講師の給料が安くて変な人が来るということなのだろうが、日本ではなぜクソ研修が止まらないのだろう。恐らくプログラミング研修でパソコンが使える段階で相対比較に落とせばかなりまともなカリキュラムなのだろうと思う。
クソ研修によって社員の技能を落とせば、理想的には市場原理によって会社は圧力を受け、最終的には排除されるはずだ。社員の技能を落とす研修に意味があるのでなければ市場が失敗していて社会が機能していないということなのだが、なぜ日本では市場原理が働かないのだろうか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASK5M3GYLK5MUTFK00J.html
みんなそんなに興味ないんやね~。
某有名アーティストのコンサートに行くことになったので他アーティストのも含めて本人確認の事を調べてたら
・半分は身体障害者手帳のみ有効(問い合わせたらこの場合他の手帳は使えないとのこと)
・残り半分は障害者手帳のみ、あるいは身体、療育、精神いずれも有効
という具合だった
本音としては精神障害者は入れたくないと言うのが見え隠れしてるけど、同等に厄介なコアなファン(婉曲な表現)を対処しなきゃいけないんだろうから、相手にしてられないんだろうしこれ以上厄介者を入れたくないんだなと
あなたが理系なら、バートランド・ラッセルの「幸福論」を一度読んでみることを勧める
ただの例え話を「同列にィー」とか揚げ足とられてもなあ。じゃあ食事制限と断食に言い換えてもいいわ。それなら「食わないこと」だから対比としては一致度高いよね? どうですかね?
俺が言ってるのは、せっかく紙巻タバコから電子タバコに替えようと思い立った人つかまえて「わけがわからない」なんて一蹴するんじゃなくて、プラスの側面も見たらどうですか、禁煙には及ばないもののいいことには違いないですよ、って言ってるの。
スパッとやめる踏ん切りがつかない人には電子タバコいいと思うよ。もとの紙巻きタバコがくそまずくなるから、ニコチン依存を断つには至らずともタールを摂取しなくなる。
「とろける鉄工所」だな。
「銀座からまる百貨店お客様相談室」(苦情処理部門)とか、「健康で文化的な最低限度の生活」(福祉事務所)とか……はちょい違うか?
数値化する意義を全くわかってない会社だな。
数値化する目的は、数値化することで目標のゴールを明確にするため。PDCAのPの部分がグラグラだから、Cの部分が上手く機能しない結果、社員を減点するだけのクソシステムに成り下がる。
俺も妻と一緒に住みたい
ふと思い立ったので書いてみる。二年前、新卒として某企業の技術研修を受けた。Javaを用いて、自分たちで一つのプロダクトを作るという研修である。技術を推している会社なので研修内容にはかなり期待していた。Spring等のフレームワークの話、JavaとフロントエンドのAngularやReactをどう連携させるか、もしかして自作のフレームワークを作る研修も受けられるかも、などなどの話を入社前にはしていた。実際そうではなかったわけだが。
詳らかに書くことは出来ないが、当時最も憤ったのは研修の成績をどうやって決めるかに関する講師の考え方。中間発表で企画発表を行い、最終発表でプロダクトとしてのレビューを受けて、プレゼン大会を行って成績が決まった。自分はどちらも中くらいの成績だったらしい。
ここで驚いたのが、コード量が成績評価に結び付くということだ。コード量の最適化という意味ではない。フレームワークなどを使ってコード量を減らしてはいけない、フルスクラッチでプロダクトを作れということだった。意味が分からなかった。
評価するためには十分量のコードが必要ということは理解していた。過去の研修で何人かがフレームワークを用いて適当に作ったプロダクトで済ませようとしたエピソードなどを聞かされた。それはわかる。わかるが、そうした怠慢に基づくモチベーションではなくよりよいプロダクトを作るために先人の肩に乗るのは許されるべきではないのか?
