はてなキーワード: 風物詩とは
筆者は合同コンパ(a.k.a 合コン。普段は仕事に重きを置いた生活をする20代、30代が、視野と交友関係を広げるため、知人の紹介によって様々なバックグラウンドを持つ人々と交流する会合の総称。異業種交流会とも言われる)
に今年のGWに初めて参加し、それ以降2月に1度程度の頻度で同様の会合に参加してきた。幹事を務めたことさえある。
筆者は特にそこからMaking Affairできたことはいままでない。
それどころか合コンで知り合った人物と友人としての関係を築けたこともない。
言うまでもないが我々に残された時間は有限であり、今後すれ違うことのない出会いを繰り返すことに意味は無いし、もっと自分にとって大切な人々と過ごすほうがはるかに有益だ。(筆者友人の同僚談)
では筆者はなぜ合コンに参加するのか。それは未だ見ぬ素敵な出会いを求めるからであり、友人の紹介する人々はその友人の為人(ひととなり)によって担保されているからに他ならない。
先述した通り筆者は合コンに可能性を感じつつも、これまでコンパ時間を漫然と過ごしてきた。
「おれは...反省すると、強いぜ...」(音石明/ジョジョの奇妙な冒険)
筆者は合コンに臨む姿勢に至らない部分があるのではないかと反省している。
このエントリでは合コンで何を目指し、そのために具体的に何を達成すれよいかを明らかにし、今後の活動に反映させていきたい。
現状:
合コンは「会話」「お礼のメール」という2パートに大きく分けることができる。
思うに(あるいはこの主観にすでに間違いがあるのかもしれないが)、筆者がこれまで経験してきた合コンは会話自体は難なく続いている。
それなりに盛り上がっている状態だ。しかし、クリティカルな盛り上がりには欠ける。(ここで言うクリティカルとは「今後も交友関係を築きたい」と思えるほどの、という意である)
また、筆者は相手に対して合コンの「お礼のメール」を書くことが苦手だ。それはクリティカルな深さまで会話を掘ることができていないからではないだろうか。
目的:
男女関係もしくは今後「バントを打つ」土壌となる交友関係を構築する。
(「バントを打つ」とは次はその相手とともにさらなる合コンを開催することである。ある種の有限を無視すればねずみ算式に出会える計算になる)
戦略:
「お礼のメール」のための「会話」
お礼のメールの中で、次回の個人面談にもっともスムーズなかたちで進める文章を盛り込む。
ご存知の通り合コンの間に何かが始まることは稀で、多くの場合、その後の個人面談などによってことが進む。
そのための試金石となるのがこのお礼のメールである。お礼のメールでお互いの興味や共通点が合致した内容を盛り込むことで、その後の進展が期待できそうだ。
実行:
ありきたりで非常になさけないのだが、一言で表すと「きどにたてかし衣食住」に沿った会話となるだろう。または自分の得意な分野に引きずりこんでも良い。
き・・・季節
た・・・旅
て・・・天気
衣・・・衣類
食・・・食事
ここで注意すべきは漫然と会話するのではなく、常に共通項目を探し、次回につなげるアウトプット(お礼のメールにおける個人面談への誘い文句)を考えながら会話することだ。おそらくマイナーな趣味ほどハマるのではないだろうか。
また、相手がおよそどのような属性を持っており(出身、故郷、年齢層、職業...etc.)、どのような指向(趣味、興味、服装、性格が外交的か内向的か...etc.)などを類型分類しながら把握できると少ない情報から相手との共通項をより多く発見できるかもしれない。
・相当ゲーマーらしいですね。モンハンで今度温泉行きましょうよ。
反省:
補足:
もしお互いの共通点が全くない場合はどうしたらいいのか...!?
