はてなキーワード: 極限値とは
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
もう少し正確に言うなら今の数学で扱うには問題を補わないといけない
例えば「2+2=4 が成り立つか?」「2+3=4 が成り立つか?」ってのは今の数学でも扱うような問題で
前者は正しいし後者は正しくないと言える。
それは「2」「3」「4」「+」「=」という物が全部曖昧さを排除して定義されているからだ
一方で「0.999... = 1 が成り立つか?」という問いの場合は「0.999...」もしくは「...」が曖昧なままになっている
はっきり言って「0.999...」の定義次第じゃ「成り立つ」にも出来るし「成り立たない」にも出来るので
ここでもし「0.999...」を「n項目が1-(0.1)^nとなる数列の極限値」と言い換えるのならそりゃ「成り立つ」と言える
今まで私がしてきた議論を「そんなの当たり前」だろと言う人もおられるかもしれんが、
ネットには「0.999...」もしくは「...」に潜む曖昧さを勝手に補った上で説明してるページが多すぎるので
私は今更ながらこんな事を書いた
この曖昧な部分をどう補うかを蔑ろにされていると感じるから、いまいち説明に納得しない人も多い気がする。
一方で言いたいんだけどその「曖昧な部分をどう補うのが妥当なのか?」というのは今の数学の問いでは無いと思う
そういう曖昧さは最初に無くさないとちゃんとした問いにはならないというのが今の数学では無かろうか
ふつう指数法則を考えるときには底が0よりも大きい場合を考えることが多い
0については0除算が定義できない以上、指数法則を考えることができない
分かりやすい例で言うと
0^2=0^(3-1)=0^3÷0^1=0÷0
だから
0^0=0^(1-1)=0^1÷0^1=0÷0
同様に0^2も定義できないといってしまわなくてはならなくなる
結局は0^0は極限として解釈せざるおえず、
x->0の値がどちらも0に収束するf(x)、g(x)について
lim_(x->0)(f(x)^g(x))の極限値とすればいいが、
その値はf(x)、g(x)によって変わるので定義できないって結論でいいと思う
その内容は元記事の後半に書いてある通り
基本的には前項の内容に関する指摘・修正等はトラックバックでしていただいた通りです。
少しマイルドな形でトラックバックを利用させていただき、また元の疑問に対して再提示しましょう。
・代数的な意味での「無限大」、極限で用いる「無限大」、複素関数の意味での「無限大」は異なる。
→無限大、という言葉は様々な定義、文脈上で発生する一概念であり、ひとまとめに語ることはできない。
→ 様々な観点でとらえらることができるが、∞は四則演算可能な数とは考えないのが無難。
四則演算可能とする立場でも、通常の四則演算則は成立しないことが分かっているため、
高校の間では考えないのが良い。
高校の間でこの表現に触れるのは微分だけであり、そこなら触れなくても大丈夫。
どうしても触れたい場合は、解析で用いるε-δ論法の軽い解説をするのが良いです。
・不定形の極限について
不定形の極限という表現そのものが(便利ではあるが)危険なので、使用しない。
→代数としての無限大と、極限値としての無限大との混同の怖れがあるため。
(受験期にこれを混同することがそれほど問題とは思えないのですが、とはいえ生徒の今後の混乱を招く可能性もあります。)
次のような表現、説明とする。
ここまで書いて、
がナゼ無限大にならないことがあるかを説明するには、
数列同士の差が完備性を持っていることについて=コーシー数列についての説明をしないといけないことに気付きまして。
この3つの条件について、「数学が苦手な生徒に」「分かりやすく」説明するプランを何か考えないといけないですね。
・暫定として
数列Anと数列Bnの差を取る時、nがある一定以上の値とする。以降、δAn>δBnならば、An-Bnは常にその差分だけ増加していく。
ずっとδA =δBn ならば、差は0。
(*:1値の取り方によってはアウト。差分数列がコーシー数列である場合。)
