鍋をつついて、話していると、そういう雰囲気になって、いろいろとやってしまった
僕は、その一回でもう会わないつもりだった
昔の同級生とそんなことになるなんて、めちゃくちゃ恥ずかしかった
けど、帰って、メッセージを見ると、また会おうと書いてあった
それから、何回か会った
結局、僕のほうがめちゃくちゃ好きになってしまった
好きだ好きだと言い続けてきたけど、だめだった
セフレでも、セフレ以下でも、友人としてでもいいから会ってほしいと言ったけど、それももうだめみたいだ
僕が、「好きだ」とあいつに伝えるたびに「俺以外に好きな人を作ったほうがいい、俺は気持ちがまだわからない」と言われる
だんだんと「今日は誰々とセックスした」だの「彼女ができそう」だの、
「好きって言われるの鬱陶しいからやめろ」とキレられる
もう僕のことを嫌いになってしまったみたいだ
もう連絡すら取っちゃいけないみたいだ
僕が好きだったのは、仮にも一度仲良くした相手に、こんなひどいこと平気で言うやつだったのかと失望した
悔しかった
自分の何がいけなかったのかといろいろ考えた
一緒に旅行に行こうとか、さみしいはやく会いたいとか
そう言ってくれてた時もあった
セフレだったらオッケーみたいな感じだったじゃん
いきなり、LINEするなって、なに
もう連絡すら取っちゃいけないのか
振り回されて、コケにされて、もういい
もう諦める
もう諦める!
小さいころからテスト勉強というものの意味を理解していなかった。なんでこんなことをしなければならないのだろう、ペーパーの点数が取れたところでそれが実際に使えるかどうかとはまた別の話であるのに、と。
もちろん学力のある学生にありがちな、勉強をゲームとして楽しむという姿勢はそこそこあったのだが(だからこそ今の大学にいるのだから、そこは感謝しなければならない)、中学生ぐらいの頃にはゲームに飽きてしまっていた。
今では、テストが客観性を最大限に取り入れる制度の賜物であることは充分に理解しているのだが(コミュニケーションスキルだとか、仕事をしていく面ではすごく重要視される能力が見られないのはいかがなものか、とは思うのだけど、なんとか上手く潜り抜けた側としては『ありがどうございます』)、今ですらなお、医師国家試験だの期末試験だの、試験に追われる日々なので、うんざりしてしまう毎日だ。
母親が教育ママだったおかげで、変な中高一貫校に入学することになり、一部の奇抜な天才達と六年間を過ごして、物を批判的に見るという目つきだけは養われた。おかげさまで色んな人の自慢/考えを聞いていると、『なんかこれは違うな』とか『なんなんだよそれは』という疑念が、浮かんでくるようになった。
2016年はこれに凄まじく苦しめられた1年だった。自分の考えにすら『お前それは違うだろ』『お前のその姿勢が自分を苦しめているんだぞ』と、そういう考えがポンポン浮かんでくるからだ。
『圧倒的成長』というものがある。あれって、なんなのだろう、と思っていた。もちろん、僕だけでなく数多の人が『圧倒的成長』には疑問を感じているのだろうけど、『意識高い系は馬鹿である』という前提をなくしても、かなり多くの人が疑問を抱くはずだ。『出る杭は打たれる』という、成長志向の者を叩き潰そうとする圧力をも取り払ったとしても、多分疑問は残ると思う。
では、疑問はどこにあるのか。僕がいろいろと見るに、彼らの姿勢には、『圧倒的成長をするのは誰のため?』というのが、基本的に抜けてしまっている。
もちろん、常日頃から自身の肉体の強化に励むスポーツ選手のように自身の頭脳とスキルの強化に励むのはいいことではあり、それ自体推奨すべきことではある(そこから始まるものだっていくつもある)。けれども、『手段の目的化』が起きてしまっていて、そこで身に付けたものを何か役に立てないと意味がないんだよ、ということを重要視したい。かのスポーツ選手ですら、テレビでその輝かしい肉体を見せることで少年少女に夢を与えていることを忘れてはならない。
