はてなキーワード: ネイティヴとは
新幹線の中でこの旅行記を書いて、ふと現在位置をチェックすると、もう九州に入っていた。
乗車時間については聞いていたが、やはり驚くべき速さで、下関も関門海峡も気付かずに通り過ぎてしまった。
また、速さ以外の感じるのは乗り心地の良さだ。
高速バスはもちろんのこと、国内線の航空機を比較対象に含めても、この余裕と安心感は飛び抜けている。
北海道新幹線は時間と費用で航空機と勝負になるのかという議論があるが、新幹線に乗っての感触は「札幌まで延伸すれば、これは勝負になる。
13:27
人生で初めての九州、博多駅 新幹線の到着ホームは空気が暖かかった。
同じ日本でも、ここまで南に来ればやはり気温が少し違うらしい。
博多の駅を降り、駅ビルを歩いていると目に飛び込んでくる福岡ソフトバンクホークスのタイアップキャンペーン。
昨日まで、水族館ですら広島カープ関連の掲示をたびたび見てきたので、日本シリーズのタイムリーさもあって面白かった。
それにしても、駅ビルから繋がるフードコートで、すでに豚骨スープの匂いがする。
フードコートを前にしているから当然なのだが、なんだか「ほれ、食ってけ食ってけ」という食べ物の圧が強い。
美味い。
民泊自体初めてだったし、宿泊施設から離れた事務所でチェックインの手続きをするのも初めてなので「施設や手続きでハードコアな面がある宿だったらどうしよう」と少し不安になる。
少しだけ所在に迷った末にたどり着いたチェックイン事務所は、想像していたような「マンションの一室で鍵を渡される」という怪しげなものではなく、スマホ用アイテム売り場の様な今風のスペースで、20代前半と思しきスタッフがPC画面やスマホを覗いてチェックイン手続きについて説明するライトな雰囲気だった。
重苦しさもない代わりに重厚さも感じられない空間に、逆の意味で不安になる。
チェックインについて説明してくれたのは、小柄でマッシュな金髪の青年だった。
ホテルマンの職業的柔和さのカケラもない伏し目がちの説明に「大丈夫かな?」と一瞬訝しんだが、説明に不明瞭な点はなかった。
と、自分のすぐ隣で、別の宿泊客に対して、スタッフが早口の韓国語で宿泊システムを捲し立てている(様に聞こえる)。
ネイティヴでないとあり得ない流暢さだ。
民泊の宿は外国人に人気の様だが、そうか、この宿は運営も韓国人スタッフによるものなのかもしれない。
金髪の彼も実は韓国人であるというなら、日本語の説明に職業的ニュアンスがなくても何となく納得だ。本当のところはわからないが。
ともかくこれ以上は宿に行ってみないとわからない。
スマホで決済を済ませた後、彼から鍵の扱い方や諸々の注意をきき「はい、よろしくお願いします」という別に意図したわけではないが実に日本的な挨拶をして部屋に向かった。
宿に到着し、実物をみて驚いた。
事務所での説明で聞いてはいたが、部屋はロフト付きワンルームで、バストイレ別、キッチンや洗濯機まである。
1泊当たりは9,500円ほど。
昨夜の宿に比べれば2.8倍ほどのお値段だが、貸与された空間は5倍はあり、リラックス感については比較にならない。
いや、前の宿が悪いというより、今まで体験した全ての宿泊施設の中でも次元が違う気楽さと安心感だ。
民泊について色々法的な難しさもあり、ここもそう言ったところにクリアなのかどうかは分からないが、この宿泊スタイルの需要の存在については確信めいた感覚を持った。
17:00
宿でシャワーを浴びた後、食事をする為に最寄りの繁華街、天神に向かう。
宿泊施設とはいえ民家なので住宅街にあり、駅までやや遠いのだが、全く問題は感じない。
降り立った天神駅前は、仕事帰りのOLやビジネスマン、学生で賑わっていた。
天神では、BRUTUS 2018 7/15号 「福岡の正解」のレコメンドに従って、魚定食の「味の正福」で夕食を取ることにした。
少し探した後にたどり着いたそこは、写真では厳粛な料亭の如き写りようだったが、実際は素朴で親しみやすい小ぢんまりとした店だった。
写真にまさに写っていたカウンターに案内され、「銀だらみりん定食」を頼む。
広島、博多では「機会あらば食ってやる」という気持ちで旅立ったが、地域名物巡りでありがちな炭水化物攻勢にやや疲れてもいた為、柔らかで滋味深い魚定食は有り難かった。
と、しばらく銀だらを突いていると、カウンターのなかで忙しく動き回る大将が、女性客の料理の味に関する素朴な疑問に、料理工程のコツを講釈する形で答え始めた。
