はてなキーワード: 行動基準とは
表現の自由戦士を自称する人たちが嫌ってるのは「コンプラ」であり「規制」は嫌ってないのよな。規制の度合いうんぬんの話は昨日はてブで見かけた記事が参考になる。
ここには20世紀の規制で守られてきた日本と、小泉構造改革後の21世紀のコンプラ重視による自由化社会の違いが述べられている。
「昭和は自由、令和は窮屈、窮屈なのはコンプライアンスのせい」は本当か? 『不適切にもほどがある!』の社会学(伊藤 昌亮) | 現代ビジネス | 講談社(1/12)
それまでの日本では、行政が人々の活動にさまざまな規制をかけることで、企業が不祥事を起こしたり、市民がトラブルに巻き込まれたりすることをあらかじめ防いでいた。これが「事前規制」というやり方だ。
しかしそうしたやり方では、人々の活動が規制の網の目に阻まれ、自由な競争が起きにくくなってしまう。また、規制のためのコストがどんどん膨らみ、財政が圧迫されてしまう。新自由主義的な考え方に照らすと、そうしたやり方は望ましいものではない。そこで打ち出されたのが、「事前規制」を緩和するという方針だった。
しかしそうすると、それまでは規制の網の目があることで防がれていた問題が顕在化してきかねない。たとえば規制が弱まったのをよいことに、企業がやりたい放題にやって不祥事を起こし、そのためのトラブルに市民が巻き込まれるような事態が頻発化してきかねない。そこで打ち出されたのが、「事前規制」を緩和する代わりに「事後監視」を強化するという方針だった。
しかしそうしたやり方では、どのような問題が事後に起きるのかの予想がつかないので、そのための対処のコストの予測もつかない。それを行政が一手に引き受けることは、やはり望ましいことではない。そこで打ち出されたのが、監視の機能を全面的に行政が担うのではなく、むしろその大部分を民間に任せるという方針だった。つまり人々が自分たちで自分たちを監視するようにする、という方針だ。
その結果、「何をしてもよいけれど、自分たちの行動は自分たちで監視し、自分たちで律してください、そのために自分たちで行動基準を作り、そこから逸脱しないよう心がけてください」という方針が打ち出された。そこで導入されることになったのが、コンプライアンスという考え方だった。
BPOが出来たのもこの頃よね。
それはいわば、上からの規制に守られてきたそれまでの日本人が、自己責任に基づく自由競争に乗り出していくために要請される、自律的な主体を作り出していくための手立てだった。
その後、2001年1月には内閣府に「コンプライアンス研究会」が設置され、9月にはその報告書が発表される。それを受け、経団連などの経済団体を中心にこの概念の普及が進められていき、2006年5月に施行されたいわゆる新会社法には、その扱いが明記されるに至った。こうしてこの概念は日本社会の中に急速に定着し、普及していった。
岸田さんが呼吸をする度に左右保革を問わないありとあらゆるインターネットユーザーが罵詈雑言を吐くので、逆張り精神がムクムクして来て、「それでも岸田さんにいいところはあるやろwww」って思って、就任からこっちの業績を調べてみた。
結果、本当に何もいいことはしていない。むしろ全ての決断は「他人をいかに苦しめるか」の判断基準がある。
進歩的な人達の神経をわざと逆なでするような嫌がらせの為だけ法案の数々を強行採決と閣議決定で通すかと思ったら、保守的な人達の精神的支柱である安倍さんの政策を真っ向から否定し、安倍さんの近しい人をお飾りの不遇職につけて飼い殺しにし、不意打ち的に派閥を解消させて、それでいて自分達の派閥だけはしっかり残している。裏金議員に対して、何の処罰もしない一方、国民に対しては納税を強調する。
はっきり言って、全方位に嫌がらせをする為だけに首相を続けているとしか思えない。むしろ支持率がさがっているのを見て「効いてる効いてるwww」ってニヤニヤしてるんじゃないかとすら思う。なんならその結果、自民党が野党に転落しても、自分に逆らった議員が落選する方を喜びそうだ。
全ての行動基準が嫌がらせにおかれている真性の悪人、快楽殺人者の類だ。あんなのをノーチェックで首相につけてしまう自民党のヤバさが際立つ。今さら自民にまともな倫理観は期待していないが、せめて犯罪者思考のキチガイサイコパスを神輿に担ぐなよ。
別に当事者でもなんでもない人なのに何故、スケープゴートにされて叩かれまくったのか?
