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2021-03-19

宮沢賢治

二、活版所

 ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅すみの桜さくらの木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜からすうりを取りに行く相談しかったのです。

 けれどもジョバンニは手を大きく振ふってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝えだにあかりをつけたりいろいろ仕度したくをしているのでした。

 家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴くつをぬいで上りますと、突つき当りの大きな扉とをあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居おりました。

 ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子テーブルに座すわった人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚たなをさがしてから

「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡わたしました。ジョバンニはその人の卓子の足もとからつのさな平たい函はこをとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁かべの隅の所へしゃがみ込こむと小さなピンセットでまるで粟粒あわつぶぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、

「よう、虫めがね君お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

 ジョバンニは何べんも眼を拭ぬぐいながら活字だんだんひろいました。

 六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱はこをもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙だまってそれを受け取って微かすかにうなずきました。

 ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄にわかに顔いろがよくなって威勢いせいよくおじぎをすると台の下に置いた鞄かばんをもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛くちぶえを吹ふきながらパン屋へ寄ってパンの塊かたまりを一つと角砂糖を一袋ふくろ買いますと一目散いちもくさんに走りだしました。

三、家

 ジョバンニが勢いきおいよく帰って来たのは、ある裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口の一番左側に空箱に紫むらさきいろのケールやアスパラガスが植えてあって小さなつの窓には日覆ひおおいが下りたままになっていました。

「お母っかさん。いま帰ったよ。工合ぐあい悪くなかったの。」ジョバンニは靴をぬぎながら云いました。

「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日は涼すずしくてね。わたしはずうっと工合がいいよ。」

 ジョバンニは玄関げんかんを上って行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の室へやに白い巾きれを被かぶって寝やすんでいたのでした。ジョバンニは窓をあけました。

「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」

「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」

「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」

「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」

「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」

「来なかったろうかねえ。」

「ぼく行ってとって来よう。」

「あああたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」

「ではぼくたべよう。」

 ジョバンニは窓のところからトマトの皿さらをとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。

「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」

「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」

だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」

「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」

「きっと出ているよ。お父さんが監獄かんごくへ入るようなそんな悪いことをした筈はずがないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈きぞうした巨おおきな蟹かにの甲こうらだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。一昨年修学旅行で〔以下数文字分空白〕

「お父さんはこの次はおまえにラッコ上着をもってくるといったねえ。」

「みんながぼくにあうとそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」

「おまえに悪口を云うの。」

「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云わない。カムパネルラはみんながそんなことを云うときは気の毒そうにしているよ。」

「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達だったそうだよ。」

「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中とちゅうたびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱信号もついていて信号標のあかり汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油をつかったら、罐かまがすっかり煤すすけたよ。」

「そうかねえ。」

「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしぃんとしているからな。」

「早いからねえ。」

「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒ほうきのようだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜からすうりのあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」

「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」

「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」

「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」

「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」

もっと遊んでおいで。カムパネルラさんと一緒いっしょなら心配はないから。」

「ああきっと一緒だよ。お母さん、窓をしめて置こうか。」

「ああ、どうか。もう涼しいからね」

 ジョバンニは立って窓をしめお皿やパンの袋を片附かたづけると勢よく靴をはい

「では一時間半で帰ってくるよ。」と云いながら暗い戸口を出ました。

2020-09-06

毎朝新聞を読んでる

記事よりあの新聞紙の肌触りが好きなんだよな

特殊コーティング剤でも塗ってあるのかな

2019-10-17

毎朝新聞読んでるけど、おれおじさんだから新聞がちょうどいい

ネットニュース見るのもやるけど、新聞は紙面を俯瞰で見て概要が見えるのがちょうどいい

クリックしなくてもいいのが楽

気になった記事スマホ写真撮ってストックしてる

昔のおじさんが新聞記事を切り抜いてまとめてるようなやつだ(笑)

