はてなキーワード: 連帯とは
テレビ見てたら右翼・左翼が相変わらず間違った定義で使われていてゲンナリ。右翼or左翼って、正しくは保守or革新のことであって、ソーシャルorリベラルのことじゃない(から左右どちらでもありえる)。保守は名前の通り、古くから続くものを重視する価値観で、既存のものを積極的により良く変えようとするのが革新。社会的な連帯を重視するのがソーシャル、個人の自由を重視するのがリベラル。
更にややこしいことに、この4象限は政治的なものと経済的なもので分かれている。「保守」の立ち位置は各国の歴史によって異なるが、日本の場合、政治的には天皇制支持・親米反共・アンチ人権重視、経済的にはアンチ自由競争 がそれぞれ「保守」。数年前に流行したポリティカルコンパスがクソだったのは、「保守」の立ち位置が歴史に依存することを分かってなかったことと、保守or革新とソーシャルorリベラルをごっちゃにしてたこと。
ということで橋下大阪市長は、政治的にはソーシャル保守、経済的にはリベラル革新(左翼)。タイトルで左翼と書いたのはそういうこと(半分釣り)。日本のいわゆる「左翼」は、政治的にはリベラル革新、経済的にはソーシャル保守で、橋下さんとは見事に正反対。というか時間系列的に、橋下さんがアンチ左翼といったほうが正確か。小泉元首相は、政治的にはリベラル保守、経済的にはリベラル革新かな。
日本の政治のどうしようもなさの主原因は、橋下さんにしても「左翼」側にしても、というか今の日本の政治家の8割方が、政治的と経済的でソーシャル・リベラルが異なってることじゃないかと思ってる。アメリカがまだ健全なのは、ソーシャル・リベラルが重複率がヨーロッパよりは結構低いけど日本よりはずっと高いこと。クルーグマンは両方でソーシャルだし、フリードマンは両方でリベラル、オバマは中道からややソーシャル寄り、マンキューは中道からリベラルより。
※アメリカでも共和党本流(保守派)は政治的ソーシャル・経済的リベラルで、ロムニー以外の候補がマジキチばっかりなのがそのため
ソーシャルとリベラルって、方法論的に根幹で矛盾するから、本気でやろうとするとどちらかに統一せざるを得ないはずなんだよね。もしくは宗教化して矛盾したままゴリ押しするか。アンチ"経済的ソーシャル"な私が小泉元首相は支持しても橋下大阪市長を支持しないのは、橋下さんの本質はソーシャルにある気がするから。小泉元首相は一応中道右派ってことになってるけど、どう見てもアンチソーシャルだからね。
おハロー。
聖おにいさんはオサレというのよりサブカル臭。それも悪いタイプの。
http://anond.hatelabo.jp/20081210172325
とても根が深いサブカルミーハー問題。『このマンガがすごい2010』を読んで。
http://anond.hatelabo.jp/20091216230059
「このマンガがすごい!」は罪深い延命装置。もう犠牲者を増やすな!!
http://anond.hatelabo.jp/20111224192828
を書いたぼくだよ。みなさん自意識丸出しでごちゃごちゃ言ってくるんで、胸焼けするぐらい非常に切ない気持ちになりました。なんというかもう……。
「かわいそうだね?」
って言葉しかでてきません(おっと、つい芥川賞受賞作家ネタが飛び出しちゃったよ。やべー、まさかここで芸術に携われる人間だったら絶対にチェックしておくべき、芸術を理解できないやつは興味ないふりして精神防衛していることでお馴染みの芥川賞のネタが飛び出すとは、俺のセンスパねえ)。
はてなブックマーク、およびツイッターの皆様がたは心のホメオスタシス機能をフル稼働させて自分の殻に閉じこもっちゃっていますね。みなさん図星を突かれたことを必死に隠そうとしていますけど、何で等身大の自分を直視できないのかねえ。
「格好をつけないことで、格好をつけている」
「「ホメればセンスいいと思われる記号」を批判すればセンスいいと見られると思ってる人の典型的批判」
やれやれ。春の熊に全員屠殺してもらいたいよ(センスある村上春樹ネタ)。
ぼくはきみたちの断末魔の叫びで心が汚れちゃったんで、ストラヴィンスキーを聞いて洗い流していました。グッドなアートはエバーグリーンな輝きでディ・モールト・ベネだね。
ということで、本題。反応を見ていると、ぼくが批判したい対象がイマイチ伝わっていないようなんで、ここでまとめて表明してみようと思う。
これ以上、この惨状を放置しているとホント取り返しのつかないことになるからね。砂漠に水を与えるようなものだけど、何もやらないよりはマシ、かな……。
きみらの軽い脳みそでも理解できるように4つに大別してあげているから熟読してほしい。2010年代はこういう奴らをいかにカルチャーシーンから排除するかにかかっているので、宇野常寛さん、荻上チキさん辺りは参考にしてほしいね。東浩紀さんは河原で石でも積んでてください。
では、いきますよー。
「ボンクラ」なんていう安っぽい価値観で連帯して、「中学生マインド」なんていう恥ずかしい心性を至上価値にしちゃっている一派。やっていることはひよこのオスメスの仕分けみたいなもん。ライムスターの宇多丸や町山智浩辺りが「いい」といったものを「味方」と見なして手放しで褒め称えて、けなしたものを一緒になって叩けば、「センスあるポジション」にいられると思っている。
「売れてる邦画はテキトーに叩いておけばおk」みたいな頭からっぽな行動も平気でしちゃう。そんで周りも見てもいないのに賛同しだすから目も当てられない。
中身をまともに分析しないで「大沢たかおが出演しているから、これはクソ映画だ」みたいな論理で動いていて、そんで「バカな大衆」と「審美眼のあるセンス抜群の俺」という謎の対比をしだすんだよね。「なぜこういう内容の邦画がいま売れるのか」なんていう深遠なトピックに触れることは一切ないし、考える頭もない。
自分の物の見方だとか価値観だとかが一切抜け落ちた、ゾンビみたいな奴ら。サブカル年長者の金魚のフンをやることに、羞恥心の欠片もない。「独自な物の見方をする人間」についていけば、「独自な物の見方をする個性的なわたし」が出来上がると思っている。
彼らの反応は非常にわかりやすい。ちょっと宇多丸のラジオを聞いただけで、習性がまるわかりで、「ああ、この映画はこいつら叩くだろうな」ってことがすぐに判別可能になる。その分かりやすさが蔓延の原因だといえよう。映画リテラシーがないのに、センスいいと思われたいやつらの格好の逃げ場になっている。
そんで、こういう奴って美意識がないから恥ずかしげもなく部屋に映画のポスターをべたべた貼って、ダサいバンドTシャツを着ていたりするんだよね。それでいて、オシャレに過剰なコンプレックスを抱いているから、「無理してオシャレしているやつは上辺だけの中身のない単なるカッコつけで、ちょっとダサいくらいの自分が本当は一番センスいいんだ病」にかかっていて非常に厄介。自分のダサさまで理論武装しなきゃ生きていけないなんて、ほんとに可哀想だ。
この病気を完治させるには映画について語りだすたびに「それ、ウィークエンドシャッフルで宇多丸が言っていたことだね」って言い続けるしかないと思う。「あ、その映画、町山智浩がキラキラで紹介してたやつか」、「昔、みうらじゅんがその映画をネタにしているのを見たことあるよ」でも可。
「人生で大切なことは、すべて伊集院光のラジオから教わった」とか真顔で言っちゃう恥ずかしいやつら。
映画秘宝系との違いは、映画を見たりする気力も何もなくて、横になってラジオを聞くぐらいの体力しか残されていないのに、自分が第一線にいることを疑わずに最新のカルチャーを必死に否定してくる。「最近のアニメって萌えばっかりで中身がないよね」って見もしないくせにしたり顔で口を挟んでくるのがこいつら。
自分が中年化し、ついていけないことを認めることができなくて、漫画やアニメは伊集院が褒めるものだけが絶対だと思っている。『わたしは真悟』だとか『アストロ球団』だとかね。
映画秘宝系はまだ自分の足で作品を鑑賞しようっていう根性があるけど、こういう奴らにはそれすらない。平気でCMカットのMP3音源を違法ダウンロードして、「やっぱり伊集院さんって聡明だよなあ」なんてアホ面下げてる。その続きはもちろん「本当に頭が良い人って伊集院さんのことを言うんだよな。やっぱり人は学歴や職業じゃなくて、物の見方で頭の良さが決まるんだよな~」なんて考えいて、「ダメな自分は本当は感性が鋭くて、周りのくだらない奴らよりもずっとずっと頭がいいんだ!」って泣きながら自己肯定をしている。
もうなんでもあり。
こういう奴らのためにはっきり言ってあげるけど、「感性」っていうのは行動で示さなきゃ形にならない。布団のなかで自分を慰めるための感性だなんて、ありゃしないよ。ゴミクズよ、もうよせ、こんな不毛な自己肯定は。
「センスがいい」というタグを貼られた商品を必死に買い集めて、なんにもない空っぽな自分を必死にデコレートしようと頑張っている。ビレバンに下駄を履かせてもらわなきゃ、外を歩くことすらできない可哀想な人。自分がビレバンから与えられる餌を食べているだけの家畜だってことに気づけない。
こういう奴がセンスいいと思われたい一心でカルチャーシーンを引っ掻き回して、むちゃくちゃにしていく。「このマンガがすごい!」で上位に入る漫画が悲惨な犠牲者なのは、前の記事に書いた通り。
なんにも作り出せない、作ろうともしないくせに、必死に消費物で「ぼくちゃん、クリエイティブなんだじょ!」とアッピールしたい厚かましい愚鈍なマリオネットたち。
こういう奴には「お前、ひょっとして浅野いにお漫画の登場人物を気取ってない?」って聞いてみよう。ズレてない眼鏡を何度も押し上げながら、「き、きみぃ、いにお漫画はね、単なるセンチメンタルじゃなくて実験的な手法にも取り組んでいて云々」って聞いてもいない作品論を震えながら語りだすぞ。
さらに「そのボブ、もしかしてつぶやきシローをリスペクトしているの?」って言ったら卒倒しちゃうので注意。
もし友人にこの手合いがいたら適度に自意識を潰してあげて、「やっぱビートルズが一番だよな」ぐらいのレベルに留めさせてあげるのが吉。弾けもしないのに部屋に置いてあるギターは、親切心で河原で燃やそう。
そう、お前らだよ。お・ま・え・ら☆
はてブやツイッターなどの安全圏からお手軽に一言批判して、「ふふ~ん、ぼくちゃん、こいつらよりも頭がいいもんね~。見てみて! ぼくこの人否定しているよ!! こいつより頭いいんだよ!! ほら、見ろよ、もっと! 見ろっ、見ろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!」と汚い欲望を身体中の穴から漏らしている。
文字数制限を盾にして根拠もなにも示さずに、自分の頭で否定できる一文をなんとか見つけ出して、「やれやれ。きみはなんにもわかってないね」とただ否定するだけ。熟議に何の貢献もしない、耳を汚すだけのノイズ。
大抵のバカなネットユーザーは脳の大部分が「最新情報の暴飲暴食」でスカスカになっているため(俗に言う「グルーポンおせち状態」)、比較検証なんていう基本的なこともできない(本人は「できない」とすら気づいていない。そこを突かれると「時間がないから」「忙しいから」と言い訳して、何も届いていないメールボックスをチェックしだす)。だから、「最後に勝利宣言をした人間」に説得力があると思っちゃう。
このような「つぶやき批評家(気取り)」と「情報ジャンキー」はまとめてネット中毒矯正院にぶち込むべきですね! そこで『アルプスの少女ハイジ』でも見せて、少ない情報をいかに咀嚼するかを学ばせたほうがいい。こいつら、醜く太っていることが勲章だと思っているからさ。
以上、今すぐカルチャーシーンから撤退すべき害毒な消費者4タイプでした。こういう奴らが蔓延っちゃったのは「個性が大事」という間違った教育と、「作品の解釈は受け手が決める」なんていう甘やかしの成果だと思う。