数列Anで数列Bnを割る時、nがある一定以上の値とする。その商Cnが無限大に発散するならば、
An/Bnは無限大に発散する。
(*:2値の取り方によってはアウト。数列がコーシー数列である場合。)
また暇があったら考えます。
会社は車で15分のところにある。終業時刻は10時半だったらしい。
ここ半年ほど、日をまたぐ事が多かったので、それを考えればこれでも十分早い帰宅時間だ。
兄は某自動車会社の下請企業に勤めている。車の塗装などを請け負っているらしい。不況のあおりを食らって仕事は少ないはずでは、と思うかもしれないが、事情は少し違う。
兄の勤めている会社は先にも述べたとおり、塗装屋である。つまり「塗らなきゃいけないもの」があれば、それは車でなくても良い。最近ではピアノだのテレビだの、そういうものを営業が駆けずり回って取ってくるらしい。
そうすると、今まで塗装機のマニュアルに無かったものをやらなくてはいけない。新しい試みなのでもちろん大変である。
結果、どうなったか。
仕事はたしかに増えたが、無理言って頼んでいるのだから足元見られて安い値段をふっかけられる。
仕事はあるが、金は無い状態。
兄の勤めている中小企業には、何人もの外国人がいる。東南アジアなどから来る研修生だ。不況と言えど、取り決めで彼らをやめさせる事はできないらしい。そうすると企業側はまず「パートのおばちゃん」たちを切っていく。
しかしこのおばちゃんたちこそ、経験に経験を重ねた企業の底力だった。
少なくなった人数で彼女らのいなくなった穴をしなければいけないのだが、研修生たちで埋めることはできない。彼らはまじめらしいが、それでも無理なのだそうだ。技術力云々もあるが、なんといってもサービス残業のさせにくさがある。彼らを不法に酷に扱い、もしソレが明るみに出ると企業は最悪つぶれてしまう。
結果、文句を言わぬ社畜である社員がひたすら働く。日も昇らないうちから、ひどいときにはその日が沈んでまた明けるまで働く。
残業代はろくに出ない、有給はたまりに溜まってて、体が辛いから休みたいと言っても休めない。休むと次の日大量の仕事をこなさなくてはいけない。
自分は歳のせいで辛いからと休むのに、兄が休みたいと言うと甘えてると言って取り合ってくれない。
わかってる。わかっているけど、そんなことをすれば小さな会社はつぶれる。
この不況だ。どんなにひどい企業でも、正社員という地位を捨てることはできない。
兄が泣いた。
「どうしろってんだよ」と、わずかに笑いながら。
兄は高校を出てすぐにそこへ勤め始めた。もともと環境が良く無いせいか後輩は入ってこない。兄は5年たった今も一番若い。
どんなにがんばってても、お前みたいな仕事では評価されない。と言われたらしい。
私が普段見ていても、たぶん兄は要領が悪いし融通は利かないタイプの人間だと思う。こだわりが強くて、人と円滑にコミュニケーションをとるのも苦手だろう。今風に言えばKYである。顔もかっこよくない。さえない。毛深い。ガンダムオタクで最近は萌えフィギュアにも手を伸ばし始めた。趣味はアニメ鑑賞。
けちで、漫画雑誌を買ってきても読ませてくれない。12個入りチョコを一粒もくれない。
頭もたぶん悪い。小中高と、どんなに努力してもずっと底辺だった。
あたまの回転が遅いから言いたい事が伝えられなくて、口喧嘩ができなくて、いつも物に当たる。たまに私も殴られる。
兄は、社会人として、技術者としてはきっと使えない。優秀ではない。
兄にはできないことが多い。
本人は可能な限り精一杯やってる。
兄が努力しているのを私は知ってる。
兄は良い人間だと思う。
祖母の歩みが遅くなったとき、その手を引くのは兄だ。
どんなに辛そうでも、仕事をサボったり休んだりしない。
そこを評価してくれる人間は、お金が絡む会社にはいるはずもない。
食堂のおばちゃんだけは、兄の辛さを知ってこっそり夜食を作ってくれるらしい。
いつも辛そうで、なんとなく茶化した様子の事情は聞いていたけど、弱音は初めて聞いた。
そんな兄が涙ぐんだ。
ショックだ。
こんな不況下で仕事辞める奴は馬鹿だと思っていたけど、兄は少し休むべきだと思う。
おにいちゃん、仕事もう辞めていいよ。
言えるわけが無い。
もどかしい。