はてなキーワード: アナログとは
2chやTwitterを見てると、あのブログがソニーの回し者であるかのような流れになってるんだけど、何だか違和感を覚えるんだよな。
なので、とりあえず最近のあのブログのPSVITAタグの中からネガティブっぽい記事をピックアップしてみた。
1月だけでこれだけあるわけだが。
PS3の初期もこのブログはこんな感じだったし、ほんとにこいつソニーからカネ貰ってんのか?その辺はどういう解釈でみんな納得してんの?
12月も…と思ったけど多すぎて後半だけで力尽きた。
あるよ!もちろん。『ダークソウル』ってゲームをつい最近までプレイしてたよ。ゲーム全体に漂う暗い感じが良いよね^^
で、一つ思ったんだけど、俺らがコントローラ操作でゲームをプレイしているなかで、WASDかスイッチかの他にもう一つ大きなパラダイムがあったよな。
「アナログパッド」だよ。アナログパッドは最初、コマンド入力がしづらいとされ、正確な方向の入力が難しいとされ、多くの人間はそれを嫌っていた。しかし、今の時代においてアナログパッドを入力として用いないゲームはまず存在しない。俺らはアナログパッドを受け入れた。時間はある程度懸かったかもしれないけどな。
そういうことだよ。時間が解決する問題なんだ。タッチパネルか、キーパッドかなんてモノは。
あと少し思ったんだけど、WASD操作そのものはFPSの始まりと同じ時期だと思うけど、ZXをABボタンのようなモノに見なす操作はかなり昔から無かったか? PC98でぽっぷるめいるってゲームをやっていた記憶があるんだが、その頃から既にキーボードをコントローラにせざるを得なかった操作系があったと思ったんだが。
劇場で上映されている、『オペラ座の怪人』25周年記念公演 in ロンドンは音がずれています。
これから見に行こうと考えている方(特に絶対音感のある方)は、ご注意ください。
私は、途中で気持ち悪くなり、退場いたしました。
なぜ音がズレているのか問い合わせメールを出したところ、
---------------------------------------------------------
観させていただきました。
音が半音下がっている箇所がありました。
私は絶対音感があるので、音のゆらぎが気持ち悪くなり
ご回答のほどよろしくお願い致します。
---------------------------------------------------------
ご指摘の件、ロンドンのUniversal Pictures International(UPI)に
問い合わせたところ、以下のことが判明いたしました。
この公演の撮影は、フレームレイトが25フレームの規格の機材で行われました。
DCP(Digital Cinema Package)という世界規格に変換する必要がありました。
この規格のフレームレイトは24フレーム、すなわち1秒間に24コマの映像が収録
されます。
収録音声を早回しにすると音が高くなり、
遅回しにすると音が低くなる現象は、容易に想像できるかと思います。
今回は、1秒間25コマの速度で収録された音声を
1秒間24コマのスピードで再生することとなり、25分の1秒分遅回しにすることに
よって、
その分、音程が低くなったというのが、理論上考えられることです。
非常に微少なスピード差であるので、これによって半音以上の音程差が生じると
は考えにくく、
絶対的に音感の鋭敏な方には判る可能性がある一方、
UPIでは、DCP上映にあたり同様の指摘を受けたのは、今回が初めてという説明です。
更に日本国内のスタジオに取材してみたところ、楽器や声の音質や、旋律、音の
高低により、
特に差が目立って聴こえる箇所があるのかも知れない、ということです。
音程の問題を解消する手段としては、音声のスピードを変えずに再生するため、
映像を毎秒1コマずつ間引いて24フレームに合わせる方法がありますが、
これを用いると、今度は映像の方に飛んでいるような現象が生じる可能性があり、
なぜフレームレイトの違う機材で撮影を行ったのか、という疑問が生まれますが、
これはアナログ時代から世界各地で異なるビデオ信号が採用されていた歴史があり、
それに伴い英国では25フレームというフレームレイトが一般的で、
UPIとしては、日本での上映を心待ちにされているお客様のために最速の実現を
目指した結果、
限られた時間と環境の中で出来うる限り最良の映像と音声を送ったつもりだった
ということです。
これまでの説明で我々の理解するかぎり、ご指摘くださったお客様は、
ごく少数の並ならぬ鋭敏な音感の持ち主でいらっしゃるということが言えそうです。
我慢を強いることとなりましたことをお詫び申し上げるとともに、ご理解を賜れ
ればと存じます。
今回のご指摘を真摯に受け止め、今後の課題とさせていただきます。
なお、DVDおよびブルーレイにつきましては、音程の問題を修正し、
Really Useful Group(RUG)の監修と承認を受けたものを発売する旨、UPIの確
認を取りました。
日本で発売されるDVDおよびブルーレイは、UPIの制作するマスターに基づくもの
です。
1974年に開館した「船の科学館」が、今年9月末で本館展示を休止する。
近くの日本科学未来館には3回ほど行ったことがあるし、お台場メディアージュの中にあるソニーエクスプローラサイエンスにも1回行ったのだが(どちらもオススメ)、船の科学館は一度も行ったことが無かった。
ので昨日行ってきた。
「原子力の平和利用」という言葉の意味が変わってしまった今となっては複雑な思いで見る、原子力船むつの1/50模型。