確かにある程度の解釈は読者に任されるだろうけど、それを理由に笑っても怒っても何しても構わないなんてことはない。それだとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』を見て、原子力礼賛だと思っちゃうようなことを許してしまう。
ぼくのような高い視座に立てているクリエイターって本当に少ない。名前を挙げるとしたら、映画監督の紀里谷和明か、小説家の岩崎夏海くらいか。
特に岩崎夏海の『「小説の読み方」の教科書』は上記であげた連帯のためだけや、センスいいと思われたいだけに消費する行為の解毒剤として最適なので、みんな読みなさい。早く読まないと、時代に取り残されちゃうよ。2010年代のクリエイターズ・バイブルだね、この本は。
みんなもうさ、中身のない自分を無理やり肯定するためにアートを利用するのはやめようよ。空っぽな自分を直視して、中身ある人間になるために努力するべきじゃない? ソクラテスもプラトンも、みんなそうやって大きくなっていったんだよ。
もともとフェミは『家族』とか『家庭』という構造自体に反対している人間が多いってのもあるが。
WAN:Women's Action Network「労働」概念は変化したのか? 伊田久美子
私は70年代以降のフェミニズムは、以下の2点を明らかにしたと思っていた。
ひとつは、稼ぎのない妻の利害は「稼ぎ手」である夫と一致しているように思い込まされてきたが、
それは必ずしも一致しないこと、もうひとつは、「主婦」と「働く女」の利害は対立していると思い込まされてきたが、
実はけっこう一致している、ということである。
ミクロな権力関係を含んだ「家父長制」と、一心同体とみなされてきた家族の中の仕事を労働であると主張した「家事労働」という二大キー概念は、
ここまでは解る。個人的にも、ある時点まではフェミニズムは社会に有益な働きをしてきた、とも思ってる。
しかしこの日のシンポジウムを聞いていると、どうやら二つとも私の勘違いだったかのようである。
むしろ女の多様化とか女女格差という議論の展開によって、上記の課題の重要性は希薄になっているのだろうか。
たしかに70年代の「女」というアイデンティティは今の時代には既に齟齬があるだろうし、
この変化は機会を改めて考察したいテーマである。しかしあのとき開けた構造の認識は、
運動にとって貴重な相互理解を可能にしたであろう。
なぜなら女たちが手探りで模索したフェミニズム理論とは、異なる立場の者、知り合うこともない者との連帯を可能にするためのツールだからである。
http://wan.or.jp/reading/?p=5396
運動が拡大する前は、どうしても頭数がいる、そういう利害もあって
活動に参加する時間がある専業主婦層を大量に取り込んだって感じなんだろうか。
そして今は女性側の権利もほぼ満たされ、より雇用の拡大をポジティブアクションで実現しようとしている、
ドイツのメルケル首相が「欧州の政治統合を深めるための条約改正」を提唱し、波紋を広げています。
ユーロゾーンには、たとえばマーストリヒト条約で定めた「国家財政赤字はGDPの3%以内」「累積債務はGDPの60%以内」という約束を守れない国がたくさんあります。
これまでは「赤信号、みんなで渡ればなんとやら」で罰則の適用も曖昧にされてきましたが、今後はそういう国に対して、何らかのペナルティーを課そうではないか、ということです。
ペナルティーには、法的手段に訴えてでも借金を返済させるとか、あるいはいっそユーロゾーンから離脱させるとかいった一種強権的な措置も視野に入れます。
ユーロゾーンは通貨同盟であり、加盟国の経済・財政の一元化はしていない。特に通貨の発行に関しては勝手なことをさせないが、国債の発行に関しては規律が緩かった。
したがって実質的には各国がそれぞれ国内経済の舵取りをしている。
その結果が今日のユーロ危機の原因のひとつになったのだから、今後は通貨のみならず経済・財政も一元化し、ユーロゾーンの統合をより強固なものにする狙いだ。
確かにユーロゾーン内での統一基準をもって各国政府の「放漫経営」を戒めれば債務危機などのリスクをかなり減らすことはできるだろう。
だが、私は「ユーロゾーンが経済・財政を一元化するのは至難の業だ」と考えている。なぜなら、それは各国が個別に予算案を作るのを禁止するということであり、内政干渉にも等しい。
もともと「社員」という身分だけが共通していて「目的」や「仕事」のあり方について意思疎通の仕組みを十分に構築せず、
空気に頼った放漫経営を行なっていた職場では、多様化した若者とのコミュニケーションの断絶に対し、
「飲みニケーション」を強化し、職場での統合をより強固なものにする狙いだ。
最近は「飲みニケーション」の概念化、半強制化、楽しめない奴は村八分にするなどの社会的制裁をちらつかせて、
むりやり「飲みニケーション」の維持や、チームとしての連帯を名目上維持しようとする動きが見られる。
たしかに規則や執拗なチェックで締め付ければ一時的には問題児は減り、「形だけは」結びつきが強くなるだろう。
飲みニケーションに限らず、すでに企業の「内部統制」や、学校の教育などで同じような徴候が見られている。
しかし、これは至難の業だと考えている。なぜならそれは、個々人の自由を制限するということであり、サービス残業にも等しい。
私はむしろ、ユーロ加盟国それぞれに自国の通貨発行を一部認めていくべきだと考える。
ユーロ17カ国では現在、ユーロの流通は当然ながら100%になっている。
これを段階的に90%、80%と2割程度まで減らしていき、その代わりにそれぞれの国に独自通貨を発行させる。
そして、独自通貨の加重平均はユーロと連動させた、いわゆるバスケット通貨(ユーロ導入前のECUと同じ原理)とする。
こうすれば当然、独自通貨を発行し過ぎた国の貨幣価値は下落する。しかし、それはそれで構わない。
こぼれ落ちる国も出てこようが、そういう国にはユーロから離脱していただく。
すると最終的には「本当に強い」7~8カ国が残るだろう。これらの国々でユーロ加盟国を再構築してから、落ちこぼれた国にも再出発できる機会を与えるのだ。
こうした根本的なプロセスを踏まなければ経済・財政一元化の道筋も見えてこない。
逆にいえば、こういう発想を持たないまま、やれギリシャの救済だ、それルール違反を犯した国にはペナルティーだとしているのは、まったく場当たり的な対策である。それではユーロの再建はおぼつかない。
マーストリヒト条約ではユーロ加盟の条件を決めたが、離脱の方法に関しては決めていなかった。そういう不備がここに来て一斉に露呈した。
私はむしろ、まず飲みニケーションの参加を自由意志に任せるべきだと考える。
というか、まずそんなに飲みにケーションが素晴らしいというなら、
まずは好きな奴らだけでも「楽しい」だけじゃいその素晴らしさを体現して、若者から「私も参加したい」と思わせるくらい魅力的になってみせやがれ、と。
飲みニケーションについて、ただ昔からやってるから、とか俺は楽しかったから、とかを根拠にしてゼロベースで考えなおすこともせず、
やれあいつは付き合いが悪いとか、こんなことでは出世できないとか、制裁とか言ってるのは全くの的外れである。それでは飲みニケーションの再建はおぼつかない。
飲みニケーションは形にこだわりすぎて、楽しくなくなったときどう自分を変えていくか、という点が全く考慮されていない。その不備が居間一斉に露呈している。
どの国も「仲間に入りたい」と言ってユーロゾーンに入ったはいいのですが、そこから離脱するとなると、地獄が待ち構えています。
各国政府から見れば、ユーロに加入した途端に通貨の自主的な発行権を奪われ、それはユーロをやめようが何をしようが、事実上は通貨の発行権は戻ってこなくなってしまうのと一緒です。
飲みニケーションが自然発生的に起こって、みんながそれに参加してたのしむ、という間は良かった。
しかし今では旨みがヘっているにもかからず「抜けようとすれば村八分」という制裁だけが残ったペナルティ装置になっている。
んー。
なぜ無意味に見えてしまうのかというと、海外のデモと根本的な部分が違うからなんだよね。
「ウォールストリートを占拠せよ(OWSだっけ?)」の場合、ただ集まって馬鹿騒ぎしているわけではない。騒動自体は単なる手段に過ぎない。
とかく世間の耳目を集めて、大衆に共感の得やすい主張を流布し、政治家に「こいつらは利用価値がありそうだな」「こいつらを見方に引き入れると票になりそうだな」と思わせ、そうやって議員たちを取り込み、議会で一定の影響力を行使できるようにした上でデモ本来の目的を達成しようという生臭い計算があるんだよね。
リンク先の就活デモにはそれがない。騒いで鬱憤を晴らしてるだけ。いや、アメリカのデモ参加者も大半は鬱憤を晴らすために参加してるんだろうけども、少なくとも主催者の見ている方向はまったく違う。
これは個人的な印象だけど、日本のデモって、自分たちの主張を政治の世界にコミットしやすく設定するという発想がない場合が多いよね。だから議員たちから見向きもされないし、見向こうにも「で、我々にどうしろと?」といいたくなるような頓珍漢な主張ばかりになってしまう。リンク先の就活デモに連帯するメリットがありそうな議員ってほとんど居ないでしょ。
そうなってしまう要因はいろいろあるんだろうけれども、大きなものとしては、「政治の世界」をケガれたものと認識し、政治の世界へ足を踏み入れることを忌むべき事とみなすような考えが、彼らの中にあるんじゃないかと思ってる。特定の分野で成功し大衆からポジティブなイメージを持たれてる人、たとえばノーベル賞受賞者やオリンピックメダリストといった人が、特定の政党から議員として立候補したときに抱くネガティブな感情。
http://jkondo.hatenablog.com/entry/2011/11/19/114109
おしゃべりする相手はともだちだけじゃありません。それだけではあまりに退屈です。
ともだちだけが社会ではありません。人は、自分の興味があること、自分が専門としていることを通じて、もっと社会とつながりたいと思っています。ともだち以外の人とつながりの生まれる場所に行きたいと感じています。
個人的には全くもって同意。
で、これ、80年代は、これを全くひっくり返したことが言われてた。「もっとともだちを大事にしたり、友達を作らないとダメよ」「友達がすべてだよ」みたいなね。
生まれてこの方、この「ともだち第一」メッセージには心底うんざりさせられ続けてきたので、こういうメッセージはとても嬉しい。
「ともだち幻想=友達がいないやつは人間として問題がある」や「ともだちについての強迫観念」が生まれてきたのは70年代の末ころだったらしいです。
なんでもそうだけれど、誕生した当初はそれなりに合理的な理由があるもんです。 だいたいそれをおかしな方向にねじ曲げちゃうのがコマースメッセージなわけですが。
最初はあまりにもこの時代の日本社会が仕事一辺倒で、仕事以外で人間の価値をみとめられないこと、男社会への傾倒が急激すぎて、それへの反発が強くなったという話からスタートしてます。
(日本の男優位社会は伝統でも何でもなく、敗戦後に作られたものであるって話も大事ね)
人間関係も全部仕事がらみ、家族ぐるみの付き合いといっても結局仕事に縛られる。女の人や子供はさぞストレスだったろうと思う。
この当時は、必要があったとはいえ、仕事頑張りすぎて脳がおかしくなった男性が調子乗りすぎて、ソレ以外の人間を犠牲にしてヒャッハーしてた時代だったということやね。
(団塊世代の人とかが、「俺たちは毎晩徹夜する勢いでがんばってたのにいまどきの若いものは」とか言ってるのを聞くと、
ああ、日本人ははやく複式簿記を必修科目にスべきだ、と思う。こういうバランス無視の考えだからバブルが起きたんだよ、責任取れとはいわんがちょっとは反省しろボケが。
