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2023-08-15

オタクと女オタクの断絶を煽っている勢力がいるようだ

これはちょっと不味いぞ。

集団の規模が単純に半分になるということは、支配扇動の容易さが単純計算でも倍になる。

単純に半分にするのではなく、実際には「特定属性に偏って半分になる」ということを考えるとリスクの跳ね上がりは5倍以上と考えて良い。

これはドリッヒ・ラングの言う「26%による過半数支配」の法則を思い出し貰えれば手っ取り早いだろう。

ある特定集団実質的には多様な価値観分布しているほど、その集団支配するのは容易ではなくなるということだ。

それは同時に規模が大きければ大きいほど、集団全体の中のごく一部を狙って扇動しても、それを全体に波及させるのは難しくなるということでもある。

オタクと女オタクが分断された場合、「オタク全体」を扇動するのに比べてその難易度は大きく下がる。

たとえば男オタクコントロールしたいなら「なぜ女性キャラクターポスター攻撃されるのにBLは許されるのか」を軸にすれば良く、逆に女性オタクであれば「なぜBL気持ち悪いと扱われるのにロリコン文化は平然と根付いているのか」で騒いで見れば良い。

そしてこれらの扇動を行う者たちの最終目的は「オタク的な文化破壊」であり、それは男オタクと女オタク双方にとって害のあるものだ。

だが男オタクと女オタクが分断されてしまえば、「攻撃されているのは男オタク(女オタク)の文化であり、女オタク(男オタク)に害が及ぶことはない」と錯覚させられる隙が生まれる。

マルティン・ニーメラーの「彼らが最初共産主義者攻撃したとき」に詠われるように、特定集団への差別活動が行われた場合は、同じ論理によって自分たち攻撃される可能性を警戒する必要がある。

だが、分断を行われるとその警戒意識が薄れるどころか、むしろ自分たち攻撃に加わる側に回るリスクさえある。

オタクと女オタクの分断を煽る勢力に踊らされてはいけない。

オタク権利を守るために最も重要なのは、あらゆるオタクが団結して巨大な一つの群体としてその他の勢力と戦えるようにすることだ。

たとえそれが悪臭を放つ者たちを含むカードゲームオタクであろうが、性暴力に目をつぶる者たちで溢れたジャニオタであろうが、迷惑行為を繰り返す者たちへの自浄作用を発揮せぬ鉄道オタクであろうが、それぞれのオタク達がそれぞれの抱える癌細胞と日夜戦っている同じ悩みを抱える同士であることを信じて団結するべきなのだ

オタク達よ分断と戦うのだ。

切除すべきは「迷惑行為を行う一個人」「異常な思想を持つ一個人」であり、「自分理解できない価値観を持つ特定集団」ではない。

理解が出来ていないのならば大きなオタクの枠組として団結を続けるべきだ。

理解をした上で、犯罪行為を行っていることが確かであるならばそのとき個別警察に突き出せば良い。

オタク達よ、今真に恐れるべきは分断されることだ。

2022-11-25

解雇」に夢を見過ぎている日本イーロン・マスク信者の頭の悪さ

最近イーロン・マスクTwitterを買わされてその従業員を大量に解雇しているニュース話題になり

その影響を受けてかインターネット上では自分が気に食わない企業サービスに対して「~~の社員イーロン・マスク解雇してくれたら良いのに」という言動をする方を見かけるようになりました

それに伴って、「Twitterの元社員は使えない奴ばかりだった」「今残ってる奴は有能」という根拠の無い言動も目立ちます

私はこれを見て、解雇一般的ではない日本では「解雇」に対して夢を見すぎている幼稚な人々が多いのだなと感じます

これは解雇一般的アメリカでもそうですが、解雇は有能は残り無能けが出ていく様な銀の弾丸では無く、寧ろその逆の事が起きる事が往々にしてあり、更には会社評価信頼性を間違いなく低下させる行動でもあります

決してイーロン・マスク脳死で支持している方々が思うような勧悪懲悪的な行為ではありません

にも関わらず「解雇さえすれば、有能だけが残ってくれる、解雇された人間無能に違いない」という幻想違和感無く信じ、またそれを他の会社に対しても望んでしまう人々が日本にはこれだけ多いのです

