あっ(察し)
そうでもなければそうそう言わないって話
なんかこの話を出してきたってことは普通に見たことあるのかもしれないけど、映画「コンタクト」はそういうのテーマにしている映画だったな
客観証拠を重視してる科学者が宇宙人と遭遇するんだけど客観的な証拠は何もなくて、ただただ見たんだみたいなことを主張するんだけど周りに受け入れてもらえないお話
無意味すぎる。
まず今どき人間を同じ場所に一度に集めようって発想がおかしい。
1VS1のオンラインであっても、結局は人間がお互いに拘束し合う状態が産まれている。
そもそもそMTGに挑む姿勢自体が統一できておらず、時には本気でビジネスをしに来ている人間と完全にカジュアルなノリの人間が同じ空間を共有してしまうことさえある。
あと日本におけるMTGにはどこか「欧風で格好いいモノ」みたいなイメージがあるのか、唐突に英語の呪文を唱え始めるような人達があとを立たなかった。
今でこそそういう文化はレガシーな場に特有のものになってきたが、それでもなお日本人なら日本語でやればいいものをわざわざ英語を絡めて俺は国際社会に対応しているんだというアピールをする連中が後を立たない。
これはもうハッキリ言ってしまうが、MTGは時間の無駄だと思う。
お互いが取るべき最適解は環境によって既に決まっているのに、そこに個人的な拘りを持ち込んだ上でそれを自由にさせない相手に苛ついている人間ばかりじゃない。
自分の手札を切る最適なタイミングをこそこそ伺いあってこそいるが、上手な人の動きを自分なりの拘りという名前で誤魔化した妥協でグレードダウンしたものをぶつけあっているだけのお遊戯会だ。
何より馬鹿馬鹿しいのが結局最後は金をたくさん持っている側が一方的に押し潰す所だ。
そんなことならわざわざMTGなんてやらずに、お互いの預金残高を見せあった方が手っ取り早いんじゃないのか?
まあ学生サークルが遊び半分にやるなら駆け引きの練習に良いかもねと見守ってもいいが、いい大人がこんなものを職場でやりだしたらちょっと引いてしまうなあ。
もしかしてそうなのかなって
回転寿司まとめマシーン増田です。「お前まだ寿司食ってんのか」って声が聞こえてきますね。
皆さんのコメントを元にわりとガチでリスト更新したんで私の睡眠時間の供養にご覧ください。
(2023/3/10更新)みんなの考える全国の「中堅以上の回転寿司」
コメントで人気だった回転寿司店に早速行ってみた。ネタは美味しかったが特急レーンの店だったので味気なかった。私はやっぱり板前さんがせかせか動いてちょっとがやがやしてる回転寿司が好きなんだなあと。
今後も絶滅しないでほしいなあ。
両親と暮らしている。
昔は賢い人たちだと思っていたのに、最近はめっきり老け込んだのか、あるいはこちらの幻想が薄れただけか、その至らない部分ばかり目につくようになった。
学のある人たちなのに、科学的、合理的でない習慣に固執して、「これは気持ちの問題だから」というようなことばかり言っている。
その「気持ち」を押さえつけて、私の幼少期を理屈でガチガチに締め付けたのは誰だと言いたい。
まあ、それは今回の主題ではない。
そういう両親との暮らしがイヤになって来ると、顔を合わせるだけで、何もしてなくても文句をいろいろ言いたくなってくる。
それどころか、最近は家に近づいただけで、両親の顔を思い出して、忘れていた小言をああだこうだと「どういえば通じるのか」思案を巡らすようになった。
どうせ通じないのだから諦めようという理性はある。しかし、忘れようとするほどにむしろ頭がそのことでいっぱいになってくる。
まあ、これもまた本題ではない。
どうしてこんなに頭が切り替えられないのだろうと考えていて、ふと思ったことがある。
それが見出しの「言葉は聞き手によって『生み出される』」という発想だ。
何かを書こうとしたときに、聞き手を想定しないと言葉が出てこないというのはよく言う話だ。
しかしそれだけでなく、聞き手を想定しないと、そもそも普段から「考える」ということ自体が出来ないのだなと気づいた。
面白い話が出来るともだちがいないと、面白いことに気づかなくなる。
カタい話が出来る相手がいないと、難しい問題に考えを巡らすこともなくなる。
理解の悪い相手とばかり付き合っていると、始終文句に頭が占領される。──
視点のユニークな知り合いがいると、「こんなときあいつならどう考えるかな」という発想が生まれる。
変わった趣味のある人と付き合っていると、「これあの人が喜びそう」と日常の些細なことに気づく目ができる。
人間の頭は、「誰かに話す」という可能性のないことは、そもそも考えられないようになっているんじゃないか?
