2009-08-09

全然らしくない夏の風物詩

幼馴染の康平の祖父は、非常なサッカーが好きな老人だった。高校生を代表するスポーツは何かと問われれば真っ先に高校サッカーだと答えたし、正月になると駅伝なんぞには目もくれず天皇杯だけを観戦し続けていた。

そんな祖父の血が色濃く流れているのか、最近になって康平はサッカーにはまり始めている。それまで全く見向きもしていなかったくせに、熱中し始めたら早かった。今ではお気に入りの選手はもちろんのこと、贔屓のチームも、そのチームのサポーターにも加入してしまっている。ものすごい機動力だと思う。

なんて言ったって、僅か二ヶ月の間に起こった大変化だったのだ。いろいろと不思議に思うところはあるけれど、本人が心から好いているのだから横から何かを言うことも出来ない。知り合いは、何か憑き物でも憑いているんじゃないかと面白おかしく口にしていたけれど、あながち的外れじゃないんじゃないかなと私は思っていたりする。

でもまあ、そんな康平の変化など正直どうでもいいのだ。所詮は幼馴染。もう大人なんだし、やりたいようにやればいいと思う。

そんなことよりも、私には康平に誘われるがままに、足しげくスタジアムでのサッカー観戦に付き合っている私自身のことの方が気に食わなかった。

取り立ててサッカーが好きなわけではないのだ。康平に好意を抱いているわけでもない。なのに、何故かお誘いにほいほいと返事をしてしまっているのだ。私には、他の誰よりも私自身のことが一番分からなかった。

嘆息を吐きながら頭を抱えるのと同時に、康平が贔屓にしているチームのフォワードが、ゴール目前でまさかの蹴り損ないをしてしまった。落胆のあまり周囲には、どっと数百人分の嘆息が溢れ出す。もちろん、隣の康平もがっくりと項垂れてしまっていた。私はしばしの間、筆舌に尽くし難い負の感情に包まれてしまう。

堪らなかった。たかがひとつの失敗ではないかと叫びたくなったくらいだ。一喜一憂するのは別に構わなかったが、あまり入れ込んでいない私まで巻き込まないでほしかった。気が滅入りそうになって、思わず面を下げてしまう。

試合は、贔屓のチームが0対1で負けてしまった。康平は一年分の溜息を今日一日で吐き出さんとするかのように落ち込んでしまっていた。

その帰り。途中で康平と別れた私は、病院の個室で寝たきりになっている祖母の許を訪ねた。認知症が進むところまで進んでしまった祖母は、もはや孫である私のことはおろか、実の娘である母のことまでも他人と区別がつかなくなってしまっている。二週間ほど前からは意識も朦朧とし始めてしまっていて、ずっと昏睡状態が続いていた。

医師は、もう長くはないと告げてきていた。母は泣かなかったし、私も泣かなかった。本音を言えば、ほっとしていたくらいだった。

個室の扉を開けて、眠っている祖母の様子を確認する。道中で買ってきた花を花瓶に差し替えると、そっと祖母のベッド横に近づいて安らかな顔を撫でてあげた。

つい数週間前まで半狂乱に近かった状態にあった人物だとは思えない寝顔だった。

「また来るね」

そう耳元で声をかけると、意識など無きに等しい祖母が微かに微笑んだような気がした。

表情に、不意に温かな感情――罪悪感や愛、喪失感や感傷など――が込み上げてきた。視界が滲み始めるような気配がにじりと忍び寄ってくる。

でも、私は踏ん張った。

泣く権利は自らの手で捨て去ってしまったのだ。今更涙を見せるような真似だけは、祖母を愚弄する行いだからこそ、することができなかった。

渦巻く感情を胸の中に仕舞いこんで、私は病室をあとにする。立ち去る時に、着ていた服の裾を握り締めていた枯れ木のような掌が、過ぎ去った幸福な過去を呼び起こしてくれた。

帰路に着いた私は、一応康平に電話を入れることにした。会話の中で意識がないはずの祖母が服を握ったことを話すと、康平は一言、よかったねと返事を寄こしてくれた。

うん。まったくその通りだ。本当によかった。

思って満点の星空を仰いだ私の耳に、そう言えばさ、と康平の声が流れ込んできた。

「そう言えば、今日梓が着てたユニフォームな、ジジイが大好きだった選手の番号だったんだよ。帰ってから遺影を眺めてて思い出したんだ。確かそれ、お前が適当に選んだやつだったろ? 珍しいこともあるもんだよな」

言ってにししと笑った康平に、私はそうだねと、やはり笑いながら返してあげた。

お互いに笑いが収まると、少々の沈黙が生まれてしまった。康平が気恥ずかしそうに次の約束を口にする。

「あのさ……また、一緒に見に行ってくれるよな?」

きっと電話の向こう側で康平も私と同じように真っ赤になっているんだろうと思うと、変な勇気が湧いてきた。

「まあ、当面の間は一緒に行ってあげてもいいよ」

返事がなかなか返ってこなかった。電波が途切れたのかと心配になり始めたころに、ようやく微かな笑い声が聞こえてきた。

無邪気な笑い声だ。まるで子供の頃に戻ったかのような。暖かな視線に守られているかのような。

やがて釣られて笑い出してしまった私は、康平と一緒にくすくすと笑うだけの電話をしばし続けた後で、またねと言って通話を切った。

和やかな気持ちが、胸いっぱいに染み渡っていたのがよく分かった。

翌日、私の祖母は息を引き取った。 

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