スクリュープロペラを持たない(!)超電導電磁推進船なんて研究があった(日本が完成させ、そして消えていった)という驚きの事実。
「バルバスバウ」といえば某バーチャロンを思い出すけど、本当はそれは船首構造の名前だったということ(http://p.tl/mNmu)。
ラジコン模型でしか知らない水陸両用ホバークラフトの実物が、人を乗せて航行/走行している映像。
駆け足で見たのだけど、船に詳しくない私でも色々と興味を持って知識を得ることができて、とても面白かった。
休止前の特別料金で、ふつう700円のところ200円なので、興味と時間がある方はぜひ行くといいと思う。
それはともかく。
いったん本館から出て南極観測船「宗谷」を見学しようとすると、道路側にとんでもない数の(何百人単位の!)人が集まっていた。
ぽつぽつと日の丸を持っている。
そう、噂の「フジテレビ抗議デモ」が、今まさに出発しようとしていたのである。
あまりの人の多さに呆気にとられて、私は宗谷の甲板からデモの列を最後尾まで見届けてしまった。5人1列に並んで、最前列がスタートしてから最後尾がスタート地点を通るまで、30分以上。どう少なく見積もっても1000は下らない人数だ。
主催者発表では参加者は6000人、デモに好意的でないスポニチの報道
でも4000人が参加したとされている。
とにかくそれだけの人数の人たちが、
「私達はK-POPなんて聞きたくないぞー!」『聞きたくないぞー!』
この光景は衝撃的だった。
どんなデモにせよ、多くの大人が団結して主張をしながら行進するのはそれだけでインパクトがあるのかもしれない。でもその主張が
「冤罪を許すなー!」とか
「原発を止めろー!」とか
そういうものならまあ、そういう主張の人が頑張っているのだな、と理解できる。でも今回は違う。
もちろん、一般に偏向報道はよくない。私もアナログ停波以降はフジテレビを(テレビを)見てないし、フジテレビが善良なテレビ局だとも思わないし、『HEY!HEY!HEY!』をたまに見ると必ず韓流か懐メロの特集をやっていてつまらないなあとは思っていた。それに、普段から「韓国製」の買い物は避け、できるだけ国産を買うようにしている。特に韓国製のCD-RやDVD-Rは非常に質が低いのだ。韓流スターの名前はペヨンジュンしか知らない(KARAのメンバーに石川梨華のパロディみたいな顔の子がいるのは知ってる)。言うまでもないけど、竹島は日本の領土である。
それに反対するために、何千人もの人がお台場でデモ行進をしてるのか?
ネットの情報を「テレビでは報道されない真実なんだ!私たちが立ち上がらなくちゃいけないんだ!」と盲信した中高生が集まっちゃうならまだ分かる。でも私が見た限りでは、参加者は本当に老若男女で、300人に1人くらいは、私と同じくらいの年齢(20代)の、おしゃれな今時の女性もいた。おじさん・おばさん・お兄さん・お姉さん・そして親に連れられてきた子供も。
そのデモでの主張が、「フジテレビ韓流ゴリ押し反対」でいいのか?
…これが、私の第一印象である。
しかし第一印象はそれが正当なものであるか吟味されねばならない。
(1)「もっと重要な問題があるだろう」
彼らへの評判をネットで探してみた。よくあるのが、「テレビがどうこう言う前に、主張すべきもっと重要なことがあるだろうよ」というものだ。
でも、この批判って、既に他の「もっと重要なこと」のためにアクションしている人にしか、言う資格はないはずだ。
自分はtwitterとかネットで勝手なこと言ってるだけなのに、実際に体で活動してる人を言葉だけで「それをやるならこっちをやれ」というのは、単なるネット弁慶じゃないか。
というのも、正直、民放の放送内容がどうこうよりも、領土問題だとか、人権侵害救済法案や外国人参政権という、それこそ韓国とも関係大ありな政治問題のほうがずっと重要だと思うからだ。
ただ、思うに、そういう政治的重要事案じゃないからこそ、これだけ多くの人が集まったのかな、とも思う。
「韓流ゴリ押し反対」というのは、政治的なようでそれ自体は政治問題ではなく、「公共的な性格をもつ国内民間企業への批判」にすぎない。だからこそ、特定の政党に関与したり変に利用されることなく、これだけの人を動員できたということはあるだろう。日本人の多くが「政治」より「テレビ」に関心を持っているという事実も、今回の動員に味方した。
「もっと重要なことがある」と言っても、「もっと重要なこと」にはどうしてもキナ臭い政治が絡んできて、ネット上でさえこんな大きな潮流を作れないだろう。その意味では、対韓国の政治問題のとっかかりとして大きなデモを行うには、むしろ今回のテーマがベストだったとすら言えるのかもしれない。
(2)「嫌なら見なきゃいい」
これに対する再反論は、もうすでに定式化されているようだ。
作家・深水黎一郎さんが簡潔に整理しているが、簡単に言うと、
「テレビ局は<公共の>電波を独占して使っているのだから、勝手な偏向放送をしておいて『嫌なら見るな』は通用しない」
ということ。
嫌なら見なきゃいい、と言われる前から私は確かに見てないのだけど、見てもらってる側がそれを言っちゃいけない。放送法という後ろ盾もあるのだから、テレビ局にはそれに基づいた良心的な経営が求められるのは当然だろう。ただし、ただでさえテレビ不遇の時代に、自局グループの商売を有利に進めようとするのは営利企業としては当然で、そのへんは線引きが難しいところではある。
(3)陰謀論
「フジテレビ抗議デモは、原発から目をそらすための陰謀だ!」。
こういうツイートやmixi日記は複数あった。どんなところにでも陰謀論はあるものだ。面白い。
(結論)
デモを批判する理由は私にはない。
しかし「韓流ごり押し」に対しては、私はどう考えるべきなのか?