※ ※ ※
よく、寂しい子供が『イマジナリーフレンド』をつくるという。これも要するに同じ理由からくるものなのではないか。
ポジティブなことを考え心を豊かにするためには、それを話すに値する相手を持っている必要がある。
少なくとも、それを想定するということが、普段から「考えたいこと」をコントロールする最善の手であるという気がする。
自分のような「書くことで自分を保てる」人間がそうであるのは、書き物の読者という「聞き手」をイメージすることがそこに繋がるからではないか。
これからは、頭を切り替えたいときのために、何か『イマジナリー・オーディエンス』とでも呼べるようなものを意識的に想像していきたいと思った。
論旨
無断で数千人の声優を学習したというのは、恐らくMoeGoeのことを指していると思われますが、アクセントも不安定で「演技泥棒」には程遠いです。
最新のモデルをもってしてもアニメの演技のような抑揚の大きい音声を学習させることは難しいことであって、実用レベルに押し上げるようなブレイクスルーもまだ起きていないのが現状です。
音声合成の学習には、データセットとして音声とそれに対応する文章を合わせた音声コーパスと呼ばれるものを用います。
演技というものは台本でいうところのト書きであって、文章に直接的に含まれている情報ではないことからも、文章から生成する音声に演技を付与させることの難しさが理解できると思います。
文章と音声があれば、即座にデータセットとして使えるかと言えばそうではありません。
文章で想定している(文章を構文解析することによって得られる)読み方と、音声における実際の発音が異なる場合があります。
音声合成は結局のところ文章の音素と音声を対応付けているだけなので、音声コーパスの文章と実際の音声に乖離がある場合には学習の精度が下がる恐れがあります。
加えて、現在の音声合成ではアクセントなどの情報を用いることが多いですが、アクセント辞書から得られた情報と実際のアクセントが異なる場合も演技音声では散見されるでしょう。
上に述べた抑揚の問題や、音声にBGMなどのノイズが混ざっている場合など、音声自体がデータに適さない場合もあるため、それらの選別も必要です。
音声合成用に収録された音声コーパスであれば、読み方やアクセント、ノイズ等に細心の注意を払って録音されていますが、一般の音声は必ずしもそうではないのです。
このような読み方やアクセント等の修正は、残念ながら人力に頼らざるを得ません。そもそも台本がない場合は一から書き起こす必要があります。
AIイラストの成功には、イラストへの人力でのタグ付けが寄与していることはよく知られていますが、果たしてAI音声という分野において人力による音声コーパスの整備が進むでしょうか?
AI音声合成ソフトの代表例とも言えるVOICEVOXはいまや多くの人気を集めており、多くのキャラクターが参加しています。
また、COEIROINKのように音声コーパスを用意することで自らの声を学習させた機械学習モデルを共有できるような音声合成ソフトも登場しています。
AIイラスト界隈における絵師との軋轢が援用されていますが、音声合成の分野においては多くの場合、データの提供者たる声優と相互理解のある関係を保ちつつ発展してきたことを強調しておきます。
もともとナレーションの分野においては、既に十分な品質の音声合成ソフトが存在します。
AIイラストと異なり、倫理的問題のある音声合成に手を出す動機付けが乏しいことが現時点において関心が集まらない要因となっています。
そもそもASMRには、バイノーラルという特色があるわけで、AIが生成したモノラル音声がAIイラストほどの脚光を浴びるとは考えづらいです。