そもそもスケープゴートにされる筋合いの関係でも何でも無いし。
そりゃ山下氏がジャニーズの中枢で働いていたとかだったらわからないでもないけれど、
それでいて、本来ネットで叩かれてもおかしくないような立場の人たちへの攻撃はそれほどでもない。
山下達郎が一身に身代わりで引き受けた形になった。
なぜ、こういう現象が起こるのか?
「知らないワケがないだろう!嘘をつくな!!」
と攻撃されるのに
ジャニーズのタレントが同じようなこと言っても、攻撃されない。
感情が最優先なのだろうから理屈で考えてもわからないのは当然か。
とはいえ、ある程度時間が経ったんだから、どれだけ自分らが意味不明の攻撃をしていたかくらいは認識できるようになっていることと思う。
どの時間に何をやるかを毎月計画する、といった方法でスケジュールを立てる時期もあった。
だがこういう方法だと計画通りに行かないことが増えてくる。「仕事が終わる時間になったら英会話学習をする」などと予定には入っているが、実際には疲れてそれどころではないことも多い。
しかも計画通りに行かない事自体がストレスになる。その計画を他者が邪魔をするとキレ散らかしたりするのだ。
しかしある程度の計画がなければ何らかの目的へ向かって行動することが難しくなる。どうすればよいのか。
最近試しているのは、毎日朝食後に「今日は何をやるか」というのを決めてしまう方法だ。こういう方法だと、スケジュールカレンダーに何かを書く必要がほとんどなくなるという利点があり、次の日に行動基準を調整できる。
朝起きる。準備をする。今日やることを決める。決めたことを実行する。これだけである。
しかしもっとよく考えてみると、なんでこんな努力を俺はしているんだろうと思えてくる。
brilliant.orgで数学を学ぶと決めたとしよう。それで?数学を学んで、だからどうなるというのか。社会は数学のスキルではなく、出身大学を評価する。
高卒の俺は趣味で数学を学ぶことはあれど、転職のために数学をやろうと思うなら愚かの極みである。
結局「今日やること」は、今日を楽しむための計画であって、競争社会を勝ち抜くためにやろうなどとは思わない。
自分の貴重な時間を割り当てるのは、ダラダラと映画鑑賞をしたり、読書、インターネット、ゲーム、散歩などの娯楽に費やすためである。
男は人格に大問題ありの男でも「同じ男クラブ」に入れてつるんでるじゃねーか
何言ってんだ
たとえどれだけ人が死んでも、どれだけの女がレ〇プされても
男の行動基準は「自分に被害が及ばず、甘い汁を吸えるなら問題ない」で済ませる、それが男だよ。
「赴任先の中国で若い女性に性的強要と結婚詐欺紛いを働き、相手から訴えられそうになると逆に恫喝訴訟をしかけて黙らせる常習犯」とか
「若い女の貧困につけこみ現代版鹿の苑作り買春あっせんで富裕層にコネづくり&自分も富豪いり」
「女はセクハラの対象、枕営業しなきゃ干すという歪な構造を明るみにしようとした女性記者を恫喝」、
こういうのは誰も庇い切れなくならないかぎり、「マッチョクラブ」でお互い庇い合いつづける。
成績は校舎の特進クラスで二番目なんだけど、引くくらい自己肯定感が低いというか自嘲癖があり、行動基準がほぼ「親の意向だから○○する」しかない。
よく笑う子だけど、よく聞くと自分を殺すようなことを言ってゲラゲラ笑ってたりすることが多い。(子供特有の不謹慎ギャグの「不謹慎」の矛先が自傷的で浮いている)
また誤答のダブり方を見ると(クラス内にその子よりいい成績の子が一人しかいないのであまり意味はないけど)カンニングしている印象もあり、親から余程の要求をされているのではないかと思ってしまうが、
このくらいの年頃だと本人の資質だけでこういう感じになる場合もあるのだろうか?