ああ、彼ら的には悪いのは全部日銀で政府でアメリカの陰謀なんですよね。 本当に信じられないくらいにナイーブな方々だと思う。反省したくてもできない脳のつくりなのね)
そんで、仕事における負け組や、仕事オンリーの人間関係に虚しさを感じる人達が、仕事以外のものをもとめたときにそれがともだちの存在だった、という流れ。
そういえば、この年代も、若者の連続殺人犯とかが立て続けに発生して問題になってたな。
当時から、社会的な問題があると、若者がカナリアよろしくまず発狂し、ソレを見て年寄りは「最近の若者は」って言うのは変わらんかった、と。
で、そこはなんでも極端な日本人、なんでも二元論で考える日本人。
日本人は、なにか新しいことを始めるときに、前のものを否定しなければ気が済まない上書き志向の持ち主です。
「仕事だいいち」に見切りをつけると、どっと「ともだち至上主義」に流れ出した。女の子は「恋愛なんちゃら」かな。
で、こんどは「仕事がデキない奴はクズ」「学歴低い奴は賢い奴の奴隷」みたいなカーストに復讐するかのように
「友達がいない奴は人間のクズ」「いくら偉くなってもあいつ友達いないんだろうな」って言えばなんとなくスカッとする傾向が生まれましたとさ。
とはいっても、おじさんたちは頭が硬いからそう簡単に変わったりはしません。つまり「勉強や仕事第一」主義も残ります。
夫に全面的に依存して思考停止している母親も基本的には夫の方針に従って子供を調教します。なので、勉強第一主義は根強く残ります。
「勉強・仕事だいいち派」と「ともだち100にんできるかな」が勢力闘いをするようになります。
まぁホント日本人くらいですよ、仕事とプライベートを対立関係に置いて、どっちか片方しか取っちゃいけないと考えてるのは。
仕事と私とどっちが大事なの?って慣用句自体、日本人の性格をこの上なく正確に表現してるよね。
不完全なものでも絶対の軸において、ソレにすがってないとアイデンティティを確立できないのは、やっぱり無神教国家だからなのかねぇ。とか知ったかぶってみる。
そうやって、自分だけが幸福になりたいばっかりに、それに適応しない人たちを踏みにじることを何とも思わないことがとっても生き物っぽくていいですよね。
こうやって仕事vsプライベートで対立しあって、お互いがお互いの素晴らしさを主張しようとハードルを上げ続けた結果、
もはや両立不能なレベルまでどちらも要求レベルが高くなって、両立できないからどっちか選ぶ羽目になってまたケンカする。アホかと。
両立するためには、超人的な体力を持つか、仕事時間を自分でコントロールすることが許されるくらい偉くなるか、
あるいはちきりん女史のように、全力で仕事頑張ったあと、途中で退職する以外に方法はないんだろうなぁ。いずれにしろ無理ゲー。
自分で無理ゲー作って、クリアできないとか言って文句言うのって楽しいのかなぁ。
ここで終わればまだ笑い話で済むんだけれど、さらに続き。
当然として「勉強・仕事が出来ない」「友達もいない」人はベン図の外側に追いやられて、「かのものは人にあらず」と迫害の対称になります。
まぁ簡単に言うといじめですね。いじめって人間を測る評価基準があれば必ず発生しますが、まぁ日本のいじめは馬鹿馬鹿しいのが多いですね、クソッタレです。
でまぁ、いじめられたやつがどうなるかについて全く考えてない、フォローしないのも問題ですね。で、そのつけは当然数倍になって返ってくるんですけどね。
社会から切り離されたまま長時間放置されて、社会性を失った人が大勢います。
人間以下の扱いを受け続けると、本当に人間であることを辞める人がたくさんいます。
匿名で振る舞い続けていると、人間であることの節度を失う私のような人間もたくさんいます。
で、そういう奴らはどうするでしょう。
隣人部作ってはぐれ者どうしで連帯する?そんなのフィクションです。サバイブSNSってのがありましたけど多分うまく言ってないんじゃないかと思います。
(はがないはアニメしか見てないけど、あれはともだち教へのアンチテーゼだよね。「きみらがいってるともだちとかはどうでもいいし少ないですがそれが何か?」ってことやろ?)
社会性の訓練とか人間扱いとか、匿名から引き剥がして一個の人格として扱うとか、
そういうレベルから世話焼いてくれるとこがない限り、いちど脱落したものはよっぽどのことがない限り復帰できません。
結局人はひとりひとり自分でなんとかして助かるしかないでしょうね。
ほとんどの人間は、それぞれが「人間以下のなにか」として、ずっと劣等感抱えながら生きていくだけです。
あるいは「人間以下の何科ですがなにか?」と開き直って、twitterやら増田なんかで有名人にからんだりなんなりと社会に迷惑をかけながら生きていくしかない。
人間であるための条件として「友だちがいること」「勉強ができること」ってのがかっちりと決まっているかぎりはもう人間に戻ることはない。
というような感じなんですが、そういうともだち地獄に対して、
「ともだちともだちともだちってそればっかかかお前らは、そんな人生つまんねーだろ」ってのが当たり前に言われだすとまた話が変わってくる。
「ともだち地獄」のいく末は「22世紀少年」であり「原理主義者たちの祭典」ってのがようやくわかってきたみたいで、さすがにみんなうんざりしてきてるみたいです。
勉強もともだちも大事ですが、それを必要条件のように考えると、ほんとにしんどいだけなので、そろそろやめようぜ、って話になってくると嬉しいです。
生きるのは、ただでさえしんどいことだと思うので、そこにわざわざ重荷を載せないでもいいやんか。
別に俺はドMだからハードモードでやりたいんだって人はそうしたらいいけれど、ちょっと荷物下ろして道端で休んでる人を鞭打つ必要もないでしょう。
「死のロングウォーク」(スティーブン・キングの超絶傑作)はフィクションとしては死ぬほど面白いけど、現実では一番やっちゃだめなフィクションだってのに、なんで好んであのゲームをやりたがるのか、私にはよくわからんです。
阿呆な頭で平等主義を誤解したままお題目みたいに唱えるから、能力ある人に引っ張られて自分たちもがんばらなきゃいけないハメになるんですよ。
阿呆なら阿呆でいいやん。 南無阿弥陀仏言ってたら幸せになれる頭の持ち主が、TPPのこととか考えなくていいよ。
あんまり他人のことを気にし過ぎないで、ともだちがどうとか言わないで、自分が好きな事やってりゃいいと思います。
生きるほうを、選ぼう。
言うのが15年おせえよと突っ込まれるだろうけど。
最近じゃTwitterが代表格だけど、あれでなんでデマがいとも簡単に流布するかというと、デマに踊らされる事に対するリスクが全然無いからだよね。
流した情報がウソだと分かっても、流した本人、拡散した人達がちっとも痛い目を見ない。だからデマは今日もどこかで生まれてる(はず)。大概は匿名だから実生活には影響無いし。
あと、デマに踊らされないように気をつける事に対して何のリターンも無い。「それウソだろ」と突っ込んでも「だから何?」としか思われない。むしろ大勢と一緒に踊り狂った方が、一時でも連帯感を得られて気持ちが良かったりするわけで、それに水を差す人はむしろ白眼視されてしまう。まあ別にそういう連中に疎ましがられても困るような事はないだろうけど。
ネット上のデマの流布を本気で何とかしたいと考えているのであれば、「デマに踊らされる」=「かっこ悪い。イケてない」とか「デマに踊らされない」=「知的でクール。かっこいい」みたいなイメージ作りに専念した方がいいと思う。デマに踊らされてる人の大半は、それがデマかどうかなんて別段気にしてないわけだから。
いつ終わるか分からない作業というのは精神的にも肉体的にも辛いものです。
最悪の場合、時間切れ(あなたが諦めて「もう帰っていい」と言い出す)まで少しでもラクをしようと手を抜き、予定していたノルマが達成されない可能性もあります。
効率よく終わらせるモチベーションを上げるためにも、作業全体の量は必ず明確にしましょう。もちろん、後からそれを増やしたり減らしたりしてはいけません。あなたの信頼にも深刻な悪影響を及ぼします。
これを大ざっぱにしてしまうと、部下は少しでもラクをするために段々とやり方が雑になっていきます。最低限の品質が保証されるやり方をきちんと指定しましょう。最初の1回くらいはあなたが実際にやってみせるのもアリです。
最初は、指定したやり方を部下に理解させるためです。口頭で指示するだけで100%完璧に理解するという事はあり得ないと考えましょう。
中盤は、手を抜いたりダラけたりしてないかどうか、指定した手順が形骸化していないかをチェックする意義があります。進捗状況の確認も忘れずに。
最後は、あなたの登場によって作業に終わりが近い事を部下に示し、緊張感を与えラストスパートをかけさせる意義があります。あなたに余裕があるなら手伝ってもいいでしょう。部下との連帯感を育む良い機会にもなります。そしてあなた自らが作業の完了を宣言する事で仕事に最後のメリハリを与えます。
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この人は問題分析のウチ、
1問題指摘と
2関連の文学素養を
一つのつながった文章と考えるからおかしいのであって、要素要素はレベルが高い。
解決策部分は全く期待しないほうがいい。
http://blog.tatsuru.com/2011/10/18_1255.php
ふざけんな。
内田樹の中にあるゴーイング・コンサーンの前提はなんとかならんのか
弱者の切り捨てに対して効果的な抵抗を組織できないでいるのは、彼らが「連帯の作法」というものを見失ってしまったからです。どうやって同じ歴史的状況を生きている、利害をともにする同胞たちと連帯すればよいのか、その方法を知らないのです。
ここは素晴らしい。
「平等・自立・団結」がワンセットで在るということを指摘している点は慧眼だと思う。
平等だけを主張することは不可能だし、自立のみ、団結のみというのも不可能であることを上手に説明されている。
これはネット出現以前のコミュニティの大原則である。この原則を違えるとモンペとかバカ民主党みたいなことになる。
ネットが出現しても人が人であるかぎりそう変わるものではないだろう。とても大事な事である。
ただし
それは彼らの責任ではありません。それは私たちの社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできた「イデオロギー」の帰結だからです。
は論外。上のことがわかっていて、なぜイデオロギーの問題だけで解決できるように語るのか。
本当に、この人のこういうところは本当に、困ったところだ。困ったちゃんである。
この人の指摘がいつもずれてるのはなんでかなーと思ってたんだけど
この人は結局のところいつまで経っても社会が存続すると思ってるんだよな
贈与の考え方ってのは大前提として、社会が安定したまま続く状態がある。
余剰は必要としないが、関係性が維持されていることは絶対に必要な条件だ。
後に自分の何かを残したい、引き継ぎたいって思う対象がいなければその発想は生じない。
むしろさっさと全てが壊れてなくなってしまえって思ってる時に贈与の発想なんてクソみたいなもんだ。
「希望は戦争」とまで言わなくても「何ものこさずにひっそりと消えたい」とか「何一つ引き継がないことで今の世を否定する」ことにしか希望がないひともいるんだ。
もっとはっきり言おうか。
若者の問題を論じる場合、先に親の世代が病んでることを論じるのを避けるほどアンフェアなことはない。
それは遺伝性の病気に対して、子供がその病気にかかっていたら、子供に責任があるように語るほど間抜けなことだ。
自分が生きることで精一杯で、自分が生きるために子供を殺す親がたくさんいることについてはどう考えているんだ?
