言葉が足りなかったんで付け足すけど、会社の業務中に親しくも無い女性に
シモネタを放つのはNGだと思ううんだけど、親しくなった女性に業務を離れた場で
会話の流れでいうのは人によりOKだと思うんだよね。
単に、嫌いな国(=日本)の政府を叩くための道具としてしか靖国参拝を見てないよな、日本の左翼って。韓国叩きたいために色々と調べてるネトウヨと変わらん。
本当に女性の人権を守りたいなら、本当に戦争を止めたいのなら、通州事件の被害者や、中国の領海侵犯や北朝鮮のミサイル開発に対して、もっと必死になってないとおかしい。
自衛隊の軍事増強が、近隣諸国を刺激するって良く言うけど、韓国は日本が計画しているものの倍以上の水陸両用車両を持っている海兵隊があるし、中国はそれこそ核ミサイルも原潜も空母もある。それに対して、左翼が大使館とかの前で抗議デモをしたという話を聞いたことがない。少なくとも、沖縄の米軍基地に対するデモより大規模なものは知らないけど、誰か知ってる?
自分にコミュニケーション能力が欠如していて、ヘタしたらセクハラになると理解しているから喋らないんじゃないか。自分の欠点を理解して、自分の言動を決定している以上、むしろ「喋らない」という決断はTPOを弁えたものではないのか?
男の場合でセクハラって捉えられる場合は、個人的にはコミュニケーション能力の欠如だと
思っている。シモネタOKな女性いるよね?TPOもあるよね?それを無視するから不都合が生じる。
セクハラになるから話せない、ってのはコミュ障の言い訳だとおもう。
そしてそれを真に受ける女性側も、何か問題ないか?そんな言い訳する奴はバッサリ切ればよし。
そんな言い訳を言わせないほどいい女だったら多数の男が誘ってくるわけで。
誘ったら引く?そんなことある?それもやってみればいいと思う。僕はその前に誘いますが笑
http://anond.hatelabo.jp/20140101211041
http://anond.hatelabo.jp/20140101213316
1996年1月の1ヵ月間にもちをつまらせて死亡した人は、208人で、男性が150人、女性は58人。(『厚生の指標』96.12)
仕事おさめしごとおさめきれなくて、せめて年内にと思ったけど完全にスイッチ切れちゃって「年明けから本気出す」とか思って大晦日も今日もぼーっとしてて、明日もまた「まだ仕事始めまで日はある。明日からやろう」とか思ってそうでもうだめだ。こんなんで今の仕事続けてていいのか知らないけどきっとこんなんじゃどこ行ってもだめだもう。
自分の祖父は2回も乗ってた船が機雷に当たって沈んだ上、たまたま休暇貰って親戚の家に寄ってた日に東京大空襲に遭った。
親戚はなんとか無事だった(家は全焼)けど、祖父の「戦友」の半分は船と共に沈んでしまい、戦後同窓会をやっても
でも15年前急性のガンであっさり亡くなった。
まぁいい年ではあったものまだ死ぬには早いんじゃないかな、というところだったが、本人は
「戦争で死ななかっただけで満足だな」「あそこで死んでたらただの馬鹿だ」
と悔やんではいなかった。
少なくとも孫の前では。
そんな祖父が生前語ってた「最も理不尽な戦争での死に方」は、戦後処理され残ってた機雷にあたって船と共に沈んだ
自分の同僚だとか。
「戦争終わって25年も経ってから戦争のせいで死んだら浮かばれねぇよなぁ」
と言ってたのが今も心に残る。
男の高学歴高収入はだいたい自分を良くしたいという向上心の結果だが、
まずはじめに断っておくがこれは何も虚構新聞みたいなくだらないネタではない。
俺はあの手の誰も徳をしない、内輪ネタのマスターベーションが大嫌いな人間だという事をご理解願う。
そしてあなたが今日、ここを見ているという事は少なからず大日本帝国が掲げた戦略から見ても無視は出来ないはずだ。
大日本帝国は同じ島国の大英帝国が全世界の三分の一を植民地化したケーススタディをお手本に海南の支配という戦略を企てた。
しかし、その戦略はシーレーンに対する見識の甘さ、ロジスティクスをおろそかにした見識の甘さによって失敗した。
海戦当時、兵器ではドイツのジェット機、Uボート、日本の大鑑、零戦、空母などどれをとっても、兵器の近代化という点では枢軸国が有利だった。
ロンメル、三川 軍一など優れた作戦を遂行する指揮官も枢軸国には存在した。
マッカーサー、パットンなど連合国側の指揮官は決して優秀ではなかった。
これ以上、大東亜戦争の話しをすると長くなるし軍オタから色々と細かい意見を述べられるので割愛させて戴く。
今日、俺がいいたい事はたった1つ!
