「自分ならこうする」「自分ならこう考える」とか「〇〇ならこうするべき」「〇〇がこうじゃないのはおかしい」って基準でジャッジするのは、知性が低い大衆の傾向であって、女性特有の傾向ではない。
NHKで報道された「子供の貧困」で出てきた女子高生が、アニメグッズを持っていることを批判しているアホはネット上に掃いて捨てるほどいるし、そのうちの少なくとも半分は男性であると考えられる。
フェミニズムに漂う腐臭は、大衆化した運動に漂う腐臭であって、貧困の烙印化をしている大衆や、保守活動をしている大衆、リベラル活動をしている大衆など、属性が違っても全体の知性が低くなると必ず発生する。
今日も全国各地で駅前にある富士そばが演歌を流し続けてくれているという事実。
演歌業界の人間でこれがどれだけありがたい事か分かっている人はどれだけいるのか。
数多の文化に流行り廃りがあろうとも、演歌という文化は富士そばによって現存し続けるかもしれない。
今は茶髪でバイト帰りに富士そば食ってる兄ちゃんも、何十年後かに富士そばで演歌がはじめて耳に残る日が来るかもしれないのだ。
文化の種は蒔き続けなければ続かない。
同じ口で「ブスは整形しろ」と言えるのかな?
まあよう知らんことを誤字混じりで嬉しそうにくっちゃべることよ
冷静に説明してくれているが、少しポイントがズレていると思う。そして、そのズレはなかなか問題だ。議論の根幹に関わるので、少し丁寧に説明する。
「内心の自由があるよ」という趣旨の擁護論は、おおむね「●●なんて取り締まれ!」「そんなこと考えること自体が犯罪」という無茶な主張に対して、「内心の自由が保障されている(だから取り締まりは無理だし、考えること自体は犯罪ではない)」という意味で述べられるのであって、「内心の自由が保障されている(だから俺の妄想を常に全開にしてオッケー)」という意味ではない。仮に後者の意味で述べている人がいるとすれば、それは確かにダメな人なので諄々と諭す必要があるし、あるいは盛大に自爆するのを待って(法に触れる書籍なりを出版するのを待って)粛々と取り締まればよいが、あなたの文章の表題の「内心の自由はない」という言い方は前者を含めた否定論に聞こえてしまう。あなたが説明するとおり、実際に法で取り締まるというのは無理筋なのであるから、過激な批判者から見ればあなたもまた「内心の自由はあるよ」論者に見えているはずだ。そして、実際にそうだ。過激な批判者からすれば、あなたは憲法19条による内心の自由が保障されると述べているわけで、彼ら彼女らからすればこれは「児童性愛を擁護する」ものに見えるだろう。(あなたはただ憲法19条の趣旨を説明しているだけであるにも関わらず、だ。)そういう状況を踏まえた上で、
児童性愛を擁護する言葉を声高に発する人たちは、控えめに言って、人でなしだと思う。ネットで規制を強く主張しているような人たちへの想像力と、家庭内での性的虐待に関しての知識が足らない。
という言い方は、これはやはり言い過ぎだと思う。あなたの発言は対象が広すぎるのだ。性的虐待サバイバーへの配慮を求める気持ちは深く理解できるが、それは、普通に認められる人権を不当に制限する行動に加担する理由にはならない。
それから、
同性愛は社会的に認知されつつあるが、児童性愛が犯罪でなくなることは、人権という概念が存在する限り、ありえない。古くからのタブーである同性婚が人権意識の発達とともに社会的に受け入れられてきたのに対し、児童婚はその逆だ。前近代は問題視されていなかったものの、近代化が進んだ結果禁止されてきた。人権意識の発達にともない、未成年者の判断能力の欠如が問題となったため、未成年者の婚姻の権利、恋愛の権利、契約の権利などが制限されることになったからだ。
この部分も、歴史的文化的に見れば、必ずしも正しい説明ではない。「人権意識」によって「未成年者の判断能力の欠如が問題となった」というのは、論理的に言っておかしいし、それにそんなことを言ったら、児童の権利条約など成り立たなくなってしまう。正しくは、「人権意識」の発達によって、肉体的、精神的、あるいは性的に搾取される社会構造に対する批判が高まった結果、特に犠牲になりやすい立場の人間が立ち現れてきた、ということに過ぎない。そこに線を引いたのは人権意識であるが、あらかじめそこに差があることを前提とする物の言い方は適切ではない。聡明なあなたなら、この違いは理解できるだろう。この二つの見方の違いは、次のような帰結につながる。
