさんざん人との別れを描き尽くしてきたのに、なぜ反発するのだろう。推し量れば、前作のバーバラの別れはシステム上そうなることが予見できていたうえ、エンディングの出来事だから気にならない人が多かったのではないか、そして、パワータイプで「「使い勝手がいい」」キャラが物語の途中で「「勝手に」」抜けることに不快感を覚えた人が多いのではないか。
まあ、これは発売前、当時の雑誌に掲載されていた開発中場面の写真にも問題あると思うが。
いわゆる「石版」と「序盤の物語」と「ゲームバランス」と「擬似3D」である。
前者2つは物語の根幹だが、軽視されがちだ。というのも、結局ゲームとはどこまで行っても作業だ。その作業を作業と思わせないことが重要なのだが、前半の探検部分はとりわけお使いでもないのに作業だという意見は多い。これは私にとって意外だったのだが、最初の神殿の謎解きが分からないから投げたという人もいた。
また、今作最初の戦闘導入はシリーズ中一番だと思われる。多くのRPGは魔物がいる世界が当たり前になっているなか、こういうシチュエーションは新鮮だ。
石版システム、私は楽しんだが、「コレクトの強制」を冗長かつ不快に思う人がいるのは当然だと思う。似たようなので言えば「ゼルダの伝説風のタクト」あたりが同じ理由で批判されている。
一部のボスキャラが職業によって難易度が大きく変わるというのは、しかたがないこととはいえ問題である。山賊やヘルクラウダー、オルゴ・デミーラなどはよく取り上げられる。
今作からは世界が3Dっぽくなり、視点移動が可能になった。視点を変えないと見つけられないところがあるというのは私にとってプラスだったのだが、不評の声がこれも多い。7のようなタイプで天空シリーズはすべてリメイクされたが、どれもこれも視点を変えずにクリアできる以上、立体化する意義はないと考える。
他にも雑多な不満不平は見受けられたが、割愛する。
いずれにしても私からすればドラクエ7はシリーズ最高傑作であるのは間違いない。今のところ、10は買わない予定だ。9は買ってひと通りクリアし、すれ違ったが、どうも受け付けなかった。たとえドラクエでも、毎月1000円も払ってられないというのが10を買わない理由だ。モンスターズ3Dは買うつもりでいる。
「ロウ・クオリティ」の時代
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0199.html
大衆がどのように出現してきたか、オルテガの回答は意外なものである。「自由民主主義」と「科学的実験」と「工業化」が大衆をつくったのだというものだ。これでピンとくる人はよほどカンが鋭いか、何かの苦汁を嘗めた経験がある人だろう。
自由民主主義が大衆をつくったことは多数決の原理にあらわれている。これはわかりやすい。工業化が大衆をつくったことも、マスプロダクト・マスセールによって誰もが同じものを所有する欲望をもったということを見れば、見当がつく。
(略)
科学は「信念」を母体に新たな「観念」をつくるものだと思っていたのに、このままでは「信念」は関係がない。細分化された専門性が、科学を世界や社会にさらすことを守ってしまう。こんな科学はいずれそれらを一緒に考えようとするときに、かえってその行く手を阻む。それはきっと大衆の言動に近いものになる。それよりなにより、そうした科学にとびつくのがまさに大衆だということになるだろう。
そうかもなぁ。
というか、
1. 思考力がない(つまりバカ)
2. バカであることに誇りを持っている(もしくは、問題を感じていない)
3. 自分の理解できないことは理解する必要がないと考えている
という輩が多いよね。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
RPGはゲームの中の役になりきって遊ぶというのがその本来の定義である。数あるRPGの中でもドラゴンクエストシリーズはこの原義に則り、主人公=プレーヤー、という構図が忠実に守られているゲームの一つである。