それはこの本が教えてくれるでしょう。旬やシチュエーションに合わせたデートを演出してくれるはずである。(まだ実践できていない以上エントリがまとまらないので付け足した冗談ですが、旬の食材や風物詩をきっかけに女性を誘い出す手法には目からうろこが落ちる。物語のちからを強く感じる一冊。)
絶滅危惧種のホッキョクグマとかアフリカの大型ネコ科動物とか北米のオオカミとか、
こないだも日本でカワウソが絶滅種扱いになったって言うし、やべーなーと思ってたけど、
両生類も実は100年以内にすべて絶滅する可能性があるらしくて地味にこっちの方がやばいんじゃないかと思うようになったの。
人間以外の哺乳類全部が100年以内に絶滅するなんてことになったら一大事だろう。
それが蛙だのイモリだのきもい動物だから皆関心を持たないのだろうか。
蛙が絶滅するってよく考えたら大変なことじゃないだろうか。
誰が田んぼの害虫を食べてくれるのだろう。私たちは農薬まみれの米を食べるのか?
蚊とかハエとかも食べるから、人間はこれらの虫々に一層悩むかもしれないな。
あの夜の蛙の大合唱も聞こえてこなくなるよ?
未来の子供たちは「かーえーるのうーたーがー」「ゲロゲロゲロゲロぐわっぐわっぐわ」とか聞かせてあげても、
その愉快さとか美しさが理解できないんだよ?
「古池やかはづ飛び込む水の音」とか芭蕉の句を国語の時間に教えてあげても、その風情が理解できないんだよ?
私は子供のころサンリオの「けろけろけろっぴ」が大好きでけろっぴグッズで体中埋め尽くした時期もあった。
それが過去の動物になって、未来の子供たちにけろっぴグッズを見せてもあの蛙のデフオルメの見事さを理解できないんだよ?
イギリス人がフランス人に「frog eater」「frog」って言ってからかうエスニックジョークもなくなるんだよ?
蛙って食べたらおいしいのかしら、本場フランスで蛙料理に挑戦してみましょー!!
うーん、味はささみみたいでなかなか美味しいですよ♪なんていうゲテモノ料理紀行番組も、ひとつネタが減るんだよ?
世の中にはこんなグロい色の蛙がいるとかこんなでかい蛙がいるとかこんな毒を持つ蛙がいるとか2ちゃんで騒ぐことも少なくなるし、
ネタになったとしても既に絶滅してたらあまり盛り上がらないよ?
「セックスしてる姿って実際蛙がはいつくばってるみたいな格好だし、そんなきれいなもんじゃないんだよ」とか、
性に目覚めて好奇心いっぱいの中学生とかに譬えて見せることも難しくなるんだよ?
哺乳類は話題になり易いけど、蛙はあまり人の関心を集めないから、哺乳類以上にやばい。
両生類はきもいと思うし触れないし自分の目の前に出てこないでほしいけど、絶滅されたらすごい世界が不便になるしつまらなくなる。
蛙助けなきゃ。
ちょっと違うかなぁ。
こーゆー割りとどうでもいい系の問題の議論が熱く炎上するのは、
それこそ、引用コメントの書式が見づらいだとかで、頭に血が登って延々と罵り合う人達が
昔の方が沢山いた気がします。
多分今回騒いでいるのもリテラシーが高めの人達で、ジョーク記事自体を問題にしているんじゃなくて、
「嘘記事に騙される情弱がいちいち反応するのがうっとおしい、タイトルに嘘って入れとけよ」
ってことなんだと理解してます。
それに対して正当な反論やら読解力の足りてないズレた反論やら、感情的な人格攻撃やらが
タイトルに【虚構新聞】って入れるぐらいの対応だったら別にやってもいいんじゃね、
って感じです。
モズの早贄をご存知だろうか?
