はてなキーワード: 野内とは
「何をするにあたって」原典にあたるという当然の事を重要視するか、って話ではあるよね
これメチャクチャ思いました。過去の査読云々の論争を思い出しちゃいましたよ( anond:20181009070341 とか、 anond:20181011090428 とか、このへんの話ね)。「翻訳するときは原典から訳すのが当然だろ!」「いや、別に重訳でも意味が取れてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取り、まんま過去の「論文は全部査読するのが当然だろ!」「ええ、別に無査読で載せても、後続の論文でしっかり吟味されてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取りとソックリというか。増田は「なんで原典にあたるという当然のことを重要視しないんだろう……」って思っちゃうんですけど、理系や経済学の人たちも「なんで査読という当然のことを重要視しないんだろう……」って思ってたわけですよね。まあだから、あんまり自分野の基準で他分野にケチつけるのはよろしくないなぁと、自戒を込めて。
はてなブログというサービスが無くはてなダイアリーをみんな書いてた時代に
はてなダイアリーで「理数系分野でも研究の際には原典読んだ方が良くない?」みたいな事を言った人がいて、それに対し色んな意見が出たのを思い出す。
ただこれは物理学を勉強してる人達がニュートンのプリンキピアを読んでないのはおかしい、みたいな極端な意見であり増田の言ってる事とは大いに違うし
あとそれを主張してた人が死んでしまったので批判はあまりしたくない
じゃあ、まずは数学や理論物理の専門書を翻訳する際に原典にあたる必要があるかと言う話をさせて貰うけど
数学や理論物理ではフランス語・ドイツ語・ロシア語辺りの本が英語に翻訳されて、英訳だけ読んだ専門家が各国の言語に訳す例なんて珍しくも無い。
皆が数学・理論物理の論理が完全に再現されているなら問題ないという立場だからこのような事態が起きている。
翻訳者だって訳す能力より専門分野に関する知識の方がずっと重要視されるし、論理的な構成に変更が無いなら文章の省略・追加・順番変更など平気で起きる。
あと最近の数学の専門書の話なんだが、日本語の本を英語に翻訳する際に日本語が分からない人が訳してる例なんかもあったりする。
訳者だって数式は別に分かるし日本語で書かれた数学の文は今なら機械翻訳通せば大体分かるからね。
主要な定義・定理・命題は著者の英語で書かれた論文と同じ分野内の英語の本見れば同じものが見つかるので
こんなやり方で訳しますよって提案に原著者はOKを出してしまう訳だ。
こうしてみると一般論として重訳は問題かと言うと全く問題視されない分野もあるという話になるので
一般論で主張するのは無理だよ北村紗衣さん、と言いたい訳です。
誠実さがどうこうってのとhesopennさんが話題になってるので
表現問題とは関係ないけど自分がこの人の過去のブコメでウケた奴を引用してみる
数学の未解決問題に『1億2000万円』の懸賞金がかけられる→内容は簡単に理解できます。数学自慢の方々挑戦してみて
https://togetter.com/li/1742307
hesopenn 2021/07/09
こんなのがトップコメになってたのを最近見つけてホントはてなって門外漢がしたり顔してそれが持て囃される場所で酷いと思ったわ
コラッツ予想に関しては現時点でテレンス・タオが「適当な確率測度の元では測度1の例について予想が殆ど正しい」事を示したのは確かだけど
これって既にコラッツ予想で分かってる結果をブラッシュアップした定理に過ぎないのよね
確率測度を設定するやり方自体は既にコラッツ予想で別の人達が進めてたのをテレンス・タオが洗練させてより予想を解決へと近付けたんだ
他にもテレンス・タオって既存の結果をブラッシュアップする事が多くてどちらかというと凄い秀才で発想力で他の数学者達より優れてる訳じゃない