地方記事とかコーナー記事も読んでると楽しい

どれもネットニュースではあまり目にしないやつだ

とにかくいろんなジャンル記事ひとつの紙面にあるわかりやすさがおじさんにはちょうどいい

年取るとこれだよ、みんなも(笑)

2018-09-07

ポンキッキをみるか、アニメをみるか。

幼稚園に通うようになると朝のツラさがはじまる。

社会に合わさなければならない苦しさを紛らわすように、ルーティーンワークとしてのテレビ鑑賞もはじまる。

そこでポンキッキをみるかアニメをみるか。

ポンキッキは難解だ。

アニメには物語構造(経時的な話の流れ)がある。

それは意識を持ったこから慣れ親しんでいる。

しかポンキッキ物語はない。

全体を貫通する筋がない。

物語世界中に太古よりあり似たような構造を持つ。

他国2000年前につくられた神話さえ楽しむことができる。

しか他文化の「笑い」を理解するのはたとえ言語の壁がなくとも難しい。

ポンキッキ物語構造に慣れた幼稚園児がはじめてふれる異文化である

ポンキッキバラエティ番組子供向けにしたものだ。

バラエティ番組こそ「笑い」であり、現代日本について(さら芸能界について)さまざまな暗黙の理解が前提とされている。

出演者誰も知らない場合ボケツッコミ関係も知らない場合バラエティ番組を楽しむのは難しい。(ポンキッキでは芸能人を知らない子供向けに出演者は二体の着ぐるみであり、着ぐるみにの色は赤と緑の補色関係だ)

しかバラエティ番組こそがテレビの本懐であろう。

テレビ本来目的スポンサー広告でありCM時間がメインである

CM時間は15秒毎に話題が切り替わっていく。

CM同士は完全に脈絡がない。

全体として前後関係のないバラエティ番組のつくりは、そういったCM時間に近い。(出演者を知らなければ訴求効果が薄いこともそうだ)

ポンキッキを楽しむことは難しい。

大人毎朝新聞を読むように子供ポンキッキを眺める。

ポンキッキをなんとなく眺めているうちに現代日本の「作法」が身につくのだろう。

2017-02-28

田舎地方紙に望むこと

田舎(のうちの会社)だと新聞の「お悔やみ」と「ご誕生」欄は

全員毎朝欠かさずチェックしてて当然みたいな雰囲気がある

新聞の他の部分はインターネットニュースで事足りるけど

お悔やみとご誕生だけは新聞をチェックするしかない(地方によってはインターネットで公開しているところもあるそうだが)

実際その2つは田舎会社だと仕事上非常に重要情報になるわけだが

そのためだけに月数千円払って新聞とって、毎朝新聞を広げ、大量の古紙処分に悩みたくはない

毎朝「お悔やみ」と「ご誕生」だけスマートフォンに通知してくれるサービスを始めてくれないか

月額300円くらいなら払うから

2015-08-20

でも育ててくれた家族なんでしょう?

飼育だったのか養育だったのか問わないが確かにそうだ。

私は二人の連れ子を持つ継母の元で育った。

実父かどうかは分からない男親は継母と婚姻したが数年後離婚届だけを残して蒸発した。記憶も無ければ興味も無く己の出自を調べた事もないしするつもりもない。

私の継母に関する最初記憶は義姉の誕生日に義兄と継母がにこやかに食卓を囲んでいる光景だ。

私はそれを自室として与えられた布団部屋の戸を少しだけあけ、ぼんやりと眺めていた。

部屋には3組積み上げられた布団とほつれた絵本ゼンマイで動くワニをたたく小さなおもちゃ。前回分の食事に使った食器。水の入ったお茶ペットボトル。日がな一日私が指でほじくり返していた畳が一面ささくれ立っている。

布団を敷く事はない、見つかるとすぐに畳めと継母に怒られるからだ。寒い時は布団の山に寄りそい、耐えられない時は畳んだままの布団の間にサンドイッチのしなびたレタスのように挟まって潰れた。