曰く、だし巻き玉子は水分を入れすぎると調理が難しくなること、ふんわり仕上げる為に弱火はほぼ使わない事、返す時に卵の破れを防ぐ為に火を止めるなり遠ざけるなりした方が確実である事。
いい事を聞いてしまった。
今後活用していこう。
味の正福を出て、夜の天神の街でもう少しグルメを探そうかとも一瞬思ったが、まだ19:00前とはいえ魚定食で丁度いい具合に腹も膨らんだし、初日のバス移動で悪化させたのか以前に痛打した肘が痛んできたので、ドトールで少しだけ甘いものを食べながらこの旅行記を書いた後、宿に戻ることにした。
半端な時間なので、夜遅くにまた腹が空きそうではあったが、コンビニによってカップ麺でも買えば大丈夫だろう。
旅行にいってホテルでカップ麺を食べるというのはどうも侘しい感じがしないでもないのだが、何故かそれが行われるのがワンルームの部屋だと、むしろ癒しのリラックスタイムの様に思える。
ひととき緊張感からも解放されて、明日また、思う様 福岡の姿をこの目で確かめよう。
「発音なんてカタカナでも通じればいいじゃん」なんていう向きもある。確かに通じればそれでいいかもしれないが、発音が標準から外れれば外れるほど、聞く方の脳の負荷は上がっているということを無視しないでほしい。
相手がネイティブスピーカーならまだいい。お前の言語で喋ってあげてるんだからちょっとぐらい我慢しろと要求するのは無理なことではないし、そもそもネイティブスピーカーは基本がちゃんとできてるから標準から多少外れた英語でも割と理解してくれる。
ノンネイティブはそもそも「英語を理解する」というだけで脳にかなり負荷がかかっている。そこにきて、その英語が標準的な発音から外れていたら、オーバーヒートしてしまう。
考えてみてほしい。相手が標準的な英語を喋っている限り、自分の脳内にある「英語」と相手が喋っている英語の距離は、自分の母語と標準英語との距離よりも常に小さい。わかりにくいと言ってもたかが知れているということ。
ところが、相手が相手の母語に影響された非標準的な英語を喋っていると、その「英語」と自分の脳内の「英語」との距離は、最大で相手の母語と自分の母語との距離まで拡大してしまう。
「正しい」発音で英語を喋らないといけないのは、決してネイティブスピーカーのためではない。俺やお前らのようなノンネイティヴの人間のために、みんな正しい英語を喋ってくれ。
英語を趣味で勉強している者だが、1対1での外国人とのチャットの場合は何の問題もなく楽しく会話できるのだが、先日知り合いの知り合いの外国人が遊びに来た時は中々英語で話すことができなかった。
その時のメンバーが
・自分
・知り合いの知り合いの外国人1
・知り合いの知り合いの外国人2
の4人だったのだが、こうなった場合、1対1とのチャットとの違いは英語が話せる日本人がいることだ。
この英語が話せる日本人がいることが自分にとってはどうにもネックで「自分の英語が下手くそだと思われてそうだなぁ」とか知り合いはネイティブの英語でペラペラ横で喋っている中で自分の拙い英語で間に入ることに中々勇気がいるし、相対的に比べられていそうでメチャクチャ恥ずかしくなる。
英語が話せる人が横にいると確かに安心はするのだが、英語学習者にとっては外国人に自分の英語を聞かれるよりも、日本人に自分の英語を聞かれる方がよっぽど恥ずかしい。
本当はそんなこと思っている人ばかりじゃないと思うが、学生の頃から染み込まされきたネイティヴレベルの発音じゃないといけない、とか、カタカナ英語は通じないから絶対外国人の前では使うなよ、とか、そんな感じの妙に完璧思考の英語に対する考えを持った日本人が多いような気がして、日本人がいる前で外国人に「How are you?」とか「It's very good!」とかそんな単純な文章ですらも躊躇させてしまう空気感があるようで辛い。
この気持ちって何なんだろうな…。どうやったらこのマインドを変えられるのだろうか…。チャットだけでもとても楽しいのだが、やっぱり声に出して会話したい気持ちはすごくあるのに、周りの日本人の目が気になってしまうよなぁ…。
俺が言ってんのはさ
「アジア人を優遇した映画」ってアメリカで観る人全然いないんじゃない?
ってことだよ。
ついでいうとその4割の非白人からアフリカ系の人抜いたらどれくらい残るのよ。
アフリカ系アメリカ人が活躍する映画はちゃんと確立されているし、
「とりあえずアフリカ系俳優だしといたからいいでしょ?」っていう風潮は長いこと存在するよ?
