はてなキーワード: 通り魔とは
持病や障害を抱えても頑張って生きている人は沢山いるんだぞ
ネット上の争いを見ていて日本語(での思考)の限界によるすれ違いがあるのではないかと思った
英語の a と the の使い分けが分からないと定期的に話題になる
https://togetter.com/li/1713610
(日本人がaかtheか迷ってる場合複数形が正解のことも多いぞ頑張れ)
過去には「任意の方」という語の意味不明な使い方が話題になったことがあった
https://togetter.com/li/1364090
任意は主に英語の any に対応する語だが、このような語の意味するところが十分な高等教育を受けてない日本語話者にはうまく伝わらないのではないか?
もっと根本的なところから日本語では個の概念をうまく捉えられていないのではないか?
という疑問だ
キズナアイや宇崎ちゃんの炎上でそれらのキャラと自分と女性全体の区別を付けられず騒いでいるフェミニストらは彼女らの自我の発達が未熟だからそうなっているのではなく
彼女らは個の概念を獲得する十分な教育を受けられなかっただけなのだ
誰かが同性婚することで自分も同性と恋愛しなければいけないわけではない
誰かが夫婦別姓になることで自分の名前や家族が何か変わるわけではない
そこの区別がついていないのだ
一人に石を投げられてたら二人で石を投げ返せ。二人で石を投げられたら、四人で石を。八人に棒で追われたら、十六人で追い返せ。そして千人が敵ならば村全てで立ち向かえ。一人が受けた虐めは全員が受けたものと思え。一人の村人のために全員が結束せよ。それこそが盤石な死守同盟の結束なり。同盟の結束は岩よりも硬く、水を通さないダムすら通さない。
昭和レベルの教育しか受けられず、村で暮らしてきた老人にとって個の概念とは未来の超科学テクノロジーなのだ
一件の異常な事件に皆感化されすぎじゃね?
これをもって何かを語ることに意味ある?
その状況で自分が黒人だったら明日射殺されるのは自分かもしれないって思うよ
でもこの事件を見て「女は幸せそうにしたらいけないのか!」ってなるのはちょっと感度高すぎでしょ
芸能ニュースが人気なのって渡部建の不倫を見たら佐々木希が可哀想=女は可哀想=自分は可哀想とか思ってんの?
通り魔に遭遇したら怖いなーとか、自分が襲われたら防ぎようがないしパニックになって助かんねーだろうなーとかは思うよ
でもそんなんもう老人がアクセルブレーキ踏み間違えて突っ込んでくるのと変わらんでしょ
これが派遣切りされて収入が無くなり将来に絶望して起きた事件とかだったら社会保障を頑張りましょうねーってなるかも知らんが
一人の異常犯罪者を見て「幸せそうな私を殺さないで」になるのもう自我が未発達すぎるし視野が狭すぎる
でもね、これってしょうがないんです
女性は差別されていて高等教育へのアクセスを制限されているから
どうか男性にはそこを分かっておいてあげて欲しい
通り魔に襲撃されて半身不随になっても手を差し伸べる男がごまんといて悠々自適
殺人で狙われる相手っていう一点においてはこの主張が正しいかもな 仮に男女差別的感情が全ての人間の心から消えたとしても、自分より力が弱い相手っていう意味で女性が通り魔的犯行で襲われやすいのは変わらない気がする
フェミサイド防止のため、女性団体は女性専用車両の増設を緊急勧告し、女性乗客には専用車両への乗車を奨励すべきだと思う。
女性しかいない車両なら、憎悪に満ちた男性の通り魔が入ってこれない。
発想自体は良いが、場合分けがされていないのと「女性が被害者」という予断が論考を歪ませてる。
「女叩きは儲かる」なんてゴミ記事が上がっていたが、話は逆で男が死んだくらいでは見向きもされないのが現実
裏を返すと確率の紛れに回収される程度のレアケースと言うことだ。レアケースだけどインパクトが強いから印象に残る。そんな事例を一般化して語ることに何の意味があるのか。
なお、一般化する事の意味を語っているだけで事件自体を矮小化する意図は無い。
犯人の側としては選んでる余裕は無い は正しいかもしれない。ただし立ち向かう側としては「男なのだから立ち向かえ」とする社会的圧力がある。
そういった社会的圧力を無視して「フェミサイドは男も被害者になりうる」と語るのは非常に醜悪だ。
小田急通り魔の対馬容疑者が弱者男性か、そうでないかといった不毛な議論が続いている。
私がここで言いたいのは、そもそも以前から弱者男性の定義が意図的に変えられてしまったことである。
本来の弱者男性論とは、別にモテない男についての言及では無かったような気がする。
男性の育児・家事の参加問題、遺族年金の男性差別、育休や産休と男性、徴兵の男性差別・・・といったかなり真面目な問題を扱っていたよね。
それがいつの間にか、弱者男性=モテない男性=女をあてがえ論に変容してしまった。
弱者になりえるとしたら、恋愛部門だけなので弱者男性とは恋愛弱者男性であるという雑な成り立ちだったのだ。
「対馬容疑者は弱者男性かそうでないのか」という不毛な話はもうやめて、本来の弱者男性論に戻るべき、要するに軌道修正するタイミングではないのか。