例えばコラッツ予想では無いけど「特定の数列の中に10,13,16,19,22,25みたいな特定の長さの等差数列が含まれている」という類の問題が昔から研究されていて
テレンス・タオは「素数列の中に5,11,17,23,29という長さ4の等差数列があるが、もっとずっと長い任意の等差数列がある」という定理を証明したのが評価されていて
彼がフィールズ賞を取ったのもこの結果が主要な理由の一つになっている。
(もっと長い素数の等差数列として「199,409,619,829,1039,1249,1459,1669,1879,2089」とか長さ10の列があるけど、長さ100、長さ1000、幾らでも長い奴がある訳だ)
しかしこの定理についても割と似たような結果・似たような手法は既に存在していたのでテレンス・タオはやっぱり秀才として頑張った結果だって分かるんだよね。
そしてこの一連の問題の中には今のところ最終的な予想として「逆数の和が発散するような自然数の数列の中には幾らでも長い等差数列が入っている」という予想がある
例えば素数の一つ一つにある程度に数を足したり引いたりした数列(12,13,15,17,31,33,37,39,43,49,...みたいに適当に10足したり20足したり30足したりする数列)とか
こういう数列は足してく数が比較的少なければ1/12+1/13+1/15+...という逆数の和は無限大に発散していく。こういう数列は必ず長い等差数列を含む訳だ。
この予想に関しての最近の進展はテレンス・タオとは違う人達によって成し遂げられてきている。
「長さ3の数列が入っている」は証明されたし「長さ4の数列が入っている」も部分的には証明されてきた。
証明してきた人の中にはhesopennさんの言うような「一般人」だっているんだよねぇ…
別にテレンス・タオが関わらなくても解決しそうな勢いではあるんだ。
この最終的な予想はテレンス・タオが解決出来てないので一般人には無理だ…なんて賭けには分野内の数学者も昼飯一回分以上のお金も賭けたくないだろうね。
さて、なんで自分がコラッツ予想と違う上記の例を持ち出したかというとコラッツ予想の現在のテレンス・タオの結果には
上記の例で使われているようなテクニックも多分に使われているんだ。
だからコラッツ予想だって上記の例と似たようなやり方で解ける問題である可能性は結構あって「一般人」が証明する可能性は大いにあるし
自分の分野外の事象についてしたり顔で言うhesopennさんには大ウケしてしまうし
(まさかhesopennさんは数学に対して素人以上の人じゃないですよね…?)
こういうのをスターで持て囃しちゃうはてなブックマークもちょっとどうしようもねぇコミュニティだって思ったね。
数学の話題出来るからついついhesopennさんをネタに色々と書いちゃったよ。
画家や建築家などを挙げている辺り、研究者についてはどうでもいいかもしれないけど一分野についてだけ説明しておくね
物理学など他の学問ではどうなるかは面倒くさいので言及しないとして…
数学の研究をする際には歴史については自然と覚えてしまう程度の知識さえあればいいと思う
具体的にはピタゴラスの定理は千年単位のオーダーの大昔に証明されたとか
数百年前には今のような集合論に基づいて数学理論を一から組み立てていく形式は無かった…みたいな基本的な常識があればいいし
それと論文を書く際に論文に関わる狭い分野内で既に何が証明されてるかを把握して説明を出来ればいい
前者は数学の教科書を読んでいる内にいつの間にか知っているし、後者は研究集会に出るだけで自然と把握出来るので
これ以上の勉強が数学者になるための必要条件に入っているかと言うと、全く無い
たとえば線形代数の理論も分からないような人間が数学の研究をするのは極めて難しいが
線形代数の理論がどうやって出来たかの歴史なんて知らなくても一切問題ないし知らない数学者も多いだろう