ゲーム内での仲間というのは、さながら友達のようである。しかし、ゲーム内の家族となると、それは微妙な位置にあることになる。自分の家族ではないのにゲーム内で家族として振る舞うキャラクター。下手に扱うとプレーヤーにどうしようもない違和感を与え、主人公とプレーヤーを乖離させかねないこの『家族』、特に『親』を、ドラクエシリーズではどのようにあつかっているのか、簡単に考えてみた。
この記事はシリーズのネタバレしまくりなので、どうかご注意いただきたい。
主人公自身の出自が明確ではなく、親は陰も形も出てこないので問題無し。
主人公の父がシリーズ初登場。だが、特に父親らしい振る舞いをする訳でもないので、その存在に違和感を感じるようなことはあまりない。
主人公の母はいつも主人公の帰りを待っていてくれていることから、プレーヤーはこの『母親』からある程度親しみをじることができる。「お友達も泊まって行ってくださいね」という台詞も個人的にポイント高い。そして最初の王への謁見イベント以外では特に親であることを強調したイベントはないので、その存在にそう違和感を感じることはない。
主人公の父にはすぐに会うことはできないが、ことあるごとに人々からその偉大さについて聞かされ、興味や関心が湧く。そしてエンディング間近のオルテガの死のイベントで、やっと会えたのに…、と残念に思った人は多いだろう。こうした衝撃的なイベントであっても、それまでの伏線の張り方の秀逸さのおかげで主人公とプレーヤーの心情が大きくかけ離れることはない。
余談ではあるが、エンディングでギアガの大穴が閉じてしまったとき、私は真っ先にアリアハンで一人家を守っている『母』のことを考えてしまった。考えてみると、これは相当すごいことだと思う。
この作品では主人公に両親は居ないということになっている。もしかしたら、という人は居るが、それは本当に匂わせるだけのことであり特にイベントが用意されている訳ではない。
しかし下手にイベントにしてしまうと、主人公とプレーヤーに突然の『親』の登場による違和感を感じさせたり、あまつさえ主人公が妙に親になつく様な流れになったとしたらプレーヤーが置いてけぼりになる可能性が大きかったと思う。この程度の描写で想像の余地を残すにとどめたのは正解だったと思う。
ドラクエシリーズの中で一番家族の陰が濃いのは間違いなくこの作品だろう。幼い主人公を最後まで守ってくれた父、自分が妻に選んだ女性、いつの間にか大きくなってしまっていた子供たち、父と自分とでずっと探し続けていた母、全員に思い入れが出来るように巧妙にイベントが配置されている。
例外と言えるのが突然成長した姿で現れる子供たちかもしれないが、しかしここでプレーヤーが子供の存在に違和感を抱いたとしても、ストーリー上主人公もまた自分を父と呼ぶ子供たちに似たような違和感を感じたはずである。
また、妻を選べるのも大きなポイントである。もし話の流れ上強制的にビアンカと結婚することになっていたら、主人公とプレーヤーの心情はかけ離れてしまうことになっただろう。選択肢は二択だったとしても、自分で選んだ、という点が重要なのだ。
ゲーム内の『親』に対する違和感をある意味一番上手くみせているのはこの作品だと思う。この作品では3や5のように『親』に対して思い入れを作るようなイベントは用意されていないが、主人公の両親、特に母は主人公の親らしく振る舞うことになる。この突然の『親』っぷりに違和感を感じたプレーヤーは多いと思うが、しかしそれは完全に家族の記憶を取り戻すことが出来なかった主人公もまた同様に感じた違和感なのであり、切なさを非常に上手く演出していると思う。
フィッシュベルに住む主人公の両親は、基本的に3の主人公の母的な存在である。父親はたまに漁に出ているものの、帰れば二人とも家に居て、主人公を普通に迎えてくれる。そして特に大きくイベントに関わったり主人公に干渉してくるようなことはない。特に親子関係を強調してくることもないがそれゆえ大きな違和感も感じない、そういうタイプの親である。