どこの誰がいったのかよく分からんが小見出しの言葉は俺の祖父の事をよく表している。
祖父はきっとインパール作戦の最中、今が最悪の状態だ。と心の中で思っただろう。
弾薬は底をつき、食料はなくなり、体力の弱った兵士を伝染病が襲う。
機関銃と火炎放射器で攻めてくるイギリス軍に雨で錆びた銃剣ひとつで勇敢に向かっていく兵隊。
この頃、日本はインド、シンガポールにおける制空権を完全に失っているので容赦ない空爆もうける。
平和ボケしている今のあなたがたには想像すら出来ない地獄絵図を、生前に祖父が語っていた。
その地獄絵図の話しを祖父は何故か、私にしかしなかった。父も兄もそんな話し聞いた事が無いという。
おそらく日の丸を背負って戦った兵隊の誇りがあるから祖父は他言しなかったのだろう。
大本営から退却命令が出てインパールから帰ってきたという事実は、けっして誇れるものではなかったのだと思う。
ではなぜ、祖父は私にインパール作戦の話しをしたのか?それは私が3才の時に戦争の話しを根掘り葉掘り聞いたからだ。
「かわいそうなぞう」という絵本を読んだ3才の私は戦争に対する好奇心が止められなかったのだ。
当時の私の好奇心といったら夜9時からはじまるドラマ「毎度おさわがせします」と「戦争」この2つしかなった。
兄が寝てる横の部屋で母と一緒にテレビの音量を下げて「毎度おさわがせします」を楽しく見ていたもんだ。
祖父は祖父で俺がまだ3才だからと油断してインパール作戦の事をぺらぺら喋ったのだと思う。
インパール作戦の地獄から生きて帰ってきた祖父の命を奪ったのは餅だった。サ●ウの切り餅
祖父はきっとインパール作戦当時、今が最悪の状態だと思ったに違いない。
しかし本当に最悪の状態というのは餅を喉に詰まらせて脳に酸素が供給されなくなり意識が朦朧としてきた時だった。
毎年、この時期になると祖父の事を思い出す。
興味の無いモノを一生続けるのは拷問。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20140101204648 ← touch って何?
深く考えたりまとめたりする頭があるわけでもないので、頭の中でもやもやしていることをとりとめのない感じに並べるだけ。割と長い。いろんなところで見たものの寄せ集めかも。
人工知能学会誌の表紙絵で一騒動あったが、その批判に対して言いがかりだという感じの反応が多く見られた。
些細なことで差別のレッテルを貼られることへの怒り、反発、表現をする側が批判を恐れ、政治的に正しい表現へと漂白されていくのではないかという危機感を強く感じる。
今回の件に限ったことではなく、特に"政治的に正しい"というのにものすごく反発がある様子。
自分もそういう反発心がないわけでもないし、表現の自由度が下がるのは避けたいとも思っている。
ただこうした反応を見ていて、自分は反対の方向に危機感を覚えたりする。表現に対して批判をしたり嫌悪感を表明することが封じられてしまうんじゃないかと。
批判のために攻撃的な言葉が使われる問題。それこそ差別的だという指摘がある。
もちろんどの立場であっても攻撃的な言葉を使うのはよろしくない。しかし多数派の罵倒はスルーされやすく、少数派の罵倒は目立って大きな憎しみを買いやすい。それがまた一層激しい罵りに繋がる気もしている。
ゾーニング、住み分けもかなり重要ではあるが、住み分ければいいだけの話、というのも個人的にはあんまりいい流れではないと感じている。分断する方向へ向かっているような。そこへ至るにはある程度のプロセスが必要ではないかな…
批判や議論も重要だし、嫌悪感の表明も自由だと思う。しかしそれによって簡単に表現が規制されたりすることはない方がいい。批判があったらダメというわけではない。批判があるからといって規制する必要はない。
表現規制の問題があるからか、批判というとすぐ規制に繋げてしまう傾向がある。
と言っても激しく批判する方もそれに激しく反発する方も、落としどころを見つけようとか意見を聞こうとか、おそらく思ってはいないんだよな…。相手を叩きのめそうという力が大きく働いている感じがある…。またそればかりが目立つために類似の意見すべて感情的に受け入れられなくなる、といったこともあるようだ。
自分としてはあの表紙絵が特別差別的だとは思わないし、些細なことではある。些細なことであるから問題であるとも思う。生贄的な側面は確実にある。意味のない指摘とは思っていない。
