両親と暮らしている。
昔は賢い人たちだと思っていたのに、最近はめっきり老け込んだのか、あるいはこちらの幻想が薄れただけか、その至らない部分ばかり目につくようになった。
学のある人たちなのに、科学的、合理的でない習慣に固執して、「これは気持ちの問題だから」というようなことばかり言っている。
その「気持ち」を押さえつけて、私の幼少期を理屈でガチガチに締め付けたのは誰だと言いたい。
まあ、それは今回の主題ではない。
そういう両親との暮らしがイヤになって来ると、顔を合わせるだけで、何もしてなくても文句をいろいろ言いたくなってくる。
それどころか、最近は家に近づいただけで、両親の顔を思い出して、忘れていた小言をああだこうだと「どういえば通じるのか」思案を巡らすようになった。
どうせ通じないのだから諦めようという理性はある。しかし、忘れようとするほどにむしろ頭がそのことでいっぱいになってくる。
まあ、これもまた本題ではない。
どうしてこんなに頭が切り替えられないのだろうと考えていて、ふと思ったことがある。
それが見出しの「言葉は聞き手によって『生み出される』」という発想だ。
何かを書こうとしたときに、聞き手を想定しないと言葉が出てこないというのはよく言う話だ。
しかしそれだけでなく、聞き手を想定しないと、そもそも普段から「考える」ということ自体が出来ないのだなと気づいた。
面白い話が出来るともだちがいないと、面白いことに気づかなくなる。
カタい話が出来る相手がいないと、難しい問題に考えを巡らすこともなくなる。
理解の悪い相手とばかり付き合っていると、始終文句に頭が占領される。──
視点のユニークな知り合いがいると、「こんなときあいつならどう考えるかな」という発想が生まれる。
変わった趣味のある人と付き合っていると、「これあの人が喜びそう」と日常の些細なことに気づく目ができる。
人間の頭は、「誰かに話す」という可能性のないことは、そもそも考えられないようになっているんじゃないか?
※ ※ ※
よく、寂しい子供が『イマジナリーフレンド』をつくるという。これも要するに同じ理由からくるものなのではないか。
ポジティブなことを考え心を豊かにするためには、それを話すに値する相手を持っている必要がある。
少なくとも、それを想定するということが、普段から「考えたいこと」をコントロールする最善の手であるという気がする。
自分のような「書くことで自分を保てる」人間がそうであるのは、書き物の読者という「聞き手」をイメージすることがそこに繋がるからではないか。
これからは、頭を切り替えたいときのために、何か『イマジナリー・オーディエンス』とでも呼べるようなものを意識的に想像していきたいと思った。