はてなキーワード: 自然の摂理とは
アリエルが黒人に変更されてるとか以上にさ、7姉妹いて白人の神様から生まれたはずなのに
黒人とかアジア人やらラテンアメリカ系やら何故か姉妹同士の中で人種の多様性がめちゃくちゃあって、
王子は白人なのに何故か黒人の王女の元で育ってて、なんかとってつけたみたいに拾ってきた捨て子みたいな設定にされてて
「え、政治的正しさのために元の設定どころか自然の摂理とかここまでいろんなもの歪めちゃうの!?」って思っちゃったわ
見るまでは「そんなアリエルの人種が変わってくらいで何をそんな騒いでんの」って思ったけど50倍くらいいろいろ違和感あった
大人の事情がちらついて仕方なかったわ
自分はジャニヲタだけど、この漫画家さんの言うことにはなんとも思わんし、そう思う人もいるだろうなって感じ。もちろん第三者委員会の結果待ちだけど、被害者が4ケタに届きそうな予感してるし。
となると、ジャニーだけが悪いんじゃなくて当然事務所だって悪いよ。性犯罪に厳しい立場をとる人が解散を願うのは自然の摂理だと思うよ。
もちろん自分はもうすぐデビューできそうなあの子とかあの子とかの顔がちらつくので解散はしてほしくない。
だから凸してる過激派のジャニヲタまじで自重してほしい。ああやって凸したって、他人の意見は変わんないでしょ。ジャニヲタの、ひいてはジャニーズ事務所の印象悪くなるだけだわ。
この長文を書いている間にツイート主が自ら問題点に気付いたようなのですが、一応書いたので載せます。
公に相応しい言葉を使われた「夢をかなえるゾウ」の批評論文は普通に読みたい。
勢いに任せて書いていたら思いの外長文乱文になってしまった。歴史については細部に誤りがあるかもしれません。ご容赦ください。
発端と一連のツイート↓
https://twitter.com/dfuz4/status/1672629861524062213?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
https://twitter.com/dfuz4/status/1672958086733250562?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
https://twitter.com/dfuz4/status/1672973973825650689?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
https://twitter.com/dfuz4/status/1672965101517955073?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
長いので要点まとめをしました。
この時点で既に長いですが、この下に本文があります。
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2.「公」における良書主義について
公による良書主義は、先の大戦で見られた悲惨な言論統制、思想弾圧に繋がる。
民主主義においては、全ての本、全ての人、全ての思想信条は法の下に平等に扱われるべきとされる。
また歴史的に見ても、本と人間(思想・信条)は密接に紐づいており、
公の姿勢としてその部分が守られているため、
特定の本を否定することで人格を否定されたと考える人が現れてもおかしくはない。
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3.「私」における良書主義について
公の立場からしても、本来良書・悪書の判断は個人に委ねられるべきとされている。
ただし、文字通り一人一派であり、そうでなくてはならないため、
当然、他人からも私人の立場から私人の言葉で反論される場合がある。これもまた自由であり、自然かつ健全である。
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4.「公」と「私」の混同
マッチングアプリを使っている1ツイッタラーは「私」の立場である。
前述の通り、私人の立場で、私人の言葉を使ったことが発端だが、
途中から研究者、批評・研究という公の立場を持ち出しているため、区別がついていないと思われる。
公の立場には公に相応しい言葉があり、当然集まる意見にもそれが反映される。
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余談.「全ての本は素晴らしい」と考えている人はいるのか?