そして7の場合、主人公の両親と思われる人々がもう一組居る。しかし彼らに関してはドラクエ4的な方式がとられている。あくまでも関係を匂わせるだけにとどめ、やはり親子関係を強調したイベントはない。こうすることでプレーヤーに違和感を抱かせることなく親を描写している。
この作品中に登場する主人公の家族は祖父のみである。両親は既に亡く、彼らについての話は祖父やその他の人々から聞けるのみである。両親のことを全く知らない主人公と、同じく『両親』のことを全く知らないプレーヤー。この両者がこれらの話を聞いて抱いた感想はやはりそう大きく離れたものにはならないだろう。
そして主人公の祖父の登場の仕方であるが、結構細かい伏線が張ってあり、また要所要所で彼に親しみを感じるようなイベントも用意されている。それらがあった上での満を持しての登場であるから、本当に上手く出来ている。
しかし今回こうしてまとめてみて、ドラクエシリーズは本当に丁寧な世界観を作っているものなのだな、思った。それは別に壮大な世界観ではなく、そこに居る、と感じられる世界観である。特に全世界を回ることが出来る様なRPGの場合でそうした世界観を表現するにあたって、主人公が天涯孤独でない限り家族の描写に関する問題は避けられない。が、その扱いは上手くやらないと主人公とプレーヤーの意識を乖離させかねない。しかしここに述べたように、ドラクエシリーズはその点本当に上手いと思う。
オルテガ(DQ3のひとじゃないよ)いわく、大衆的なものを嫌悪する大衆が存在するようになると「大衆社会化ここに極まれり」ってな具合らしいですが、はてな村を見学して回るとつくづくそう思いますね。自称「リベラル」も自称「保守」も、そろいもそろって「オイラちゃん(アタシちゃん)は愚昧なる大衆ちゃんとは違うでゴンス」と吠えている割に、なんかの拍子に漏れる本音がびっくりするくらい下衆で「どうみても大衆です本当にありがとうございました」みたいな具合だったりしちゃったりなんかしちゃったりなんかして。げひひ。
で。
そういう「大衆批判するやつこそ大衆的だ」みたいな思考を学習して中二病(大衆批判)から高二病(大衆批判する大衆を批判)に移行したやつもはてなーにはたくさんいるんだけどさ、それもまた痛いというか、高二病のやつは「大衆批判する大衆を批判」して「批判など思いつきもしない大衆」を持ち上げるんだけど(cf.吉本"だいたいでいいじゃない"隆明「大衆の原像」)、でもそうやって「大衆」を対象化している時点で高二病さんも「大衆」ではなく、ただ「大衆批判する大衆」の間のパワーゲームに「大衆」という概念を使っているだけなわけで、本当に「大衆批判する大衆」の存在が害悪だとかなんだとか思うんならまず自分が積極的に沈黙しろや!!カチコミいれんどワレ!!
で。で。
この文章は「中途半端に前衛気取りのブロガーどもめ、お前らいますぐ回線切って首吊れ!」とか主張しようっていうもんじゃねーんですぉ。戦後民主主義体制の中進行した消費社会化の完成に加えて、インターネッツの発展(モチオ!)によってますます中途半端に「知」にアクセスしやすくなったこの日本において、本来ならば目覚めてもどうしようもないような社会的な地位に置かれているにもかかわらず、内面だけはいっちょまえに貴族や知識人のようになってしまった悲劇的な存在は、この同一の社会階層内での流動性は極めて高く、階層間の上下移動の流動性は極めて低い社会でどうやって生きていけばいいんでしょうか、とかなんとか相談がしたいんですにょ。「NPOにでも入れ」とか「恋でもしろ」とか、その手の「終わり無き日常をイ??」系のおもんない回答以外でシクヨロ。諦めようとしてもどこまでも諦められないから悩んでるのに「諦めろ」とか返すやつはコミュニケーションスキルの低いお馬鹿タン、すなわち「ダメ萌えキャラ」ですよ(←「コミュニケーションスキルが低い」とひとこと書いておくとはてなのウザいひとたち(例:白熊)は押し黙るから便利だと聞いた)。