更には、彼らの中には「イーロン・マスクがやるのだから問題ない」「イーロン・マスクが間違えるはずがない」というような、権威主義パーソナリティと呼ばれる頭の悪い人だけが到達する思想に染まっている人々も存在しま

まさに解雇が当たり前でなく、権力構造が硬直しがちな日本的な価値観と言っても良いでしょう

近年では他の先進国と比べて解雇規制が厳しい日本でもその緩和についての議論が活発に行われています

この議論の終着点がどこになるかは兎も角、もし今の日本でもアメリカの様な解雇可能になったとしたら

解雇は正しい事だ!」という誤った認識によって不必要かつ過剰な解雇が大量に行われ

そしてアメリカとは異なり解雇された方々に対して異常な偏見を持つ人々によって、根拠なき誹謗中傷や、再就職とその支援に対する悪影響がある事は想像に難くありません

その時には今日本でイーロン・マスクを絶賛している人々のほぼ全員が、マルティン・ニーメラー言葉通りの結末を迎える事になるとも確信しております

権力を盲信し、労働者に対するリスペクトが無い日本の様な社会では、企業に「より自由解雇権」というカードを配る事は非常に危険な事なのです

2020-10-31

日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明

http://studiit.jp/

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日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明

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 日本学術会議が推薦した第 25 期会員候補者 105 名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、

明確な理由説明はなく、説明要求を斥けることは学問の自由理念に反すると同時に、民主主義敵対するものであり、

これに断固として異議を唱えます

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 《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力行使国民に対する暴力)であり、主権者である国民説明責任を果たすことが

民主主義の基本だからです。

情報公開制度古代ローマ時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。

必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望します。

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令和 2 年 1017

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イタリア学会会長

藤谷道夫慶應義塾大学教授

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理由

 イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第 3 条)

イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動適用することは、学会目的に適う実践行為判断し、

今回の声明を発した理由簡単説明したい。

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 菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民

理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員

一員として、政権批判してはならない」という意味になる。ここには 2 つの大きな誤謬が隠されている。

学問国家従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、

政権批判をしてはならないという誤った公民である

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 学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類資するものである与党資するものだけを学問研究

なすことは大きな誤りである学問研究によって得られる利益人類全体に寄与するものでなければならず、

時の政権のためのものではない。

判りやすい例を挙げれば、日本西洋から数学物理化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵無償で受けた。

万有引力定数や相対性理論発見したのは日本人ではない。その恩恵利益を受けながら、その使用料は払っていない。

なぜなら学問成果は全人類共通善として無償で開放されているかである

日本国には受けた恩恵人類に返すべき義務があることは言うまでもない。

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 国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である

公務員政権の《しもべ》ではないかである公務員国民全員の利益のために働く。

政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員義務である

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古代中国では臣下君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。

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翻ってイタリアの地、古代ローマ時代には、時の政権勝手な振る舞いか国民を守るための公的機関である

護民官が設置されていた。現代公務員匹敵する護民官は、時の権力批判牽制するために作られた

驚くべき官職である

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 次に、菅首相憲法 23 条が保障している「学問の自由」の意味理解していない。「学問の自由保障とは、

学者学問良心に従って行なった言動評価は、まずは学者うしの討論に委ね、最終的には歴史判断に委ねるべきであり、

間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授

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権力学問世界に介入する事例は西洋史に無数に見出される。

1632 年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会検閲を行ない、教皇ウルバーヌス 8 世と

イエズス会士はこれに激怒し、同書を禁書にした。

ガリレオローマ異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6 ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。

ガリレオ自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究放棄するよう宣誓させられた。

そしてフィレンツェ近郊で残りの 9 年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。

教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力判断によって封殺された。

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 「今回、菅首相は、特定学者言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》

について自分権限判断した」と告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民理解され

存在ではない》と認めたのである

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問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、

そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなである

にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために 1 人につき月 2 万円余の交通費を用意する程度の

ことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の

ものでもない。」(小林節名誉教授

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 私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである憲法 63 条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、

国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975 年の内閣法制局長官

見解を示している。

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しかし、菅首相官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法無視してきた。

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世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官就任して(前 59 年)、まずカエサルが決めたことは、

元老院議事録国民日報編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1 巻「カエサル20

これが民主主義への第 1 歩である

それまで国民元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。

議員私利私欲談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、

貴族権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったかである

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 一方、その時代から 2000 年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書改竄捏造、削除され続けてきた。

かに日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、

人事異動プロセスも民草には窺い知ることもできなかった。

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おそらく安倍菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。

紀元前 5 世紀のアイスキュロス作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。

この劇は二人の登場人物プロメーテウスを連行する場面から始まる。

プロメーテウスは絶対君主であるゼウス意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、

暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。

この時、彼を連行する 2 人の登場人物名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。

二人は Kra/toj(クラトス)と Bi/a(ビアー)という名だが、ビアーの方は劇中で一言言葉を発しない。

ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である

ギリシャ語のビアーやイタリア語の violenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力強制意味する。

ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである

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同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・K は、ある日見知らぬ 2 人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される

(この 2 人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。

その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、

これが現実になったのが、ソヴィエトである

ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。

逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、

また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。

これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民心理的権力によって完全に支配される。

まり、《説明しない》ことこそが権力行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。

なかに権力忖度し、取り入る者が出て来る。

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こうした事例から民主主義いかに「説明すること」にかかっているかが判る。

説明情報公開民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなである

たかが 6 人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。

ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。

しかし、問題本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。

科学分野の基礎研究予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、

また軍事研究に手を染めない学術会議方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。

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実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、

国立大学都道府県教育委員会日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。

公金は自民党のためのものではなく、国民のためのものである

国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。

かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである

(文責:藤谷道夫

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ナチス最初共産主義者攻撃した時、私は声を上げなかった。

なぜなら私は共産主義者ではなかったから。

社会民主主義者が牢獄に入れられた時、

私は声を上げなかった。

なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。

彼らが労働組合員を攻撃した時、

私は声を上げなかった。

なぜなら私は労働組合員ではなかったから。

ユダヤ人が連れ去られた時、

私は声を上げなかった。

なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。

そして彼らが私を攻撃した時、

私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。

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通常の娯楽に加えて、(古代ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、

凱旋式があった。

(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。

将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆面前であげつらうのである将軍高慢ものぼせ上って、

自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである

例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!

あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」1現代独裁者たちに対しても同じように言うことが

できたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。

(Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)

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犬儒派キュニコス派)のディオゲネース(前 400/4 頃-325/3 頃)は、

世の中で最も素晴らしいものは何かと訊かれたとき

《何でも言えることだ(言論の自由 parrhsi/a パッレーシア)》と答えた。」

ディオゲネース・ラーエルティオス『ギリシャ哲学列伝』69~

2012-01-30

http://anond.hatelabo.jp/20120130175203

例えとしてここでは公務員問題に限って話をしたい。

それは以下の理由によって無理。

マルティン・ニーメラーではないが、市職員の給与引き下げや勤務実態調査は橋下市長の府民への攻撃の第一歩なんだよ。

次は、医療保険費や交通ゴミ処理等の費用を削り、学校への補助金生活保護費も削られていく。

公務員NGOプロナマポプロ市民が楽しく遊んでいけなくなるじゃん。

なんで、

1.市職員の給与引き下げや勤務実態調査は一切するべきではない。

なんだよ。

むしろ、橋下は虐げられた弱い人々(笑)や、平和を愛するアジアの住人(笑)に涙を流し謝罪しながら辞職するといいんだよ!