いない。
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5.今回のまとめ
「私」の立場で発信したのであれば、他人の「私」の意見も受け入れるべき。
反論を受けてから「公」の立場を持ち出すのは、「公」に相応しくないという点で悪手である。
研究者であるならば、嫌いなどの私情を挟まない冷静で平等な視点で、相応しい言葉で論理的に批評しなければならない。
あくまでも私人としての意見であるならば、自らのためにも研究者の立場を途中で持ち出したりせず、最後まで私人の意見に留めたほうが無難。
個人的には発端のツイートの内容はあくまで私的な意見であり、さして騒ぐようなものではないと思う。が、意見を言いたくなる人がいてもおかしくない。
ただし、途中で研究者という公的な立場を持ち出したことで、認識として危険だと思ったためコレを書こうと思った。
ツイ主に敵意はない。出来れば本人に届いてほしいが、読みづらい文章で申し訳ない。本を愛する気持ちは勿論自分もそうなので、よくわかる。
ここから本文
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本人がこの視点の区別がついていないことが、一番の問題なのではないかと思う。
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2.「公」における良書主義について
まず前提として、日本には古く戦前に「良書主義」という考え方がある。
コレはざっくり言うと、
"世の中には(ツイ主の言葉を借りれば)「しょうもない」「薄っぺらい」=悪書が存在し、それらは教育および教養において価値を持たない。歴史的・文学的に意味を持った良書のみに価値がある。"という考え方である。
ただしコレは、例え「公」の立場が定めたものだとしても、突き詰めていけば、ツイ主も表明しているようにどこかの個人「私」の主観に基づくものである。
そのため「公」とされる場所においては、近年ではこの考え方が否定されている。
"絶歌問題"と言えば大々的にニュースにもなり、記憶にある方も多いと思う。
大筋は以下。
①「こういった内容の図書を図書館が置いて良いものか」と市民からクレームが入った
②クレームを受けた一部図書館が該当の図書を閉架=職員の出納が必要な場所に置いたり、除籍とした
論点としては、
・公的な自治体である図書館が、特定の出版物を市民の目に入らないように検閲・排除するのは正しいのか
・それは言論弾圧に繋がり、思想信条の自由に反するのではないか
議論の中、多くの図書館ではこの絶歌を特別扱いせず、他の一般図書と同じように取り扱った。つまり開架=誰でも手に取れる場所に置いた。
"本の評価は、読んだ各個人「私」に委ねられる。図書館「公」において、すべての本(すべての人間、すべての思想信条)は平等である"
民主主義に端を発する図書館の歴史を学んだ者であれば、この姿勢には拍手を送るだろう。
「公」においては、良書も悪書もあってはならない。
図書館ひいては司書職の人間が私的な判断で、特定の本への接続を薦めることまた同様に妨げることは越権行為であり絶対的なタブーである。(※2)
また、この対応からも分かるように、本というものは個人の思想・信条・人格と密接に紐付けられて考えられている。
一冊の本は一つの思想であり、一つの信条であり、一個の人である。
第二次対戦前夜のドイツの焚書に対するハイネの言葉である「本を焼く者は、いずれ人間も焼くようになる」からもそれがよく分かる。
「公」の場において、特定の本を特例として扱い肯定・否定することは、その本に書かれた思想およびその思想に同調する人を肯定・否定していることになる。
だからこそ、良書主義は言論統制や思想弾圧に繋がるとして廃れていった。
ただし、繰り返すが、コレは「公」における話である。
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3.「私」における良書主義について
前述の通り、評価は「私」に委ねられる。
司書職の人間に、職務外で好きな本・嫌いな本を聞けば全員がその両方を答えるだろう。コレは「私」の範疇であるため自由である。
本人も表明しているように、発端となるツイートした時点での立場は明確に「私」である。
マッチングアプリをしている私人としての発言でしかない。自由である。
そしてそこに、たくさんの「私」の反対意見が集まった。コレもまた自由であり、自然である。
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4.「公」と「私」の混同
問題はその後だ。
自然の摂理で発生した反対意見に不満を覚えたツイート主は、「批評」「研究」という言葉を持ち出して、文学研究をしている学生という立場から発言を始めた。
研究者は言わずもがな公の存在である。学生であっても、指導教員がおり、大学には国から補助金が出ている。
批評や研究はもちろん存在するが、公には公に相応しい言葉がある。
しょうもない、薄っぺらい、大嫌いという言葉で語られた批評は存在しない。(文芸商業誌にならあるかもしれないが、当然「私」である)
研究者は、特定の作者・文書を研究対象に選んだからといって、選ばなかった文書を見下しているかといえばそうではない。
(内心の「私」の部分ではそうであったとしても、それを「公」である研究の中で露悪的に表現することはない)
公に相応しい言葉を使って正しく批評していれば、反論であっても同じように公に相応しい言葉を使った建設的な意見が来ていただろう。
「個人としての発信なら問題ないが、研究者としての発信なら相応しい言葉ではない」
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余談.「全ての本が素晴らしい」と思っている人はいるのか?