モズという鳥が、カエルやトカゲなどを木の枝にさしておいて、保存食にするといわれている。
だが実際はそのまま食べられなかったりして、木の枝にカエルなどが刺さった状態で発見されるというわけだ。
それはとても大きなカエルだった。ウシガエルほどの30cmぐらいのサイズがあっただろうか。
葉がすべて落ちたとても大きな古木にカエルがまるでモズの早贄のように枝々に実っていた。
実っていたというよりは、ひもののように干されていた。
内蔵をひらいて魚の干物のように干されていた。
ボクはそれを地元の漁師の案内で見学に行ったんだ。どこかの村の風物詩らしい。
漁師は聞く。
その真意をはかりかねて、次の言葉をまつ。
「もしー、亀に餌をやったらわしはお前さんを逮捕しなきゃならんのだ。」
大学の出身講座の教授群が全部他学科出身者に変わって3年。名前と場所は同じだが、中身は別物になってしまった。とはいえ、大学自体のカラーは未だに同じようなイメージで残っている。伝統風物詩も残ってる。
もっと凄いのは高校で、親父も同じ高校なのだが俺の時と校風は変わってないらしい。いま、従兄弟が同じ高校に通っているが、やはり同じ校風だそうだ。戦前からある古い高校とはいえ、公立校である以上は校長だって定期的に変わるものだし、先生だって異動するだろう。そもそも、その校風自体教師から見れば好ましいものじゃない。こういうものはどうやって受け継がれているのだろう?地域性とかも関係するのだろうか?
さて、最近企業が海外の学生をとるという。別にそれに反対はしないが、いわゆる企業カラーというのは、そういった場合にも受け継がれるのだろうか?海外における日本企業の優位性は(特に工業製品のおいて)、日本人のやたら几帳面とか不必要にマニアックという特徴から生み出される実績とイメージに依るものが多かったのではないか?
日本人が優れているという気はさらさら無いが、そういう特徴が有利に働いていたのは事実ではないだろう。非日本人が会社の中で主体となったときに、そのイメージは維持できるのか?もしくはそんなものがなくても互角に戦える、もしくは戦う覚悟がある企業がどれだけあるのだろうか。
理由は4つある。
もうそれだけでどーしようもなくマイナーで、馬鹿みたいにちっぽけな話だ。誰も話なんか聞かない。
ところ変わって宮城県は気仙沼。「かつおフォーラムin気仙沼」が11月28日に開催された。
気仙沼港のカツオの水揚げ量って昨年比で半減してんだよ。で、外国の巻き網漁船を規制するように国に求めてる。
で、知ってた?
日本の文化としては大和朝廷からスタートして、鰹節は言うに及ばず、初鰹なんて小学生でも俳句で知ってる。
エロ漫画が規制される?いやー、日本のカツオを守るための規制ロビー活動の方がどう考えても重要度高いだろ。
とはいうものの、お上の規制(ただし東京都)とは穏やかではない。こりゃマズイのでは。
ゴルゴ13が好きで、1児のパパで、残業が多いけどそれなりに幸せに暮らしている。(北斗の拳が好きなママでも良い)
よーしパパちょっとだらだらネットで情報でも仕入れてみるぞとか(ry
そうしてググって出てくる書店で普通に買えるアレな漫画の数々。
「我が子と同じような年代の少女が(自主規制)されてる……!!」
実際には自主規制されてないというのは、ブラックジョークとしては質が悪くてどうしようもないな。
「ゴルゴとか北斗の拳がこれから読めなくなってしまうのは辛い。でも我が子のことを思えば……我慢するか」
まあ、普通はそうなるだろうな。
いや、普通という言い方は良くなかった。たしかに俺が悪かった。言い直そう。
日本が世界に誇る漫画という文化を理解せず、体制側が恣意的に運用可能な条文を読みもせず、ただ感情にまかせて判断するどうしようもない非文化的な社畜の父親であれば、愚かにもそう結論づけてしまうだろうな。
全く嘆かわしい限りだな。そう言う輩が都民有権者の大半を占めるとは!
「政治とは感情を操ることだ」と喝破したのはソノケンだが、まあそうだろうな。
といってもゾーニングとか自主規制とか窓口とか、落としどころはたくさんあるだろ?
