はてなキーワード: 男はつらいよとは
男はつらいよは、寅さんが人情あふれるなんちゃら~で有名だけど、実際にあの作品を見てみると寅さんは人情あふれるというか
自分のやりたいことをやった挙げ句に癇癪をおこして周りに迷惑を振りまいて歩いているだけだった。でも、最後はいつものテーマソングが流れていい感じに終わる。
そんな寅さんの周囲を考えない迷惑な癇癪が嫌い。普段はいい人だったりするんだけど、ほとんど自分から問題を起こしてるというのが駄目だった。
釣りバカ日誌は、ハマちゃんがスーさんと一緒に釣りを楽しんだりして、時には社内、時には出張先で色々なアクシデントにあったりするわけなんだけど
これもやっぱりハマちゃん自体がとんでもなくだらしなくて、周りの迷惑を考えないでやりたい放題やってるという寅さんと似たような感じ。
ハマちゃん自体は癇癪持ちでも無くて、めったに怒らないし穏やかな方なんだけど、会社では素行不良、仕事しにいってるのか遊びに行っているのかわからない人で
見た目はただのオッサンで愛妻家。これだけならいい人だよねーで終わるんだろうけど、とにかく釣りができる地域にいくと何もかも忘れて釣りに没頭。
大事なイベントがあっても釣り、友人関係に問題が起こっても釣り。とにかく釣り。
自分勝手にやりたい放題やってる姿がなぜか最後にはいい雰囲気で終わるという謎進行で、おいそいつはとんでもなく大迷惑なやろうだ気づけ!と言いたくなるほど。
とにかく嫌い。
そういう感じで好きなんだけど嫌いっていう。
何が言いたいかと言うと、
この部分を読み落としている人が多すぎる。
ガワだけオッサンに変えて「正義の味方が悪人を懲らしめちゃうでござるぞ~~」「モテちゃってモテちゃって男はつらいよ~~」では意味がないんだ。
それは結局、「美男美女が青臭いことを言い合うだけで何だかアニメ以上にガキっぽい」の一種だ。
どうやらそれを伝えるにはコチラの言葉が足りなかったようだ。
反省している。
今の自分の表現力だと「現実にありふれているようなどうでもいい日常の、ちょっといい話やスカっとする出来事"ですらない"なにかをどこか魅力的に描き出してくれるような作品を味わいたい」が限界だ。
なんだか世の中の物語は、やたらと脚色されていてスカっとしたりホロりとしたりクスりと出来るような作りにしようと必死になりすぎているように思う。
前者は笑い話になるけど、後者は「性被害にでもあったのか」というガチ感がある。
この非対称性はあらゆることに通ずる。
「男はつらいよ」に見られるように、男の辛さ、不平不満、被害体験などは
「いやぁ~よく言ってくれました。まったく男が不利な世の中になりましたよねぇ」
と笑いながら話せる風潮が昔からある。いわゆる暴力ヒロインの土壌もここにある。
一方女の辛さ、不平不満、被害体験などはそうはいかない。どうしてもガチ感、悲壮感がある。
その結果が、ネット上のミソジニー普及。笑い話の余地がある方、つまり前者の方が人は安心して見れるので勝つ。在日差別だって、普及したのはネトウヨの「笑いながら在日を差別」するというやり方が功を奏したからだ。
ネトウヨ叩きに対してミソジニー叩きがネットに根付かなかったのも、ネトウヨは笑って馬鹿にできるがミソジニストを馬鹿にするのはどうしても必死な感じになってしまうからだろう。
一方後者は、悲壮感漂う分馬鹿にされ、叩かれやすい。それも男女問わず叩く。日本人は「悲壮感漂う弱者の訴え」が大嫌い、そういうのを茶化すのが大好きからだ。
暴力ヒロインと言い「女に虐げられる可哀想な男」は笑って受け入れられやすい(今は過去形になるかもしれない)
男の言う「女怖い」は笑って言われるのに対して女の言う「男怖い」はシャレにならないのにも通じるだろう
これこそ男女の非対称性。前者は本気で脅威を感じていないネタで後者はガチなのだ。
今のネットで「男性差別」論がやたら広まっているのも、ネタとして広まった「女に虐げられて男はつらいよ」の延長と考えられる。
だが育ちすぎた男性差別論、男の被害者意識は、「女に虐げられるのがネタとして受け入れられる」ことに激しく抗議するに至った。
「ネタとして受け入れられたからこそ」ここまで女尊男卑論が広まったのだが、もう「ネタとして受け入れられる」ことは男性差別論において必要ないのだろう。ここまで育って、ネット中に根付いてしまったのだから。
「はてなはリベラルなのに男に厳しい!!」って喚くやつらは2chまとめにでも行けばいいのに。ネット中、基本的に嫌というほど女に厳しく男に甘々なんだから
ずっと、一人で部屋にこもっていたい。
30歳。
誰とも会いたくない、ずっとネットだけしていたい。
親とも会いたくない。何もしたくない。
人生わりとずっとつらかった。
研究者になってこの不条理な世界を変えたいなと思ったんだけど。
そこそこの医学部に入るも、凄絶な暗記量につぶされて、ずっとつらくて、ネットゲームに逃げて。
