なんでしにたいのよ
必勝祈願とか言葉で伝えるだけでは駄目だったんか?
「日本はウクライナの必勝を祈願している。そのための支援も日本の可能な手段で惜しみなく続けていく」とかいうだけでは駄目だったんか?
外交のことは詳しくないがあんな「奇妙なプレゼント」を贈ることってよくあることなんか?
言葉でいうより物で贈ったほうがより強いメッセージになるということか?
しかししゃもじより現金何億ドル供与した、支援物資何トン積み上げたみたいな話題のほうが強いメッセージのように見えるのに、しゃもじを贈ったせいでむしろ弱いメッセージに見えてない?
なんかしゃもじ一個贈るために行ったんか!?みたいなこと言う人もいるし。
お願いします。
性欲強いと恋愛こじらせは正の相関にありそうだが
たとえばさ、「私キスもしたことがなくてー」とアイドルが言ってたのに彼氏とのハメ撮りが流出したら大嘘憑きとして各地にクギまみれの藁人形が乱立するじゃん?
でも青山の「私って友達とかいなくてー。それでーこないだいつものメンバーで旅行に行ったときの話なんですけど~」は許されるのね。
お前それはもう友達じゃろ!本物のぼっちが職場の人間と仕事以外で団体行動するわけ無いやろ!出張先でも理由つけて食事会さえ断るのが真のぼっちやろ!
チェンソーマン構文を使うまでもなく明らかにぼっちの行動ではないだろこれは。
なぜコレが許されているのか俺には全く理解が出来ない。
童貞を自称していたツイッタラーや同人作家が「子供が~」「嫁が~」とか突然言い出しても許される空気も意味分からん。
何なんだこの世界は。
「年収1兆円あるけどこれは買わない」とか「46億年ぶりにはてブでコメントするか」みたいな嘘と同じ枠に「ぼっち」「童貞」「KKO」を入れるんじゃねえ。
ChatGPTに問いかけをする場合は設定を付与しないと機械的に返してくるぞ
牧師のように、経営コンサルタントにように、看護師のように、福祉課の人間にように
じゃあChatGPTを属人化すればいいじゃんってワーケ
煽られたというか、カチンとくる皮肉を書かれた。
とりあえず1日寝かせてみたけれど、
まだ冷静に書き込みできるような気がしない。
さて、あなたならどうするか。
・本人に直接話をして通じるかというと怪しく、
・これ以上時間を置いたら「なぜ今更?」感が出る
それがベストな解だと頭では分かっていても
心が納得してくれないんだよなァ…。
あーしにてえ
タイトルほど仰々しいものは特にないのだけど、ボロボロななった靴は冒険を終えた俺たちおっさんやおばさんのことで、今度は新しい靴を我が子に託して冒険を見送る側になったんだよっていうメッセージに見えた。
みんなは見送る側になれてるのかな?
これすごいな
これすごいな
他人のことを貶す場合は、「人を呪わば穴二つ」と言われるように、貶す私自身が批判の的となってしまう場合がある。
例えば、私の貶しが第三者によって論拠不足だとみなされた場合、不当に他人をおとしめたとして、私自身が批判される可能性もある。
だから、他人を貶す場合は細心の注意を払って、自らに降り注ぐ火の粉を回避するように丁寧に説明しなくてはいけない。
自分の褒め方が不十分で、相手のことを上手く褒められなかったとしても、責められることはほとんどない。
ということは、褒めるより貶す方が、話す技術としては圧倒的に難しく、脳への負担も大きいと言えるわけだ。
そして、私が他人のことをついつい無駄に褒めてしまうのも、そういうことなのだ。
それはなにも、今さら良い子に見られたいわけでもないし、温厚だと思われたいわけでもない。
なんなら、その褒めている対象を心の底では、褒めるに足る人間だとは別に思っていない。
ただ、脳への負担が少ないままベラベラとたくさんしゃべれるので、脳へのコスパ(= 多弁になれる快楽 ÷ 脳への負担)を考えると、
その他人が本当は貶すべき印象しか無い人間だったとしても、他人のことはついつい無駄に褒めてしまう。
私の脳に生まれる多弁という快楽を、コスパよく生じさせるがために、意味なく褒めてしまっているというのが、「温厚」な私の実情なのだ。
また逆に、私だけでなく、「温厚」と呼ばれる人の多くはそういうことなんだとも思う。
つまり、貶しによる軋轢を回避し、褒めによる快楽を効率よく享受するために、他人のことをついつい無駄に褒めてしまう人たちなんだと思う。
私のことは誰が救ってくれんだよ
もうね顔つきがギリギリ普通の人のフリしてるだけで、ちょっと喋るとそういう顔になるの。ずっと不機嫌そうで、喋ってる言葉もよく聞こえない。でも頑張ってるんだろうね。頑張って馴染もうとしてるのに相手は「は?」って顔するからそりゃ不機嫌になるよね。「僕ちゃん頑張ってるもん!」って顔に書いてあったよ本当。