局所的に見たら、その過程ではすでに戦線が崩壊している。どうやっても持ちこたえられない。
その状態で、なお若者に戦線を死守しろという指揮官があなただ。
それは無能ではないかも知れないが、残酷であるという自覚はあるのだろうか?
私には後方でふんぞり返って最前線を見ていない無能な指揮官にすら見える。
彼にはどうせ答えられないだろう。
そんなに連帯が大事で素晴らしい物なら、なぜ連帯がうまくいってた彼ら団塊世代はいまこんなにも老害を晒しているのか。
彼らが連帯して世の流れに反発しているという視点をなぜ持てないのか。
なぜ「大人」のやってるというだけでそれが幼稚な反抗という評価を免れることが許されるのか。
なぜ「若者」のやってるということだけで未熟であったり不足という評価をつけることを当然としているのか。
そういうことに彼の論法では全く答えられない。
そしてなにより、連帯はプラス要素もあるが、マイナス要素も多分にある。むしろ停滞期には負の面が強く出る。
それも多分彼はわかっていて、とぼけているのだ。なんともずる賢いことだ。
この人が解決策を論じるために書いているなら、まず話を若者からすたーとするのも良かろう。
しかしこの人は問題しか論じないのだ。解決策はいつもイデオロギー的な理想論に終止するのみだ。
ソレにもかかわらず、この人は若者の話しか取り上げないのだ。自分が含まれる大人たち、老人たちについては触れようとしない。
そこに大いなる欺瞞がある。そしてこの人はそれに対して自覚的だ。自覚的であるから文章のテクニックを用いて読者をけむにまく。
問題を責任者のない不可避の現象として表現し、問題について責任者の存在を隠匿した後で、解決の部分だけ責任を若者に割り振ろうとする。
社会の存続に必要な「少子化」に絞ってもご覧のとおりだ。怒りを通り越してうんざりしてさらに一周して怒りを覚える。
本当に頭のよい人というのは、自分の立場をまもるためにここまでやるのか、と唖然とする。
http://blog.tatsuru.com/2006/11/11_1038.php
http://blog.tatsuru.com/2007/02/01_1103.php
http://blog.tatsuru.com/2009/09/13_1040.php
この人はとにかく卑怯だと思う。さすがマルクスの信奉者といったところだが、私はこういう小賢しさが大嫌いだ。
一度でいいから、マスコミと若者とアメリカの陰謀以外に責任を割り振るのをやめて「私はコレについて責任を持つ」と書けよ。
もっとも、処世術としては、自分が何について責任を負うかについては自分より偉い人にのみ語るのが正しいことだ。
大衆や目下の者に対してそれを語り、そのとおり実行しても彼らは自分に報いてくれるわけではないからだ。
自分の責任は、自分とソレより上の者の間で共有し、下のものには結果のみを示すのは何も間違いではない。
ハックルさんみたいにところかまわず自分の使命を吹いて回るのはキチ○イである。
しかし、自らの周囲との関係を重視して、大通りに出て狂人あるいは政治家として振る舞うことを避けるのであれば、他人に対して責任を強制する資格はない。 この人は無認可で街頭演説する政治家みたいでたちが悪い。
結局のところ、贈与云々を言ってる人が、誰よりも計算高く、出し惜しみをしているというところがオチなのだ。
若者が求めているのは年寄りの説教ではない。年寄りが何らか社会の問題にコミットする姿勢を見せることである。
今は価値が分からなくても将来は、とか、この贈与の価値がわからないのはバカだなどと言い出すならばハックルさんと同レベルである。
ちなみに、冒頭のタイトルと反するようだけれど、私は内田樹の著書のファンだ。著書は大好き。
さらに繰り返すがこの記事において「平等・自立・団結」がワンセットで在るということを指摘している点は慧眼だと思う。
一人のAC体験の先輩として、この問を否定する内容で記事を書く。
今葛藤の真っ只中にいる人には、すぐには受け止められないと思うけど、何かしら伝わるものがあるといいな。
アダルトチルドレンは深刻な問題ではある。
特に「完璧主義」はアダルトチルドレンに共通する特徴であり、これがACの回復を著しく困難にする。
他者からの評価を押しつけられ、自分の感性を極端に否定され続けてきた人間は、自分の現状や目標を自分で設定することに困難を覚える。
「求められていることをこなしている」間はすごく頑張るのだが、少しでもそこから遅れをとったり、間違いを指摘されると急に動けなくなってしまう。
あるいは、外面上は完璧にできていることを装うために、不都合なことを隠しがちで、いわゆるホウレンソウがしっかりできないとサれることがある。
これを、なにもしらないオッサンたちが「最近のこどもはひ弱だ」というが、根本的に間違っている。
また一般的に指示待ちとかアスペと言われる現象もACに起因することが多い。指示内容が不十分だったり曖昧だと、行動しなかったり戸惑ったりする。
自分からイニシアチブを設定することができないほか、権威のあるものに認めてもらわないと行動ができないのもACの特徴とされる。
(実際はそれだけじゃないんだが、ACの人たちは、すべての問題を自らのAC体験に還元してしまう傾向があるため、これを無視することはできない)
AC問題の恐ろしいところは、一度はまると加速度的に状態が悪化していくため、回復が不可能に思えてくるところだ。
ACの人間は、上記のようにACでない人間にはまったく理解出来ない「ささいなこと」で躓き、そしてそのことをいちいち深刻に受け止めがちだ。
世間のACでない人間からは「ささいなこともできないやつだ」として無能扱いをされると、ただでさえ完璧主義なのに、ますます自己イメージが低下し、無力感に囚われて何もできなくなってしまうケースが多々ある。ひどい時には、動けなくなり、ACが関係ないすべてマイナス要素を自らのAC体験に還元することで自分を慰めるしかできないような人間になってしまうこともある。私も一時期この罠にはまりかけた。数年間何もやる気が起きず、ひきこもり続けていたりもした。
それでも何とかなった。その体験から、ACはあくまで認知の歪みであり、その気になれば抜け出せると思っている。
というのを前提にして、一昨日くらいに話題になった記事の感想。
過渡期というか、正念場を過ぎて言葉を発することができるようになった状態だな、と思う。
確かにこの人の母親の歪みは事実だろう。そして、それによって書き手の人が傷ついたのも事実だろう。
でも、その事実にいつまでも支配されなきゃいけないものなのだろうか。
この人は母親の歪みを過去ではなく現在進行形で自分に悪影響を与えるものとして語っている。
表現の端々ではもう過去のことだとか、自立したとか言ってるけど、また囚われている感がある。
しかし困難を感じつつもなんとかその過去のつらい思い出を整理することで、今の自分との間に距離を設けようとしている。
過去が辛かったから今の自分がこうなんだ、とは言うまい、と前向きに考えようとしていると思う。
当然その途中の段階だから、余計なおせっかいを焼きたがる人もいれば、「それは正しくない」という人もいるようだが、
書き手の人はそのうち先の段階に進むという予感がある。
きっと、すごく、頑張ったんだなぁ、と自分の体験に合わせてしみじみと感動する。
問題は、彼女に便乗して「私がアダルトチルドレンになった体験を聞いてくれ」に始まり「今私がダメなのも親のせいだ」って擦り寄っている人たちだ。
yuhka-uno さん、thor さん、私はあなたの味方です。私はあなたの仲間です。
あなたがた二人が何を思おうと、なにを言おうと、なにをしようと、
ほかに世界のどんな人たちや思想や宗教や、あなたがた自身があなたを否定しようと
また、私の頭できるだけ客観的に考えても(純粋な客観なんてそもそも存在しませんが)
この世で少なくとも誰かひとりが、
(中略)
同じく私は宣言します。
ここでyuhka-uno さんに対して、
批判的なことや否定的なことを書いてらっしゃる方々。
あるいは書かずとも、心に批判的なことや否定的な気持ちをお持ちの方。
あなたがたがどんな常識や、論理や、手段や、量的な優位性をもって
yuhka-uno さんを批判したり否定したり、
反論するし、私の心の中には、
あなたがたに反論し続け、反論し切るだけの想いや、
あなたの言っていることは多数派の社会の常識に沿っていて、そういう意味では正しい。
だけど、間違った育てられかたをした人は間違っていて当然であり、それを矯正するために「親は間違っていた」と言って自分の歪みを直そうとしているところに首を突っ込んで何が得られると言うのでしょうか。
歪みをただそうとしている手段を封じて、甘えずに直せとは、言っていることが矛盾しています。
黒さんが見ている世界は、頑張ればできる人間しか生き残れない、恵まれた世界です。
自分が駄目だと思い込んでいる人間は、生まれてから何十年もずっと自分は駄目だと思い続けてきたような人間ばかりです。
少ない努力で報われた経験を積み重ねた人は、自分が正しいと思い、成功経験を積み重ねていきます。
どれだけ努力しても報われない人は、自分が何をやっても間違えると思い、罪悪感を積み重ねていきます。
そして、少ない努力で報われる才能溢れた人たちは、自分の努力がこんなに大きな成果を上げたから自分は正しい、
同じだけの成果が出せないのは自分より努力が少ないからだと言って他人を説教したがります。
本当に不幸な目に遭って苦しみ抜いた人ほど、どれだけ努力しても報われない人がいることを体験から受け入れており、できない人に甘えだ怠け者だと言って追い詰めたりしません。
なんというか、いじめられっ子が、他にも孤立した人を見つけると擦り寄って集団をつくろうとするのに似ている。
その人が仲間を求めているかなんて分からないのに、自分がいじめから救われたいばかりに「私はあなたの気持ちがわかります」といって勝手に仲間ヅラをしているようなそんな感じ。
そんな「ぬるい連帯」をyuhka-unoさんが本当に求めているだろうか?
