<金の整理>
・ふるさと納税(以下同文)
・アグリゲーションサービス(以下同文)
・確定申告
<カラダのこと>
・合う靴を探しに行く
・合う美容院の店をさがす
・出会う・結婚する・産む(https://ameblo.jp/kekkon-monogatari/entry-12607911402.html )
返信不要って書くと、なんか冷たい気がして自分も書きたいけど書けない時期があったけど、へんふよって書けない人は、返信お気遣いなくって書くのどう?って言ってる人見て、そこから使わせてもらってる。
スタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタ
さんざんこんな状態でやるのか、東京除外もなくていいのか、国民は不安がっている
とかいってたマスコミさんはいざ東京除外になったら、除外されたから観光地は困っている!二転三転している!何も決まってない!
っていうやん
でもぜったいこれ東京除外しないで決行してたら、こんな状態なのに東京の人が地方に出て行ったら大変だ!って叩いてたと思うんだけど
ある程度、児童教育の頃から心を鍛える義務教育をつけておくカリキュラムがいいと思う。
大人になってもヤケになったり死のうと思ったりせずにすむ。
プログラミングの授業では先生やクラスメイトから鉞を投げてもらう。
感想送ること自体は何の苦でもないし、寧ろお題箱やマロを設けてもらえるのは本当にありがたい。
私は生粋の読み専・鍵垢を貫いてきているので、私の声が届くだけでも幸せ。
ただ一方で、感想を勢いのまま送るから正直推敲とかしない。推敲するとなると作業になるから、ハードルあがるし。
産地直送、作品を読んだ後に私の脳内畑で取れたての感想を土ついたまんまで感想箱に投げ入れるわけですよ。
となると若干の躊躇いっていうか、やべ、これ不快にさせるかな。とか。流石に荒ぶりすぎててきもいな。とか。
これ、相手返しにくくね?みたいな不安から「返信は不要です」ってつけそうになる。
これ送られた側はどう思っているんだろう。
返したくなければ相手は返さないだろうし、そこの自由は受け取った側にあるわけで、そこにわざわざ言及するのはどうよ。
そう思って、よほどのことがなければ、返信は不要です、とか言わないけど。
返信不要って正直、どうなんすかね。きけるもんならきいてみたいっす。
目が隠れるくらいの長い前髪。髪色は黒。
これらの要素のいくつかを持ったエモーショナル・ハードコア・パンクロックに影響を受けたファッションをしている様を表す形容詞。
だと思われがちらしいのだけれど誤用らしい。そもそもエモーショナル・ハードコア・パンクロックの人たちはそんなファッションをしていなかった。
https://www.urbandictionary.com/define.php?term=emo
今では使う人もいないけれど昭和の末から平成の初頭にかけて、エモいと言ったらこんなイメージだったはず。
ZガンダムやZZにそんなファッションのキャラが何人かいた気がしたがググっても見当たらない。フォウ・ムラサメは近いのかもしれない。
そもそもウィルスを全国に撒き散らしたのは政府の軟弱な姿勢のせいなのに、何故民間人の責任にしたがるんだ?