体に傷などは見当たらない。
医学部やめたい。ついてけない。友達とか先輩には恵まれたけど、勉強むり。
ここまで無理なんじゃ人の命に責任負うなんてそんなことできるはずがない。やめたい。
でも2浪した手前やめたいなんて親に言ったらクソデカため息で僕の自尊心なんてぴゅーと飛ばされて残るのはクソカスな惨めさだけ。
半年前からバイトを始めた。そのバイトは楽しい。責任小さいし覚えること多くないしやることは決まっている。商品を並べて、レジに通すだけ。
それさえできれば一緒に働いてるおばちゃんたちは優しく接してくれるし、なによりお金がもらえる。柔軟な対応とかそういうの求められない。最高だ。
一生このバイトやってたいな~とか余裕で思う。たまに嫌なことあるけど。
いっちばん最初は確か教職目指してたな。友達に教えて分かってもらうのが嬉しかったから。でも子供叱ったりすんのめんどくせーと思ってやめた。
その次は物理学科目指してたな。方程式ですべてを予測できる古典物理学が面白いと思ったから。でも仕事ねえぞって言われてやめた。
んでそのあとは化学科。親が化学系だったから、なんとなく。でも化学科落ちちゃったんだよな。んで濃度計算とかあんま好きじゃないしやめた。
その次は官僚。官僚ってなんかかっこいいじゃん。縁の下の力持ちって感じで。でも外務省はほぼコネって聞いてやめた。
その後は医者。なんかその頃医療系の新書読むのにハマってたんだよね。んでそのまま日赤かどっかのお偉いさんの著書に傾倒した。
急性期で働くとかすげえじゃんって思ってた。受験をするにあたって目標を医学部にすればもし進路変えても理系なら対応できるしってことで目指すことにした。
そこからずるずるいって結局2浪しちゃった。なんかこう書いてみると自分の行動基準ってかなり希薄だね。なんというか、人生舐め腐ってるって感じだ。
自分の人生なのに恐ろしいほど当事者意識がない。どうしてこうなっちゃったんだろう。何もしてこなかったからかな。
ああ、大学やめたいなあ。でもやめられるほどの勇気もないし、やめたら今度こそ詰む。自分が嫌になるよ。誰にも言えないからここに書く。
「維新後、江戸の山の手の言葉が標準語のベースになったけど……山の手に住んでたんは旗本。以前、人工日本語である標準語は『戦犯ポエム弁』『ジークジオン弁』て言いましたが、同時に『腰抜け弁』やないのかと」
「藤原正彦先生の言われる『武士道精神』は、キリスト教まで混じったフィクションとしての武士道やないのか、ていう話やけど……」
「空想的な歴史想定して、それ裏付けに論じるんやから手法的には『江戸しぐさ』に近い? 『たとえ史実に反しても、ええもんはええんやからええねん』ていう」
「武士道」は鎌倉時代以降、特に江戸時代に多くの日本人の行動基準・道徳規準として機能してきました(日本と韓国「国家の品格」文藝春秋2019年10月号)
「鎌倉時代……正しくは『後期平安時代』やろけど、それ以前の日本人のこと藤原先生はどう捉えてはるんやろか? 平安、平城、難波……これらの時代をどう思てはるんやろ?」
「さかのぼっても千年に足りない鎌倉止まり……歴史を深掘りできんせいで、あちらは老いる一方なんやないか……?」
「ドラマの史劇フィクションと言えば鎖国時代の一つ覚え……。味のせんガムを噛み続けてる」
「室町、平安、平城、飛鳥、難波、国生み神話……振り返るたびに精神がリフレッシュされますわ」
「鎌倉自体、推したいのか推したないんか中途半端やわ。推しすぎると江戸が相対沈下する……。話を戻すと、武士道には大別して二つの潮流があります。一つは兵学者・山鹿素行が説いた道徳律としての武士道。もう一つは鍋島藩士・山本常朝の談話を記した『葉隠』にあるような強烈な行動原理」
「『国家の品格』を著した藤原正彦先生の『今こそ武士道を』ていう御意見への反論やけど……まず現実の武士を云々する前に、先生の論説のあり方が理屈としておかしい」
「文藝春秋2019年10月号『日本と韓国「国家の品格」』で、先生はこうおっしゃってます」
朱子学の教えでは、序列が上の人間に対して「礼を尽くす」のが最大の美徳となります。朝鮮はこの教えに徹底的に倣って、中国に対して礼を尽くしていました。〔……〕こうして朝鮮は「主体的国家」であることを放棄していたため〔法や秩序の意識が育たず〕その延長線上で、今でも簡単に国家間の約束事を破ってしまうのです。
「て言うと?」