私は本文を読んで全くそうは感じなかったが、彼女たちは切羽詰まってるからそんなこと考えたこともあるまい。
断言するが、彼女たちの求めてるものと、yuhka-unoさんが求めているものは違う。ぜんぜん違う。
実際に、彼女らの過剰な摺り寄りに対してyuhka-unoさんが、慎重に切り分けを行っているのだが、
そこを読もうとせずに、人の庭でぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるのは醜い行為ではないだろうか。
過去が気の毒であったことはわかるが、それを盾にして現在の自分を正当化し、しかもその恨みを世界にばらまかずにはおれない苦しみ。
対等に話ができる状況で、自分たちを意図的に低い位置におき、相手に譲歩をねだるその卑屈さ。
同じAC体験者として気持は痛いほど良くわかるけれども、それは決して私たちが「一般人」と呼ぶ人には伝わらないのだ。
そうやってコミュニケーションを取ろうとすれば、こじれることはあっても何かが良くなることなど絶対にありえない。
ただ自分が嫌なことをされたから、それを返そうという機械的な反応をしているに過ぎない。極めて非人間的だ。
自分たちが醜くて卑しい存在であるということを承認してもらいたいのだろうか?
「醜くて卑しいけどそれは親のかけた呪いのせいだ」というのを他人に認めさせれば何か状況が良くなるのだろうか?
「毒になる親」とか「良心を持たない人たち」を読み返し、AC仲間で共有しあって、自分たちを哀れんで、それで自分の世界が少しでも救われるのか?
いや、哀れんでもいい。「自分たちが悪かったのではなかった」という確認はとても大事だ。
でも、なんでそこで立ち止まっちゃうわけ?なんでそこから先に進もうとしないの?
甘えるなとか言いたいわけじゃないけれど、純粋に疑問だ。そこで立ち止まってて幸せなのかい?
幸せならそれでもいいけど、前を向いて進もうとしているyuhka-unoさんを、自分の惨めな人生に引っ張り込もうとするのはやめたほうがいい。
「なんか嫌なものねぇ。」と多惠子さんが言った。「胃が痛くなってしまう」
「やっぱり?」とわたし。「後味悪いよね。まるであたしがいじめたみたい。」
「私はできるだけ、あの子にも気を配ったつもりだったんだけれど。」
「あたしだってずいぶん我慢したわよ。」
「お互い不幸になってしまう。」
「もっとひどい不幸から逃れるために、あたしを引っ張ったのよ。二人で一緒に耐えましょうってなもんでさ。」
「でも、つっぱねなかったんでしょ。」
「めんどうくさくてね。」
「わかる・どっちにしても、自分じゃないような。」
「そうそう。」
「かかわること自体、間違いであるような。」
「そうそう。」
「どうしてあげればいいのか、わからないわ。」
「わからない。でも、あたしが彼女の望む通りになって一緒にかばいあったとしても、彼女は本当には幸せにはなれない。それはわかる。」
過去に自分を支配させるな。あなたたちの語る言葉には過去しかない。現在も未来もない。それじゃあもったいない。
どれだけAC同士で傷の舐め合いをしても、傷が癒されることは絶対にない。
「西洋菓子骨董店」とか読め。過去を修正したり、傷を治そうとするんじゃなくて、
もうそれはどうしようもないものとして受け入れて今の自分と向き合ったときに、初めて前にすすめるんだ。
ちなみに先ほどの引用には続きがある。
「正しいのは、実はあの子かもしれない。」
「本当にそう思う。みんな他愛ない話してるじゃない。平和でいいな、と思うことある。」
「みんな決して悪い子たちじゃない。楽しそうにしてるよ。もしかしてそれがしあわせってやつかもしれないって。
だけど」
詰まってしまった。多恵子さんも沈んでいた。
その後の気持ちは、今の万倍の勇気を出してさらけ出さないと、言葉にできそうもなかった。
今の自分は、まだそこまでの成長を、幸か不幸か、していないのだということを思い知った。
yuhka-unoさんはこのことを自覚して、勇気を出して先に進もうともがいている。
引用した二人は中途半端な状態でそこそこ満足して立ち止まっている。
二人の将来は交わらないところにある。 そのことを自覚したほうがいい。
アダルトチルドレン問題は深刻ではあるがあくまでもそれは傷痕であり認知の病だ。
それに屈するのも、それを克服して先に進むのもあなたたち次第です。あなたたちの責任です。
アダルトチルドレン問題を中途半端に知って、自己正当化することを覚え、そこで成長を止めてしまった人間は、
そういう人同士で傷を舐めあって生きていればいい。いつまでも後ろを向いて嘆いていればいい。
しかし、その地点にとどまらないで、成長しようとする人の足をひっぱるのだけはやめてあげてください。
そして、願わくば、あなたたちも、今の地点で十分休んだら、立ち上がって前を向いて歩いてください。
大事なのは、肯定するのではなく、過去をひとまずそういうものとして受け止め、そこから未来を考えること。コレしかない。涙が出るほど悔しいけど。
多民族国家日本で23日、大和民族系酷使様が在日コリアンの隣人宅から漂うキムチの匂いに苦情を言ったことに対し、大勢の日本人がキムチを食べて抗議した。
この隣人同士のトラブルは、地元当局が仲裁もせずに放置。この件についてのミクシーのコミュニティーが作成され、チャンネル桜やニコニコ動画で報じられると、Yahoo!掲示板や2ちゃんねるでトピックやスレが乱立。その多くが在日コリアン家族に連帯を示すため、23日にキムチを作って食べるというイベントに参加した。
2ちゃんねるのまとめサイトのページ作成を手伝った自宅警備員の男性(37)は「日本に住んでいるなら、お互いの文化を理解すべきだ」と語り、フジテレビ前にキムチを持ち寄りネットを通じて知り合った友人やスレ住人ら2500人で、皆で夕食を囲んだという。
同じくこのイベントを企画した1人である40代の女性(鬼女)は、今回のケースが外国人の融合という点において問題を生じかねないとし、「このイベントを通してキムチを皆で囲みながら、気に入らない人のプライバシーを暴いて人生を台無しにしたい。」と語った。
日本では大和民族が人口の大半を占めるが、市民らはキムチを日本料理の1つと考えており、韓流は同国の文化としてこれを受け入れるべきだとしている。(フジテレビ)
ぼくもお答えします。
だんだん難しくなってきたのでついていけるかわかりませんが…
わかる範囲で答えたいと思います。誤解があったらすいません。
でもやっぱりちゃんと理解されるほうが嬉しいです。
「音楽を聞いて感動することはでき」ると私も考えています。ですから音楽表現の場合は私の述べた理解から共感に至るまでのプロセスはそもそも通用しませんし、最初から文章表現に限定した話をしたわけです。(書いてないことを取り上げて批判することは簡単ですが、それは藁人形論法という詭弁であることを指摘しておきます。)
絵や写真、音楽のような表現なんかは良し悪しや感動するしないがハッキリしていて理解や共感がしやすいけど、文章表現はそうじゃないという話です。
それもそうか…。音楽と文章を同じものとして扱っては余計わかりにくくなるのかもしれないね。
あと「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんていうのは思ってませんし、そういう話はしていません。
①人に文章表現を共感してもらうには②人から理解が必要で③そのためには発信者が正確で、分かりやすく書いたほうが望ましいという話であり、誰に対しても(自分自身に対しても)「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」というのは思っていないわけです。
そういう話じゃなかったのならぼくの誤解だったね。ごめんなさい。
ぼくはこう思うって話と
あなたはこう思うって話がとりあえず明らかになったのかなあ。
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」と書いてもらえれば大分理解しやすいです。
蛇足ですが、そういう人が現実生活にいた場合、相手の状態に拠って励ますか慰めるか共感するといった行動を個人的には取りますね。
文章だとそれが分からないので(文章だと相手の気持ちが分かったつもりになるのでそれは避けたい)、たぶんスルーしてしまいますが。
わかりやすかった?よかった^^
そうだよねーぼくも同じ立場だったらどういう対応をするかちょっと悩むなあ。
「完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しい」のはもちろん同意です。というか難しいのではなくて不可能です。
「文章を書きたい」という気持ちは誰にも邪魔できません。そして文章を書くという行為自体は「敷居の高い行為」である必然性はありません。
ですが「何かを伝えたい」という目的がある場合には話は変わります。「何かを伝え」るということには当然のことですが他者の存在が必要です。
文章を紡ぐ行為の先に他者がいるということは必然的に文章が公共性が生まれ、責任が生じてきます。
そうした場合にはミスリードによって翻弄される他者も出てきます。
こういう事態に直面した時に取りうるスタンスは少なくとも2種類あります。
①「理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。」から誤解した人はスルーするというスタンスと、
②「理解してくれない人(大多数だと思います)に理解に近づけさせる」ために対話を続けたり、根気良く文章を紡いだりというスタンスです。
私は後者のスタンスです。そして前者のスタンスも認めています。
ただし前者のスタンスを採用している人たちには「人を翻弄している可能性を放置している」という事実を直視していただき、他者がいる文章表現に否応無く、避けがたく存在している責任=ハードルをぜひ自覚していただき、自覚の上でハードルの下をくぐるなり、きちんとハードルを飛び越えるなりご自由に行為を選択していただけたらなあと思います。
(念のため言っておくとハードルの下をくぐる場合でもヘイトスピーチなんかは避けてください。ヘイト野郎はどんな場合も美しくないと思いますので。)
ぼくは①と②のどっちのスタンスなんだろうなあ。
わかりやすいように書きたいとは思うけど
たしかに翻弄している可能性あるなあ。
翻弄してしまうのはイヤだけど
かといって「ある程度」以上の努力をしてしまうのもイヤなんだよなあ、わがままかなあ^^;
ハードルは飛び越えられたらいいなという願望はあるけどめんどくさかったらやめてるかも…。
「この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになる」と仰る意味がよく分かりません。
「この世に神様なんていなければ」という仮定が良く分かりませんし(だって神様が存在するか否か、実在するか否かなんて真偽の水準では判断不能ですし)、
「世の中の宗教」という言葉が組織としての宗教なのか、制度としての宗教なのか、人々の信仰対象としての宗教なのか、など
要するに、ぼくは詭弁を弄することが悪だとは思ってないってことかな。
読者に文章を理解させようとする気があるのなら
詭弁のような不当な推論はなるべくやめたほうがいいんじゃないか
もし、詭弁を使うつもりなら留保を付記しようって話だったかな(合ってる?)
うーん…。ちょっと考えてみる。
理解してもらいたいとは思ってるけど
だからといって詭弁を言ってはいけないのかどうかもわからないし
ミスリードは理解を困難にする…ような気がする。
もしそうなら、詭弁はなるべく少ないほうがいいってことになる?