絵本はおやゆび姫、どこかでページが抜けていたような気がする。ワニのおもちゃは稼働音がうるさくて誰かが家に居る時に動かすと酷く怒られるので遊んだ記憶が無い。

食事は日に2度あった。回数が少ない日はあったが多い日はなかった。継母の食事が出来たという声が聞こえてから、しばらくして食器の音がなくなると継母が食事を持ってきた。その時前回の食事の食器を下げて行く。きっと同じ食事内容だと思う。私は時折運ばれてくるカレーが好きだった。ペットボトルの水は半分ぐらい飲むと都度足された。

私は許可くそから出る事を禁止されていた。

トイレに行きたい時は戸を内側から三度ノックすると継母が扉を開ける。その時は必ずリビングに続く扉は閉められていた。トイレを済ませるとトイレットペーパーを使いすぎていないかチェックされた。腹ぐあいが悪く中々出てこないと度々扉を叩かれた。トイレットペーパーを使いすぎた時はトイレに行きたいというノック無視された。我慢できず漏らして泣き叫ぶとこっぴどく叩かれ、全裸に剥かれ次の日洗濯された同じ服が戻ってくるまでそのままだった。

いつだったかふいに寂しくなって夜中こっそりと部屋を出て継母の寝室を探した事がある。継母に見咎められた後また部屋に押し込められた。その日からつっかえ棒で内側から戸が開かなくなった。

いずれ私も小学生になった。義兄は中学生、義姉は小学校高学年。サカキバラ事件の余波か集団登下校が推奨されている時期だ。まず義兄が中学へ向かう。次に義姉は登校班と共に通学して行く。私も同じ登校班だが、彼らが移動を始めたのを継母が確認した後に家を出る事を許され、一人で登校をした。その事で教師には良く怒られた、私が一人遅れるせいで何人もが迷惑をするそうだ。

継母から学校へ義姉と私の関係については口止めをされていたらしい。担任は本当に義姉と私の事を知らないような様子だった。

数日に1度しか風呂に入らず、毎日同じ服を着て、人との喋り方も知らない私がなじめる訳もなく、イジメられる以前に腫れ物として誰にも触れられない日々を延々と繰り返した。

私の記憶しているもっとも古い継母との会話の記憶小学校卒業する間際に明日から新聞配達しろと言われた時の物だ。

中学の3年間毎朝新聞配達をして私にかけたお金を返済しろというものだ。お金を入れている間は部屋の出入りも入浴も排泄も食事も自由だという条件を受け、私はすぐに仕事を始めた。

朝3時から1時間団地の朝刊配達をして月に6万円程を継母に収め、毎日500円か二日分として1000円を渡されそれで食事や文具類を用意していた。あっという間の3年間だった。

私が継母の顔を最後に見た記憶中学卒業する間際だ。

この家から高校に行くのであれば仕事を増やせ、自立するなら50万まで貸し付けるという事だった。私は家を出る事を選択し、それから間もなく11年になる。家を出てから毎月2万入金し続け、借入はすぐに返済したが特に連絡もなく、私は惰性で毎月2万ずつ入金を続けていた。今も続けている。

中卒で資格もなく専門的な勉強もした事はないが、何気なく16歳でインターネットに触れYahooゲームオセロにハマり、そこでウェブサイトの作り方を知り、ホームページの作り方という本を何冊も立ち読みしている内にいつの間にかウェブデザイナーという仕事をしていた。1年間グラビアサイト更新業務というのに携わり、なんとなく受けたWEBコンサルティング会社になぜか採用され4年間働き、コミュニケーションの煩わしさに疲れて独立

今は在宅で細々と仕事をし、月25万程度の儲けを出して生きている。

3年前にネットで知り合った人と交際を続け、結婚を考え始めた。相手の両親とも幾度となく会い、関係は良好ではあると思う。

そして先日、私の家族への対応はどうするのかという話になって表題である

答えが出せないまままもなく1週間。今も答えは出ないままだ。

もはや恋人に連絡するのすら億劫になってしまった。

オチ無し。

 
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