いやね、ベトナム戦争をアメリカは結局のところ勝てなかったと言って良いと思うよ。
でもこれって悲しいけどゲリラ戦じゃなくて大義名分の戦いなのよね。
業界団体でもあれば「俺ゴルゴ読みたいけど娘も心配だから」と説明会だの決起集会だのに顔出したりするだろう。暇で情熱があれば。
ないよね。
言ってることまちまちだし。
「表現規制はお上の規制も自主規制もすれば表現が萎縮して面白くなくなるから反対だ!」
とか言われたらそりゃ親父さんは心配するだろう。
「アレやコレやソレは流石にマズイから規制、でゾーニングを徹底して」
とか言ってるのは良いけど、それ書店とか出版社に話し通してます?ああ、稟議書のフォーマットはこちらです。
ロビイストの方々が「頼むから何もしてくれるな。俺ら動くから」というのは、当たり前のことだろう。
だって仕切る人が居なくてわちゃわちゃだから、じゃあ東京都が規制するか、って話の流れなんだし。
わちゃわちゃっぷりを見せつけてどうする。モネラ界ですらS・セレビシエが仕切っただろ?
御輿が無く、集合場所が無く、各々勝手なことをすることで知られる広島のお祭り騒ぎ。毎度警察密着24時で見かけますね。
俺らがトッコー服着て夜店で買い物も出来ないってオカシクね?るせーよ迷惑とかかけてねーだろ。お祭りだろ。
とはいえ、そのへん判った上でみんな活動なさってるんでしょ?
だってヒラコーのあのコナミとかナムコとかの珍名おっぱいが出てきてクビがボーンの大同人って続き書かないの?諸君私は漫画が好きだ。
を、裏ルートで警察に怯えながら表書きには「文房具」って書いてもらって通販するとか面倒だし。
コレに関しては、どうかなあ。判ってる(人も居る)ような気もするけどなあ。
さて、話変わって同人誌の苛烈な自主規制の件、知ってる?奥付超重要とか。
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2007/05/21/15765.html
いやー、国民の常識っしょ、知ってるっスよ俺らでも。みたいなことは誰も言わない。
そんなの気持ち悪いだろ。
それをコミケ準備会も虎の穴もメロンブックスも骨の髄まで理解している。
俺ら日陰者で、何時潰されるかも判らない。お上の規制はイヤだ、だからそうならないように活動します。
本当に自覚している。
その自覚が、今回東京都の表現規制条例反対と主張する人たちに、はたしてどれだけあるだろうか。
マイノリティが、マジョリティに何かを訴えかけるときに、オマエラは愚かだと言っても鼻で笑われるだろう。
社会通念を作り上げるのは普通のオッサンオバチャンであって、LO読者じゃない。
少数派は諦めろって事か!