「上野の学寮、湯島の聖堂、昌平坂学問所……時代は移れど、武士の中の武士であろう旗本御家人の頭に注入されてたんは、その朱子学。徳川時代中期、松平定信以降は朱子学以外の儒学が実質禁じられてさえいた」
「徳川期の武士道の中心には朱子学がある。そして武士道を推す藤原先生の念頭にあるのは、徳川期の武士」
「『国家の品格』が2005年に出版されベストセラーになってから今まで、藤原先生が徳川幕府における朱子学の地位について知ることがなかったなど、考えにくいんやけど」
一瞬可哀想なような気がしたけど
これ逆でも十中八九避けられてるよな
男子生徒が「同じものにはまってるから」って見ず知らずの別のクラスの異性に接近しようとしたらまずアウトでしょ
のかわりに
「キモい」「ありえないw」って言われるぐらいでしょ
それはしんどかったねって思うけど
もし女子だけの話だと思ってるならそれは違うでしょ
むしろ雌より雄の方が「9割方が対象外であり要らない」って言われる性
女は恋愛対象でなければ有象無象、くだらないから友人にもなれないみたいな考え方を無意識にしている人
これだって表裏であって
同じ程度にスマートでない異性とは友達になろうとも思わんて女性いくらでもいるでしょ
(したとしてもそれを社会の概念の側から利用とか打算的とか理解される)
実際に対異性の局面ではそういう価値観や行動基準を内面化して生きてる女性はごまんといて
そういう女性と接した男性にとっては「女性はそういうもん」というのは彼の経験上の事実であって
私には私を恋愛対象としてしか見てない人よりずっとずっとそういう人の方が大事だし信頼できる
こちらをごく普通に人間扱いしてくれる男性のことが、少なくとも私は大好きだ
だからブコメとかでよく「信頼とか抜かして傲慢w」「ぬいぐるみペニス案件」とか揶揄されたりするけど
あんたの話は信用して、あんたにはフェアな関係の良い異性の友人がいることを肯定しても、
だって元増田は「騙されて利用されてたくそが」と思ってるんだから
あなたがあなたの交友関係を肯定して大事にするのは結構だけど、
明らかにあなたのそれとは異なる他人の交友を擁護して肯定しようとするのは何で?
あなたの異性の友人はあなたに「騙されたくそが」と思わないでしょ?
元増田はそう思ってるんだよ
(そして「思い返してみれば自分は呼び出されるたび喜んでついていってたけど自分から誘った時は来ない」みたいな非対称性の証言もある)
すべてにあてはまらない、どころか今問題にしてる当該元増田と女友達は明らかに当てはまらないやん!
男性の側では女性を恋愛対象として見たり性的対象として見ることが今の社会の中ではとても自然で、
当然相手(女性)にとっても価値あることだろう、と思いがちだから翻って女性から自分がそう判断されないことが
価値なしと思われたりバカにされたりしていることと同義だろうととても自然に思ってがっかりしてしまうかもしれないが、
そうじゃなくて、自分の用事には盾代わりに呼び出して、相手に誘われたときは来ないんだってば
こんなん同性同士でも友達でも何でもねーだろ!
お前は本当に元増田の話を読んでるのか?
何に引っ掛かってるのかわかる?
「自分は違う」って話までなら素直に読めるんだけども、
そこから敷衍して明かに打算的搾取的な女性の例まで擁護しようとしていくところで理解不能になるの
もちろん打算的な女性も恋愛至上主義の女性もその他色んな女性がいるだろうけれど、そんなそれぞれ違う沢山の女性の中に
それは全くその通りだけど、元増田の話はそういう話じゃねーじゃん
友人としてすら合理化できない搾取的な付き合いをされてる男性がいて、
何でそんなことされてるのかと言ったら自分に脈があるのかという期待をしていて(なぜならよく誘ってくれるから)、
でもナンパ避けという概念を知って「自分が誘われてた理由がわかった」「気付いてみれば思い当たる節がたくさんあるぞくそが!」って言ってる
n=1の私の場合の話として「こういう側面もある」ということをなんとなく頭の片隅に留めてもらえたらと思う
HFが公開されたついでに、ZEROとSNを見直したりしていた。んで、snの人がわりとZEROを受け入れてないという話がちらほら聞かれるんだが、正直まったく共感できないので書き散らす。個人的に思うんだが、snとZEROをやたら違うといいたがる奴は、単にセイバーに対するキャラ萌えが足を引っ張ってるんじゃないか?ZEROでのセイバーの扱われ方が気に食わないから虚淵に噛み付いてるんじゃないか?