行列式が行列より先に扱われていた事なんて雑談に使える豆知識にしかならんし
matrixがラテン語の子宮から来てる事はジェンダーの研究者とかの方が知ってると役にたつ事柄なんじゃないかな…
という風に数学者にとっては極めて重要な理論であっても歴史は知らなくても問題ない理論がかなりある訳だ
これは別の分野の研究者でも成り立つ事なのかもしれないが面倒くさいのでここでお終いにする
「そんなことするやついねえよ」と思っていたのだけど、気がつけばうちの学生にも信じているやつがいるようなので気になった。
周辺的なことも含めて、少し書きたい。
自分の見聞きしてきた分野に限った話にはなるけれど、自分は比較的幅広い分野の学会や研究会で活動してきた方だと思っている。
否定のためだけに発言するやつはまずいないし、いたらその行為の方が批難される。
そのあたりの空気を読めていない院生はたまにいるけど、大抵はその子の方が先輩か教員にたしなめられる。
仮に「素人」の異分野からの批判の筋が通っていたとしても、その研究の価値はまず損なわれない。
そういう批判の矛先はその分野全体であって、そんなことを個別の研究発表の場でくどくど言っても非生産的。
(ただし、内輪の研究会などでなら、ブレインストーミング的にそんな議論をすることはある。
前の項目でも書いた通り、研究の価値はその分野の基準で決まる。
だから、その裏返しで、大家でも自分の専門分野以外の研究を是正することはできない。
是正もできないのに文句だけ言う、というのは、最初の項目で書いた通り、やらない。
逆に言えば、自分の専門分野の研究を聞いてそれが間違っていると確信したとき、それを是正するためにがっつり説教することはあるけれど、その際に「素人だ」と前置きすることは無い。
論文を読めばわかるはずだけど、研究者は他人の研究がクソだと思えばどこがクソかを公然と明確に説明する連中の集まり。
「素人でもわかる欠陥ですが」のような、曖昧で我々の価値観に反した表現を使うことは無い。
我々は、万事、明確さを愛している。
詰める意図の質問では無いので、質問者が適切な回答を得るために質問者側が提示するべき異分野から視点についての情報は提示しているはず。
なので、その誘導に乗れば、回答できると思う。
誘導に乗って回答した結果がその研究の価値にとってプラスだとしてもマイナスだとしても、そこにたどり着くことが大事。
何の面白みも無い内容で恐縮だけど、研究発表の場がクソのようなマウントの取り合いだと思われると差し支えがあるので、どこかに書きたかった。
について、「社会学者の〜氏のTwitter上での発言について社会学者が批判していないことからも社会学は〜」というようなコメントを多く目にしました。
私は社会学の研究者ではありません。一般論として思ったことを書こうと思います。
まず、「極めれば極めるほど分野が細分化して行く」学問ってのはそういう性質のものだと思います。で、自分の専門じゃない分野の学者の名前などまず知りません。さらにはTwitterなんか知るわけないですよね。
「xさんのTwitter上の発言どう思いますか?」とか言われても「誰だよ」としか思えないわけです。
xさんが炎上した、それを批判しなかったーーそんなことで「同じ社会学者として」批判されてもどうしようもないでしょう。
Twitterの炎上なんて普通追いかけません。あれはジェンダーと、表現界隈の人の間で起きた小規模な出来事に過ぎません。社会学界の大事件にはなり得ません。Twitterにいる社会学者はごく一部です。社会学とはほとんど関係ありません。
T氏と研究テーマが近しい学者以外の、他の社会学者にとっては、同じ会社の全く知らない人ぐらいのものでしょう。
もしわたしの専門分野に、同じように炎上して批判を浴びる人がいて、Twitterで分野内からの批判が起きなかったという理由で専門分野全体を貶さられるようなことがあったら、正直馬鹿じゃないかと思います。