これはハッキリ言うが、いない。
公の立場では「全ての本は平等」に過ぎない。コレは法の下において、そうでなければならない。
私の立場では「全ての本は平等ではない」。コレは法の下において、また民主主義において、そうでなければならない。
ツイ主にアレコレ言ってる人は全ての本が素晴らしいと思ってそう言っているのではなく、
好きな本を貶された、好きではないけどその言い方はないでしょう、お前の態度が気に食わない、なんとなく鼻につく等等、一個人の「私」の立場からの意見に過ぎない。
また途中から研究者の立場を持ち出したことに対して違和感を覚えたり、それはダメでしょうと思ったり、マウントを取ろうとしていると捉えて不快になった人もいるだろう。
何度も言うが「私」の立場からであれば自由で自然で健全である。
ただし、当然、誹謗中傷や現行の法に触れる発言は自由の範疇外なので、コレについては受け入れる必要はない。(警察に行ってください)
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5.今回の件のまとめ
「私」の立場から「私」の言葉で反論、不快感の表明、揶揄が集まった
(自然な流れ)
これに尽きる。
そして、後から「公」ぶるのは無理があり、「公」の在り方に照らせば悪手だ。
つまり公と私を混ぜるな危険。ということで一度冷静になって考えてほしい。
研究者のポーズを取って「批評という文化に馴染みがない…?」等と煽っているが、それこそ公に相応しい言葉を用いた批評という文化に対して失礼である。
「研究者であろうが、ツイッターで発言している時点で"私"の立場です。だから自由でしょ?」というなら納得できる。しかし、ならば他の人の「私」の意見が集まることも受け入れなければならない。
何度も言うが研究者という「公」の立場を取るのであれば、「私」の好き嫌いを挟むことは相応しくない。
この区別をはっきりさせて、「公」の姿勢を理解していないと、研究者としては危険すぎる。
※1) 公の最たるものには文書館もある。文書館は歴史的・文学的に保存価値があるものが選別され保管されている。そこには「公」=研究者による評価判断が下されている。
ただし、文書館および文書館職員は当然「文書館に所蔵されない本はしょうもない。薄っぺらい。大嫌い」等とは言わない。
あくまでも歴史的文学的な保存価値という一要素を選書基準としているに過ぎないからであり、良書・悪書を選別しているわけではないからである。
また、勿論そういった言葉が「公」に相応しい言葉ではないからである。
※2)近年ではCCC等一般企業の参入、指定管理、業務委託といった制度により、自社や関係各社に利益が上がるような本の取り扱い方をしている図書館もある。しかし本来の図書館の在り方としてはこの限りではない。実際に問題にもなっている。
日本の社会人の平均学習時間は1日6分、そのうちの95%の人の学習時間は0分。
これが日本社会の現実である。つまり何もスキルを身に着けようともせず、自分が学校を卒業したころ、自分が最初に就職したころと似通ったスキルで世の中を渡りきろうとしている人々がいる。あなたはどれほど学習しているか。
ほとんどの人は『努力』と『苦行』とを同一視している。これは教育の失敗によるのであろう。努力は苦しみを伴うことも多いが、苦しめばすなわち努力となるのではない。耐え忍べばいつかは救済が来るわけではない。苦行は意味がない。苦行ばかりしている人が多い。『わたしたちはいっぱい苦行をしている』と言い張っている。それは正しい。しかし努力をしなければならない。自分の意を通すために必要なことをすべてやる能力を努力という。
他責ばかりする者が多く見られる。『他責にするな』というのではない。どうして自分の人生のすべての責任を、完全に他人のせいにしてそれを受け入れていられるのか。人生の主導権を手放して、それで満足か。痛めつけられてきて、自らの未熟さを世間から突きつけられ続けたからかもしれない。蔑まれ、馬鹿にされ、からかわれ、侮辱される。どうせやっても無駄だと感じているか。無論、社会というものがクズに見えるのは仕方がない。クズな人間は目につきやすい。ノイジーマイノリティである。悪事千里を走るとも言う。ふざけたどうしようもない人物も実際に多くいる。そういうふうに社会を見れば、社会は「クズ」の総体でできたもののように見えるのも無理はない。「ああ、社会というものはどうしようもないんだね」と思うのだろう。違う。
いつまでも自分がモラトリアム期間の中にいて、いつまでも人生が猶予されているように振る舞っている輩が目につく。年齢を重ねれば自然と大人になるわけではない。大人になろうとしなければ大人になることはできない。知識を重ねさえすれば大人になるわけではない。それはアダルトチルドレンという。どれだけの人々が、愚痴も言わず、他人の人生を助け、人々を愛しているかをしっかり見ようとしない。気付いてしまえば、己こそが真のクズだとわかってしまうからだろう。社会とは、自分の身の回りだけではない。自分の身の回りは世界ではない。世界のごく一部である。
