博士号は、研究職としての『最初の一歩』であってそれ以上でもそれ以下でもない。
論文か死かというように博士号の有無は研究には依存しない。関係するのは医学博士など免許を有するものだけど理学系の博士には免許はつかない。
博士号が偉大なものであるという方が幻想。どのような論文を書いたか?が重要であって博士かどうかは趨勢に影響しない。
それを考えて 全体を考え 世の中全体がコピペ博士が多くそれが許されてきたという現状を鑑みると
博士の信用性がないという事実を粛々と受け入れるべきであって、小保方をトカゲのしっぽきりをしてすむ事態ではもはやないから取り消さなくて良い。
最初に言っておきますが、当然ながらSTAP細胞の存在には極めて否定的で、関係者を擁護する気持ちはありません。
いまさらですが、早稲田の学位論文問題について思うところがあったので書きます。
私が書く内容は部分的には全て他者の意見としてさんざん既出ですが、全体を通して私と同様の意見を見たことがありません。
結論からいうと、私が望む結論は、
1. 小保方の学位は取り消す
2. 博士課程に復学させたうえで再度の学位審査とそれにかかる指導を無料で行う(姿勢を示す)
3. それでも下書きだと見え透いたウソをつくのなら退学にする
(4. たぶん結果的に小保方だけ学位剥奪、他のコピペ博士は再審査で生き延びる)
当該学位論文が博士の学位に値しないことは明白です。したがって学位は剥奪すべきです。
学位は資格に準ずるものですから、過失の有無を問わず温情措置はあり得ません。
しかしながら、博士号取得時点でまともな英語論文を自力で執筆できる大学院生が、特に理系の実験系で、現実問題としてどのぐらいいるでしょうか。
私の大学は「出版された査読付英語原著論文に日本語要約を添えたもの」を学位論文と認める規定でしたので、学位論文自体には苦労しませんでした。
一方でその根拠となる査読付英語原著論文については、指導教官によって徹底的に修正されました。面積比で赤:黒=8:2ぐらいでしょうか(笑)。
それでも兄弟弟子よりは大まかな文章構造がはるかに残っていて、褒められたぐらいです。
私の大学は超一流大ではありませんが底辺でもないので、感覚としては博士号取得前後の一般的な研究者はせいぜいマテメソとFigure legendを自分で書けるぐらいでいーとこじゃないでしょうか。
したがってこの問題の本質は、大学側によるネグレクトであって、書いた小保方よりも、あの論文を通した教授会と、あの論文を提出させた指導教官の責任が重いと考えます。
もちろん、いくら下書きとはいえ序章をまるまるコピペするとか、試薬会社のカタログからとった図を流用するなんてもってのほかです。
ですが普通は指導教官が気付いて一喝すればいい話です。「おまえふざけんなよ。」で済むところでしょう。
だから単純に学位を剥奪して、「学位が欲しいなら入学し直してもう3年下積みしろ」というのは理不尽に感じます。授業料の対価としての指導を怠ったのは学位の発行側なわけですから。
学位の取り消し、留年扱いで復学、その間の授業料無料、というのが落としどころだと思います。
しかしながらその上で、製本された論文が下書きであるとか、タイムスタンプが直前のファイルを完成版と言い張り、しかもそれも不十分とか、その辺もろもろによって、「品行が悪いことを理由にして退学」にすればよいでしょう。
そうすれば早稲田ひいては日本の博士号の価値はほどほどに守られ、すでに研究職についている他のコピペ博士の立場も保全されます。
いかがでしょうか。
元増田じゃないので横からになってしまって申し訳ないんだが……
ブコメにあるとおり、確かに「固定観念」の側面もあると思うんだけれども、「固定観念」というと「揺るがすことが可能」みたいなニュアンスない??
今回、元増田が腹立ったって書いてるような人たちって、固定観念捨てないタイプっていう気がする。
こういうタイプの人の「常識」(思考の枠組み)を、強い力(こちらからの表現とか言葉とか行動とかの働きかけ)で揺るがしてしまうと、逆上(理屈抜きで逆恨み)されるんじゃないかな??