https://twitter.com/EARL_Med_Tw/status/1285361991603781633?s=19
つまりはそういうことなんだが、アクタージュ好きなんよ。私はね。
ちょっと前にチェンソーマンおよび藤本タツキ激推しお気持ち長文書いたんだけど、この増田に対してあのレベルの激推し文が書けるほどのバックボーンが私にはない。ただアクタージュってワードに反応して語りたく成った迷惑な早口キモオタだ。許せ。
漫画マニアなら、演劇漫画と言えば大御所も大御所、金字塔も金字塔のガラスの仮面が思いつくだろう。累も大好きだけど、あれは演劇が主体かと聞かれたら微妙なところだ。アクタージュの凄さ、面白さは、ガラスの仮面を下敷きにしながらきっちり少年漫画に落とし込む上手さ、現代性の取り入れ方だ。演劇なんてジャンプっぽくない題材で、どうやって少年漫画に落とし込むか?という方向性に疑問が行くだろう。しかし、違うのだ。元々のガラスの仮面、このガラスの仮面こそが、極めて少年漫画的で、かつ化け物じみた少女漫画なのだ。
ガラスの仮面において、しばしば主人公マヤの狂気性がクローズアップされる。どれだけ弱めても「狂気」だ。少女漫画はえてして、人間関係のドロドロを誇張含めて描きがちである。ガラスの仮面ファンも、アンチも、なんとなく読んだことがある人も、「こいつはヤバい」と思っただろう有名エピソードとして「泥まんじゅう」がある。ネタバレは出来るだけ避けるが、この狂気性はどうしても伝えたい。ガラスの仮面をこれから読む人でネタバレが気になる人はさよならだ。まあ流石に居ないだろ。
基本的には、マヤは「月影先生や速水の寵愛を受け、美味しいところを持っていく」役柄で、作中でもきちんと周りから指摘され、嫉妬される。なろう系のように「さすマヤ」状態にはならない。それこそ、ほぼ殺人未遂の石(本物)を舞台上で投げつけられたりする。まんじゅうを泥団子にすり替えられたりする。さすがのマヤも手が止まる。だが、「おらぁトキだ!」と、マヤが演じるトキになりきって、泥まんじゅうを満面の笑みで食ってしまうのだ。もはや「さすマヤ」である。あまりにも強烈過ぎる自己否定だ。彼女はマヤではなく、あの瞬間、間違いなくトキだったのだ。マヤは、自らがマヤであること、演技力がある人間であること、紫のバラの人に憧れを抱く人間であることなど、そんなアイデンティティにほとんど執着がないのだ。劇中で自分ではない何かに成った自分こそが彼女のアイデンティティなのだ。物語に没入していなければ「なんだこいつ」だし、没入してても「狂気」だ。「演劇をやりたい」という極めて明確な目標を元に、自分すらも捨て去る。演劇を主体として見ればとても少年漫画的であり、生き様としてみれば少女漫画のエッセンスがこれでもかと濃縮されている。不朽の名作だ。
さて、アクタージュの話だ。主人公の夜凪景は、いわゆる演目になりきる憑依型のアクターだ。まんまマヤである。さらにライバルキャラの百城千代子もほぼ亜弓である。そして主人公を演劇界に引っ張り上げた演出家には、いつかやりたい「幻の演目」……当然ながら「ガラスの仮面」への類似性への指摘されるし、あの名作と比較してどんな差別化をしてくれるのか、と比較される読み方をされていたと思う。ガラスの仮面を読んだことがない人も、ガラスの仮面ファンにも、ちゃんと面白いと思ってもらわなければ連載は続かない。
アクタージュは、必ず「この人はなぜこうなったか」「なぜそれができるか」「なぜそうするか」が描写される。つまり、描写される演技には必ず「アクター個人としての」アイデンティティが関わってくるように描かれている。ガラスの仮面のあまりにも強烈過ぎる自己否定など、微塵もない。この一点こそ、マヤと夜凪の、ガラスの仮面とアクタージュの決定的に違うところだ。ガラスの仮面ファンもニッコリ。
そしてもう一つ大きな違い、「個と組織」の違いだと考えている。ガラスの仮面は圧倒的に「個」だ。読めば分かるが、ガラスの仮面は組織が組織の強みを生かしたシーンが実は少ない。組織の良くない、ドロドロしたところの描写のほうが多いくらいだろう。マヤの理解者である、月影先生も劇団の主催ではあったものの、強烈な周りに理解されない天才、「個」だ。速水さんも明確な「個」である。強烈な個がぶつかり合う様でガラスの仮面は成り立っている。
アクタージュは、組織的なものがちゃんと組織として役割を担っている。それだけだと、ただ主人公とライバルが活躍するだけの漫画かと思ってしまうが、きちんと「組織」が役柄をもっているため、組織の存続に関する視点が本筋に関わっていく。商業的な視点も取り入れながら、きちんと少年漫画をやっている。実に現代的な視点であり、ガラスの仮面リバイバルとしても十分に面白い作品となっている。ガラスの仮面知らない人もニッコリ。
強烈過ぎる自己否定からくる演技への執着、それによって誰にでもなる、なってしまうガラスの「仮面」のマヤ、時には暴走するが、自らのバックボーンを捨てることなくリアルを演出する「アクター」ジュの夜凪。対比として美しいって書いてて思った。
どっちかのファンでもどっちも知らない人でも、片方読めば楽しめるし、両方読めば4倍楽しめる。1+1で2じゃないぞ、2の2乗で4倍だ4倍。読んでくれ、特にガラスの仮面。