はてなキーワード: 人治主義とは
罪をその人のせいにして個人を憎むのは思考が近世で止まってる人だけ。
近代以降になって、神というのは法に形を変えたと言うことができる。
自由や平等や人権を願う祈りが、民主国家を形作る法という形に結実したのだから。
民主国家では犯罪者は法によって裁かれ、ある程度個人の責任として刑罰が科されるけど、
結局はそれを生んだ環境である共同体、突き詰めると国家に責任が帰着され、国家が面倒をみるよね。
そういう訳だから個人が個人を恨む必要なんて一切ないんだよね、短絡的な感情さえ排せれば。
人を裁くお仕事をするのは法であり国家であって個人ではないわけで。
だから個人が正義感でもって他人を裁く人治主義的発想もおかしいし、遺族の感情を配慮して死刑なんてのも民主国家ではありえない話。
日本はそれになりきれなくて死刑なんていう近世以前の制度を維持し併存させて、
そのくせ法を適切にアップデートする指揮は誰もとらずに個々人のモラルや感情で断罪しようとし続けてるんだから。
そのへんの話で混乱してしまう人がいても仕方あるめぇよ。
ここ最近の安保関連法案の騒動を見ていて、鎌倉幕府の制度の関係に想いを馳せた。
御存知の通り、鎌倉幕府は長期にわたって日本を支配した初の武士政権ではあるが、長である将軍の力は初期において奪われ、そのあと数百年にわたって政治を動かしたのは北条家であり、彼等の代表が執権として辣腕を振るっていた。
「御成敗式目」という日本最初の武家による法律を定めたのも鎌倉幕府だった。これも、お題目として後世にわたって尊重されてきたものの、内実は有名無実化して、現実に沿った行政が行われるようになった。
この手のことは鎌倉幕府のみならず、そのあとも幾度と無く繰り返されてきた。家祖の定めたものを壊すことはままならない。しかし理想と現実は食い違うばかり。西洋では、現実を理想に近づけるか、理想を現実に沿ったものへと変えようという試みが行われるのだが、日本では、理想を掲げながら「現実は違うよね」と開き直ってその場その場で恣意的な運用を行い、たまに「お上」が理想をふいに持ちだして厳格な処罰を行い現場の引き締めを図る……こういうやり方を続けてきた。
家祖の定めたものは素晴らしい、変えてはならない、変えようとする人間は悪逆非道の大悪党だと罵るくせに、現実とそぐわない面には頑として従わず、従わないを当然と思い、「柔軟アな対応」と誇る。法を完全無視するほどの人治主義でもないが、かといって法治主義でもない。法や権威を尊重し、時々それによって引き締めを図る程度にはその支配力を認めるけれども、普段は臨機応変な対応で対応するというこの考え方を、なんというのだろうね?
神輿となったものを壊さず、作り替えたり新しい神輿を作り上げたりすることもせずに、それはそれで担ぎながら、現実はそれとは異なる対応を行い、人々もそれに従うというものだ。
日本国憲法もどうやら、その段階に入ったらしい、平和主義という理想は理想として素晴らしいと誰もが思い、この理想を下ろす気はない。しかし、理想と相容れない現実(中国が圧倒的な軍事力を背景に周辺国の政治を支配しようと目論む)が現れたときに、憲法はそのままにして、法運用や解釈を変えることで対処しようとしている。日本社会のこれまでのあり方そのものじゃないか。
日本の歴史と社会がそのようなものだから、それを是として受け入れていくべきか、それとも西洋流の方法を是として、日本の社会を変えていくべきか……悩ましき問題だ。