ウソはついてないつもりだけど「つもり」なだけかもしれない。
なるべく詭弁を書かないつもりでいたいなら
この理解であってるなら、それに対するぼくの答えは
まず書いてしまいたい!ってことかな。
したくなったらやろうかな~。
ちょっと勉強する手間を惜しんでいるだけで
かなり間違ったことを言ってる可能性はあるのかもしれない。
そんなこと言ってる場合じゃないのかなあ。
私は貴方の「悲しいなあ」に関する表現を「『こいつはウソを言っている』と思われた場合、悲しい」と解釈しました。
それで今回の返信に「悲しいのは事実なんだよ。」と書かれてました。
私の解釈と貴方の書いたことを総合すると、「こいつはウソを言っている」と(私に)思われようが思われまいが関係なく「悲しい」ということで良いんですかね(繰り返しますが私は貴方が嘘を言っているとは思いません)。
いや、勝手な推測ですが、誤解されること自体が悲しいのでしょうか。
どういう経緯で「悲しい」と感じたのか仰っていただけると、こちらもそちらに配慮できるかもしれないので、うれしいです。
悲しいまでの経緯か~うーん・・・
的確に表す言葉が思いつかないけど
頭では誤解されることは仕方ないことだと思うけど
でも、実際に誤解されたときにはっきりと心がきしむ。
そう言いながらも実は「わかりあえるはずだ」と思っているのかもしれないけど。
「こいつはウソをついている」と思われているのならぼくは悲しい。
そう思われていないなら悲しくない。これはたぶんハッキリしてる。
誤解されること自体が悲しいということだと思います。
それは「(あなたに)誤解されることが悲しい」と言ったわけではないのです。
ぼくも「あなたに嘘つきだと誤解されている」とは思いません。
「もし誰かに誤解されることがあるとするならば、それは悲しい」ということです。
うーん・・・わかりにくかったらまた言ってください^^;
他者に「どう思ってくれてもいい」と思いながら「他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられない」という感覚ってどんなものなんですかね。
「どう思ってくれても構わないけど誤解されると悲しい。でも誤解だろうがなんだろうが何でもオッケー。悲しいけど否定はしない。」ってスタンスなんでしょうか。
私は「ある程度こちらを理解してくれたらどう評価しても良い。明らかに誤解されてる場合は理解してもらえるよう努力する」みたいなスタンスなので後学のためにどんな感覚なのか理解したいです。いや、やっぱり書かなくて良いですよ。この辺でお話はやめておきましょう。
おおむねそんな感じです。
悲しいけど否定しないんです。
でも、諦めるってことでもないなあ。なんだろう。
ある程度の努力をしてみて
どこかにボーダーがあって、もうそれ以上は努力をやめようという気になる。
あれ?矛盾してる?
うん、「否定しない」はたぶん違う。
否定しないんじゃなくてぼくと相手の理解を近づけようとする。
それで…どこかはわからないけど
ぼくが相手に対して「この人はわかってくれたかも」と思ったら
理解を近づけることは一時停止する。
「この人はまだわかってくれてないかも」と思ったら
引き続き理解を近づけようとする。
でも、「まだわかってくれてないかも」と思う人でも
ぼくは理解を近づけることを一時停止することがある。
そのスイッチがどこにあるのかわからないけど、そんな場合があります。
「まだわかってくれてないかも」と感じるだけでも悲しくなります。
加えて、「わかってくれたかも」と感じる人でも
こんな感じです。
んー…ウソがあるかもしれない…。
あらゆる状況下でぼくの言ってることが
必ずしも再現されるかというとそうじゃない気もします。
まだわからなかったら遠慮なく言ってください。
長々と述べてきましたが、言いたいことは以上です。もしハードルの下をくぐるような無責任な文章を書いていくつもりならこれからもどんどん批判や指摘を行っていきますし、ちゃんと責任を意識した文章を書いていくのなら批判や指摘もしつつ応援していきますので、よろしくお願いします。増田ではなくてブログやツイッターなどのご自身のフィールドでやるなら批判も指摘も何も書きません。何れの文章記述のスタイルを貴方が採用するにせよ、私は貴方を応援しています。
批判や指摘は大歓迎です(でもやっぱり心がチクチク痛いです)。
わーい応援ありがとう^^
私も人が死ぬのは嫌ですし、弱い者の味方でありたいし、弱い者が弱いままで生きられるコミュニティを実現するかもしれない連帯の可能性を信じたいですから。
ちょっと救われました。ありがとう。
よかったらどうにかして繋がりましょう。
私自身は読者が誤読をしていたらなるべく指摘するようにしているので、一応いくつか誤解を指摘させてもらいます。
「音楽を聞いて感動することはでき」ると私も考えています。ですから音楽表現の場合は私の述べた理解から共感に至るまでのプロセスはそもそも通用しませんし、最初から文章表現に限定した話をしたわけです。(書いてないことを取り上げて批判することは簡単ですが、それは藁人形論法という詭弁であることを指摘しておきます。)
絵や写真、音楽のような表現なんかは良し悪しや感動するしないがハッキリしていて理解や共感がしやすいけど、文章表現はそうじゃないという話です。
あと「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんていうのは思ってませんし、そういう話はしていません。
①人に文章表現を共感してもらうには②人から理解が必要で③そのためには発信者が正確で、分かりやすく書いたほうが望ましいという話であり、誰に対しても(自分自身に対しても)「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」というのは思っていないわけです。
①②③の理路が正しいかは判断不能なので留保しておきますが、私はそういうロジックで文章を書きました。
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」と書いてもらえれば大分理解しやすいです。
蛇足ですが、そういう人が現実生活にいた場合、相手の状態に拠って励ますか慰めるか共感するといった行動を個人的には取りますね。
文章だとそれが分からないので(文章だと相手の気持ちが分かったつもりになるのでそれは避けたい)、たぶんスルーしてしまいますが。
「完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しい」のはもちろん同意です。というか難しいのではなくて不可能です。
「文章を書きたい」という気持ちは誰にも邪魔できません。そして文章を書くという行為自体は「敷居の高い行為」である必然性はありません。
ですが「何かを伝えたい」という目的がある場合には話は変わります。「何かを伝え」るということには当然のことですが他者の存在が必要です。
文章を紡ぐ行為の先に他者がいるということは必然的に文章が公共性が生まれ、責任が生じてきます。
そうした場合にはミスリードによって翻弄される他者も出てきます。
こういう事態に直面した時に取りうるスタンスは少なくとも2種類あります。
①「理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。」から誤解した人はスルーするというスタンスと、
②「理解してくれない人(大多数だと思います)に理解に近づけさせる」ために対話を続けたり、根気良く文章を紡いだりというスタンスです。
私は後者のスタンスです。そして前者のスタンスも認めています。
ただし前者のスタンスを採用している人たちには「人を翻弄している可能性を放置している」という事実を直視していただき、他者がいる文章表現に否応無く、避けがたく存在している責任=ハードルをぜひ自覚していただき、自覚の上でハードルの下をくぐるなり、きちんとハードルを飛び越えるなりご自由に行為を選択していただけたらなあと思います。
(念のため言っておくとハードルの下をくぐる場合でもヘイトスピーチなんかは避けてください。ヘイト野郎はどんな場合も美しくないと思いますので。)
「この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになる」と仰る意味がよく分かりません。
「この世に神様なんていなければ」という仮定が良く分かりませんし(だって神様が存在するか否か、実在するか否かなんて真偽の水準では判断不能ですし)、
「世の中の宗教」という言葉が組織としての宗教なのか、制度としての宗教なのか、人々の信仰対象としての宗教なのか、など
宗教の多様な存在形態のうちのどのような形態を指しているかが具体的ではないので分かりません。
とりあえず宗教と文章表現は異なりますという簡単な指摘だけで留めておきましょう。
私は貴方の「悲しいなあ」に関する表現を「『こいつはウソを言っている』と思われた場合、悲しい」と解釈しました。
それで今回の返信に「悲しいのは事実なんだよ。」と書かれてました。
私の解釈と貴方の書いたことを総合すると、「こいつはウソを言っている」と(私に)思われようが思われまいが関係なく「悲しい」ということで良いんですかね(繰り返しますが私は貴方が嘘を言っているとは思いません)。
いや、勝手な推測ですが、誤解されること自体が悲しいのでしょうか。
どういう経緯で「悲しい」と感じたのか仰っていただけると、こちらもそちらに配慮できるかもしれないので、うれしいです。
他者に「どう思ってくれてもいい」と思いながら「他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられない」という感覚ってどんなものなんですかね。
「どう思ってくれても構わないけど誤解されると悲しい。でも誤解だろうがなんだろうが何でもオッケー。悲しいけど否定はしない。」ってスタンスなんでしょうか。
私は「ある程度こちらを理解してくれたらどう評価しても良い。明らかに誤解されてる場合は理解してもらえるよう努力する」みたいなスタンスなので後学のためにどんな感覚なのか理解したいです。いや、やっぱり書かなくて良いですよ。この辺でお話はやめておきましょう。
長々と述べてきましたが、言いたいことは以上です。もしハードルの下をくぐるような無責任な文章を書いていくつもりならこれからもどんどん批判や指摘を行っていきますし、ちゃんと責任を意識した文章を書いていくのなら批判や指摘もしつつ応援していきますので、よろしくお願いします。増田ではなくてブログやツイッターなどのご自身のフィールドでやるなら批判も指摘も何も書きません。何れの文章記述のスタイルを貴方が採用するにせよ、私は貴方を応援しています。私も人が死ぬのは嫌ですし、弱い者の味方でありたいし、弱い者が弱いままで生きられるコミュニティを実現するかもしれない連帯の可能性を信じたいですから。
これを読んでいたらもやもやしてきたので書く。
4つだけは本当だということじゃない。
8つすべては「真実」に近いと思う。
実践できれば楽に生きれると思う。
それがいいとか悪いとかいう問題じゃない。
ただ、この理論だけでは結果的に不十分だとおもう。
いったいなにを欺いているのか?
リンク先で語られている内容よりも
語られなかった内容に注意してほしい。
1、今に生きる
過去を悔やんでたらればを繰り返したり、起きてないことをあれこれ憂いたりするのは時間と労力の無駄遣いで非生産的。
2、人や社会に期待をしない
求めたり「こうあるべき」とイメージを持ったりすれば、現実との差異にがっかりすることになる
自分が見ている他人は、他人という物質に反射して映った自分だと考える。
その出来事を通して味わいたい思いや学びたいことがあるからそれを引き付ける。
こうしなきゃ、こうでなきゃ、というのは自己満足であって、大抵の場合は不必要
6、ワクワクするものごとを選ぶ
選択の連続の人生で、自分の心がワクワクする方を正直に選ぶのが一番スムーズ。これができないと葛藤やジレンマに苦しむ
7、自分の行いは必ず帰ってくる
きちんと受け止めないでぶつかった時に、痛いと言って責任転嫁しようとしても事は進まない。
自分が受けたい言動をとればそのまま返ってくる。
8、物事は全て中立
「悪い出来事」「縁起の良い場所」なんてのは本当はなくて、全て中立な物事に自分が意味付けをしてるだけ。
たとえば同じ場に居合わせて災害にあったとしても、ある人はたまたま見舞われたと感じるし、ある人は自分の宗教の教えを遵守しなかったからと捉えるかもしれない。
ぐうの音もでない。
いろんな本を読んだり、テレビを見たり、人と話したりすれば
わりと納得できる考え方だなーと。
(というかこれがわからないとしんどい)
しかし、正しいということとそれが妥当であるということはまた別の問題だと思う。
でも、とりあえず
ということはほぼ間違いないと思う。
世界じゅうの人がみんな
この方法を身につければ
きっと生きやすい世界が目の前に広がると思う。
ちょっと想像してみよう。
(親、兄弟、親戚、同級生、上司、同僚、社会のしくみ、政府、日本、テロリスト、なんでも)が
もし、これらの特性を身につけたならと考えてみよう。
こりゃパラダイスだ!