世の中の風習として「七五三」というのがあり、
共通コンセンサスになっている。
ここで問題なのは「三」の扱いで、
「三歳の女の子」が七五三するのは共通コンセンサスになっているが、
「する派」「しない派」の二説に分かれている。
で、11月が近づくと、「OK Wave」とか「Yahoo 知恵袋」とか
「三歳の男の子は七五三をするものなんでしょうか?」という質問がなされるのが
(「人力検索はてな」は異様に男性比率が高いため、そのような質問がされることはない)
「地域によるんじゃないですか」とか
「財力あればすればいいし、無理してしなくても・・・」とか
「上の子がいれば一緒にすれば・・・」とか
「早生まれだったら無理にさせなくても・・・」とか、てんでバラバラ。
見たところ「3割はする」「7割はしない」という感じのようだが、
なんとなく「昔は『しない』が標準だったのが、徐々に『する』が増えてきている」ように
見受けられる。
で、なぜ「する」が増えているのか、という点についてだが、
これは仮説であるが
という気がする。
3歳男子の場合意味合いは薄いようだが、スタジオアリスHPだと
いろいろな理由つけて3歳で撮影するように推奨している。
喩えて言えば、以前は誰も知らなかった「恵方巻き」が、コンビニ業界の必死の売り込みで
いつの間にか「定着」してしまったのと、同じ状態。
・・・ということで、3歳男児のパパママ、
・100メートル走
ところどころにまきびしなどをばら撒く。血がいっぱいでる。
100メートルという短い距離の中で繰り広げられる汗と涙と血の物語が観衆の胸を打つ。
・走り幅跳び
踏み台に針。砂の中にも針が。血がいっぱいでる。
あまりにも足を酷使するため選手人生で一回しか出れないといわれているが、
それでも虚空に血の軌跡を描きながら飛ぶ美しい姿は観衆の涙を誘う。
やり投げ。
槍にトゲがびっしり。たまに自分に刺さったりする。血がいっぱいでる。
どういう投げ方をすれば自分に刺さるのか。だがそれも芸術点として重要視されるので、
今ではいかに美しく自分に槍を刺せるかを競う競技といっても過言ではないかもしれない。
ハンマー投げ。
ほぼ同上。
・7種競技。
フルコース。血がいっぱいでる。
それまでの人生とその後の人生を全て賭けなくては成績をまともに残す事すら難しいといわれる
リョナリンピック最難度級の競技。それだけに世界中から熱い視線が向けられる。
・1500メートル
ところどころに罠がある。血がいっぱいでる。
「これ障害物競争じゃね?」という疑いから始まる論争は夏季オリンピックの風物詩。
論争が行き過ぎてたまに観客が血を流す事もある。
競歩。
特になし。
ぶっ倒れる選手は数知れず。ある意味もっとも血が流れる競技である。
水泳。
プールに鮫がいる。血がいっぱいでる。
「もうやめようぜ・・・これはリョナじゃねぇよ、ただのグロだよ」の声が昔から多数あがってるが、
根強い支持がたくさんあるのでかなりの歴史がある。鮫から逃れるべく必死に泳ぐ姿がたまらないらしい。
しかし最近では選手不足が叫ばれており、来季は外されるのではないか?と噂されている。
飛び込み。
「これは水泳競技じゃねぇよ!」という突っ込みをしながら観るのが作法。
そして観客は気づく。「選手は血の海というプールを泳いでいるのかもしれない」と。
シンクロ。
鮫がひしめくプールの中でどれだけの演技ができるのか。
鉄棒。
棒の表面にトゲがいっぱい。血がいっぱいである。
血を撒き散らしながら次々と技を決めていく姿はあまりにも圧倒的である。
たまに血で滑って頭から叩きつけられてしまうことも。
吊り輪
もちろんトゲがついてるし、輪がちょうど人の首が入るぐらいの大きさだったりする。血がいっぱいである。
夏季リョナリンピックで窒息の苦しみを拝める数少ない競技ということもあり、注目度はそれなりに高い。
床運動
床の下から槍が突き出たりする。血がいっぱいでる。
平均台。
とうぜんトゲがびっしりなので、両手両脚が真っ赤に染まる鮮血の体操である。血がいっぱいでる。
余談だがトゲの大きさや太さもきっちり平均である。
フープ。
フープが金属製で、刃が内側についている。血がいっぱいである。
説明はそれだけで十分だろう。真っ二つである。
かなりの確立でトランポリンが破けるようにできている。血がいっぱいでる。
「いつ? いつ破けるの? この高さでとんでるときに破けたら・・・!」
の表情がマニアックなファンの垂涎を誘う隠れ家的な競技である。
ウェイトリフティング。
ウェイトリフティングという競技とリョナをくっつけたら、どうなるか? 想像してみよう。
だいたいその想像通りのことが起きる。血がいっぱいでる。
射撃。
ウィリアム・テル。血がいっぱいでる。
あの細い剣で突っついてみたいよね! 血がいっぱいでる。
カヤック。
ワニが! ワニがいっぱいだよ! 血がいっぱいでる。
七種競技以上の地獄めぐり。血がいっぱいでる。
リョナリンピックの歴史上、いまだマラソンまで到達したものはいない。
というか自転車ですらまともに走ったことはない。漕ぐための足がサメに食われてるからである。
「主催者がリョナをわかってないんじゃないか? これじゃただのグロリンピックだよ!