(前者・誤)「児童が劣っているから、保護し管理してあげることにした(ゆえに)児童の活動等の権利は制限されるのが当然だ」
(後者・正)「児童が犠牲になっているから、様々な活動に制限をかけることにした(ゆえに)大人とされる人の一部の行動には規制がかかって当然」
私は後者の立場に立つ。児童の権利条約等が立っているのもその位置であり、前者でないことは明らかだろう。私はあなたの「児童の~恋愛の権利~などが制限される」という言い方に深い危機感をもつ。制限されるのは「大人の行動」の方であり、「児童の権利」ではない。そこにこだわるのは、「児童の権利を制限できる」というあなたの物の言い方に、上に書いた〈憲法を無視した規制論を述べる人〉と同様の危うさを感じるからだ。
実在児童への性的虐待はもちろん問題だ。それは厳しく罰されるべき行動である。当然のことだ。
だがしかし、そこで規制されるのは「大人の不法な行為」である。「大人の内心」ではないし、「児童の権利」でもない。少し厳しい言い方をすれば、「児童」は一部の方の管理保護する「お人形」ではなく、一個の人間である。「児童のため」「子どもの安全のため」を掲げて、児童の権利を制限し大人の内心を規制しようと主張する人々は、「児童」を自分に都合のいい人形として、手元に抱え込んで扱うことができると考えているように見える。「自分は児童の代弁者で有り保護者であり管理者であり、児童を守る自分の言葉は全て正しく自分に反対する人間は児童虐待者なのだ」と。そういう考え方は、思想信条に制限をかけたい(まさに、大衆を自分の人形のように扱い、管理し保護し監督したい)人々に、非常に利用されやすい考えであり、それは大変危険なことだと私は憂慮する。
そもそも私は、「大人が児童を搾取する」行動は、もっと厳しく取り締まられるべきだと考えている。「子どものため」との言い訳の下で行われる搾取は、時には関わる大人・児童両者ともそれを虐待と意識しないケースも多い(たとえばステージママと学校にもロクに行かされないアイドル志望少女のように)。だが、それは明らかに搾取であり虐待だ。法に定める義務(保護者に課せられる、教育を「受けさせる」義務)に反した(大人の)行動であり、それは厳しく取り締まられなくてはいけない。
だからこそ、実在の児童に対して行われているそれらのリアルな「虐待」を放置しておいて、心の中で妄想しているだけの人のその妄想自体を問題視し、存在自体が病であり罪であるかのようにあげつらう物言いには違和感しかない。みんなが手の内の「児童人形」の話をしている。そんな状況で、「実在の被虐待児童」を救うことができるのか? それでもあなたは「家の中で妄想する人の妄想」を取り締まることが、「実在の被虐待児童」を救うと主張するだろうか。
宮崎勤なんかがその例だが、子供レイプする人って必ずしも小児性愛じゃないのよ。大人の女は知恵が回ってレイプがやりにくい、誘拐するにもデカイから一人じゃ無理、などあって、より弱い存在として小さい子に向かうわけよ。
小児性愛に男が多いというより、レイプ犯に男が多い事象野園長かと。レイプ犯に男が多いのは一説ではホルモンの関係と云われてるね
アホの長文にアホのトラバがついただけで両者何の違いもねえわ
それに対して「こんな事書くなんてひどーい!」レベルの事を書くのがアホっぽいだけで。
性的虐待被害者だったらラブドール規制に賛成して当然と思ってる時点で自他の区別がつかなすぎだろ。性的被害者かつ性的マイノリティなんていくらでもいるぞ。逆に、性的被害者でなければ傷つかないということも無い。全ては個々の考えによる。
強いていえば、女性は「自分ならこうする」「自分ならこう考える」という基準で他人をジャッジする傾向が強く(電車へのベビーカー乗り込みも女性の方が反対する人数が多いなど)、この思考がフェミニズムにどうしようもない腐臭を漂わせていることに自覚的になるべき。
女性の敵は女性だという定型自体はただの紋切り型にすぎないが、少なくとも前述の基準でお気持ち表明をしてしまうような女性は、確実に女性の敵だから。
クッククック