はてなキーワード: ユートピアとは
https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20060321/p1
「物語開始時点から主人公がユートピアに属している映画」の話しかしてないじゃん。
やはり障害や葛藤を乗り越えていくのがストーリーの基本みたいなところはあるし
ユートピアは退屈だ!俺は冒険に出る!→冒険に出たものの結局至れり尽くせり みたいな漫画描こうかな でもそれはそれでディストピアっぽい みんな脳溶けてそう
西遊記では旅の果てに極楽浄土に辿り着くし、ネバーランドは卒業しなきゃならないとしてもユートピアに違いないし、エデンにしろ桃源郷にしろアヴァロンにしろ、おとぎ話のユートピアはちゃんとユートピアだけどな。
じゃないでしょ
ユートピア云々関係なく、自分と取り巻きだけがいい思いできればそれで構わねえというのが異世界(に限らないだろうけど)なわけだから
男向けも女向けも同様
誰が言ったか忘れたけど昔聞いた「ユートピアものなんてない」って話が興味深かったな。
物語で描かれるユートピアは必ず「実はディストピアでした」って展開になる。つまり、ユートピアを描き切った作品はないので、ユートピアものは存在しないことになる。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2
ディストピアとは、「ユートピア(理想郷)」とは逆の社会である。
よくSFなどで題材とされ、「表面的には秩序だって管理の行き届いた世界に見えるが、その内実は極端なまでの管理社会であり言論の自由などがない」社会として描かれることが多い。ジョージ・オーウェルの小説「1984年」などがとくに有名かと思われる。
また、自由な上層階級社会の下に人間扱いされない下層階級が描かれることも多く、ディストピア小説のはしりとされるH・G・ウェルズの「タイムマシン」においては、抑圧された労働者階級が地下に潜り無知な天使と化した旧上層階級を捕食する様子が描かれる。
尚、人類が伝染病や核戦争で滅亡していなくなってしまった世界をディストピアと呼ぶことがよくあるが、これらの世界観はポストアポカリプス「終末の後」と呼ばれる全くの別物であり、誤用である。
どうしようもないね。
彼の作品や行動からは"人の望んだものを提出する能力"が高いということが見て取れる
「たつきを信じろ」と言われたとおりに期待は裏切らない、助かって欲しいと思えばそのキャラは助かるし、続きがほしいと願えば供給される
たつき監督の作品("けものフレンズ1期"と"ケムリクサ")に出てくる"仲間"キャラクターは
・お互いに望んだ通りの行動をして、
・それでいて責任感を全く感じさせない
そして作品に出てくる"敵"は
・個人の悩みや状況的な困難
・"思想の違う他人"と理不尽な戦闘になることがない(争いはあっても話し合いなどで解決できる)
これらを徹底することによってたつき監督は作品内からストレスとなる人同士の戦いを出来る限り排除している
彼の作った世界には安心が満ちている、そしてファンとして彼の国にいるうちは幸福を感じられる
もちろんここまではなんの問題もない、彼はただひたすらファンの期待に答えているだけなのだから
しかし彼の国は、国民(ファン)にとっては紛れもなくユートピアだが、そこに入らない(入れない)者にとってはディストピアとして映る
"幸福の国民は幸福をもたらす神に仇なす者を許さない"、あまりに幸福であるがゆえに、幸福を守るためにはどこまでも凶暴になれる
同調しないものは異端者として否定されるし、不快な存在はフレンズではないと排除される
たつき監督が降板したあと、続編として制作された"けものフレンズ2"
この作品内には、1期ではありえなかった"友達にならないという展開"(つまりキャラクター同士の不協和)が存在するとして話題になっている
1期と2期は別の作品であり、1期になかったものが2に存在しても何もおかしくはない。どういう展開だろうとそれは演出だと言えるのだが
1期のファンは、これを1期に対する挑発や破壊行為として認識している、つまり宣戦布告だと言っているのである
今ネット上で行われているけものフレンズ2の監督やスタッフ、肯定的な視聴者に対する罵詈雑言を見た人もいるだろう
人との争いが存在しない幸福の国の国民にとって、国外の外敵は"人ではない怪物"なのである
一言たつき監督が「2期に迷惑をかけるのはやめてください」といえば騒動は収まるだろうし
アメリカじゃファッションなのにってよく聞くけどファッションだから良いとか悪いじゃない
眉間に皺寄せる人も口に出さないけど態度変わる人も全否定してる人もいるし
ファッションってたぶん日本のピアスぐらいの感じで言ってると思うけどタトゥーはタトゥーだし
デザイン・サイズ・場所でインプラントや日本での和彫りと同じぐらい差別的な偏見もある
若い子がやりたいって言ったらステレオタイプで親はたしなめるものだし出来ないし
アーティストや有名人で無いとか見た人がそれを知らないとそういう目で見られることも少なくない
日本で聞くようなアメリカでもレベル低い人がする認識だっていうのはさすがに違うけど
レベルではないけど職業で許される範囲に偏りはあってそれがいいイメージ悪いイメージ両方の職業にあるから
タトゥーする事がレベル低いとかじゃないけどどっちにしても堅実なイメージはあまり持たれないのはそうだと思う
