はてなキーワード: ご指導ご鞭撻とは
ニュースを見ていると、そんな疑問が浮かぶのだけれど、いくら空気を読まない私だって、それを口に出す勇気はなかった。これは、そんな私が一冊の新書によって、正義のために物を破壊するのにも、道徳的・理論的根拠があるのかもしれない、と知った経緯だ。
増田に入りびたっていると、世の中にはいろいろな立場があって、さまざまな正義があることがわかる。残念ながら、複数の正義の間でぶつかり合いがあることもまれではない。表現の自由と見たくないものを見ない権利で、レスバトルが毎日のように起きている。あるいは、外国人・移民の権利を尊重したら、女性の安全をないがしろにしてしまったケースもある。2015年のケルン大晦日集団性暴行事件なんかがその例だ。弱者をいたわろう、財産はみんなで公平に分けよう。そうした基本的な原理では同意できるのに、個別のケースでは意見の一致が見られることはめったにない。工学部出身の私としては、実験すればすぐに答えの出る理系の学問と勝手が違い、社会の複雑さに戸惑うばかりであった。
そうするうちに、結局のところ正義の根拠ってかなり曖昧でいい加減なんじゃないか、みたいなことを思うようになった。正義の論理的な根拠がわからなくなったのである。もともと正義についてはサンデル教授の本くらいしか読んだことがなく、哲学は専門外だ。
たとえば、大日本帝国が中国北東部に傀儡政権を作るのが悪だとすれば、アメリカがイラクやアフガニスタンを空爆したり、親米政権を樹立したりするのとどう違うのか。アメリカが中東に派兵するのならあまり気にならないが、ロシアがクリミアを占領・併合したときに動揺してしまったのはなぜなのか。本質的な違いはほとんどないのに。
日韓関係だってそうだ。たとえば、国家の間で解決済みであるはずの補償問題を、個人が請求することは可能なのだろうか。それとも、個人の権利が拡大する世界的な流れのなかでは、必ずしも不合理な話ではないのか。大統領が変われば民意が変わったことを意味するので、前政権の約束を反故にすることは許されるのか。
他にも、裁判員制度で、発達障害のある犯人に厳しい判決が下されたことがあるけれど、市民感覚は医学の最先端の知識と乖離していることも多い。専門家ではなく、偏見もある市民を本当に裁判に参加させていいのか、心配だ。
で、直近の例で特に印象的だったのが、冒頭に述べたように、BLMで無残に引き倒される銅像だった。革命直後に独裁者の像が倒されるのには全く違和感がなく、それどころかほとんど何も感じない。しかし、歴史上の偉人がこうして再評価されるのを見ると、これは正しいのかどうか、よくわからなくなった。現代の価値観からすれば、彼らの過ちは確かに明白だが、こうして公衆の面前で侮辱に近い目に合わせていいのか。法の不遡及の原則、という聞きかじった知識を思い出してしまう。
道徳的には、人種差別は絶対的な悪である。しかし、それに抗議する過程で必ずしも公共のものを壊す必要はないのではないか。撤去を求める署名運動を起こせば十分なのではないだろうか。銅像を破壊する意図は正しいが、間違いなく違法な行動だ。違法であるならば、BLM運動の正当性に傷がつくのではないか。結局、正しさには根拠などやはり存在せず、その場の大衆の熱狂しかないのではないか。そんな次々と浮かぶ懐疑に苦しめられた、反差別運動に対しての恐怖まで感じるようになってしまった。
そんな自分に困惑しつつ、久々にリアル書店に足を運ぶと、「あぶない法哲学」という新書を見つけた。法哲学の本らしい。つまり、どうして法律や道徳が正しいのかを理論的に分析する学問だ。
これだ! と私は膝を打った。私のもやもやはこれで解決するかもしれない。早速購入し、一気に読了した。著者はオタクらしく、ところどころ漫画やアニメのたとえが出てくるのでわかりやすい。しかし、レベルを下げたり読者に媚びたりするようなことはしていない。そして、実在の事例や過激な思考実験を見せることで、常識を疑ってかかることを、私に教えてくれた。
この本で学んだ重要な概念として、法実証主義と自然法論がある。