もちろん『勉強で勝つこと』を目的とするのならそれはそれで良いんだけど、もっと選ぶものがあるだろうに……笑
自分の大学における二年間を振り返れば、それはまさに、自分の基準に当てはめるとするならば、『意識高い系』に違いない、と今は断言する。自分は手段を知らなかった/手段がそこにはなかったのだから、そして、失敗に怯えていたのだから。
能力の向上にひたすら執着した二年間だったし、実際向上したのだけれど、ただただ苦しかった。もちろん、ハードワークを強いられるので、その辛さからくるものもあっただろうけど、どちらかというと、大手を振って歩けない、あるいは、お天道様を見られない、そういうものがあった。背徳感というか、なんというか、『自分は正しいことをしていないよな』、そういう感覚と常に背中合わせだった。
もし。似たような感覚を抱いている人がいて、それでなおかつ、『努力したい』という考えがこころの底にある人がいるならば、『誰かのため』という視点を自分の中に入れてみると良いと思う。この考え方がまだ自分の中にスーッと入ってこないなら、あなたはまだまだ苦しむべきだし、もし、この考え方がスーッと入ってくるなら、僕はそれをなによりも喜ぶと思う。
なんだか、纏まりの無い文章になってしまったけれど、意識高い系の人とか、意識高い人とか、成長を心の底から望む人に贈ります。
不味いお菓子ってどうしたらいいんだろうね。不味い料理なら「食べさえすればこっちのもん、栄養になって私を健康にするがいい」って思って飲み込めるけど、不味いお菓子は「せっかくの糖分摂取を何故お前でやらなきゃならんのだ」って気持ちにしかならない。
言質を取られた上で破るのは社会的信用を損なうのは当然である。
この言葉の真意はまず合意しておらずそもそも約束すらしていないのに「約束したのに!」と嘘を言われた時に用いる。
嘘の約束を守る必要はないが、主観的には約束していないことは明白ではあるものの、客観的に嘘の約束だとすぐにわかる人間は主に人間観察に優れた人のみであるため、だいたい約束を反故にした非道な人間という烙印を押される。
20前半で飲食店成功して、一生働かないでいい人生くらい稼いで、ブランドとか車とか広い家とかやってたけど。
強盗に襲われて、死にかけて、その首謀者が右腕で。
もうなんにもいらないとなってたところに。
で、こんな真面目に生きてるんだなと思ってもう一回青春したかったからアイドルプロデュース始めたんだって。
仮面女子のメンバーの頑張ってるエピソードとか、ファンたちが一生懸命な彼女らを応援したとか見てて、いいなーとか思ってたんだけど。
違ったわ。
俺はこの社長みたいな、大金えて好き勝手してる人間になりてえんだと思った。
ハッキリ言って、やる気は微妙。キャリアも微妙で医者としては凡百。
そりゃ俺のおかげで助かってる人はいるかもだが、俺自身の人生はなんも満たされていない。
金だ。金。
女だ、女。
そういう感じだわ。
そういうのに感じいることができる人間じゃねーわ俺は。
そういうのは、満たされた人間がやればいいわ。
そういうことか・・長期の滞在を希望する外国人相手だけならなんとかと思ったけど全世界全員だと流石に無理か。
ただあのやり方だと九品中正かな?と思ったので。
自分は社会的には無価値のような人間なのだが、自分が生きていることに違和感がある。
生きている意味なんて人それぞれだが、もうない人には安楽死くらい用意してほしく思う。
死ぬ=悪いことというイメージ(固定観念)が深く根付いているように思うのだが、自殺などの死を選ぶ行為がそこまで悪とされている根本的な理由とは何なのであろうか?
失恋って、当の本人は苦しい苦しいと言っているけれど、本当は終わった恋をいつまでも思い出して楽しんでいるようなところがあると思う。本当に苦しいなら、一秒でも早く忘れる努力をするはずだから