はてなキーワード: 差別的行為とは
なぜなら中国人は潜在的にアメリカでは敵対意識を持たれており日本人のほうがスムーズに声が通りやすいからだ。
そして日本人はなにも言わん奴らだと思われている。
だから日本が言ったとき、ちょっとアメリカはざわっとする…のを何度か見てきた。だから日本こそ声を上げるべきだ。
というのと別に実際問題としてオスカーは投票する人種の構成をここ近年変化させ、アジアの映画が入賞しやすくなっている。山崎監督チームやジブリのスタッフもいた。
そういう場で、あのような事態が起きた。
彼らにとって晴れの舞台のはずなのに目の前で行われるアジア人への差別的行為。
ミシェル・ヨーもキー・ホイ・クァンもアジア系の起用について一昨年から泣きながら声を上げていた二人だ。
彼らが何をしたと言うんだ。
人権問題に詳しい社会学やジェンダー論の専門家が、女性差別的な文化を持つ人物とは距離を置くことを推奨してる。
でもあれって、距離を置くターゲットが日本人以外でもいいのかな?
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220118/amp/k10013436401000.html
このような事件が発生したけど、南アジア出身の男性で、明らかに女性差別的な文化を持った人が職場にいたら、社会学者やジェンダー論者の推奨に従って距離を置いた方がいいのかな?
何が懸念事項かというと
◎ゼムール氏はテレビ番組やラジオでコメンテーターを務めたこともあるジャーナリストで、反イスラム、反移民、反ゲイを政権公約に掲げている
こういうのと一緒くたにされたりはしないかということ。
人権問題の専門家の推奨に従って、女性差別的な人物から距離を置くという意図で該当する外国人男性とのコミュニケーションを断ったのに、男性当人には逆に国籍や宗教を理由とする差別的行為だと誤解され、フランスのゼムール氏と同類の極右思想の持ち主だと間違われて非難される結果になってはしまわないか。
誤解されないように、女性差別的な文化を持つ男性であっても外国人の場合は距離を置かず、日本人男性の場合だけ距離を置いた方が良いのだろうか。
しかし、それでは結局女性差別的な文化から完全に脱することは不可能になる。
判断が難しい。
この元増田の文章、独特の論理性があるのでちょっと気になって考えていたんだけど、もしかしたらこの元増田って「文の言外の意味を掴むのが苦手なタイプのマイノリティ」ではないだろうか?
「嫌い」という発話行為に伴って生じる一連の言外の意味を掴むのが苦手、という特性を元増田が持っていると仮定して文章と論理を追っていくと、書かれた文章は実はかなり論理的に一貫しているように感じる。
(「嫌い」と公言することを自然に「攻撃/差別的行為」と察するのは_この意味では_あくまで"マジョリティの感覚"とも言えるし、この元増田が「思っていることを(察しあうのではなく)公言しあう世界」を理想像とすることも容易に理解できてしまうように思う)
もしこの仮定が正しいのならば、多くのブクマカーがこの元増田に「特権を享受する差別主義者」というレッテルを貼ったのは本当に不当であるようにも思うし、暴力的ですらあったかもしれない。
今回のアツギの件では、多くの二次絵批判と同じく「性的消費(性的搾取)」といった用語による批判が見られた。
(https://digital.asahi.com/sp/articles/ASNC46FQKNC4UTIL00Z.html の有料部分など)
フェミ学者がこれらの語を用いて、表現物の中身について性差別の存在を仄めかすレトリックの結語はいつも「性差別を助長する恐れがある」である。
と二段構えにすることで、表現物にあるはずのない性被害の責任を表現物の側に押し付け、不快感にすぎないそれを性差別に偽装するところにある。
例えば、性的な内容を含む表現物を見せることを"強制"したり、性的な内容を含む表現物を間に挟んで"囃し立て"を行ったりした場合だ。
しかしこれらはあくまで強制や囃し立てという行為が悪いのであって、表現物が悪いのではない。
どんな表現物であれ、それを通して人権侵害を行うべきではないという倫理は、表現物ではなく人間の側に求められるのだ。
表現規制が行われるべきギリギリのラインは、表現物そのものに明白な人権侵害が含まれている場合に限られる(例えば「◯◯人を殺せ」のようなポスターなど)。
(もう一つの可能性としては、助長するのが差別的行為でなく、性に対する個人の意識=内心と想定されていた場合が残る。「二次絵は人々の性意識に悪影響を及ぼす」と。
だとすればフェミニズムはローマカトリックばりの中世に退行した思想である。フェミニズムが目指すべきは近代の徹底だ。)
「恐れがある」とは、「表現物が差別を助長する」という破綻したロジックについて、それはあくまでも可能性/蓋然性の話ですよと逃げを打つためのエクスキューズだ。
しかし可能性/蓋然性のレベルに下げてみた所で元々のロジックの破綻に変わりはないし、
この「かも知れない」可能性に抱く恐れこそ、「不快感」と呼ぶに相応しいものだ。
この全ての表現物について人々が抱きうる、そして表明されてよい「不快感」のレイヤーの話を、可能性の話に下げることで前段のロジックの破綻を曖昧にし、「恐れ」という言葉のニュアンスで表現物の側に責任を負わせるレトリックが「恐れがある」だ。