よくこういう反論を聞くんだが、これってそんなに重要なことなのか?ZEROで騎士道馬鹿みたいな描かれ方をしていたことが気に食わなかった、としか読めないんだが。ZEROにおいてセイバーの挫折と切嗣との決定的な考え方の違いや齟齬を描く上で、彼女の英雄としての立場と実際に救われる側の意識の違いは避けて通れないし、『祖国を救った救世主』が何故『民草の心が分からない人物』と評価を下されるに至ったかにおいて、十分説得力のあるデフォルメになっていたと思うけどな。ZEROでの出来事が彼女に大きな影響を与え、SNでの行動になっている、という考え方を大きく嫌う理由も分からない。単に気に食わない、というだけにしか聞こえない。SNにおける士郎の謎な『女の子は守る』行動なんかよりもよっぽどZEROにおけるセイバーの騎士道理念という行動基準は至極まっとうで納得できる設定に思える。それにSNでもセイバーは愚直で不器用な少女として描かれていたと思う。そういう意味でも、騎士道を前面に押し出す選択が何故そこまで矛盾と表現されるのかが分からない。さっぱり理解できない。
これも反論としてよく効くんだが、これってそんなに(ry 実際ZEROの影響を受けてSNで変わったと考えてもまったく問題ないんじゃないの?『選定のやり直し』も本質的には祖国の救済であることに変わりはないだろう。どこに矛盾があるのか??というよりこの二つにそれほど大きな乖離があるとも思えない。ただセイバーが自分自身がその役を辞すことを望んでいるというだけで、その理由も明確にZEROで示されているだろう。むしろZEROではセイバーの挫折をしっかりと描いているわけで、これほど説得力のあるスピンオフもないと思うんだが。
ここはむしろZEROの良いところだと思うんだが。やっぱりセイバーに対するキャラ萌えが起こしている不満なんじゃないか?セイバーの『人の心が分からない』理由は、『聖人的である』ことが原因だ、という至極全うな指摘だろう。イスカンダルやギルガメッシュが正しいとは言っているわけではないが、セイバーに欠けている資質をこれ以上ない仕方で言い表していたと思うぜ。実際よくあることなんじゃないか?人を大いに動かすのは夢を持つことであり、大成する人間はたいていそういうものをちゃんと持っている。それは言い方を変えれば『欲望』だ。学校で優等生だったからといって、世の中に出て大成するわけじゃない。優等生は優等生的な生き方しかできないし、大抵そういう子は世の中に出て挫折を経験してしまうものだろう。重要なのは自分がどうなりたいのか、何をもってして幸福になるのかをきちんと考えることであり、いわばそれは『利己的になること』そのものだ。そこを見据えずに幸福のための『自己犠牲』と『優等生的な生き方』だけを追求してしまえば、やり方は間違っていなかったはずなのにどういうわけか息子や娘がグレてしまった親=国を救えなかった王、となってしまうことはさほど想像に苦しくないと思うし、SNのセイバーと矛盾するとは思えない。
おそらくだが、イスカンダルとギルガメッシュが正しい、みたいな描かれ方が気に食わなかったんじゃないか?それはあくまで作中での描写であって別にセイバーが間違っていると断罪したわけではなく、そういう受け取り方をしたのは「あくまで視聴者」だろ。そしてそういう風に受けとれるような作品の作り方をしている。だってそういうコンセプトなんだもん。それを真に受けて「あんな書き方はないんじゃないか、セイバーの扱いがあんまりだ」と反感を買うのは、ぶっちゃけ作者の思うツボであって、むしろそういう読者の反応を引き出すことが出来ている虚淵さんが上手いと俺は思うけどね。
これってそんなに(ry こういう発言自体が疑惑を抱かざるを得ない原因というか、、やっぱりsnとの矛盾点を指摘する奴らのセイバーに対するキャラ萌えから来る擁護愛がすべての根っこだと思えてならない。お前らそんなにセイバー好きかよ??
