労役拒否したり反抗的態度だと独房的なところに入れられるらしいけど、そこではずっと正座らしいけど、
それも無視して部屋でずっとゴロゴロしたり体操したりするとどうなるん?
看守にめっちゃ怒られるだろうけど最終的には殴られたりするんかな?
要約
この文章は、「みんながものごとをどう思うかは、みんなそれぞれ違うよ」というお話です。人はみんな、自分だけの考え方があって、誰かとまったく同じにはならないんだ。でも、みんなが同じものを見て考えることができるから、ちょっとだけ似た考えになることもあるんだよ。
でも、今の世界では「みんなと同じ考えを持ちなさい」とする動きもあって、そうなると、みんなが自分で考える場所がなくなっちゃうかもしれないんだって。この文章では、そういうことを心配しているんだ。
俺はゆとり世代だから氷河期がどんな辛い思いしてきたか実感としては分かんねえんだけど、団塊とかバブルにいじめられてきたのが氷河期世代だろ?
バブル世代はさすがにまだ早いけど、団塊の世代とそれより上の世代に自主的に死んでくれる奴が1人でも増えたら氷河期世代としてはハッピーなんじゃないの?窓口負担とかも、高齢者の負担増に反対する理由ってなんなの?高齢者にシンパシー感じてんの?自分が高齢者になった時のことまで見据えてんの?理解できねえんだけど教えてや
六君子湯とか黄連解毒湯、柴胡〇〇、帰脾湯で自閉症の症状を緩和できる
ちなみにASD独特の不眠は黄連解毒湯、帰脾湯、酸棗仁湯あたりが効く
独断と偏見による効力の強さは黄連解毒湯>帰脾湯=酸棗仁湯って感じなんだが、黄連解毒湯は長期間飲めない薬で、症状が改善したら、飲むのをやめるか頓服にしたほうがいい
「理解はその都度異なる理解である」(ガダマー)ことの原因は何であろうか。第一に、理解がその都度異なる理解であることは、理解そのものに具わる内在的な宿命であることが考えられる。私の理解は「私の」理解である限りにおいて意味を持つ。
従って、「私の理解」が「他者の理解」と共に同様の地盤に統合されることはあり得ない。「私の理解」が文字通り「誰かの理解」になることはあり得ない。だが、しかし我々の解釈は、ある種の点で共通点を持つ。そのような共通点がなければ、我々は我々それぞれが行う解釈が、同一の何かに対する解釈であることを見過ごしてしまうかもしれない。
デリダはこのことを、エクリチュールにおける反復可能性との関係で捉えた。反復には常に解釈学的なずれが存在するのである。我々は読む、あるいは解釈するという作業を通じて、その都度別の理解へと誘われる。だが、それが同一の対象について理解することであることが、その解釈という作業に内包する同一性の保証者によって、すなわち、アメリカ独立宣言に署名するあのデリダ的神によって、絶対的に保証されているのである。従ってこの変化は、永遠にその場を回り続けるのではない。むしろ、解釈を通じたテクストの変化は、その円運動を保ちつつ、螺旋起動を描いて移動していくのである。この螺旋の上下は、何らかの価値、すなわち「正しい」あるいは「誤った」解釈を意味するのではない。我々は螺旋軌道の行く先に何者も描くことができない。我々は軌道をコントロールすることが出来ないのである。
今日のキャンセル・カルチャーの台頭が真に意味するのは、不可逆の支配者無き支配がやってくること、正義の仮面を被った同一性の保証者たる神が、リヴァイアサンとなる瞬間の予言である。すなわち、テクストの解釈によってはじめて為されるような批判の空間の終焉、反復の永遠の途絶、悲劇の再演の終焉の予言である。彼らはこう叫ぶ。「もはや舞台上でオイディプスは殺されることはない」「シェイクスピアの作品に、あの悪名高い「”ユダヤ人の”高利貸し」はもう存在しない!」彼らは<対等な文化>の時代の到来の名の下に、あらゆる既存の文化的コードを破壊しようと試みる。文脈は現代の権威の名のもとに無へと帰するのだ。そこにはデリダ的な神が、しかしデリダの考えたものとは別の形で潜んでいる。彼らは反復の絶対的保証者を、差別なき地平、上下することのない永遠の円環運動(しかしそれはもはや運動ですらない)そのものに置き換えようとする。あらゆる歴史、文化はそこで終わりを告げるのである。今や我々はこう宣言するに至る。「我々は今日、あらゆる束縛の鎖から解放された。享楽万歳!正義万歳」