どれほど自分が未熟で、愚かで、他罰的で、人に迷惑をかけ続け、どうしようもない、本気を出せない、信頼を容易く裏切る、クソガキ的存在なのか、そういうことに思い至りたくないのだ。このように言うと、実際反発する人が多いものだ。自分がいかに素晴らしく、いかに努力をしており、それに比べて他人はどうしようもなくダメで、他人は楽々生きているように見えて、恵まれているくせに、厚かましい無神経なやつばかりなのだと思っている。
「ああ、これは自分のことを言っているのだ」と振り返ることができない。どこかずっと他人事である。そういうことは、自分ではない他人がやるべきなのだと思っている。しかし他人も人生は1つしかない。どうしてあなたのために、他人は他人の人生を犠牲にしなければならないのか。他人にどうにかしてくれという発言は、ドラえもんを求めるのび太の声である。誰かスーパーヒーローがやってきて、自分を救ってくれはしないかと思っている。自分がドラえもんになろうとはしない。
ヒーローはいる。ヒーローは、人知れず人を助けている。感謝など誰からもされない。それこそが大人である。少し探せばいくらでも見つかるものだ。探そうともせず、目が曇っているから見つけられないのだ。自分はやっている、十分やっていると思っている。いいや、全然、やっていないのだ。耐えるだけなのは、怠けているのだ。耐えるだけなら楽だろう。耐えている自分は善で、耐えさせる他人が悪なのだ。そして、素晴らしい人々は、自分とは違う世界の住人だと思っているか。そうではない。身の回りの調度品を注意深く見よ。それはどう作られているか。あなたに作れるか。何故それがそこに存在できるのか、安全に暮らしていけるのか、思いを馳せない。それが当然のことだと思っているからだ。当然ではない。先人たちの血と努力の奇跡的結晶を「それが自然の摂理だ」と、誤って学習してしまったのだ。
努力や忍耐など他国の人々もやっている。とてつもなく多くやっている。他国の人は決して無知の民ではない。同じ人間であり、ホモ=サピエンス(知恵のある人)である。野蛮人だと思っていたか。自分だけだと思っていたか。それだから追い抜かれたのだ。時代のせいにするな。甘えるな。依存するな。もうとっくに、昭和ではないのだ。今の社会人は全員が不景気しか経験していない。得など誰もしていない。「他国のもっと苦しんでいる人だって頑張っているのに」という言葉を軽く見ている。心が鎖国しているのだ。目を向けなければいけない。自分が、自分が虐げられていることだけが重要だと感じているのだろう。あくまで自己が優先。他人など蹴落としてしまえ、他人を虐げてしまってもよいという精神が、他人を容易く批判させる。
大人とは、「あなたは悪くない、あなたは少しも悪くない、悪いのはあなたではないよ、あなたは頑張っているよ、あなたは虐げられているよ、あなたは大変だったね」という悪魔を求めるべきときではない。そんなことは、ほとんどの場合、言われないものだ。当然の如くやるものだとみなされている。褒められもしない。愛されもしない。やるのが常識だと思われる。報われることもない。それでも頑張れるのは、わかってくれる人がいるからだ。自分のことだ。自分が、どれほど懸命にやっているかわかっていれば、それで良いのだ。
社会には大人が少ない。いないわけではないが、割合少ない。見えにくいというのもある。だから大人を求めている。全く割に合わず、非合理であっても、それをやろうとする人間を求めている。自分の任務をわきまえて、それを果たせる大人を求めている。年齢的な意味での大人は、見限られていることも少なくない。どうせ言っても無駄なのだ。固定観念に縛られて、他者に損害を与え自己利益だけを徹底的に追求する邪悪だと思われている。そのわりに、自分は正義だと思っている。だから子どもに教えているのだ。大人は、子どもに救いを求めている。「未来の大人たちよ、私達を助けたまえ」と言っている。
俺たちは、もはや助けられる方ではない。助ける方なのだ。誰か助けてくれると思っても仕方がない。なぜなら助けてくれる人が全くいないのだ。日本は王国でも帝国でもない。早々に自分の人生は解決して、他人を助ける側に回らなければならないのだ。進まなければならないし、進もうとしているのだ。耐える必要はない。ただ努力せよ。
もしもそれができないなら、指をくわえてみていれば良い。救ってやろう。守ってやろう。俺たちは大人だから、そうしたいのだ。
俺は、この文章の意味が、ただ1人にだけ伝わればそれでいい。俺はただ、社会がクズなものだと思いたくないのだ。世界は素晴らしいのだ。