要約すると、こういう事らしいよ。

2010-12-17

エロマンガ規制で思い出したこと

東京都青少年条例について思う

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20101215/1292426086

エロマンガ規制条例の件を見ていて思い出したことがある。

2年ほど前にネットでも盛り上がったカルデロン・のり子さんとその父母の強制退去問題だ。

この退去問題では、入国管理局に強制退去を勧告されていたフィリピン人のカルデロンさん夫妻に対し「在留特別許可」を出すかどうかでネットを二分するほどの大論戦となった。(カルデロン夫妻は偽造パスポートにて入国していた)

カルデロンさん夫妻には当時中学生になる娘さんがいて、「娘と離れたくない」という理由で在留の許可を申請していた。

(娘さんは日本で生まれ、日本での生活が長期間にわたったため在留の資格がもともとある)

もちろん偽造パスポートでの入国は違法だが、国の制度としていわば「恩赦」とも言える「在留特別許可」という制度があり、不法残留だろうが違法入国だろうが在留を許可することは出来た。

(そしてカルデロンさん一家と似たような状況で許可をもらっている前例もあった)

これに対し、「痛いニュース」に代表されるような2ちゃんねるネット保守層の意見は「一緒に暮らしたいのであれば、娘と一緒にフィリピンに帰れ」「法は法。日本にいるなら法を守れ」という一見すると「正論」とも言える意見を数多く出していた。

カルデロンのり子さん「お父さん返して!」と父親強制収容に悲痛な叫び

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1222628.html

古舘氏「もしカルデロン一家が自分の親戚だったら、どうでしょうね?みなさん」とお涙頂戴…一方、アラン&サラの親族7名が元不法入国・滞在者と発覚

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1252493.html


ここでエロマンガ規制の件に戻る。

上記の「法は法」の論理でいえば、条例が成立してしまった以上、粛々と守るしかないように思えるのだが痛いニュース管理人はそのようには思わなかったようだ。

火の鳥近親相姦があるけど規制?」 猪瀬副知事「されません」「傑作であれば、条例なんてないも同然」

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1577320.html

もちろん、記事管理を複数人でやっていることや2ちゃんねる意見も移りゆくことは知ってはいるけれど、痛いニュースが「一貫性」というものに無頓着なのが気になったのだ。

カルデロン一家に対し数々の「正論」を打ち立てた当時の2ちゃんねらーは、「法は法。東京にいるなら条例を守れ」「エロマンガ規制が嫌なら東京から出て行けば?」などと書かれたらどのように反論するのだろうか。

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多くの人にとって一見常識のように思える「健全」というものは、たいていの場合危険である

善意を前提としている以上歯止めが利かないし、多くの場合は反論が出来ないからだ。カルデロン一家の件で在留許可に反対した人々は「健全日本」を守りたかったのだろう。だがエロマンガ規制したい人たちだって青少年健全な育成」を守りたいのだ。

健全」がもたらすものは「不健全への非寛容」である

国境というゾーニングも販売規制というゾーニングも、排他的である危険性は常に含んでいる。

ましてや、「常識正論」という衣をまとった「感情」で押し通されてしまえば、それは多くの場合排他であるだろう。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%8C%E6%9C%80%E5%88%9D%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%82%92%E6%94%BB%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。

いでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。

いで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。

ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動したしかし、それは遅すぎた。


  『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』 マルティン・ニーメラー



「非寛容」と「正論」の刃が自分たちに向けられて初めてその苦しみを理解しても、たいていの場合時はすでに遅い。

2010-04-11

インターネット言説に巻き込まれないほうがインターネット楽しい

こんどは話をひっくりかえして、そのような個人を含む共同体の中で言説をコントロールしていこうという話になれば、このような事例集から「肯定でも否定でも関係なく、とにかく読者から反応を引き出すことで、さらなる読者の再反応を誘発して、それによって言説の生み出した重力運動圏に、より多くの読者を巻き込んでいく」というデザインこそが上等だ、という方法論が導き出せる。ようするに、プレイヤ側のルールは「くだらないものに反応したら負け」で、ゲームマスター側のルールは「なんでもいいから反応させれば勝ち」。インターネットのややこしいところは、このプレイヤとマスターの役割は参加者全員が兼任していて、瞬間瞬間でロールが入れ替わったりするあたりなんだが、まあ以下略