リョナっていうのはなぁ、可愛い女の子が血を流したり苦しんだり触手でアレしたり食われて消化されそうになったり(以下自粛)」
という意見が近年になって目立ち始め、根っこの部分から揺さぶられつつある。
リョナリンピック開催委員会内でもリョナ派やグロ派といった派閥に分かれて、今後の運営を巡ってはかなり際どい政争まで起こっている様子。
危険性を正しく教えて、それに対する対処も正しく入手できる世の中であったとして。
(酒・タバコが入手できるのと同程度に、コンドームは買えるけどね、男子なら一度は話題にする)
その通りに未成年が行動し、被害が減るなら、「禁止」でも被害は減るよ。
逆の話として、あれだけ世間で騒がれて、ニュースが風物詩と化していて、危険だと注意喚起までされていても、一気飲みで死ぬ奴がいるだろ。
性行為の場合、飲酒とは違うと考える、その信頼の根拠は何処にあるんだろう。
「社会的に成功した人間は、容姿に気を使っている」から始まり、部下の「いつも1000円カットで済ませてしまう」を、「その程度の店にいってるようじゃ将来性は無いね」と突っぱねた後、自分が使っているお気に入りの店、そして美容院に相応しい服装、帽子と腕時計と靴の関係について散々講釈を垂れ続け、合間には「お前の毛玉だらけの服」「その●●●みたいな染み」といった言葉が挟まれていた。
ぱっと見は二人の人間がにこやかに会話しているだけだが、ただの一方的ないびりである。
伊集院が戯画化する「おしゃれ人間」や、痛いニュースの書き込みをそのまま人格化したような人間は普通いないはずだが、100%存在しないわけではない。彼は常に差別的で無根拠な暴言を撒き散らすのだが、「それが正論」「世の中の真理」「社会人の義務」というフレーズと結び付けられ、正当化されている。新人の子もゆがんだ泣き笑いのようなつくり笑顔を続けているが、そのうち彼に洗脳され、思考や行動が完全に同一化され、彼らやあの人とおなじ一派になる。風物詩である。耐えられない。
幼馴染の康平の祖父は、非常なサッカーが好きな老人だった。高校生を代表するスポーツは何かと問われれば真っ先に高校サッカーだと答えたし、正月になると駅伝なんぞには目もくれず天皇杯だけを観戦し続けていた。
そんな祖父の血が色濃く流れているのか、最近になって康平はサッカーにはまり始めている。それまで全く見向きもしていなかったくせに、熱中し始めたら早かった。今ではお気に入りの選手はもちろんのこと、贔屓のチームも、そのチームのサポーターにも加入してしまっている。ものすごい機動力だと思う。
なんて言ったって、僅か二ヶ月の間に起こった大変化だったのだ。いろいろと不思議に思うところはあるけれど、本人が心から好いているのだから横から何かを言うことも出来ない。知り合いは、何か憑き物でも憑いているんじゃないかと面白おかしく口にしていたけれど、あながち的外れじゃないんじゃないかなと私は思っていたりする。
でもまあ、そんな康平の変化など正直どうでもいいのだ。所詮は幼馴染。もう大人なんだし、やりたいようにやればいいと思う。
そんなことよりも、私には康平に誘われるがままに、足しげくスタジアムでのサッカー観戦に付き合っている私自身のことの方が気に食わなかった。
取り立ててサッカーが好きなわけではないのだ。康平に好意を抱いているわけでもない。なのに、何故かお誘いにほいほいと返事をしてしまっているのだ。私には、他の誰よりも私自身のことが一番分からなかった。