法実証主義というのは、ざっくりまとめると、法律が正当性を持つのは、定められた手続きに従っているからという理由しかなくて、そこに道徳的な価値判断は介在しない、というものだ。そして、どれほど内容がおかしな法律であっても、正当な手続きで撤廃されない限りは、それは守られるべきものだ、とする。
もう一つの自然法論は、大まかにいえば議会で定めた法律よりも優先すべきルールがある、というものだ。さっきと違って道徳がかかわってくる。もちろん、人間の良心や常識は、時代や地域で一貫したものではありえない。しかし、法律が追い付かないほど変化の激しい現代にあっては、法が整備されていない状態での一つの指針・根拠とすべきではないか、と著者は述べていた。
ここで大事なのは、法律を正当化するのは手続きのみであり、それが人道に則っているかどうかは、実は関係がない、という考え方が存在することだ。
ソクラテスの最期はよく知られている。アテナイの若者を堕落させたという不当な罪を着せられ、死刑となった。弟子たちはソクラテスに逃亡をすすめた。というか、当時は死刑判決を受けたらその都市国家から逃亡するのが当然だった。しかし、ソクラテスはあえてその判決に従った。悪法であろうともそれを守る義務がある。私はここで死ぬ。悪法を制定した市民はその結果を引き受けよ。ソクラテスは命を賭して法を制定した市民たちに、自分たちがどれほど愚かな法律を無自覚に作ってしまったか、を訴えたのである。
一方で、市民的不服従という考えもある。キング牧師はアラバマでの激しい抗議活動のゆえに逮捕された。彼の方法は、多くの人々の抗議の模範となった。つまり、自分が良心ゆえに受け入れることのできない法律は自覚的に破るが、国家を尊重しているという姿勢を示すために、甘んじて法の罰も受ける。これを繰り返すことで、逮捕している国のほうがおかしいのでは? と多くの人が考え、行動するようになる。確かに法律を破ってはいるが、法律に従って罰を受けることで、遵法とは別の手段で正義への敬意を示しているわけである。
道徳とは関係なく、法律を制定することは可能である。そして、不正な法律や、放置された不正義に抗議する手段として、法律を破るという方法が理論化されている。よって、違法な手段で正義を追求することは可能である。この結論は、良くも悪くも定められた手続きを重んじるタイプの私としては、非常に大きな驚きであった。
人種差別に抗議する方法として、銅像を引き倒すのは、確かに器物損壊罪だ。しかし、それが正しいと考える人々は、単純な感情で動いている暴徒とは限らない。正しいかどうかはともかく、彼らの立場をサポートする理論化された法哲学が、実際にあるのだ。
自分は、法学部の一年生が学ぶことを、この年齢になってやっと知ったのだろう。だが、こうして知識が増えたことで、自分の感じていた違和感を少しだけ言語化できた。今後は、何らかの形で国際法とその背景の思想について学び、先ほどの例に挙げた、大国の軍事行動の背後にある理論を理解したい。
本論では法律の有効性に対して一定の疑問を投げかけているが、積極的に法律を破ることを推奨する文章ではまったくない。また、法に関しては無知も同然なため、誤解があるかもしれない。ご指導ご鞭撻のほどを乞う。
私は優しい人間なので、差別せず優しく接しようとして来たが限界だ!!
いったいどうすればいのか??
・作業取っ払って楽にしてやろうという偉い人命令に従って、簡単な資料整理担当にしたら、「横から失礼します」とグループメールでタイポやら、ネットで見た程度の業界動向を書いてくる
・最後に担当していた(今は外した)プロジェクトの会議に勝手に参加していて、途中で大きな溜息をついて出ていく
→社外の人も居るのにやめてくれーー
でもなー、何やらせても、フォローしても全然進まないんだよ。もちろん皆のフォロースキルが無い可能性も考えられるが、違うと思うんだ。。
他にも沢山有るのだが、どれも私からの視点だけとなるので、止めておこう。
総じると、、何というか「何も為していないのに、チヤホヤされない環境がオカシイ!」というのが、あからさまに透けて見えるのだ。
これが正しいかは判断し難いが、チームメンバー、上司と話しても、そこに落ち着く。
少し前は、みんな大変だね〜無理しなくていいよ〜と悪く言えば表面的にあしらっていた。
だって、今の時代、表立ってイジメたり、無視したり、クビにする訳いかないでしょう?