Javaによるプロダクトを理解するため、フレームワークを使うとフレームワークが廃れたときに何にもできなくなる、という言葉を何度も聞かされたが、Javaのプロダクトを理解するのならそれこそフルスクラッチを要求するのではなく歴史があるSpringで十分だし、フレームワークを使ったからといって魔法のように自分の望むプロダクトが出来上がるわけもなく、自分で考える部分が大部分を占めることは自明ではないか。むしろ、その考える時間という本質的な部分を確保するためにフレームワークなどの技術を用いるべきではないのか。
Reactを学びたいモチベーションがあり、Java側でなければ、というかReactはフレームワークじゃないし大丈夫だろうと思って実装を進めていた時に講師の方から「フレームワークは認められない」と言われ、食い下がったもののまるで話が通じなかった。結局自分はそこから大きく計画を修正し、適当なプロダクトを作った。モチベーションは地の底に落ちた。そもそもプログラム研修なのに渡されたPCがWindowsで、エクセル地獄だった時点でモチベーションはまるで高くなかったがReactをやるというのがモチベーションになっていた。それも無駄だった。
今年の新人も同様のカリキュラムだという。しかもまだWindows。フレームワークは一切使えない。エクセルでワイヤーフレームを書けという。SIじゃないから大丈夫だろうと思っていたのに、という新人はたくさんいるだろう。配属後もコードを書く時間はどんどん減っていく。自分自身で勉強し、論文や技術書を読み、週末に自分でプロダクトを作る習慣をつけておかないといけない。自衛しないといけない。
そんな不幸な人たちがいればいいのにと思った。
追記で長くなっているから読みにくいのだが、なんとか増田が食べられる温度まで嫁の負担なく下げようという試みは何段階にも行われていて、どれも試したが嫁が不機嫌になって続けられなかったという結論で終わっている。ブコメでもトラバでも出た方法は粗方それぞれ実行済みだと書かれている。
どの方法が楽とか難しいとかではなくて、増田の嫁は増田が冷たい飯を望んで食べることが許せないという域に入っている。いかに嫁に関係ない方法を選ぼうが、最終的に増田が冷え切った飯を口に入れようとすると嫁が止めに入る。非常にくだらないのだが、例えて言えば夫がソースをかけた目玉焼きを作れないように卵を買ってきてすぐ割って醤油を混ぜているというくらいに、決定的に増田と嫁は意見の相違を起こしている。増田は離婚の理由としてそれが余りに勿体ないと思っているんだろう。しかし意見の相違であって作業分担の問題ではないので、作業方法の提案は意味をなさない。
他の人を見て探して見つけようとする、同じ風にすれば同じような状態になれるんじゃないかと、つまり"幸せ"に生きていけるのではないかと
幸せの感じ方は人それぞれで、その人にしか分からない、その人だけのやり方で達成されるもの
他人の芝が青い、でも実感はできない、青いと言われてるから青く見えるのだ。
経験がない人間はどのように一生を終えていくのだろうか、最後まで青く見えた芝を置い続けるのだろうか
それともどこかで自分だけのやり方を見つけるのだろうか
過去にとらわれていては前に進めないが、前に何も見えないなら、辿ってきた道を見ようとするのは当然のことだろう
そして何度も気付かされるのだ、自分にはない、他の人にはある、それがなかった
なにもない、それがあえて決定打になるような、逆に全てをひっくり返すような抜け道がきっとあるんだ、ゲームならそうじゃないか
そんな後ろ向きな前向きな道を信じてやってみた、うまくいった、自分をそう思い込ませていた、自分を騙し続けた
でも今は自分を騙し続けられない。この世界がどのようにして動いているのか分かるにつれて、自身を思い込ませられるほど自信がなくなったようだ
自分を騙そうとする一方で、最初からあからさまな嘘をついていると気付いてしまっている、ゲームはゲームで、現実は現実の中にしか存在しないということ
ピースボートの護衛をどうやって依頼したと?
こんな夜におまえに乗れないなんて