「国家による規制には反対です」と譲歩のニュアンスが続くケースも散見されるが、
国家による規制云々以前に、そもそも表現物自体に対して「差別=人権侵害」のニュアンスを含ませた批判の理路が誤りなのである。
このように「性的消費」を支えるロジック="性差別を助長する恐れがある"は破綻しており、扇動的ですらある。
また「助長」にも「恐れ」にもエビデンスがない以上、表現物単体で「性的消費」という概念が成立する余地はなく、オーディエンスは単にその表現物を通して「不快感」を受け取っているとするのが正確だ。
もちろんその不快感は自由に表明されてよい。しかしその不快感は、その表現物に差別が内包されていることを意味するものではない。
https://anond.hatelabo.jp/20201107053636
さべつ
discrimination
特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為をさす。その差別的行為の対象となる基準は自然的カテゴリー (身体的特徴) の場合もあれば,社会的カテゴリー (所属集団) の場合もあるが,いずれにせよ恣意的な分割によって行われる。現代フランスの社会学者 R.ジラールはスケープゴート (贖罪の山羊) 化の理論によって差別現象のメカニズムを解明した。それによると社会の危機状況にみられる相互暴力のカオスを回避するために,無際限な暴力の拡散を恣意的に選択された特定の個人あるいは集団に集中させる犠牲の論理 (第三項排除) が差別現象の根底にあるとされる。たとえばドイツの社会不安に乗じてナチス政権が利用した反ユダヤ主義,関東大震災直後の朝鮮人虐殺などがスケープゴート化の現象として考えられる。こうした原初の排除効果が制度化されたものとしてアパルトヘイトなどにみられた居住地域や交通機関における差別的待遇がある。現在,アメリカの公民権運動の成果から人権の観点に基づく差別撤廃の動きが世界的な規模で展開されつつある。
難しいなぁ。
ヤクザ、不良、愚連隊、チーマー、といった流れの中で入れ墨はそれなりの意味を持ってたわけで、それを無しにするのはできないわけで。
自分は下町の銭湯でよくヤクザの入れ墨を見てたから、ある意味脅威を感じるし、同時に見慣れてないわけではないので、そこまで拒否感はないけどね。
でも、一昔前のゲーセンでの注意人物に入れ墨の人がいたのは事実で実際被害にあった人もいるだろう。そういう人に偏見持つなとは、ちょっと言えない。
直接的な被害でなくとも、知り合いや友人が遭っていたり、ちょっとした場所で避けたりしなくてはならなかったりといった経験をした人はそれなりにいるだろう。
今の子には関係ないと言っても、そのシンボル的な意味(格好良さのうちのほんの少しの部分)はそういった流れの中にあるのもまた事実なんだよなぁ。
そんなのばかりじゃないと言われたら、そういうのと、そうじゃないのとの差を、見たことのない人がわかるのか、という問題にもなっていく。
なので、現在は過渡期としか言いようが無く、差別的行為は拙いけど、偏見はだんだんと無くなっていく方向に向けていったらいいかなぁと思ってる。
多分、4,50年はかかるんじゃないかなぁ。
たとえば、マナーの悪い撮り鉄を批判したところで、「オタク差別だ!」などと言い出す人はいない。
むしろ、オタクあるいは鉄道オタク、撮り鉄こそマナーの悪い撮り鉄を強く批判する傾向さえある。
もちろん撮り鉄のマナー違反は即刑法犯などになることも多いが、他にも違法サイトで漫画を閲覧したり、コミケ等で徹夜するなどは違法ではない。
にも関わらず、「違法サイトで漫画を閲覧する権利を守れ!」とか「コミケ徹夜組の権利を断固擁護する」などとは聞かない。むしろオタクの方がより強く批判することだろう。これらの事例では、問題があるオタクとそでないオタクがちゃんと切り分けできてる。
なのに、なんで差別的発言、性犯罪被害者を責めるセカンドレイプ、実際に起きた事件をネタにするなどという社会とコンフリクトする言説(以下差別発言等)はそうではないの?
むしろ、いいオタクと悪いオタクなど切り分けさせない!差別発言を批判するのはオタク全体への批判だ!オタク差別だ!
たとえばJリーグはサポーターや選手が差別的行為をしたら本人やチームへペナルティを課すよね。当然、そういう処罰を課すJリーグ自体は差別的だと批判はされないよね。それはちゃんと切り分けができてるから。
なのに、なんでわざわざ差別発言等をする人間をオタクから切り分けるどころか積極的に抱えこむんだろ?
もちろん、オタクはJリーグなどのように組織ではないけど、なぜ真正面から差別発言等を批判できないの?
もちろんオタクなら当然にすべてのオタクの差別発言等へ言及し批判すべきだ、とは言わないけど、切り分け出来ない人の声が大きすぎない?
まあ、差別発言等する人間が過半数とはいわずともオタクのかなりのボリュームゾーンを担ってるからなんだろうけど、そうやって切り分けできないなら、オタク全体が差別発言等に消極的にでも賛成しとると看做されてもしかたないよ?
追記
>結局おめえがオタクを切り分けせずに非難してるんじゃねえか。
何を言ってるの?差別発言等する者を切り分ける所か積極的に抱えるべきと主張するオタクを俺は批判してるし、マナーの悪い撮り鉄やコミケの徹夜組でそうしてる様に、悪いオタクを切り分けて批判しよう、と言うのが私の言いたいことだよ。