一つ挙げると、、
作業工数的に見合わない改修リクエストに対して、申し訳ないが対応出来ない、使いにくいのは解るが他に優先すべき事項があり見送りとしたいと、双方納得して終わらせたトピックに対して
「本来ならチームメンバーが毎日1時間残業増やして計xxw時間で対応すべき事項だが、メンバーAのスキル不足、作業ミスリカバリー(かなり詳細なミス内容)も相まって見送りとなってしまったことを、代わりに謝罪させてもらいます。」このあとテンプレ的なご指導ご鞭撻〜が10行位
相手チームにも、大体の事情は伝わってるので、スルーしてもらえたが、、
味方を落として自身の栄達を図るような行為が、許せなくてちょっとイライラしてきた!
これ、どうしたらいいんだろうか??
言葉とはなんだろうか。
私は言葉とは服のようなものだと思っている。それを着る人の第一印象を決める。服に着られるとも言うように、身の丈にあった、あるいはその人の個性にあったスタイルがある。それを楽しむ人もいれば、実用的な使い方しかしない人もいる自由がある。挙げればキリがないが、これだけの、しかも重要な点で重なるのは、この2つが人を人たらしめる大きな特徴だからではないだろうか。
そう考えるからこそ、言葉を縛る文化にはほとほと嫌気がさす。「正しい日本語を使いましょう」、なんて傲慢な言葉だろうか。
少し話がそれるが、私は社会人だ。今年2年目の若手社員である。うちの会社は基本的に服装に特に規定はなく、制服もないので、まあ、男性は大概スーツで女性はオフィスカジュアルという人が多い。ただ寒冷地で冬場は冷え込むので、オフィスカジュアルというよりはカジュアルにかなりよった服装になっている。だからといって服装について女性たちが「ちょっと今日の服装ラフすぎるんじゃない?」などと管理職に言われているところは目にしたことがない。私自身も服装については特に指摘されたことはない。それはなぜか。よほどの奇抜な服装でなければ職務に支障はないからだ。当たり前のことだろう。今時ネクタイの柄が派手すぎるとかスカートが短いとか、外回りに行くわけでもないのに言う人はいない。個人の自由だ。規定の制服であれば着崩せば問題はあるかもしれないが、それも勤務中だけであってプライベートでは何を着ようが文句を言われる筋合いはないし、言う方がおかしい。これも当然のことだ。
先ほど、服装について職場で指摘されたことは特にない、と言った。一度もない。この一年と二ヶ月で。なのに言葉については数え切れないほどある。直接的ではなくとも、咎めるように遠回しに言われたものも合わせれば結構な回数だ。私の言葉の使い方に著しく難がある?ここまでの文章が恐らくそうではないという証明になっていれば何よりだ。直近の例で行くと、全然、という言葉だ(しかもこの指摘は、一応プライベートであるはずの飲み会中になされた)。肯定的な全然は一応は一般的に誤用とされている。つまり、「全然大丈夫」のような用例である。しかし、はっきり言ってしまうとこれは誤用とは言い切れない。現代の人々が「誤用である」としただけで、夏目漱石も肯定的な全然の表現を使っているし、それ以前にもその表現は散見される。あなたたちに、夏目漱石もその表現を使っている、という暴力的表現を覆すだけの論拠が提示できるのか?
というか、人は何をもってして「正しい言葉」なんてものを判断するのか?もし「正しい」という単語を「その時代の多くの人々が使う用法で用いられていること」と定義するのなら、方言は大概間違った言葉だろう。それでいいと思っているのなら正しいという言葉を揺るぎなく使い続ければいい。でも私はこの風潮が、本当に本当に嫌いだ。正しいという言葉の傲慢さ。マナーという点では同じなのに、なぜ言葉を縛ることは服装を縛るよりも圧倒的な正義だと考える人が多いのだろう。言葉そのものが保守的であるという側面はあるにせよ、それを指摘することそのものを「正しい」と疑わない感性こそ、私は「正しくない」と思う。平安時代から行われてきた先輩方からのありがたいご助言とご指導ご鞭撻に、今さらやめろと言ったって仕方がないかもしれないけれど。ファッションの多様性がなんとなく認められるようになってきたように思う現在、せめて「正しい」ではなくて「適切な」という形容を使う程度には、現代人にも繊細で適切な言語感覚を持ってもらえないものかと思う。