嘆息を吐きながら頭を抱えるのと同時に、康平が贔屓にしているチームのフォワードが、ゴール目前でまさかの蹴り損ないをしてしまった。落胆のあまり周囲には、どっと数百人分の嘆息が溢れ出す。もちろん、隣の康平もがっくりと項垂れてしまっていた。私はしばしの間、筆舌に尽くし難い負の感情に包まれてしまう。
堪らなかった。たかがひとつの失敗ではないかと叫びたくなったくらいだ。一喜一憂するのは別に構わなかったが、あまり入れ込んでいない私まで巻き込まないでほしかった。気が滅入りそうになって、思わず面を下げてしまう。
試合は、贔屓のチームが0対1で負けてしまった。康平は一年分の溜息を今日一日で吐き出さんとするかのように落ち込んでしまっていた。
その帰り。途中で康平と別れた私は、病院の個室で寝たきりになっている祖母の許を訪ねた。認知症が進むところまで進んでしまった祖母は、もはや孫である私のことはおろか、実の娘である母のことまでも他人と区別がつかなくなってしまっている。二週間ほど前からは意識も朦朧とし始めてしまっていて、ずっと昏睡状態が続いていた。
医師は、もう長くはないと告げてきていた。母は泣かなかったし、私も泣かなかった。本音を言えば、ほっとしていたくらいだった。
個室の扉を開けて、眠っている祖母の様子を確認する。道中で買ってきた花を花瓶に差し替えると、そっと祖母のベッド横に近づいて安らかな顔を撫でてあげた。
つい数週間前まで半狂乱に近かった状態にあった人物だとは思えない寝顔だった。
「また来るね」
そう耳元で声をかけると、意識など無きに等しい祖母が微かに微笑んだような気がした。
表情に、不意に温かな感情――罪悪感や愛、喪失感や感傷など――が込み上げてきた。視界が滲み始めるような気配がにじりと忍び寄ってくる。
でも、私は踏ん張った。
泣く権利は自らの手で捨て去ってしまったのだ。今更涙を見せるような真似だけは、祖母を愚弄する行いだからこそ、することができなかった。
渦巻く感情を胸の中に仕舞いこんで、私は病室をあとにする。立ち去る時に、着ていた服の裾を握り締めていた枯れ木のような掌が、過ぎ去った幸福な過去を呼び起こしてくれた。
帰路に着いた私は、一応康平に電話を入れることにした。会話の中で意識がないはずの祖母が服を握ったことを話すと、康平は一言、よかったねと返事を寄こしてくれた。
うん。まったくその通りだ。本当によかった。
思って満点の星空を仰いだ私の耳に、そう言えばさ、と康平の声が流れ込んできた。
「そう言えば、今日梓が着てたユニフォームな、ジジイが大好きだった選手の番号だったんだよ。帰ってから遺影を眺めてて思い出したんだ。確かそれ、お前が適当に選んだやつだったろ? 珍しいこともあるもんだよな」
言ってにししと笑った康平に、私はそうだねと、やはり笑いながら返してあげた。
お互いに笑いが収まると、少々の沈黙が生まれてしまった。康平が気恥ずかしそうに次の約束を口にする。
「あのさ……また、一緒に見に行ってくれるよな?」
きっと電話の向こう側で康平も私と同じように真っ赤になっているんだろうと思うと、変な勇気が湧いてきた。
「まあ、当面の間は一緒に行ってあげてもいいよ」
返事がなかなか返ってこなかった。電波が途切れたのかと心配になり始めたころに、ようやく微かな笑い声が聞こえてきた。
無邪気な笑い声だ。まるで子供の頃に戻ったかのような。暖かな視線に守られているかのような。
やがて釣られて笑い出してしまった私は、康平と一緒にくすくすと笑うだけの電話をしばし続けた後で、またねと言って通話を切った。
和やかな気持ちが、胸いっぱいに染み渡っていたのがよく分かった。
翌日、私の祖母は息を引き取った。