自分の専攻を貶されて腹が立つだとか、悲しくなるだとか言うことはありません。ただ、無知で愚かな人間がこんなにもいるのかという理由で少し日本という国に失望はするかもしれません。
小保方氏の件は爆弾のような出来事でした。あれほどのことがあれば、学問全体が否定されるのも、まあわからなくはないでしょう。
Twitterで炎上したT氏を理由にですよ、Twitterで誰かがT氏を批判しなかったことを理由にですよ。そんな理由で叩いてくる馬鹿がいるんだな。暇な馬鹿はネットじゃ声がでかいんだな。迷惑な馬鹿だな。ーーーとしか思えません。
「Twitterの医学系のアカウントは間違ったことを言う別のアカウントを批判している。社会学者はなぜしないんだ。」という意見も見ました。アホかと。医者ってめちゃくちゃ多いんですよ。学者なんかよりよっぽど。医学部なんてほぼ全員医者になるとこですよ。定員もそこそこ多くて、殆どの駅弁大学に設置されてるとこですよ。そこから毎年ものすごい数の医者が排出されてるんですよ。そりゃあ文系学部の学生は割合的には多いですが、アカポスはものすごく少ないですからね。院進の割合も理系に比べてとても低い。それなのに医学部と比べられても困るでしょう。
自殺幇助をやらかした医者がいるからって医学は医学です。あのときも自殺幇助を肯定する医者はそこそこいましたが、それが医学批判につながることはありませんでした。
Twitterにいる社会学者で社会学者のサンプルを取るられるとか、ほんと意味不明ですね。で、社会学者の人格と社会学を繋げて語られる。叩かれるならもう少しまともなたたかれかをしたいでしょう。社会学者、ご愁傷様です。
ここに書かれていることは概ね正しい.この方は自分のモチベーションが低下したことを嘆いておられる.そういう方々は大学に多くいる.しかし,日本の大学にはこのような劣悪の環境の中で,モチベーションが低下せずに生き延びている集団も一部存在する.それは最近流行りの言葉で言えば,サイコパス型教授だ.学生,ポスドク,助教そのすべてを人間として扱わず,自分の出世or地位or名誉のために利用する.そのため,この劣悪な日本の環境の中でもそれなりの成果が出る.その業績を元手に,大型予算が当たる.更に悲劇が拡大する.私の少ない知り合いである若手研究者と話しただけでも,医学系や生命科学系,工学系(の中のどの分野でも),農学系.どこにでもいる.比較的若い分野である情報/計算機科学にもいる.
最近の若手研究者は目が死んでいる.最近は医学の発展により,これらの教授の寿命は長い.国立大退官後も院政を引いて分野内で君臨する.偉い先生を基調講演をさせるためだけの謎のシンポジウムが企画される.下々の者が奔走する.ポスドクや助教が偉い先生のパワポをつくったり,大型予算の提案書や報告書をつくったりしている.そして,外部向けには「うちのラボの生産性の高さの秘訣は若手研究者に自由な環境を与えることです」みたいなことを言っちゃう.若手研究者はマジで国外の研究機関に行った方が良いと思う.
ちなみに私は,飲み会の場で(直接の上司ではない別の教授に)口が滑って,「海外の大学で働きたいっすわ.研究だけしたいっすわ.(研究上ではない上司の尻拭いの)雑用もう嫌っすわ」と言ってしまい,(直接の利害関係がない)その教授にブチ切れられた.いま思えば,自分がそういうことをしたら,周りの若手が真似をする負の外部効果があるからだろう.
海外の大学の研究者と話すたびに「日本の大学ってなんであんなにヒエラルキー構造なの?バカなの?死ぬの?」と言われる.そのたびに儒教の影響じゃないっすかねと言っている.(とはいえ,私はよく知らないが,バイオや化学であれば,海外のラボも完全なヒエラルキー構造なのだろうと思う)
念のために書いておくと,私は海外の大学で働くことを決めた.じゃあ,いいじゃんと言われるかもしれないが,自分の母国に愛は当然あるし,母校にも愛はある.なので,国内の大学の質が上がったり,生産性が上がることは素直に嬉しい.どうにかしたいとは思う.が,個人の力でできることは本当に少ない.ただただ悲しい.