ぼくたちはお互いがお互いを認められるような
真に寛容な社会を実現できる!
誰と遊んでいようが楽しい!
よーし!あの丘の上まで競争だ!
これらの方法に従うことで楽に生きられると思う。
でもそれは「従うことができれば」の話。
実際、どこの場でも目にする。
「人生論」でも、「大往生」でも、「論語」でも、「エセー」でも、「徒然草」でもなんでもいい
長く広く読まれている「人生の教え」的な本を読んでると
最後にはだいたい前の8つくらいに収まる
(代わりにどっかの社長の話を聞いてもいいし、テレビで美輪明宏さんの話を聞いてもいい)。
昔の人は偉いなあと思う。
そういう感じの本はいろいろ読んだ気がする。
もちろん、まだまだ読み足りない。
なにせぼくはまだ今年から活字に触れはじめたばっかりだ。
きっと死ぬまで読んでも読み足りないのだけど
個人的には、ぼくの考えを
そういう本が「間違っている」と指摘してくれることを期待して
今のところ、ぼくの考えを「否定してくれる」本は見つからない。
いや、正確に言うと、否定してくれはするけども
それが納得できないのだ。
ぼくの読解能力がないだけならそれでいいんだけど
もしヒマならちょっとぼくの考えを聞いてほしい。
まず1つめのウソ。
ぼくが言いたいのは
すべての人間がこれらの方法を実行するのは不可能だということだ。
古今東西のえらい人がみんな同じ結論にたどりつくなら
さっさとそれを実行すればいいのに
なんで同じ内容の本ばっかり書かれていくんだろう。
それが人間全体に広くみられる普遍的な問題だからじゃないかなあと思うけど
じゃあ、なんでその普遍的な問題が
大昔から今まで解決されないままなんだろう。
般若心経の新訳を読んだ。
ぼくらはなんで2000年も前の真理がいまだに実行できないの?
そりゃあれじゃないの?
大笑いしながら観ていた。
その中の一作で寅さんの「おいちゃん」が
実は若い頃は文学をやりたいと思っていたと話すシーンがある。
おいちゃんは父親にこう言われたらしい。
「団子屋に文学なんか必要ない」
団子屋が文字を読む必要がないなら、
本なんてまったく読まない人がいてもおかしくないんじゃないだろうか。
これは団子屋だけの問題か?
かなり多く存在してるんじゃないのか?
それでなんの不自由もなく生きていけたなら
感覚だけで生きていくことを恥じることもない。
それどころか、論理的なことをバカにさえするかもしれない。
難しいことはわからない。
バック・トゥ・ザ・フューチャーを何十回も観てるのに
なにがどうなっているのかいまだに理解できてない。
でもそれがどうした?
バック・トゥ・ザ・フューチャーの理屈がわからなくてもなんの不自由もない。
熱心な仏教徒や
わかりにくいな…。
その最初の救いを信じていたら
いつのまにか犯罪者の仲間入りをしていたことだってあるみたいだ
(オウム真理教の元信者のそういうエピソードを読んだことがある)。
「念仏を唱えれば救われる」って
そそのかされただけじゃないのか?
バック・トゥ・ザ・フューチャーがわからないお父ちゃん。
念仏を唱えるだけの百姓。
そういう人たちがいるかもしれないと思ったことは?
つまり、ぼくが言いたいのは
読めない人がいるかもしれないということだ。
読んだ人に待ち受けているのは
でも、読んでない人はどうすりゃいい?
で、その論理を理解できなかったら?ほったらかし?
そりゃあもう素晴らしいことになるとおもう。
でも、現実はそうじゃない。
何を語っていないかをもっとよく考えたほうがいい。
この人生訓がなぜいいのかということを
絶望的なまでに理解できない人がいる。
そういう人たちは人生訓が提示されるたびに足場が少なくなっていく。
要するに勉強ができない、感覚で生きている人たちをないがしろにしているのだ。
このたぐいの人生訓すべてが。
掛け算までしかわからない子どもに、方程式の素晴らしさを説いているようなもんだ。
上から目線で「こうしたらいいのに」と言ってしまってることになる。
いつまでも掛け算のところでつまづいて
文句ばっかり言ってる子どもはほったらかして先に授業を進めるべきなの?
掛け算のところに戻って教えなおしたほうがいいんじゃないの?
やっと言いたいことの一つが終わった。
冗長になりそうだけど
もうひとつ言いたいことがある。
更に絶望的な想定だ。
さて、こんな文句をどこかで見たことがあるだろうか。
(まちがってたら言ってください)。
なんかさぁ…
内容自体はそんなに変わらないのに
急にうっとうしくなった気がしない?
どこかで見たことあるなあ…
これどこで見たんやろう…
ああ、そうか
「これ、うちの経営理念やわ」っていう人いる?
その時どんな気分がした?
殺したくなった?
泣きたくなった?
正義づらした誰かに強制されるのだ。
それが「楽に生きる」とは真逆の事態を連れてくる。
この想定のたちの悪いところは
その大義名分が「間違ってない」というところだ。
誤解なら間違ってると指摘することはできるけど
ほぼ正しいと思う。楽に生きるためならね。
え?
間違ってないなら実行できない人が無能で怠惰なんだから仕方ないって?
wikipediaによると2009年の時点で日本のニート総数63万人
彼らがみんな死んでしまえばいいと思うの?
賢くて強い人だけ生き残ればいいと思ってるの?
ニートだけじゃない。実際働いている人でも
(実際これだけの説教レパートリーがあれば人格を破壊するには充分すぎるとおもう)。
(統計を出すつもりはないけど)。
1つめのウソで言及しているような
感覚で生きていて、なおかつこういう人生訓に苦しめられている代表選手は
2つめのウソで言及しているような
こういう人たちはまとめて死ぬべきなのか?
損する人のほうが多くないか?
そう考えたら、「人生を楽に生きる8つの方法」が最後の答えだと思えない。
この考え方を否定してもらいたくてそういう本を読んでいた。
でも納得できない。
これでは救いにならない。
でもいつまでも状況に進展がない。
だれか否定してくれよ。
「おまえ間違ってるよ!」って。
1つめのウソについては別の解決策が見当たらないし探そうともしてないけど
そして、その解決策をこの場で披露することを許していただきたい。
枠組みを作ろうと思う。
ほとんど働かなくてもいいような枠組み。
楽観的な言い方をすると、これは収益を生み出せるかもしれない。
そうして、口やかましい人たちを黙らせる
http://auauai.tumblr.com/post/9080858048
これはブログでも書いてるけど
やりたいことはphaさんのギークハウス構想に似てると思う。
優しくて閉鎖的な空間だ。
個人的にはなるべく一人でいたいんだけどそのためのコストが高い。
そういう人と連帯を組むことはしたくない。
じゃあ、ぼくが怖がらずに近づけるのは
そういう人たちととりあえずお互いを認め合う。
自信を少しずつ取り戻す。
まずはそこからだ。
誰だって生きていていいんだという相互理解をつくることだ。
心底、世の中に絶望していた。
どれも納得できなかった。
共感をもたらしてはくれたけど
やっぱり現実はしんどいままだった。
山の中に草庵でも建てて住もうと本気で思っていた
(いまでもその選択肢を考えてる)。
いくら本を読んでも
現在の恐怖と、わずか数年後の不安を解決してくれるものすらなかった。
でも最近考え方が変わった。
それもやはり本を読んで変わった
(次に挙げるだめ連の本とはまた違う本だ)。
だめ連の本によると
連帯すると分散される(当たり前か)。
家賃10万円の家を10人で借りたら一人1万円だ。そういうことだ。
近隣の人の援助もあったらしい。
それはちょっとできるかどうかわからない。
でもぼくらにはインターネットというツールがある。
レゴ作って2chにスレ立てるだけでプロビルダーになる人がいたり
自分の顔を毎日撮って繋げただけの動画がYoutubeで何万再生もされたり
「ありがとごじゃいます」って歌って動画として公開するだけでテレビに出演できたり
要するに「好き」とか「やってみた」とかの
ということは
そういうしょーもないアイディアが収益化する可能性があるのだ。
ちょっとでもおもしろそうなことはなんでもやってみりゃいいのだ。
社会不適合者が集まっているということだけでもちょっとおもしろいかもしれない。
誰が許さなくても本当は関係ないんだよね。
心苦しさを飛び越えるほどの、欲求があればぼくらは動ける。
外にある楽しいことに手を出すのは怖いしめんどくさいけど
ネトゲくらいならちょっとやってみようかなーなんて思える。
とりあえずヒマならその家に集まってみて
生きるのに向いてない人がリラックスできる場をつくる。
なんかちょっとやる気出たり、アイディアわいてきたら
そういう人たちの「好き」とか「アイディア」を片手間でネットに発信してみる
(ぼくもいくつかアイディアがある)
奇しくもこの考え方は
楽しいことだけを追い求めて生きていくことが可能かどうか確かめたいのだ。
しかし、生きるのに向いてない人がラクになれる場所
(SNSでの付き合いで世界のツラさを「ごまかす」だけじゃない場所だ)
これができるだけでも意味はあると思う。
もうだから早く家借りよう。
とりあえず、ツイッターかmixiかメールかなんでもいいから連絡をください。
http://twitter.com/yukkun1986/
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=25533767&from=navi
breed0902@gmail.com
(悪いことをまったくやってないってことじゃないけど)。
たすけてくれよ。「私も怖かった」って言ってくれよ。
怖いよねー(*´・ω・`)(´・ω・`*)ネーって慰め合おうよ。
別に住まんでもいいのよ家には
慰めとか遊びとかアイディアの拠点にするねん。
もう疲れた。
もう待てない。
もう泣きたくない。
誰かが泣くのも見たくない。
きみは死ぬな。
それでも生きれるようにしたいのよ。
ぼくもきみも。
これがぼくらの「楽に生きるための一つの方法」じゃないかと思うんだ。
コメントに返事を書く!
なげーよ。
ごめんなさい。短くしようともしてませんでした。
短く的確に書ければいいなと思います。
書いていくだけでその練習になればいいななどと虫のいいことを思ってます。
誰も強制してないし、できない奴を馬鹿にしてもいない。自意識過剰/自分以下を眺めて満足したいだけでは?/「5. 自分がいなくても世界は回る」の「自分」は語り手を選ばないからこそ「楽」につながる
これね。
現代アートはあれだけぶったたかれて、原作改変パロ系コラージュ作品が受け入れられる理屈が全然分からないから誰か教えて。
原作へのリスペクトはなく、アフィブログに転載された時点で両者は「金稼ぎに使われた悪意のコラージュ」という点で極めて同一の存在になっているはず。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813025538は要するに「現代アートが美術作品として格式ある評価を得ることが気に食わない」ということか。
Bクラス女子のジャンクな曲が「国民的アイドルソングと呼ばれることが許せない」っていうアンチAKBに近い考え方で合ってるだろうか。
「俺が評価したくないものが、他人に美術作品として(あるいは国民的アイドルソングとして)評価されてるのが許せない」っていうのは浅ましくて穢れた考え方だなーとしか思わないなぁ。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813025958の考え方だと明らかにミクやこなたが素材になっていると、パロディ元が分かる現代アートならば許せるってこと?
