「農耕民族」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 農耕民族とは

2011-10-13

http://anond.hatelabo.jp/20111013091855

誰かの精神性を説明するとき一神教/多神教と結びつけられると一気に説得力が落ちる。

血液型性格判断脳科学狩猟民族/農耕民族の二分法、進化論倫理とか、そのレベルの与太だ。

2010-07-05

http://anond.hatelabo.jp/20100705203147

はてサ原子力発電も嫌いなのかw

あいつらの理想郷は「自分金持ち貴族だけど他はみんな牧歌的農耕民族」みたいな世界なのかなwww

2010-06-18

http://anond.hatelabo.jp/20100618185930

経済って要するに巨大なネズミ講なんだよ。

みんなが「将来のことは何とかなる!」と思って消費するとそれが売上・利益給料に跳ね返って将来が良くなって実際に何とかなる。

みんなが悲観的になって貯金に走り出すと売上・利益給料が悪くなって本当に将来がダメなっちゃうわけ。

みんながハッピーになるためには永遠に借金を繰り返さないといけない。

あるいは借金信用創造)無しでも達成できる昔の農耕民族みたいな生活レベルに戻るか。

2010-06-03

処女厨はホント気持ち悪い。

最近よく聞く「処女厨」なる存在について、ホントきもちわるいと思う。

いや、もちろん女性処女性を求める男性が悪いというわけではない。

そういう人がいてもいい。美人であるとか性格が合うとかと同じくらいの比重、もしくはそれ以上の比重として

処女である」ことを重視するのは個人の価値観であって、誰にも阻害される謂れのないものだ。

ただ、さ。

ネガティブマイノリティー特有のウザさというか。

要するに、「俺は処女しか受け付けない」を「処女以外は人間クズ」に変換してるのがすっげえキモい

メス犬だのビッチだのなんだのかんだの、ネットに飛び交うスラングの数々がガチできもい。

そういう言葉現実で発せず、ネットでわめきたてる方が世の中に数多存在するということが、

心底キモい

そもそも、処女信仰っつーのは単なる価値観の問題であって。

日本処女信仰が根付いたのは明治以後のキリスト教流入から。

別に日本人処女裁判証明したりとかそういう歴史を持ってない。そんなキモい民族とは違うのが

日本人の良いところだと俺は思ったりもするがまぁこれは別の話。

日本人は元来農耕民族+汎神論的な土壌に育って来てるので、処女信仰ってあんまりない筈なのである。

強いて言えば処女信仰が生まれたのは、明治辺りに輸入された「愛」とか「恋愛」の観念からであって、

もっと言えばアンドレ・ジット辺りの元祖白人処女厨辺りのブンガクが輸入されたのが基だ。

もちろんそれはキリスト教の輸入と同義である。その中に含まれていた「恋愛」の観念が、日本では極めてファッション的な

自由恋愛」という一大潮流を形作った。

要するに、「処女厨」と「自由恋愛」は同じところに端を発しているのである。

自由に恋愛をするからには、当然セックスもする。愛し愛されてセックスをする。

しかし、「自由恋愛」を輸入した頃の処女厨ガチである。

この当時、自由恋愛する処女厨というのは「見合いお断り」「家と家の結婚なんてクソファック」

社会からつまはじきにされても俺は愛を貫くぜ、というのが処女厨の本来の姿である。

処女厨とは本来隠遁する存在であり、社会に向かってギャーギャー喚くようなモンではなかったのである。

それは「自由恋愛」を手に入れるための戦いで、これがあまりにロマンティックであったため、

日本では「恋愛」っていう観念が唐突に生まれた。過去のブンガクを遡れば、

「一途な愛」なんてめったにないことがよくわかる。日本人は古来、やりまくりである。

しかし、処女厨のよーわからんところは

自由恋愛」を彼らはあんまり認めない。というよりは、彼らは「自由恋愛」にあんまり触れていない。

それどころか、「自由恋愛」に唾を吐く。恋愛する人間にギャーギャー言う。

しかし、処女であることを求めるということは、自分が突っ込むまっさらな穴を求めているということで、

非常に身勝手である。処女厨童貞であることを誇っているのを見たことがない。

古来、日本処女厨というのは童貞を誇ったものである。童貞処女ドッキングすることが

明治以降のブンガクの始まりであった。(ただし、田山花袋にあっさり覆されたが)