それなりに左翼的で合法的な「デモ」に参加した経験を踏まえて言うと、今回の秋葉原の「歩いていただけで逮捕されたぜ」騒動は、その経緯からオチまで含めて十全な成功を収めたと言えると思う。
数千人から一万人規模の「デモ」を組織しても、大抵の場合無駄もいいとこ。新聞の論説話題にのぼることもなければ翌日の社会的な話題になることなんて皆無。せいぜい季節の風物詩のごとく、で、一万人近い参加者は警察に周囲を固められ黙々とただ指示通りに歩くだけ。こんな馬鹿みたいな話はない。
警「はいここで横断幕しまって旗は降ろしてー」と言われたら素直に仕舞って降ろす。警「はい赤信号になるから走って、はいここで止まって」と言われたら素直に走って、止まる。そんだけ大人しく「合法的にデモ」しても周囲の車やなんかからは当然冷たい眼で見られ、そして一万人近い人間を動員して、翌日の新聞には3行。どこが「示威行動(デモンストレーション)」なんだ? ホント終いにゃ『何してるんだろうオレら』って気になるよ、アレは。
それに比べればコイツらは僅か10数人程度で「デモやるよ」と予告して、そんで現地ではデモの真似をしつつデモではないスタイルで大人しく警察の言うこと聞きつつ(横断幕やら風船やらは言われたとおり下げたらしいし)しかし(列を成して歩けば法に触れるので、法に触れないために)バラバラに三々五々とただ歩くだけというスタイルを貫き、最後は困った警察に「転び公妨」仕掛けさせて逮捕者を出して見せ、参加者の心と翌日の新聞その他報道に確実にその存在感を示して見せた。更に、各マスコミが「記者クラブ的」に「三人が警察に暴力を振るって逮捕」と報道してるけど、悪いけどYoutubeにその瞬間の動画とかアップされてる。先頭を歩き始めた人にいきなり寄りかかってくる人、警察に対して「押さえろ!公妨だ公妨!」と連呼する怪しいオヤジ。アレを見て「おやおや(薄笑)…」となった人は相当数に上ると思うよ。まあ最後のアップロードまで全部ひっくるめて見事に(無届けだが積極的には法に触れない範囲内での)示威行動(デモンストレーション)を成功させたよね。
結局、彼らにしてみれば麻生宅に行ければもちろん良し、行けなくても良しだったわけで、そういう意味では「卑怯」っちゃ卑怯だけど、オレとしてはソレ戦略として賞めてやりたいところ。
だって、10数人程度で、積極的な触法行為無しに(「転び公妨」により触法行為が「あった」ことにはされたワケだけれども)これだけの示威行動(デモンストレーション)が行える、ということを示した意味は大きいよ。取り締まる側の方々は今回のコイツらの「成功例」のお陰で当分頭を抱えることになるだろうな。まあ、どうあっても彼らが「暴力をふるった」ことにして今回は流すとしても、今後似たようなことがある度に「暴力を振るったので逮捕した」と主張し続ける?その度ごとに動画も次々アップされるだろうに?
まあ届け出が必要な「デモ」の範囲を見直した方がいいんじゃねーの。大体、大音量で街宣車連ねてる方々も同じくらい交通妨害なわけだけど、彼らはあらかじめ走るルートとか届け出しないのに捕まらない不思議(あとから公安がついて歩いてるらしいね)。そりゃ警察が「市民の安全」を最優先するのは大事だしいいさ。感謝もするさ。でも、対象の右左とかそういう「思想内容」のことを取り締まる人が判断しちゃいかんだろ? 警察や公安が特定の政治思想によって働くことの恐怖。右側の方々も「この先政権が交代して、それが5年、10年となってきたとき…」って想像してみなよ。一応さ。
まあそんなわけでinumashさんの以下の批判は余り納得しなくて一言言おうと思ったわけなんだけれども、チキンだから増田に書くよ。