歩くときもびっこ引いてるんだよね。膝の関節がまるフィギュアスケートの選手がジャンプする寸前に溜めるときみたいっていうか、普通に歩く時には曲げないレベルまで斜めにしてるの。やたら両足をクロスさせて斜めに蛇行するような動かし方をしてるから、足の動きに対して前方方向の歩幅は普通なの。でも斜めの動きでは大股に歩いてる。普通に歩くっていう事自体が生まれつき出来ないんだろうなって動き。
そんでまあとにかく色んなお客さんに対して覚えた呪文をゴニョゴニョ言ってるんだけど、お客さんがそれに対して普通に回答しても「は?何言ってんだテメエ?」みたいな顔と声で次の回答を言うの。
お客さん「転出の方です」
その人「…………………そうですか💢では💢こちらの書類に手続きしてください💢」
みたいな感じ。なんでそうなっちゃうんだろうね。最初のフレーズは機械的に言えてたでしょ。そこから二択のIF分岐に行くだけの処理でなんでそんなテンパっちゃうの?ちょっとマジでヤバイよー。
それでまあその人の管理してるっぽい人がちょくちょくやってきて「君。頑張ってるね」みたいな事言ってるわけ。もうね……職場全体で何とかこの人でも出来る仕事をやらせて仕事から干してる訳じゃないって状態に持ってくために必死になってるのが伝わるわけ。こりゃ凄いよ。福祉だよ福祉。
自分は別の若手のネーチャンに相手してもらってマスクの舌で「グヘヘヘかわええのう」って鼻の下伸ばして横目で見てただけなんだけどさ、この人に案内してもらわなくて良かった―と内心ほっとしてたんだよ。いっそ窓口業務にこんな人置くとか狂ってんのかこの役場ぐらいに思っていたわけ。でもさこういう様子を見ちゃうとさ、本当にこの人は頑張って生きてるし、こういう人が社会から切り離されて中途半端な知性から自分の置かれた境遇の不公平を呪って殺人鬼になったりしないようにするのって大事なんだよなと感じたわけよ。
いや凄いね。自分の職場は規模的にもしょーもないから障害者雇用なんてやってないけど、役所はそういうのから逃れるのは無理だもんなあ。大手企業だったら他の会社と一緒になってまとめて働かせてるふりをさせるシステムに組み込むんだろうけど、役所がそれやったら問題だもんなあ。生で見せられるとかなりのパワーがあるよ。やっぱね障がい者であっても1人の人間だから感情も人権もあるし、戦闘能力やそこそこの頭脳も持ち合わせているわけ。それをなんとかして社会の中で存在させ続けなきゃいけないってのは中々骨だなと。
世の中には結構な数の障がい者がいるはずなのに、街で見かけるのは電車で車掌さんごっこしてる人や分かりやすく杖をついてる視覚障害者ぐらいじゃん。車いすの人が一時的に車いすなのか麻痺しているのかは外からじゃ分からんしさ。でもいざ仕事先や各種の店舗に行くとどこにもいないんだよね。行き帰りの電車にはいたはずの障がい者が社会から急に消えるわけ。彼らはどこで何をしているんだろうかっていうと、こうやって周りがサポートしながら何とかかんとか組み込もうとしてるんだねえ。周りがだけどね結局。それらをまとめて集めて障がい者雇用の補助金を一緒に中抜するシステムが少し前に話題になったけど、いやいや正直あっちの方がまだ人道的なんじゃねえかなって思うよ。健常者の社会に無理に組み込んでも可愛そうなことになるだけだわ。球技大会に参加した運動音痴、いやもっとひどいことに合唱コンクールの音痴のごとく、やれば責められやらねば責められ何をしても存在そのものを疎まれるだけというのはお互い苦しいもんだよ。こっちとしても目の前に置かれて楽されててもきっとムカツクだろうし、かといって自分がそれとやり取りしていい気持ちで終われるかっていうと自信がないね。
怖いね。
もし自分がああ言う立場だったとしたら、なったとしたらどう生きれば良いのか全く分からない。全ての感情と思考をいっそ捨て去って、ただ漠然と日向ぼっこだけして暮らしたいけどそれはやっぱズルいから許さないよとなるんだろうね。じゃあどうしろっていうんじゃの答えが無理やり働かせて皆で苦しむ道か。それでも自分や相手にとって都合がいいぐらいのバランスになれたらいいけど、その塩梅を判断するほどの知性が失われているならもう運任せだ。昔読んだ小説で、知性の失われ始めた青年が、せめてその後の自分の面倒をみる相手ぐらいは自分で選ぼうと障がい者施設への手続きをするシーンがあったな。まさにそれなんだな。でもきっといつか老人にぼくもなってニンチショーでホームというところのおわせになるだんろうな。