要するに何が言いたいか。

処女厨よ、童貞を誇れ。それでこそ君は正当なる処女厨となれる。

あるいは、「俺は既に生涯たった一つの穴を持っている」と叫べ。そうでなければならない。

処女厨である限り、童貞は肯定されるべきでしかないはずなのに、

童貞を誇る処女厨を見たことがない。これはまこと気持ち悪い。

真性なる処女厨よ、高らかに童貞を宣言せよ!

http://anond.hatelabo.jp/20100603080850

狩猟民族農耕民族論って血液型性格診断なんて目じゃないくらいのヨタ話なのに

物凄い根強いよね。何がそんな魅力的なんだろう。

http://anond.hatelabo.jp/20100524114002

外国

狩猟民族

→総量(狩りの結果)は頑張れば今すぐ増やせる

→総量増やせるんだろ?もっと狩ってこい。そうすれば俺の分が増える。



日本

農耕民族

→総量(作物の出来高)は頑張っても今すぐには増やせない

→総量が増えないなら、あいつのを減らせ。そうすれば俺の分が増える。

2010-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20100212223259

ていうか農耕民族は基本的に共働きだよな。狩猟が云々言うけどそれ何千年前の話だよって思う。弥生時代にはすでに農耕民族になってるのにさあ。

2010-01-08

無職になって気付いたこと

会社が潰れて無職になって、ある大事なことに気付いたんです。

勤め先がヤバいことは社員一同分かっていたので、それぞれの将来について語ることも時々ありました。

フリーランスデザイナーやりたいとか、ソフトを作ってひっそり生活したいとか、介護会社を設立したいとか、一発当てたいとか。まあ、もともと独立して失敗したうえで就職したような人もいたので、あいつには絶対無理だろwwwみたいな失笑をかう人もいました。

そんな中で、ひとりだけ違う方向を見ている人がいました。

その人は田舎野菜などを作って、ゆっくり自給自足の生活をして、ひとりだけの世界をつくりたいと言っていました。

私よりも10歳くらい年上のその人が言うには、今後日本アメリカ型の大規模生産社会ではなく、個人がひっそりと自給自足の生活をする農耕民族に戻るはずだ、と。

日本が向かうなら当然化学プラントみたいな食品生産施設での食料自給率アップだろうと思っていた私にとって、衝撃的な未来予想図でした。

結局その人は先に退職してしまったので、どこで何をしているのかわかりませんが、PCディスプレイを見ると吐き気がするという体質なのにソフト会社就職してしまうヘンな人なので、きっとどこかでうまくやっているのだろうと思います。

そして時は流れ、会社倒産の日を迎えます。

実際に無職になって職を探しても、あからさまに怪しい求人情報だけがずーっと出続けているハローワークでは職を求めることは難しいなと思うようになりました。

正社員で月給12万円の会社に応募する人などいるはずがありません。

そんなときに、あの自給自足というマジックワードを思い出します。

そうだ、いまこそ自給自足の時代到来だ。

が、そこに大きな壁があらわれました。

税金です。

会社員であれば給与天引きのため、あまり気にすることがありませんが、自分が直接税金を払いに行くようになると、その金額が重く背中に乗ってきます。

なんということでしょう自給自足所得がなくても、税金の請求は止まりません。

納税は国民の義務です。

小さな畑でひとり生活するというパラダイスプランは、一瞬にして消え去りました。

2009-10-29

http://anond.hatelabo.jp/20091029141249

この手の人は「労働量と給料は比例するもの」とか素朴に思ってるんだろうね。

産業革命前の農耕民族とかだったらそれでいいのかもしれないけど…。

2009-06-14

梅田望夫ルワンダ紛争を知っているのだろうか

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E7%B4%9B%E4%BA%89

「ツチ対フツ」の形成


フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであった。しかし、ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話人種概念を流布(ハム仮説)し、ツチとフツは大きく対立し始めた。1948年に188万7千人だった人口1992年には750万人と4倍になり、土地不足や土壌の疲弊が起こり[1]、農業が主だったフツには貧困が蔓延するようになった。