だから、ダメな扇動手法として「これが正解だから、それに従って前進すべき」みたいなロードマップを掲げて、正しさの共有、理想へ向けた連帯で何らかの目標を達成する、みたいな方法を挙げることができる。考え方として清潔でいいかんじなんだけど、説明・理解の双方向に高いコストがかかるので、必然的に伝播範囲が限られる。インターネットには向かない。そうではなく「接触自体を拒絶しないと、自分でもコントロールできないうちに、自動的にそうなってしまう」のが理想



http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20100327#p1より。

上記記事を読んで。

では、上記記事を引用した時点で、私は負けだし、別に負けでも良いな、と思いつつ。

なんとなく、ドイツマルティン・ニーメラー牧師の詩を思い出した。

――ドイツナチス共産主義者を殺しはじめたとき、私は共産主義者ではなかったので、何も言わなかった。

――続いて、ナチスユダヤ人を殺したが、私はユダヤ人ではなかったので、何も言わなかった。

――後に、ナチス労働組合員を殺したが、私は労働組合員ではなかったので、何も言わなかった。

――そのあと、ナチスカトリック教徒を殺したが、私はカトリック教徒ではなかったので、何も言わなかった。

――最後に、ナチスは私のところにやってきたが、もう誰も私のために声を上げてくれる人はいなかった。



つまり、「反応しなくても負け」というパターンだ。

上の「政治」のような例に限らず、例えばiPodでもスマートフォンでも何でも良いが、自分が何も反応しないうちに世の中の流れが取り返しのつかない方向に進む場合もある。「接触」自体を拒んでも、世の中がそうなってしまった以上、「接触」せざる得ない、というパターン。あるいは、例えば、相手が言説的にピンチになったら、「反応したら負け」の事例に話題を誘導してくる、こちらは沈黙せざるを得なくなる、という典型的な負けパターンの構築ということも考えられるし、今までのインターネットの議論でもそういったパターンの相当数の例はある。

「否定しても負け」「肯定しても負け」「反応しなくても負け」。

ではどうするか。

一つは、「”ほとんど自明の理”的な論理的な支柱を提供して、多人数で一斉攻撃し、相手の反応機能を麻痺させる(=炎上)」事に成功できれば、その相手は、その後、その「否定しても負け」「肯定しても負け」「反応しなくても負け」的言説をあまり持ち出してこなくなるだろうと思う。

要するに、一度コテンパンに叩きのめす(もちろん、自分に叩きのめす力がないとそれは出来ないが)という行為をしないと、どうにもならない面はあるかも知れないな、と思う。それでも「出る杭」ならば、本物なのだろうし、それはそれでよいような気もする。

2009-12-22

児島阿久根市竹原信一市長に反対する人への嫉妬

http://mainichi.jp/select/today/news/20091222k0000m040104000c.html

この人の言っている内容には反対だけれど、

「世の中に切り捨てていい人なんていない」と博愛主義で反対する人達に、言いようのない嫉妬を感じる。

そうか、あなたの人生に、殺したくなるようなクズは存在しなかったのか?

邪魔だ、消えた方が世のためだと思う人間は存在しないのか?

デスノート名前を書きたいと思う人はいませんか?

それはそれは幸せ人生を歩いてきましたね。

もしかしたら不幸なのかも知れないけれど、それを乗り越えられる強さがあるんですね。

妬ましい。

自分が憎まれていると、殺したいほど邪魔に思われていると

そう感じたことはないのですね?

別に死んだって構わないと、生きていても死んでいても関係のないと、

虫けらのような扱いを受けたことはないのですね?

そんな甘い博愛主義で反対する程度には、身の危険を感じたことがないんですね?

妬ましい。

存在価値を認めてもらえない絶望を知らないんですね?

みんな仲良くしましょうという輩に、余計に自体を悪化させられた経験がないんですね?

俺は、短絡的な感情論で言えば、死んで欲しい・刈り取りたい人間なんて山ほどいる。

だけど、マルティン・ニーメラー牧師言葉よろしく、自分の番が回ってくるのが怖いから反対なんだ。

デスノートが他人のものになったら、権力者の物になったら、自分名前を書かれかねないほど

自分の存在に自信がないから反対するんだ。

 
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