これもやっぱり否定された、と思ったのは「視聴者」であって(ry 切嗣とセイバーとの考え方の決定的な断絶を表す上ではこれ以上ないほどの表現であろう。セイバーと切嗣は根幹は似ているけど、置かれている立場が決定的に異なるせいで、視座の違いからどうしても見解が相容れないものになってしまった。間違っているわけではないけど、結果的に挫折に繋がってしまった決定的なセイバーの視点の見逃をここまできっちり描いているスピンオフは明らかに原作リスペクトからくるものだし、正直この点はきのこ氏の描き方よりも虚淵氏の描き方の方がはっきり言って上手い。むしりSNも虚淵氏が書いた方が、士郎のキャラクターとしての説得力がもっと増すんじゃないかとすら思う。そもそもZEROという作品は「騎士道を批判している」わけではないし、別にセイバーが間違っていると断罪する作品というわけではない。ただセイバーの『実直で気品と正道を重んじる在り方』(それそのものは正しく、そしてそれがあるからこそ世界を成り立たせている非常に重要な要素)=優等生であるからこそ、彼女は挫折した、という運命(フェイト)についてきっちりした情報補完をしただけ( というか優等生ってのは挫折するって相場が決まってんだよぶっちゃけ。もうそれは運命みたいなもんだ。彼女は別に失敗したわけではなくて、為政者としてあまりに優等生であり正解を選び続けて成功し続けたからこそ、運命的にというか優等生の宿命的に王として国が滅亡するという結果になったというか。そこに王としての自分のあり方はあったけど、もっとそうではない生き方についての考察がなかったというか)
なんでこういう感想(「セイバーの扱い方が不満」)になっちゃうのかというと、やっぱりキャラ愛のせいなんじゃない?「ボクのセイバーはこんな無能じゃない!!」みたいな?
これに関しては矛盾というか、印象論だと思うんだよな。だってSNであんまり切嗣の話しないじゃん。ほとんど語られていない内容に矛盾も糞もあんのかよ。
三回についてはSNの設定準拠だろ。というか、そもそも効率を考えるとコミュニケーションは重要だ、という主張そのものが間違ってると思う。だってコミュニケーションを取れない奴って現実にいるからね。コミュニケーションって言葉は基本「相手は自分の言うことを分かってくれる」という思い込みと押し付けから来る理想論であって、本質的に人と人は分かり合えないものだし、対立って本質的には決定的なもので落としどころを作って妥協するしかない代物だし。最終的には殺し殺される関係で結果だけがすべてを物語るという世界に生きて何よりもそれを重視してきた切嗣が、「正しさ」とか「語る」なんてまどろこっしいことするか?ぶっちゃければ軍隊みたいなもんだよ。「視聴者」として層が厚いだろうヲタクが一番大嫌いな体育会系の世界の理屈だよこれは。そりゃお前らには受けが悪いだろうけどさ、やっぱり問答無用じゃないと先に進まないことってあるぜ。それのどこが幼稚なのかさっぱり分からん。アイリを間に噛ませることで精神的なケアや軋轢をしっかりと回避しているあたりも、切嗣はしっかり妥協をしている。妥協できる奴っでのは子供じゃなくて大人の代表だよ。そういう意味でも、切嗣の行動が幼稚だという指摘は受け取り手側の問題といわざるを得ない。
これって矛盾なのか???切嗣はロボットになりきれなった人間。これを見事に表現できていると思うんだが。
これに関しては表現の問題としか言いようがない。が、別に矛盾でもないだろう。セイバーはもともと最優サーヴァントなわけで、そこにさらに「星の聖剣」を使える奴をセイバーとして召喚できたらそりゃ強いに決まってる。作品では内輪事情に踏み込んで表現されているからさほどそうは見えないが、相手からすりゃ十分脅威だったと思うし、結果的にセイバーは相手方のサーヴァントをきちんと切伏せているわけだからその名に恥じない活躍をしている。単に「扱われ方がセイバー推しには納得のいくものではなかった」っていうだけ。それにしたって、ZEROはセイバーの挫折を描くというコンセプトで作られているのだから、当たり前のことなはずだが。
なにが意味不明なのか分からない。切嗣の言葉には説得力しかないと思うんだが。そもそもこの反論ってセイバーが英雄馬鹿ではないとしたら成立しないのでは?彼女が英雄馬鹿ではないのなら、切嗣のこの考え方に賛同してもおかしくはない。戦場は地獄であり騎士道なんてもので誤魔化そうとも敗者は敗者でしかないし、そもそもいくら周りがなんといおうと本質的に兵士は英雄として死んでいくわけではない(※この辺は与謝野晶子でも読んどけって感じでいまさら語ることでもないだろ)このくだりを意味不明と扱うのは、やっぱりセイバーが切嗣にけちょんけちょんに言われているという扱われ方不満なのであって、ストーリーの完成度というよりは単にキャラ萌えの問題なんじゃないのか?
