今回の場合は、まさに棋士のあいだで「ソフトと一致しすぎじゃね?」という話が出て、それを受けて連盟が聞き取りしたんじゃないの。
政治家が自由好きなんじゃなくて有権者が好きなんだよ(もしくは好きだろうと思われている)
保守党と名乗った方が票獲れそうならそう名乗るよ
システム化しただけでは売れないという状態にどんどん進んでいる
そんな中「制作+コンテンツ」を数十人単位のチームで実現してきたのがアニメ業界とゲーム業界だ
私ははじめ、ゲーム業界を参考にしたが、特に最近のゲームタイトルは「数撃ちゃ当たる」が基本となっている
参考になる部分も多くあるが、思ったほどではない
深く知りたいなーと思ったが
彼らは文ではなく絵で語る
知り合いの知り合いの知り合いくらいには居そうだけど
そもそもアニメ業界の人に聞いただけで全体のフローってわかるものなのか疑問だ
絵描きはエンジニアに近く、おそらくそこまで深く理解していないのではないかと思う
制作進行はディレクターに近いだろう。全体のフローは理解しているだろうが、意思決定プロセスまではどうだろう?
監督・・・は気軽に話聞けないし、俺じゃどうあがいてもコネクションなさそう
それでは、ここでプロの水切り師の技をご覧ください。
もともとは、
自動ブレーキ車=特別な仕様なので本体は高い→普及しない→普及しないから開発も進まない→自動運転車なんてもっと高くなるので…><;
という考えがあって、それが保険の割引でトータルコストが下がるようになるわけだから、
だから、尻ぬぐいばっかりさせられるわけだ。
もちろん、そんなことを言う人間もだ。
例えば石の水切り。
川原とかで石を投げて跳ねさせる、なんてことはない遊びだ。
けれども夏休みの一幕において、精神的優位に立つ程度には大事でもある。
弟のマスダも、今年の夏はこの通過儀礼が待ち受けていた。
よく一緒にいる仲間たちと、近々キャンプに行くらしい。
指南を俺が断れないよう、ゴールデンアイ007でオッドジョブと防弾チョッキを譲るという涙ぐましい接待をしてきた。
プロフィール欄の特技や苦手の項目どちらにも、石の水切りなんて書いていない程度の俺に頼んでくるほど、弟は切羽詰っていたのだ。
仲間の中で最も上手いとまではいかなくとも、下手くそだと思われないレベルにはなりたいというのが要望だった。
意外にも身の程をわきまえた依頼に感心した俺は、サクマ式ドロップスに入ったハッカ味だけを食べる役を、弟が引き受けることを条件に了承した。
結果として弟は安定して2桁いけるようになり、俺は石の水切りを教えるのが上手い兄として認知されるようになった。
俺のプロフィール欄の特技にも、直に「石の水切りを教える」と書かれることだろう。
後にキャンプでの話を聞くと、川原がなかったので石の水切りはやらなかったらしい。
人間は人に対する好感度がマイナスからプラスになると、普通にプラスになった時より多く上がる。みたいな話を聞いたことがある。
ようするにヤンキーが雨の降る日に子猫を拾ってるのを見たときのような「あいつ悪い奴じゃないじゃん」みたいな感じのアレだ。
ちなみにこち亀で「ヤンキーが更生したから誉める必要なんてない、最初からまじめに頑張ってる人をほめるべきだ」みたいな話のあれ。
しかし世の中には、絶対的に覆らないマイナスの好感度とかがあるわけで。
そんな感情を仕事仲間とか家族とか、そんな近しくて逃げることの難しい相手に抱いたときはそりゃもう大変。
ストレス解消をうまくしたい。
「AとBがありますけど、当然みなさんAですよね!」的なことを書いてる人がいて、
どちらかというとAのが少数派かもなぁ…と思って読んだんだけど、
「何言ってんですか!Bに決まってるでしょ!」
「Aなんてありえない。どういう躾されたんですか!」
もうこんなのばっかり。
人としてどうこうとか、他のことでも変なことやらかしてるんじゃないですかとか飛躍しすぎの人もかなりいた。
何でこんなに沸点低いの?