梅田望夫日本Webに対して行った一連のことは、ベルギールワンダで行ったことと同じである。

彼が「ほめる」場合、必ずその反対にいる人たちがいて、その発言は常に彼らを暗に貶めることで成り立つ。

そして、「ほめた集団」をハイブロウだとあおり、彼らのうちその扇動に乗ったものにその反対を攻撃させる。

だが、必ずその反対側から反感を買い、ほめた側は基本薄っぺらいためそこを突かれ反撃されるが、あおった本人はそそくさと撤退している。

その後に残るのは、大きな傷跡を残す対立だけだ。

ポジティブ信者そしてハチロク世代、梅田の論法を真似るあなた方のなす言動は必ず反撃をうけるようになる。

そのナイーブな優越感発言が持つ無意識の敵意への反感は確実にたまっているのだ。

2009-04-18

ネトウヨ寝言

ボコられるのは仕方がないとして。

誰にも読まれないのはなんか手応えがないなあ、と思い、自称ネトウヨである俺のブログの記事を転載してみる。

メンヘル寝言だと思って聞き流して下さい(と言っても、皆さん、容赦はされないと思いますが)。



さて、司馬遼太郎元ネタとして話を始めよう。



まず、司馬遼太郎戦車乗りでした。

戦後はともかく、戦前戦争中の日本戦車はとにかくしょぼかった(好きな人はごめんね)。



エンジンディーゼルエンジン(ただし、技術的にはすさまじい)。装甲は紙のよう。

なぜか?日本には資源がないから。軽油安いし。

で、運転が無茶苦茶難しかった。戦車の運転手として、名人芸を問われた。



アメリカはどうか?

当然、ガソリンエンジン(しかもオートマ)。楽々前進。運転簡単。



司馬遼太郎戦車乗りの一人として、米国戦車と自国のそれを比べたとき、大変無念な思いをした訳ですよ。技術って普遍的なもので、優れた技術はそれを扱っている人間にはすぐに分かる。



で、この差はなんなんだろう?という話になる訳だけれども。

司馬遼太郎曰く、"文化"と"文明"の違い。今でこそ、日本サービスは優れているけれども、戦前日本は、"名人の文化"だった。「できないのは、お前がグズだからだ」という文化。タクシーの運ちゃんが「私は助手時代から一度も道を間違えたことがないのですよ」と威張れる文化(戦前道路は、道は整備されていないし、道路標識もほとんど無かったので凄いことらしい)。



戦争中、すでにアメリカは、ベルトコンベア採用したT型フォード生産とかから始まる、機械大量生産・大量消費の社会に入っていた。で、品質のバラツキをなくすため、品質管理をアホでもグズでも出来るように普遍的なマニュアル化、"文明化"した。日本の場合、品質は個々の情熱と自負心と技量に依存した"文化"だった。



日本戦後、(サービスにおいて)、名人主義、"人はみな有能"という考えを捨てた。で、品質管理(QC)が、日本産業の基本的性格の一つになった。つまり、アメリカの"文明"を吸収して、日本"文化"にしてしまった。その結果、日本航空会社スチュワーデス(あえてこの語を使う)は(優しい)母親となって客を扱う、とは司馬遼太郎の弁。



まあ、大体、アメリカ移民の国であるから、モザイクのようにバラバラにまとまって住んでいる"文化"の違う住人達をまとめるには、普遍的な価値観の"文明"が必要だった面もあるかも知れない。



だから、アメリカは、"文明"的には優れているが、"文化"的には未熟、と言える。

だから、四つ足で一生懸命スタコラ歩く哀れなデザインマシンを蹴り上げることが出来るのだ。Yes, We can !

参考映像http://www.youtube.com/watch?v=W1czBcnX1Ww



じゃあ、日本文化本質って何よ?という話になるわけだが。

まあ、俺辺りが簡単に説明できれば、誰も苦労はしないよなあwとは思いつつ、適当に私見を書こう。



結論から先に書くと、「禅的構造への落とし込み」だと思う。

じゃあ、"禅"とは何かというと、Wikipediaによれば、「ただひたすらに(坐禅を)実践せよ」とか「以心伝心」とか「言葉でなく体験」みたいな説明が出てくる。要するに、「空気読め」ということだと思う。多分、それが、日本人日本人たらしめている。



「禅的構造への落とし込み」の例。

例えば、日本庭園枯山水庭。とか言うと俺にもよく分からなくなるので、例えば、漫画とか。



昔の劇画でもアメコミでもバンドデシネでもいいのだが、基本的に良く描き込んである。でも、劇画は廃れ、現在日本では、あまり描き込まれていない、もっとシンプルな記号化された漫画が主流だ。



これが何を意味するか?