見ていて多分ここが決定的に違うと思うんだよな。増田は別にセイバー好きじゃないです。リビドーをぶつける対象ではあるけど、それ以上の目線は特にないです。別に彼女のあり方とか考え方とかにはあまり興味もないし、snを通してセイバーが最終的に救われたとも特に思わない。そもそも士郎自体が理解不能に描かれているので「士郎がどうにかしたいと思うセイバー」という存在にもあまり共感は出来ていないのがそもそもの原因だとは思う。ぶっちゃけセイバーENDよりもUBWエンドの方が好きだしな。。。士郎は何かとセイバーを不憫に思ったり彼女を救いたいと思ったりしているけど、セイバーってそういう存在だっけ??という違和感がどうしても先行してしまう。もともとヒロイン枠で作られた存在ではなかったというだけあって、やっぱり攻略対象としてはちょっと異質なのが彼女なんじゃないかなぁ。。。
ZEROの原作矛盾を批判する人はやっぱりどこかsnセイバー好きな感じがあって、snセイバーをものすごく神聖なものとして扱っている節があるんだけど、個人的にそれは癌だと思う。だってsnのセイバーってストーリー強度や設定で言えばかなりガバガバで無理がある存在なんだよ。あそこでキャラクターの個性をFixしてしまうと、そりゃその後の作品が受け付けなくなるよな、と思う。キャラ萌えもひとつの作品の楽しみ方ではあるけれど、もっと純粋にストーリーとしてのFateの考察をするべきでは?
これも結構あって、俺はわりと桜好きなんだよなー。Fate//EXTRA CCCとかのBBを見てると、桜はリビドーの対象としてもヒロインとしても実に正統派だと思うんだけどどうなんだろう。HFルートはいいと思うよ、あれ。桜嫌いって言う人がわりといるんだけど、結構な確率でセイバー好きが混じってる気がする。そしてそういう奴に限ってsnセイバーに拘ったりする。まあ楽しみ方は人それぞれだし、別に俺はキャラ愛を誰かと共有したいとかそういう願望はないんだけど、あえてここに切り込みをいれると、おそらくこういう層の楽しみ方や考え方ってある種アイドルヲタに似てるんだよね。自分の推しメンがいて、それを共有できるかできないか、みたいな思考回路なんだと思う。いいとか悪いとかではなくて、まあそういう思考回路なんだってことなんだけど。
問題なのはアイドル的な楽しみ方でFateを語るときに、そこにZEROとsnにおけるセイバーの扱われ方の確執という問題が起こっているに過ぎないのであって、決してZEROが矛盾しているというわけではないということを俺は断言したい。そういう意味でもイスカンダルを女体化ではなく渋い男として表現した虚淵をファインプレーと称えたいし、設定ガバガバで厨二前回の型月Fateシリーズの中で実に渋い出来栄えとなっているZEROを俺は推したい。ZEROという作品のおかげでFateはキャラ萌えだけではない作品になっているし、切嗣を代表とする厨二とはまた一線を画すキャラクターが織り成す絶望と儚く淡い幸福への渇望の描き方が非常に上手い、絶妙な作品になっている。OPの曲もいいしね。
「行動基準に反していて、望ましくない」んだけど。。。