周りの人たちは大人になっていくのに、俺だけずーっと中学生ファッション、頭の中幼稚園って感じでマッタクなじめなかった。
何とか卒業するも、研修医生活でどこ行ってもゴミ扱いされて。まあ、当たり前なんだけどね。すぐ、合理的なこと言っちゃってた。今思えばバカだなって。
上の立場の人に、平気で反論とかしてたんだよね。自分では勉強した上でいいことしてるつもりだったけど。差し出がましいっていうか。
逃げるように地方の病院に就職したんだけど、後期研修になっても、使えない、使えないで地方に飛ばされるか、辞めるか選ぶ段になって、辞めて、
親の病院に就職したけど、さぼり癖ゆえか、出勤が難しくなって。
明日、親が来る。
ここ数か月、喫茶店に行って、英語を勉強したり、とある数学の未解決な問題について考えてたりした。
色々なところに旅行なんかも行ったけど。
ただただ、ムナシイ。
ずっとネトゲしてたいよ。
終わるってんで20年かそこらぶりに読んだわけだが、
纏とかいう無難な庶民といい感じになったんだか所帯持ったんだか判らん状態になっちゃってるのもそうだが、
なんか両津に限らず登場人物のギットンギットン加減が全然なくなってる。
っつーか顔が手抜きじゃん。中川と麗子の顔が。なんだよあの新聞4コマまんがか昔の英語の教科書レベルの淡白な顔。
フリテンくんかよ。ニューホライズンかよ。エレン先生に負けてんじゃねえか明らかに。
昔のこち亀はハリウッドで作った男はつらいよみたいなゴージャスでバカでエキセントリックで勢いで押しきれる作品だったのに、
今のはNHK辺りの昼間にやってる漫才番組か欽ちゃんの仮装大賞だ。
芸がない。
天丼だのみか。
こいつら全員ジジババか。
90年代、学校教育、特に教師に対するバッシングは凄まじかった。反体制なムーブメントと共にマスコミも便乗し、その結果教育現場の生活指導的な部分が過剰に規制され、体罰の禁止、テストや競走の順位付け禁止というある種いびつな現象を生んだ。
しかしゼロ年代後半から「モンスターペアレント」という言葉が出現し、その言葉がバッシングの対象を親側にスライドさせた側面は確実にあると思う。
学校側に理不尽な要求をしてくる厄介な人達が存在する、という事は現場では以前から認識されていたが、そういった人種を上手く言い表せる言葉がなかった為、言及のターゲットとして焦点を当てにくかった。
しかし「モンスターペアレント」という言葉が出現したことにより、その言葉の響きと人種を一括りにできる利便性から、マスコミや言論の場で頻繁に使われるようになり、その結果教師バッシングを終結させ、バッシングの対象を親側にスライドさせる動きとなった。
このように特徴のあるヒト、モノ、コトを一括りにできる便利なネーミングの存在は、争点をまとめやすく言及のターゲットとして焦点を当てやすくなり、言論の流れを変える力がある。
「ストーカー」という言葉がある。手塚治虫の「ブラックジャック」には若きブラックジャックが思いを寄せる女医を毎夜毎夜帰り道に危険が無いように後ろからついて回っていたという描写がある。結果的に暴漢から女医を助け、「いつも見守っていてくれたのね」と女医が感動する美談としてストーリー上では語られている。当時は美談としての解釈も可能だったのだ。しかし、現代では間違いなく犯罪者扱いである。
本人としては善意からの行動であったとしても、「ストーカー」という言葉は単にその行動を表す言葉であるため、言葉と共に性犯罪者というイメージが勝手に付随され、女性側としては恐怖と嫌悪感の対象でしか無くなってしまう。「ストーカー」という言葉が存在する以前は多様な解釈が可能だったのが、以後は一括りに扱われ一つの解釈しか出来なくなってしまった。
「草食系男子」も大きな力を持った言葉だ。命名者の当初の意図とはニュアンスが違うそうだが、現在定着している意味は「女性に積極的になれない男性全般」といったところだろう。
ハッキリ言ってこの手の男性は大昔から存在している。決して最近になって現れた兆候ではない。
「男はつらいよ」での寅さんは、いくら女性から積極的に誘われたとしてもあと一歩のところで女性を口説き倒してモノにすることができないウブで女々しい一面を見せているが、観客からはそこがいい、味のある男と好意的にとらえられ支持され続けていたのだ。
しかし「ストーカー」同様、現在この手の男性は「草食系男子」以降多様な解釈がされずに一括りに扱われ、「オスとしての本能を失った情けない男性」という一つの解釈しか出来なくなってしまったのである。
事程左様に人々の言動の流れを変えるネーミングという大きな力。使いやすいからといって安易に使用すると、魔女狩りのような悪質なレッテル貼りの一端を担ってしまう可能性がある。言葉にはそういった力を持つ場合もあるのだ、という意識は常に持っておく必要があると思う。