あくまで初対面でだけど
何かメンタリティ強く見せなきゃいけない見せたい人って偏見はみんな自覚無くあると思うし
日本でも映画やドラマ見てればどういう偏見かなんとなく分かると思うけど
タトゥーの人間はそういう風に描かれる事少なくないしアナーキーに見せるためにメイクで足したり
元々ファッション自体でどんな人間か判断される部分もあって日本よりファッションの意味が強くて厳格だから
TPOや職でトゥーマッチだって場の空気読めない人間扱いもあるし
ファッション自体を理由に評価は下げられないけど言い方変わるだけだから
もっと相応しい別のキャリアがあるっていうのは日本のご縁が無かったに通じる
ファッションだから評価に晒されるし直接は言わないけどいない所やSNSじゃ物凄く言われてたりする
基本は主張の社会だしファッションだけどベーシックではないから意味や理由があると考える
日本でもポイントのタトゥーと背中の和彫りで印象が違うのと同じでデザインやサイズは大きいし
日本ではただのライトなデザインでもアメリカではそうじゃないと思われる
でもタトゥーは文化を担う一つでファッションだけじゃなくいいなって所も本当にたくさんあって
偏見もあるけど寛容さも同じくらいあるしそこが日本には足りなくてアメリカと比べて理解ないのもそうなんだけど
私はファッションの持つ開放感では全然日本だから(自由度じゃない)
ファッションて言葉の意味をそんな日本での自由やポジティブな意味であまりにも取り過ぎ
それが凄くもやもやする
夢いっぱいで日本の外はユートピアぐらいで言われると私も日本よくなってけばいいねってつい言ってしまうけど
その後若干の自己嫌悪になる
嘘も悪い事も言ってる訳じゃないしアメリカがそうじゃないって事でもないけど
立場のある(特に日本に来てるような)ショーやメディアが社会でお手本でいる役目から配慮も凄い強いし
求められてる所もあるし
言ってしまえば上澄みだけを日本で見ているなら素晴らしいって思うだろうし
メディア含めて低い所の話通じないヤバさも日本は比較にならないし
上の人たちの意識や意欲の高さはその切実さから生まれてる所もあるから
簡単に向こうが上とか言うの失礼でしょって思う
タトゥーが手放しで肯定されてる社会みたいな誤解もスターがガンガンに入れてるのを見てスターだからいれてるのをスターなのにいれてるって見てるからで
イメージによってはデザインや入れ初めにファンがショック受けるのもあるけど
そういうスターたちが番組で同じようにガンガンの一般人に「あなたのタトゥーステキね」って声かける姿も珍しくなくて
偏見持たれるファッションや髪でもそうだけどスターの役目での視聴者へのメッセージの意味もあって
「それは差別になる/あり得ない」って聞くと思うけど
それも言ってる感覚としてはお手本になる人をモデルとした良い人間に許される範囲での事で
そこに含まれない現実の問題は表してないし自分の言葉や行動が差別だってわかってて開き直って相手を差別されるべきようにする人間もそこにはいるから
分からないとそのままに平均的な感覚に受け取ってしまうだろうし
何が差別・偏見になるのかの正しさ以上に自分の中の理想的な社会をそこに見てしまうのかな
それは原宿の文化生見て日本をファッションの自由の国って思う子と同じで
完全に間違ってるわけじゃないって意味でも
日本に来るそういう子たちのタトゥーやファッションが旅行者だから許容されるのも同じで向こうもそうだから
長く住んでも文化が違う国出身の相手だとそれあるし保守的な人も別の国の話ならどこか関係ないと思っていつもよりスルーする
自分の周りに影響するとそうじゃないけど
それは本当の意味で受け入れてるわけじゃなくて
もしかしたら何の偏見にもあわず思い通りの生活を送れるかもしれないし
それでいいのかもしれないし
書いたような事言うのは簡単だけど別に自由じゃないよ日本と同じだよって言いたいわけじゃないし
そう見えると思うけど
むしろ比べられないのにって
比べたけど
もし日本より酷い偏見や差別の問題があってもそれが自由がない事じゃなくて
だけど日本で見てるアメリカの問題の山とアメリカでの山は同じに見えて違う
日本から見てアメリカも自由ないんだって思ってもアメリカの自由だったりするし
それは逆もだし
話聞いたり見たりしてもし思ってたのと違ってもそれは元々想像してた単位が違うからで
そこで定規で測ってみて数が小さく出てもそれが重さでの数の大きさを否定するものじゃない
わけわかんないかな
説明難しい
アメリカの赤を日本の赤だと思って見ると赤じゃないって思うかもしれない
だけどそれは赤なんだよって
日本とアメリカそれぞれの土地で赤のキレイさもキレイって言葉のイメージもそれぞれ違って
アメリカの赤のキレイさを日本の赤のキレイさと思ってる人には色の違いを説明したいし
それを知らないままアメリカは赤キレイなんだよねって言ってたらアメリカの赤がどんな赤か知ってから言って欲しい
書いた話はそういう意味
それでその人がキレイじゃないと思ってる日本の赤に似てる所があってアメリカはキレイな赤じゃないって思われるのは嫌だけど
アメリカの赤を勘違いされたままアメリカの赤はキレイって言ってる気持ち悪さも嫌で
そういうのを言いたいけどうまく言えなくて
長く書いてもこんなだし
日本もキレイな赤になればいいねって言って流す自分に落ち込む感じ
読み返しても伝わらなさそうだな
伝えられるなら愚痴でこんなの書いてないんだけど
嫌になる