今回の件では、人工知能学会をどう見るかによっても意見が分かれたようだ。学会誌は内向けではあるだろうが、趣味を共有する目的のものではないだろうし、実用に目を向けているからこそ表現に気を遣う必要はあるかと思う。
人工知能を愛でる学会であればおそらくそんなに問題にはならない。
女性は家事とかそんなステロタイプは今時ほとんどねーよという反応も結構あった。これは、観測範囲に単身世帯が多いのではないかなあと思っている。単身なら性別関係なく家事をする。自分の観測範囲では所帯を持った人が多いが、女性が家事のほとんどをやっていて共働きというのが圧倒的に多いように見える。
労働環境の都合上そうなるしかないというのもある。田舎に住んでいるというのもあるだろう。実際全体ではどうなのか…ステロタイプから脱却するべきという認識は主に若い世代に広く共有されているが、状況はそれほど大きく改善されたわけではないってとこかな。
まあ観測範囲が狭いのでなんとも。
一番気にしているのは、批判の声が大きくなった場合、表現をする側の心が折れる問題。
批判や議論はあった方がいいと思いつつ、それらを受け止められる表現者がそんなにいるとは思えない。今回騒動になった絵を描いた人の心が折れていないか正直心配である。絵が悪いわけでも描いた人が悪いわけでもない。
ステロタイプな表現は社会の鏡であり、表現そのもの以前に社会環境の方に問題があるのは確か。
表現の影響を過大に見る向きがあると感じる一方で、それに反発して過小に見る向きもあるように感じる。ひとつの表現が社会に与える影響は大きくはないし、大抵の場合劇的な何かをもたらしたりはしないと思うが、多くの表現が少しずつ既成概念を作り上げているところはあると思う。
表現が個人に与える影響は多分かなり大きい。
海外を引き合いに出さずとも多様な立場にいる人が声を出すようになれば、批判される割合はどんどん高くなっていき、面倒なことは増えていくと思われる。声が出ることを歓迎する反面、何らかの表現をする者にとって背負いきれない重荷であるとも感じている。
間違った表現、正しい表現があるわけではない。漂白する方向へ向かうよりは、多様化する方向へ向かった方がいいと思う。向かって欲しい。
で、結局どうしたらいいのか、自分には分からない。真摯に考えた人もたくさんいたと思うし、記事も色々読めたことは自分としてはよかった。議論が起こるのは意義のあることだと思う。一方で溝が深まっただけという気もしている。
SF的にこれからの表現のあり方や人工知能、アンドロイドのあり方なんかに議論が広がっていったら主に自分が喜んだのだが。表現が差別であるかどうかで泥仕合になってしまったのは残念だった。いや、これにも意義はあるのかもしれない。わからない。
結論はない。頭いたい
1/3追記
id:hal9009 表現が既成概念を作ってるってのは多分幻想なんだよな~。実利があれば表現が追い付かないほどの勢いで世の中変わるので。変わらないのは構造的にではあれその現実を支える確かな「利益」が存在しちまってるんだよ
これなんだけど、自分が感じてるのはもうちょい小さいことで、情報の少ないことや些細なことについての既成概念。
些細な認識の穴埋めとして物語などで得た情報が結構使われている気がする。
現実に色々な情報が入ってくるようなことだと頻繁に上書きされるので表現は表現という認識にとどまる気がする。
実際には違うという認識が共有されつつお約束とされている表現があって、何らかの理由で共有されていた認識が薄らいでお約束の表現だけ残ったら、割と面白…面倒くさいことになるかもしれない、などと思うこともあり。
情報が少ないことであったり取るに足らないような些細なことであったりすると、なんとなくそのまま表現のイメージを引きずってしまう感があるということ。
些細なことなので問題ないといえば問題ないかもしれないが、些細であるだけになかなか更新されないなど。
それがよくないと思っているわけでもなく、既成概念も物事を見るのには必要だが、面倒な問題を起こすこともある、と思っている。
頭の中でもやっと考えているだけで自分でもまとめられないので具体例を出せといわれるとよく分からなかったりする。
あんまり多くの方向にアンテナ張って本当に些細なところにも配慮しつつなにか表現しようとすると死んでしまうが、些細なことに突っ込む意義もまたあるということ。