「私はBですね」で済むところなのに、怒りのエネルギーすごすぎてこわい。
大卒の人が大卒は正しいと喚く記事を読んで、学歴コンプレックスっていうコメントを見たわけだけど、これって学歴コンプレックスとは違う何かじゃないかなあ。
抽象的なはなしだけど、多分その記事の筆者は(そして多くの人は)「幸せが確定するチケット」を求めていて、この20年位、それは大卒の肩書だと思われていたし、購入者もそう信じていたのではないかな。
彼が記事の中で肯定しようとしたのは「大学卒業資格は人生を幸福にする」ということそのものではなくて、「過去自分が行ったチケット購入判断は間違っていない」ということなのだとおもう。
彼が守ろうとしたのはは「大学卒業資格は人生を幸福にする」という事実ではない。もちろん「幸福」ってのは主観的なものなので、統計で一刀両断にはできないんだけど、経済的な側面で言えば、大卒資格者のほうが高卒資格者よりも、生涯賃金が大きくなるというデータが有るのでそれですむ。示す必要すらなくて、彼自身がその統計を見て「そうだな」と思えばそれで済むので、そもそも記事を書く動機にはなりえない。
そういう経済面に限れば、大学卒業資格というものが、100%確定ではないにせよ確率論的にはある程度効果のあるチケットだったっていうのは有る。しかしそれは同時に、「確率論的」「ある程度効果のある」にすぎないわけでもある。「それを購入すれば購入者は確定した幸福を保証される」わけではない。効果の程は購入者によって程度の差がある。
(そもそも大学というのは研究/教育機関なわけで、そこに「幸せ」なんて主観的な、しかもチケット一枚で生涯を保証するようなものを求められても、大学側は「知らんがな、困るがな」でしかない。この件で大学が悪いわけではない)
筆者が守りたかったのは、「俺は大学を出て幸福だ」という以上の、もっと広範な「大卒チケットを購入した人間は幸福になれる」という「世界観」だったのではないか。それはすなわち「過去自分が行ったチケット購入判断は間違っていない」という保障でも有る。もうちょっと踏み込むと、「攻略法Xを実践すれば人間は幸福になれる」みたいな思想なんだとおもう。そして、これは、すごくわかる。
人間は日々を生きる上で脳みそ空っぽで生きるのは難しい。どうすればうまくいくか考えちゃうし、試行錯誤しちゃうし、うまく行けば嬉しいし、失敗すればなにが悪かったか考えてしまう。「セカイには攻略法が有るはずだ」って思想は人類進歩において巨大なアドバンテージだった。それは、自然科学分野においてはおおむね正しい。背景には物理法則があって、同じ入力には、同じ出力が返ってくる。技術研鑽や職人的な人生においても、概ね正しい。そういう態度で経験を扱えば、一定の知見が得られる。
だから「攻略法Xを実践すれば人間は幸福になれる」みたいな思想はすごくわかるし、自分を点検しても、この類型は形を変えていくつも発見できる。
でも実際問題、本当にこれが正しいかって言うと、ぜんぜんそんなことはない。人生という関数は入力が同じでもその個人ごとに出力がぜんぜん違うようだ。そもそも「同じ入力をする」ということ自体が人知では制御できないほど難しい。双子なのにぜんぜん違う人格になったり将来を迎えたりするわけで。人生という巨大関数はすくなくともワンチケットでフリーパスになるほどちょろいものではない。信用できるデバッガもない。
でも、その事実はかなり痛みを伴う。「人生に攻略法がない」というのは(もちろん確率論的にだが)「どんなに頑張っても不幸にしかなれない人間が存在する」ということを意味するからだ。
(※もちろんこれは一部宇宙の事実と異なります。瞑想とジョギングと野菜はすべての人生を攻略します。Yes、ぶくまますたー!)
そんなわけで、件の記事はなんだか悲鳴のようにも聞こえた。「この世界に攻略法は有るよ、ぼくらが幸せになれるチケットは実在するよ! ボクの過去の努力コスト支払いは間違ってなんかない! なぜならボクはいまそのチケットで暮らしているからだ!」――あの記事で筆者が説得したかったのは、誰より筆者自身だったのではないかと思う。
同様の光景はあちこちで見ることが出来て、それが先鋭化すると、論理が逆流を始め「(大卒資格が幸福チケットであるという)世界観を守るために、高卒以下の人間は不幸でないとならない」な方向に拗れてしまう(連中は全員DQNみたいな発言)。そうなると地獄の二次生産だ。だがどちらにせよ、それは学歴コンプレックスと言われているものとは、隣接しているけれど、もっと何か違うものなのじゃないかと思う。