どの分野においても必ず、上達の位というのは存在しており、基本的には以下のように分類できるはず。
1.素人
2.初心者
3.初級者
4.中級者
5.上級者
6.達人級
6の達人というのはやや大げさだが、まあ、とにかく上級者よりも高い存在ということが分かれば何でもいい。
これは単純にやったことがない状態だ。
3との違いが若干、分かりづらいが、素人がその分野について、学び始めた状態を指している。
野球で例えるなら、ルールと道具の種類を覚え始めた状態と言えよう。
これは誰でも到達できる。ただし、基本のキの詳細度は個人差がある。
これは、初心者の時にあれこれもがいていたら何となく、勘をつかみ始めた状態だと思う。
野球で例えるなら、キャッチボールが割とそつなくできるようになった状態であり、
ただし、まだ体や思考が正しく形作られていないため、何となく感覚でやっているような状態に近い。
そのため、できる時とできない時の差が大きい。
勘所というのは個人差があるので、初級者までたどり着く関心と忍耐が必要になる。
だが、ここに来ると、生活習慣のようになり始めるので、生活の一部になりはじめる。
ここから各ステージに上るまでが長い状態。勘ではすまなくなるレベル。
初心者から初級者への道は単に素質と別に関心が薄れただけに過ぎない。
野球で言うと、投げ方、打ち方は分かっているし、練習もそこそこしているけど、
なぜか、上手くならない。やり方が悪いのかもしれないと分かるが、初級者の時にやったやり方が
身についているので、やり方を変えるのが苦痛だったりもする。
でも上達していかない。
このなぜか上手くならないというのが、本人にとってはつらい。
やっているけど、一応少しずつ身についているはずなのだが、中級者になれる気がしていない。
加えて、中級者は学ぶことの多さにも気づき圧倒的な焦りが出始める。
いつになったら中級者なれるのか、というか上級者の人たちは何者だよ。
とか思い始める。才能の差ではと、外的要因を求める。(事実、センスや環境といった外的要因もある)
数年たっても、なぜか変わらない。
だんだん関心が薄れていく。
後から入ってきた人で中級者になっている人を見ると
やる気喪失が加速する。
中級者になると、生活の一部を超えて、空気となり始める可能性が高いので、
なぜか色んなことが自然と覚えられるようになり始める。
もちろん、たまに躓くが、結果的にはできていることがほとんど。
自分の限界と分野内で関心も理解できているので、そこに対しては中級者でも上級者だったりする。
野球なら、中級者だけど、ピッチングが特に得意、バッティングは普通だが、守備は得意。とか言ったレベル。
ここから、上級者の壁はもちろん高いが、個人の関心差だったりする。
分野を極めず、趣味でやる人は中級者で満足していたりするし、
何よりも中級者の壁は高い。
初級者でそこを超えられないで悶々としている人もいるはずだ、
さて勉強頑張るか。
http://gigazine.net/news/20140213-fixed-vs-growth-brain/
「固定された思考態度」は根本に「自分をよく見せたい」という欲求があるため、失敗する可能性がある挑戦を避けたがります。
障害にぶつかった時のあきらめも早く、努力は実を結ばないと考えがちです。
批判に対し、例えそれが有用なものであってもネガティブな意見であればフィードバックを無視してしまい、他人の成功に脅威を感じます。
そして自分の能力を出し切ることができず、早い段階で能力の伸びが頭打ちの状態へと移行してしまいます。
一方「成長する思考態度」はまず「学びたい」という欲求から始まるため、挑戦を喜んで受け止め、逆境にぶち当たっても粘り強く堪えます。
努力は熟達への通過点と考え、批判から学び、他人の成功からも学んだりインスピレーションを受けたりするという流れ。
根本にあるのが「学びたい」という考えのため、全てを雪だるま式に吸収し、高い成功レベルへと到達できるというわけです。
・・ここまで引用・・
成長したいと思う分野内においては色々見るし吸収するけど
それ以外(つまり全く興味がない分野)にはほんっとうに手を出さない
昔は色々やってみたような気もするけど
唯一出来る分野、向いてる分野があって
それだけは続けてるんだけど
それはもう始めてやったときから今までずっととにかく「好き」なことだった
自分の感覚にフィットするというか、これが向いてる、私の才能はこれだっていう感じがずっとある。
今でもそう
好きなので続く。
やり続けてると辛いこともあるけど、それすらも楽しいというか
他の興味の持てない分野はやり始めたときの違和感、どうしても楽しいと思えないもやっとした感覚、
疎外感、劣等感などが強すぎて続けるに至らない。
好きなら徹底してやれる
嫌い/興味がないことは出来ない
それって私の中では「いいこと」なんだよ
興味があるものにだけエネルギー注げることって素晴らしいと思うんだけど
視野が狭いって人から助言されてから「そういうことなの?」って疑問を感じだした
それでも現時点だと、好きなこと以外のことに労力割きたいとは全く思えなくて