まず、描き込むだけの時間がない、という面はある。つまり、「資源が少ない」のだ、我々は。島国は。で、例え結果的でも、描き込まれていないということは、紙に染みついたインクの量は少ないということである。ということは、それだけ、"何を紙に染みついた少ないインクにするか"考えなければならない。その結果、"何を書くか、どの線を選ぶかなどを作家が(生き残るために)魂を込めて選択しなければならない"(もちろん、適当に描いている人もいるかも知れないが、読者を脱力させるための線や展開などの構造を(無意識のうちに?)選んでいると思う)



で、アニメも描き込みの量が少ないわけだが、ストパン監督は、エヴァンゲリオン庵野秀明に「お前の描くパンツには魂がこもっている」と褒められたわけだ。



ゲームもそう。わびでもさびでも萌えでも良いのだが、日本の強みは現実換骨奪胎と記号化であり、「逆に要素を少なくすることで、対象者に想像力を使わせる」のだ。禅的構造への落とし込みとは、「対象者に想像力を使わせるための魂のこもった取捨選択」だ。小さくまとめ上げる。美を追究する。そのために職人は技を磨き、我々は空気を読む。



で。

ハッカーの話になる。



ソフトウェア工業製品ではない」、Rubyのまつもと氏が講演 " @IT

http://www.atmarkit.co.jp/news/200904/10/matz.html



つまり、まつもと氏は、名人主義だ。

まさに、ハッカーとは、名人主義だ。

そして、はてなでたむろしている連中も、名人主義だ。



だが、そこが彼らの、我々の、日本人限界性でもある。日本技術者のかなりが未だに、紙のような装甲と、ディーゼルエンジンを装備し、精神を病むほどの"根性"で、自分を、現実を、だましだまし、日々を戦っている。



とは言え、泣き言や呪詛を並べても仕方がないのだろうが。

ソフトウェア工場は失敗だった?

どうだろうか。歴史で繰り返される技術者の奢りであるかも知れないという疑念は?

正直、アメリカなら、やりかねないのではないか?

そのうち、ソフトウェア設計を合理化/普遍化/文明化/マニュアル化し、アホでも作れるようにしてしまうのではないか?

大抵のソフトウェア適当に注文するだけで、9割方、自動生成されてしまうとか。しかも何回もやり直し可能。

俺はそれを恐れる(そして、楽しむ)。



現に、アメリカ発のインターネットというテクノロジーで、編集者青息吐息ではないか。

多分、思いも寄らない方向から、必殺の一撃が来る、と考えた方が自然ではないか?

そいつは、非人道的に、無慈悲に、機械的に我々を殺しに来るのだ。我々は合理的結論で殺される。OK. 原爆アメリカにとって合理性があったのであろう。殺される方はたまった物ではないが。それが村上春樹が恐れているものではないか。しかし、"技術革新は誰にも止められない"。



果たして、アホに生きる権利があることを許さない、名人主義のその狭量さが、限界性を作っているとしたら。そして、よりハッキリ言えば、技術バカ(ギーク)がやり手の営業マン(スーツ)に負けるように、好きでやっているアマチュアプロフェッショナルの作った構造的罠に負けるように、負けるのが宿命づけられているとしたら(日本vs欧米スポーツもか)。



もっとも、人間はどこかしらの部分で優越感を感じていないと生きていけない生き物であるから、腕のある人間はアホに優越感を感じて、差別して、見下して、生きているのだろう。底辺の人間が、例えば、外国人に優越感を感じて、差別して、見下して、生きているように(繰り返すが、それを自覚し、どう振る舞うかが重要なのであって、その感覚を無くせなどとは言っている訳ではない(というか、存在論の部分に関わってくるので無くせない)。どうプラスに活かすか。"かわいげがある"というのは、見下しているが、プラスの評価だ。だから、日本が"カワイイ"文化で世界に浸透してしまうというのは、結果的に正しい。日本人連中に"文化"を教えねばならない(←ネトウヨ勝手な思い込み))。



それに、穀物を育てながら、畑を保守しながら、計画に戦略ロジスティクスストラテジーに取り込まれて生きるのではなく、その時々において、メシの種(獲物)を見つけて狩りをする戦術技術やタクティクスやアートや道(タオ)を追求するというのも一つの生き方であろう。男だね。侍だね。無形の型。戦略などないので強い者だけが生き残る。生き残ったから強い。まさに逆転の発想なんということでしょう。匠の遊び心が光ります。お前ならどこへ行ってもやっていけるさ。じかい、ほくとのけんつ~!奥義、万物流転!誰だ、日本人農耕民族だから、みたいなことを言ったやつは。責任者出てこい(とは単純には言えないのだろうけど。経済は生き物で、強弱の違いこそあれ、両面の才能は必要だろうから)。



・・・・・・少し落ち着きました。

さて、では、はてなは、どんな立場を取るのか。



名人主義のSNSへ向かうか。2ちゃんねらの底辺にいるようなアホの流入を前提にして、文明化するのか(一時期、そちらに傾きかけた・・・というか、あの時のはてな社長は血迷っていたのだろうか?)。今は、どちらでもない、なんだかよく分からない、迷走している状態だ。