筋金入りの鉄マンコだな
凄く胡散臭いですけど、日本政府にそれだけの力があるとは思いませんでした。
そもそもNyaaは海外本部だったように記憶してましたが、海外に対しても強く言えるのは素晴らしい事ではないでしょうか。
もしも本当ならば、ですが。
教科書がいいとは思わないけど、
明文化されているわけでも責任者がいるわけでも署名しているわけでもない。
豚肉ひとつとっても、関東では肉だが関西ではブタ 宗教が違えば食べることすら出来ない。
人を殺してはいけないという常識ですら、戦争という例外がある。
常識というのは、あくまでもその人が所属するコミュニティーの標準であって
つまり、異なるコミュニティー同士の間では常識は通じないというのが常識。
言葉の問題なんだけど、違法もしくは不当に利益を上げたことは成功体験と呼ばないのでは?
厚生労働省ではないけど、用語定義として『違法もしくは不当に利益を上げた』場合は違法体験・不当体験と表記するように指導すべきでは?
不当に利益を儲けた体験があって、なかなか順法精神が身につかなかったと表現するべきであって
過去の成功体験が抜けなかったと表現するのはちょっとむずかしい。
企業にもプライドはあるだろうからそこを指摘するのはどうかと思うけど、外部に向かって『成功』の文字を使うべきではない。違法・不当に儲けた利益は『成功』ではないとすべき。
世の中いろんな素晴らしいものがある。
いいな、すばらしいな、そして自分にもできたらいいなって思う。
でも次の瞬間、自分にはもうなれないってさみしい気持ちがわきてくる。
さっきまで素晴らしく見えてたものが、すぐに呪いような重さに代わってしまう。
30過ぎでこれだもんな。40、50、60で見える世界ってどんなだろう。
加害の程度がまっっったく異なるのに、「同じ」と言い切る神経凄い。
スクールカーストでよく言われるのは「運動ができるやつは上位にいける」という要素だ。
確かに運動ができるのは素敵だと思う。特技の一つとして伸ばせばいいと思う。
ただ、「勉強ができる」ことはけして評価を上げる軸にならない。そもそもテストの成績は隠されていて、頭がいいかイマイチなのかは授業中の発言からしか推測できない。
(そしてそれだけではわからないこともある。おとなしい子供では授業の場では表に出せないこともある。)
学校という世界において、なぜテスト成績だけは個人情報としてがっちり保護されるのか。
音楽も見ればわかる、
図画工作も見ればわかるし作品が展示されたりする。
この辺りが得意な人たちは、自分のプライドを保つことができる。
周りからも「あいつは○○が得意ですごいな」と認めてもらうことができる。
ただ、翻って勉強を頑張っている子はどうなのか。
テストの成績貼り出しなんて、このご時世とんと見なくなった。
予備校で見かける程度だ。
小学校中学年あたりからは努力の差が出てくるので、載せても構わないと思う。
運動もダメ、音楽のセンスもなし、手先も不器用。そんな子供はたいてい自尊心も低くなって、周りからは馬鹿にされて、割りとつまらない子供時代になる。
実際自分はそうだったのだけど、中学年あたりから通いだした塾で成績貼り出しをしてくれたことでかなり助かった。
同じ学校の子が通っていたこともあり「アイツ実は成績すごいんだよ」と言ってくれるようになり、周りから評価されるようになった。
あれがなきゃ、自分は周りから認められることがなくてかなりの確率で不登校になったと思う。本当に塾のおかげだ。
でも本当なら、塾じゃなくて学校でやってくれれば良かったんだ。
テスト成績が隠されるのならば、
運動能力や音楽センスや図画工作センスも能力を示すものとして隠すべきだろう。
体育や音楽や図画工作も、他人の目に触れないところでやればいい。
別にクラスメイトに点数が漏洩したって何も問題はないじゃないか。
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追記
何故か気がついたらとんでもないブコメ数が…。
確かに成績が良くてもスクールカーストはあがらないかもしれませんが、子供の心の支えになると思うんですよね。
第一運動や音楽やらができないと馬鹿にされるのに、テスト成績が悪い子供は保護されるのは納得がいかない。
他人の能力を馬鹿にして笑うのは知性の低い人間のやることなので、たいてい、運動や音楽が苦手な人を馬鹿にしている人は、成績もクソなことが多い。
そういう人を試験の成績で圧倒するとすごい救われるんですよ。