そのせいでヒスパニックやアジア人の不満は解消されないままだったのが、
ポリコレによるホワイトバッシングが今になって炸裂してる背景にあるとも思う。
デンゼルワシントンの主演映画と渡辺謙の出演映画じゃポリコレ的意味は違うと思うの。
「アメリカ人が出る映画が好きでそういう映画をよく観に行く」と
「黒人や東洋人が好きでそれらが登場する映画をよく観に行く」と
「黒人や東洋人が出てさえいれば外国(非アメリカ)映画でもいい」も
それぞれ意味が違うがな
そんなの承知の助。
だから俺が言いたいのはさ、
だからと言って「非白人、特にアジア人を優遇した映画」はウケない。
だからアメリカでポリコレに配慮して映画作るのって大変だよなってことよ。
さらに言えばその非白人もアフリカ系、非アフリカ系、アメリカ国民(2世以降つまりネイティヴ)、非アメリカ国民と分けて考えなきゃいけない。
今でホワイトウォッシング抗議してるのは非アフリカ系のアメリカ国民で、
彼らがやってることは
実際観に行くかわからないけどそういう物を観る機会を作れ。」
ってことなんだと思うわけさ。
翻訳の仕事を片手間にやってる。単語・文字数単位ではなく拘束時間単位で、多分単価は安いんだけど、本業の傍らでやってるだけだし、とりあえず実績を付けるためにやってるので待遇の面ではそれほど不満はない。が、泣きたくなるのは前任者の翻訳をリバイズしている時。何故かって言うと、私視点では「ありえないくらい」酷いから。流石に機械翻訳レベルではないが、英語がそんなによくわからないなりにテキトーに訳しているという感じ。
今覚えてる限りだとこんなんがあった。
Fall under the spell of ○○ → ○○の秋……
いやあ…fallは確かに「秋」だけどさあ、それだと意味おかしくなるでしょ…
で、だ。テキトーに訳しながらも、なんとか日本語に移し替えているのならまだ好感が持てる。まあ、日本語的に読める文章でも間違ってる部分はどちらにせよ全部直さないといけないので私は楽にならないんだが、これは実質的に杞憂。
なぜなら日本語としてもヒドイから。私も日頃日本語でコミュニケーションしてないから、文章力に絶大な自信があるわけではない。でもなあ、流石に仕事での翻訳に「子供っぽい」文体を使おうとは思わない。いや、誰もやらんとは思うけど、私の目の前に広がっているのはまさしくそんな「子供っぽい」翻訳文なんだ。
で、ね…この「お子様文体」で書かれた、原文が存在しない文章の存在に私は本気で頭を悩ませてる。最高に厄介なのが、問題をクライアントに説明しにくいってとこ。日本語文の「子供っぽさ」を「公正」に他の言語に翻訳できる自信は、私には、ない。スラングを使うことも考えたが、スラングは必要以上に文体を歪めてしまうから。問題なのは、ギリギリ許容されうる範囲内での言葉遣いの拙さであって、スラングのようにそもそも許容範囲外の拙さではないってとこなんだ。
とはいえ、原文も酷いと言えば酷い。英語ネイティヴが書いてる(らしい)から文法的には間違っていないんだけど(ただしところどころにtypoが残ってて何故か私が指摘してる)構成がマズくてわかりにくい。
まず、虎頭蛇尾というか、文章の後半に関係代名詞や分詞構文(って言うんだっけか?)でアレコレ「本来の文とは関係が薄い内容」付け足すので、文として意味不明になっている。何とか意図を想像して訳せないことはないが、できれば添削してから翻訳に回してほしい。
更に、内容的繋がりが薄い文章が一つのパラグラフに押し込められている。パラグラフの長さ的にはまあ許容範囲?とかそういう観点なの?うん、でもね、違う、そうじゃないんだ。内容があっちこっち行っちゃう文章は読むのが大変なんだよ。
本業が忙しくなってきたからこの仕事は辞めるつもりだけど、一つ得られるものがあったとすれば、それは「怪しい日本語の翻訳文書が非日本語母語話者による翻訳とは限らない」という知見を得られたこと。
それまでの私は、日本語ネイティヴが翻訳を行うなら、当然ある程度の水準以上の文章を出力するものだと思っていた。ただ、様々な理由により、読むに堪えないレベルの翻訳文書が、日本語ネイティヴから回ってくる、と言うこともあるのだということ。
これを防ぐには、(どこの馬の骨ともわからない)個人を直接雇用するのではなく、内部で品質チェックを行う(であろう)翻訳事務所を通すべきだと思う。
思うんだけどさ、そういえば大昔、これとは別件でクソみたいな翻訳文書をほぼ丸ごと添削して翻訳事務所に送り返したこともあったなぁという珍事を思い出した。