多分君は許す気ないと思うからそんな理由で怒ってるんじゃないと思うよ。
*
id:qadapの考え方だと現代アートや美味しんぼコラの改変の手法それ自体は問題なくて、芸術家の露出に対する嫌悪感がある、ということなのか。
手法自体を叩いている人が多いから的外れだと思うし、なぜ芸術家が嫌われるのかまでの説明がないと理解できないな。
*
id:tyokorataの理屈というのは例えば社会的に見ればいじめ行為も、コントであればお笑いとして許容される、というような理屈か。
現代アートと美味しんぼコラは共に社会的には犯罪であるけれど、元ネタが誰もが理解できるもので、笑いが取れているから許されていると。
許すかどうかを決めるのは「大衆」かな。もし大衆がマンガや同人誌踏み付けで笑えるなら、踏みつけアートも許していいということ?仮定の話をしてもしょうがないか。
*
id:temtexはアートの権威なの?やるべきこともやらないなら叩く、ってのは既にそれなりの実績を持った人間がいうならかっこいいけど素人が言ってもなぁ。
ただオリジナリティへの回帰の流れは来ると思うけど、もはやアナログの絵画はCGには勝てず、CGに芸術らしさを宿すことができるかどうかが課題だろうね。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813100051は大して叩かれてないからそう思うわけで。みんなアフィブログ見て、おかげで彼らは推定月収100万近く稼いでるわけで。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813110155が今のところ一番納得できた意見。
美味しんぼはそこまで好きじゃないけどああいうコラはまず嫌悪感がくる。でもそういう人間が少数なら絶賛され、多数なら糾弾されると。
とするとそれは物の価値や論理や倫理ではなく、声の大きさが評価を決める、衆愚社会そのものだとも思うんだけどね。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813141721、おぉこわいこわい。ミスってたよ。
本当に多数から叩かれたものは誰も見なくなって廃れる。アフィブログはうるさい少数派が叩いている一方で、物言わない多数派がアクセス源になっているから成立していると思うけど。
「多数派もきっと叩きながらアフィブログを見ているんだ」と考えているならそれは見解の相違だね。ゲハブログの一部を除けば現代アートほどアフィブログが嫌悪されている印象はないんだよ。
*
id:leveleとid:ululunの考え方は「ふたば(や2chやアフィブログ)はオレ達」で、アート界隈の人間は「オレ達じゃない」という文化の壁から、利用されたという敵意が生まれたという考え方で納得できる。
「オレ達」という曖昧ながら強固な連帯意識、文化意識がどこから生まれて何を拠り所にしているんだろう。そしてなにのためにあるんだろう。
*
現代アートに「オレ達」がブチぎれたように、美味しんぼの原作者は一連のコラ群にブチ切れてるかもしれない。(あまりネットが好きな作者じゃなかったから快く思っていないだろう)
またアフィブログは金稼ぎのために話題のネタを集めているだけかもしれないし、「オレ達」という保証はどこにもないわけで。
だから現代アートは「オレ達じゃない」から怒るが、美味しんぼコラをアフィブログに載せるのは「オレ達」だから許せるってのは、何を根拠にそう考えているのか理解できなくて、すごく違和感がある。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813145112。しっかりしたレスポンスを頂いてしまうと申し訳なく思えてくる。ありがとうございます。
「財産」に対する所有意識の根拠、が一番謎なのかもしれない。上手く説明する方法はないのかもしれない。
*
id:vidの、現代アートは「オレのもの」が可視化されているために敵意が生まれ、コラは「誰のものでもない」ように見えるために受け入れられるというのは一理ある。
でもそれは傍観者の主観でしかなくて、製作者にしてみれば匿名の人間に弄り回されていたら、「オレのもの」が勝手に「誰かのもの」にされたと考えて敵意が生まれるんじゃないかな?
コピーライトの有無は「オレのもの」にされたという事実自体は変えないと思う。
けれど一定のネットの不文律を守れば、「誰のものでもない」と錯覚されて、大多数の空気に許容される、ということか。
*
「オレのものだと主張する」「金稼ぎに利用する」を両方満たすとネットの多数派の怒りが爆発する、というのは現象から逆算するとかなり正解に近いようで、決定的な何かが欠けているという感じ。
*
いくつかまとめて。
id:himajin774 心理的に直接金銭のやり取りがあるか、というのが重要なのはわかる。
ではアフィブログが金稼ぎの為に無断転載を繰り返して運営している、と踏まえた上でコラを見たら評価が変わるか?というと恐らく変わらないと思うので、そこは本質ではないと思う。
他のポイントと総合して、怒りを感じる閾値を超えた、ということは考えられるけど。
id:md2tak も同様で作成者と販売者が別だったら、水濡れアートや踏み付けアートを許せたか?というとそんなことはないと思うので、そこは本質ではないと思う。
金稼ぎまでしていなければ、水濡れアートや踏み付けアートを展示するだけだったら、怒りは爆発しなかったのかもしれない、という可能性はあるかも。
id:lefu はあえて書いていないけど、コラ画像作成の場となっているふたばが広告収入を得ているという視点が抜けている。「アフィブログ」の方が設定としてわかりやすいから省いただけで、最初から金稼ぎの道具になっていると思う。
「広告収入」が金稼ぎの手段として認知されているのは、アフィブログに対してよい感情が抱かれていないことから自明だと思うけど、もちろん「直接商品を販売していないからOK」という人も一定数いるんだろう。
id:guldeen のような指摘のために、両者の労力がほぼ変わらないコラージュで、また原作へのリスペクトが感じられない題材を選んでみたんだけど、それでも両者に違いを感じる、ということだろうか。
*
本題と関係ない部分。
id:nagaichi 「カオスラウンジ、カオスラと呼ぶやつは擁護か身内、カスラジ、カスウジと呼ばないやつは敵だ」みたいな面倒臭い考え方の人がいるから敢えてボカしたけど、結局認定ラッシュ食らったから意味がなかった。
「カオスラウンジはネットの総意として敵であり、叩かない人間は擁護工作だから黙らせろ」と考えてしまう人は、いちいち突っかかってこなくていいからお互いに不干渉でいましょう。
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110710/p1
あれはオタの、女性めいた、陰湿な、いじめを目的とした連帯だと思ってるんですが。
そう、マミさんはちょっと調子に乗りすぎてこの約束事を破ってしまった。
その時から、マミさんはおもちゃとして、格下の存在として位置づけられるようになった。
うかつにも群れを外れたから。マイナス方向に大きく目立ってしまったから。格好の標的としてロックされてしあったから。
なんのこたぁない、ただのいじめだ。無邪気な。「いじってやってる」つもりの。傲慢な。
リアルだったらマミさんはさんざんいじられた挙句に「ありがとうございます」って言わないといけないんですよねわかります死にたい一般人にいじめられるだけならたいしたことないけどオタにハブられたりオタの中で一段下にランク付けされるのはほんとに死にたい。
あと杏子やクールなほむらがぼっち言われないのもめちゃくちゃ簡単な理由で、オタは自分より強い人間には決して立ち向かわない。ただそんだけ。いじってあとで反撃受けるのが怖い。たとえ二次元のキャラであっても、現実において卑屈な生活を営んでいるオタは本能的に強そうなやつをいじりに行くのは避ける。
そのかわり、メガネほむらが出てきた時のオタどもの目の輝きようといったら。いやみてないけどありありと想像できるわ。
「オラッもっと泣け、もっと震えろ」といいながらニヤニヤしてるオタどもの気持ち悪さといったら。はぐれものの魔法少女の中でもさらにハブられて、リーダー格のまどかおねえさまに頼らざるをえないほむらを見てボクは「もっと絶望しろ。もっともっと絶望しろ」って願ってた別に救われる必要はなかったむしろまどかに置き去りにされてざまぁって言いたかったちくしょうなんで救われてるんだずるいよほむら。
都知事にしても、府知事にしてもそうだけど、各自治体の知事ってのは言ってしまえば「妥協の産物」なんだわ。
そういう人らが当選する裏にはまともな人間がいないっていう背景がある。
彼は浅野史郎の県政を否定したし、宮城県民もそれを望んだんだわ。
ちなみに他の人間がどういうのがいるかってのはググればすぐ出てくる。ほんとウンコばっかりポポポポ~ン。
いや、はてダとかはてブとかTwitterとかいろいろで『村井のひどさはもっと知られてもいい』とか言ってるような人らはああいうウンコを信奉しているのかもしれない。思想的背景が読めないからどうとも言えないけどね。角度とか。俺はもともと村井が嫌いだったんだよ!な人なのかもしれないし。
少なくとも、これまでの宮城県知事は、浅野と村井以外はろくなのいないっすよマジで。で、浅野さえウンコレベルっすよ。村井は相変わらず好評なので、思想的に相容れないなら諦めてもいいんじゃないかと思うけど。村井は大阪生まれだし、今後宮城大阪の連帯とか割とあるんじゃないかな。財政難だけど。
特に都知事選とか、石原でさえまともに見えかねないほどのウンコ候補ばっかりだったじゃない。大阪府知事や他自治体なんて、言わずもがな。小池晃?得票数見なよ。
で、確か東京都民の見識も疑うし、大阪府民にも期待しないんですよねw
もちろん、他にまともな人間がいないけど、こいつらでもダメっていう考え方はアリだと思うよ。でもアンタ立候補してないんだからそこから選ぶしかないよね。え、そもそもそこの自治体とはご縁がありません?wwやだなあ、じゃあなんで口挟んでくるのさw
いや、ほんと、出されたメシに駄々こねるならお前が作れって言われてもしかない。チッうっせーな。
で、こういう人らに信を問えばと尋ねれば、スルーするんだよね。やあよ、やあよ。あ、笑えてきた。
まあ肩身狭そうだけど、せいぜいがんばってください。
そうとも言えるけどすべてではないね。
連帯、と言えば労組が思いつくだろうけど、企業お抱え労組なんて役に立たないからね。
連帯と言うには一企業にしては小さすぎるし、じゃあ企業間、あるいは業界、あるいは職種で手を取り合おうなんていってもしないでしょ?
もう二十歳を超えるとゲームをやる友人も少なくなる。
一緒に笑いあっていたあのころが懐かしい。
ゲーム実況で求められるのは、プレイヤーのテクニックではなく、
と思える空間を作り上げられるかだ。
ゲーム実況をあげているやつは、ちょっと勘違いをしているんだ。
お前のようなクソや朗と一緒にいてもつまんねーよ
それだけ。
寂しいんですよ、僕は。
新シリーズを始めたが、
毎時ランキングで即1位になっていた。
人気実況者になったなぁ、と思った。
たぶん、自分がおもしれー、と思ったら、他の人も面白いと思うんだろう。
面白さは分析できる。
あなたも、それを分析したら、人気実況者になれるかも!?