この事態の内に、フランス革命期の、ギロチンの刃の下の恐怖政治のそれと同じ狂気を見出さずして、我々は一体何を見出だすというのだろうか。今や我々は、かつてフランスで起こったアンシャン・レジームの崩壊が、あらゆる支配的=抑圧的権威体制の根本的消滅を意味するものではなかったことを思い出さなくてはならないだろう。ルイ16世の代わりにロビスピエールを、ロビスピエールの死後には共和政の理念を、共和制の後には産業革命と資本主義を、資本主義に伴うグローバル化の後にはヒトラーによる独裁と民族の同一化を、ヒトラーの後にはスターリンを、そしてスターリンの後にアレゴリとしてのビックブラザーを、そしてビックブラザー無き後には、グローバリズムという名の繋がりと連帯を……欲求の連鎖は本質的に終焉を持たない。<我々>は常に何かを求めており、求めていたのであり、これからも求め続けるのである。あるいは<我々>はこうした欲求の運動を全否定して、俗世を離れた秘密の象牙の塔に引きこもることを選ぶか、あるいは、徹底的に分裂病的な解放を求めるのである。「すべてを脱コード化せよと、全てを脱領土化せよ」と、少なくともポストモダン以降の<我々>は主張するのだ。
この公式を一般化して言えば次のようになる。あらゆる否定性がヘーゲルの弁証法的運動と化す時、世界精神へと漸近する<我々>は、秩序の像そのものを、即ち迎えるべき新秩序の旗を常に掲げなければならなくなるのだ。秩序とは、何らかの旗印の下に打ち立てられる構造である。そしてあらゆる種類の改革には、解放の旗印が掲げられている。アナーキズムでさえ、黒色の旗の下で行なわなければ無力である(少なくとも、多くの人々はそう考えている)。旗印無き無秩序が齎すのは破滅である。
だがおそらく、<我々>はそれでも以下のように言い続けることだろう。我々はある旗印の下に秩序が打ち立てられる度にこういうのだ。「否、否、それではない。それではない。それではいけない」……革命には終点が存在すると誰もが<感じている>。これは、あらゆる絶望的状況においてさえ、人間の想像力が持つ根源的な力であり、ラカン的な「幻想」が齎す根本的なものである。第二次世界大戦に参戦した兵士の日記、一次大戦の塹壕で交わされる煙草と、私秘的で儀式的な会話が、それをはっきりと示している。「いつか終わる」。終わりの無いものは存在しない。人はそう信じている。
しかし、故に残酷極まりない結末がここから導出されるのだが、そのような終点は原理的に存在しえない。その意味で、「人権」すらも反復の途上にある。故に結局のところ我々が欲しているのは、「それではない」何かに他ならない。否定性の自己運動は、終点としての絶対知への到達を不可能にする一つの円環として機能するのである。そこでは、これまでに試みられてきたあらゆる既存の秩序がひっくり返ったのちそれが永遠に安定する(ニーチェ)。
従って、現代風の文化革命家たちに共通する主張は、名指され得るあらゆる<それ>を、我々を絶えず抑圧し支配するあらゆる体制の崩壊を志向すること、「それではない」と言い続けることである。だが同時に、そうした人々が行い続けるキャンセル・カルチャーが一つの「カルチャー」であることが、ここから導かれる。我々はあらゆるものを否定せずにはいられない――ただし、それは永遠に留保付きの否定なのである。この留保付きの否定性の運動の絶対的中心として、我々は自らの否定性の始=視点としての<自我>を見出す。<自我>は永遠の留保に付されている。
<自我>の領野は保たれる。このことによって、文化の保全と文化の破壊が、一つの文化圏の中で際限なく続くように思われる絶対的な批判と解釈の空間を彩ることになる。我々はその断面を様々に切り取り、様々に論じる。言論は永劫の暴力装置である。