それとも、近松門左衛門が虚構と現実のはざまに真に我々の心をうつものがある、と言ったように、迷走状態のはてなであるからこそ、我々の心をうつものがあるのだろうか?"不満を言う楽しみ"。"馬鹿な子ほどかわいい"。"灰色の魔女(違う)"。なんかね~、"相手の優越感をコントロールする"のがサービス業だとしたら、『あたしは、はてながどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。はてなはよくやったと思うもの』ですよ(と、また話が明後日の方向へ)。

2009-03-07

顔が悪くてもモテる奴はいるが、声が悪くてモテる奴はいない

日本人英語が苦手だと言われる。理由として最初に思い浮かぶのは日本語欧州言語に比べて、英語の発音と根本的に異なるからというものだ。しかし自分経験から考えると、日本語の発音体系に問題があるわけではなく、単に原因は英語っぽく抑揚をつけて喋るのを恥ずかしがってるだけという印象がある。学校英語の授業を思い出してほしい。音読のときにアメリカ人のように思いっきり抑揚をつけるのは恥ずかしくなかっただろうか?逆に言えば日本人でも感情を込めてメリハリある日本語をしゃべる人は英語の上達も早い。日本語に「抑揚を抑えて発音しろ」というルールがあるわけではないのだ。しかし大部分の日本人英語圏の人々と比較してボソボソ喋るので「感情が伝わりにくい+発音が悪い」と二重のファルターがかかって壊滅的な英語を話すハメになる。



日本人農耕民族だから抑揚の少ない言語が発達したのだ、というのは一理ある。だが能楽師剣道家の発する声を聞いてほしい。抑揚があるというより抑揚しかないと言えるほどにメリハリのある声だ。確かに日本人には猫背でボソボソ喋りがちになる歴史的背景があるが、それは尊ぶべき伝統ではなく克服すべき弱点なのだ。例外的に読経など抑揚を無くすことを良しとする文化もあるが、単純に日常生活でのコミュニケーションに上達したい!というなら抑揚はつければつけるほど良い。良い声というのは抑揚のある声なのだ。低い声や高い声というのは生まれつきだしあまり関係がない。以下、抑揚のある良い声になるための方法をいくつか挙げる。腹式呼吸を鍛えるとか呼吸筋のトレーニングとかは面倒くさいし誰も実践しないので書かない。



1.姿勢を良くする。

やっぱりか、といわれそうだが姿勢というのは声に直結しているし、スラっとした姿勢というのは人類にとって最も普遍的な善だ。その範囲は東洋古武術、読経から西洋オペラバレエ、果てはアメリカ大統領選挙マニュアルにまで及ぶ。姿勢を良くするトレーニングというのは何百種類もあるが、最も簡単な方法は「頭のてっぺんに糸がくっついててそこから上にひっぱられてるイメージ」を持つことだ。これならヨガマットを敷いたりダンベルを買ったりする必要は無く、歩いてるときやデスクワークをこなしてるときでさえも、思いたった瞬間に実践できる。



2.自分がデーブスペクターになったと思って喋る

コミュニケーションという観点からみればデーブの日本語日本人よりもうまい。彼の声はどんなアナウンサーよりも抑揚に富んでいる。なんとなく聞き流してるだけではあまり実感できないが、実際にデーブ口調で喋ってみるとあまりの抑揚の豊かさにびっくりするほどだ。デーブ可愛いよデーブ。



3.相手を言葉の通じない外国人だと思って喋る

脱オタしたら以前のオタ仲間と会話が盛り上がらなくなって関係が消滅した」というのはよく聞かれる現象だが、これは多くのオタがテキスト化可能な2ch的、blogコミュニケーション依存しているからだと思われる。この方法に依存しすぎるとテキストを共有していない人間と話すときに頭がフリーズして感情が生まれなくなり、ボソボソ喋るハメになってしまう。相手と自分に共通点が少かろうとかまわず抑揚のある声で喋れるようになるためには、目の前の人間ブラジル人だと思って喋ってみることが有効だ。言葉がほとんど通じないブラジル人とコミュニケートするには、クソ生意気小学生のように興奮したりはしゃいだり踊ったりしなければならない。必然的に自分の声はどんな相手に対しても抑揚のあるよい声になる。



個人的には歴史上最もよい声をしているのはヒトラーだと思う。声というのは良くも悪くも絶大なパワーを持っているのだ。

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