政治的問題に関しては比較的冷静な狼板をのぞくと、「ブームってそういうもんだろ」という書き込みを目にした。
確かにそうだと思う。
韓流ブーム捏造、なんていうけど、ブームなんてたいがい作られるものだ。
結局今回の問題は、それが誰の目にも「行き過ぎ」「ごり押し」と捉えられるほどのものになってしまったという所にあるのだろう。
私としては、前に書いたように、「竹島は守るべき」「人権侵害救済法案は危険」と思っているし、他にも例えば、「在日外国人犯罪者の偽名報道は反対!!!」である。その点だけについて言えば右翼的であるのかもしれない。
ただ「反フジテレビ」については、何とも言えないのだ。
だって、フジテレビから韓流を引いたからと言って、番組が面白くなるとも企業体質が良くなるとも全然思えないのだもの。
それに私は、そもそもフジテレビがあっても無くても、まったく困らない。
とりあえず現段階では、「フジテレビがこんなにバカなことをやってるよ~」とネット上に確かな情報を拡散させておけば、それで十分という気もする。
デモに参加する気には、とてもなれないのだ。
追伸
いーたいこといってるって点では同列だな。
俺はわざわざデモにいく気は全くないしテレビもほとんど見ないけど韓流ごり押しとかやだなーと思ってる程度の人間で、ただ思うことは、テレビはもう終わった。またはずっと前に終わってたのが明るみに出たかこれから終わることがはっきりと予兆として表れた。なんかまあ多分そういうことだろう。
韓流とか、反韓流とか、右翼とか差別とかはまあどうでもいいというかひとことでまとめられるほどまとまりのある集団じゃないんだろうし。右翼も差別主義者も含んだいろんな人たちがテレビにくたばれと言ったってことだろう。
2011年はアナログ停波、フジテレビ反韓流デモ、あとこれからなにか一つくらいあって、テレビ衰退の節目の年となるのかしら。
ここ5年テレビを見てないし、テレビがあっても、アナログテレビなので、今、フジテレビがどんな韓国のコンテンツを流しているかはわからない。
しかしながら、あえて言おう。
少なくともお笑いというカテゴリーに限っていうと、韓国のお笑い芸人は、日本の1歩先を行っている。
ごり押しなどしなくても、これは多くの人の共感を得ることができると信仰している。
歴代、韓国のお笑いのトップはレベルが高いが、5年位前、最強のスーパーお笑い芸人がいた。
彼の名は
ノムたん
<,,‘∀‘>
かれには数多くの名言を発し、そのたびに全世界を笑いの渦に突き落とした。
詳細は下のページなどをみるといいだろう。
http://mesiken.2-d.jp/index.php?%C8%D3%C5%E8%BD%B6%C4%B9%B8%E6%B8%C0%CD%D5
彼の体を張ったギャグ…自分どころか、全国民の体を張ったギャグは笑いを通りこして敬意すら感じている。
当時は朝鮮日報が愛読書になったり、本場の雰囲気を味わいたくてハングルまで勉強を始めようとしたくらいだ。
ただ、彼にも欠点があって、実は韓国の一般市民には彼の芸風はうけなかった。
ある韓国の友達など、彼を蛇蝎のごとく嫌っていた。まるで、敵をみるような態度だった。
おそらく、ノムたんは、韓国のお笑いを世界に届けるため、ある意味、自国の人たちを犠牲にしたんだと思う。
それだけにカレの死は残念だった。
彼が韓国のお笑い界に君臨する限り、私は安心していられたのだ。。。
昔ばなしはやめよう。
私はノムたんという偉大な芸人を知っているので、今回のフジテレビの一件は残念である。
ゴリ押しなどしなくても、十分、日本人の心をつかむお笑い芸人がたくさんいるのだ。
・・・さて、韓国のことだけ持ち上げて終わると、ネトウヨ(笑)がうるさいので、日本のことも話そう。
最初、「韓国のお笑い芸人は、日本の一歩先」を言っているといった。
そう。いるんだ。
今の日本には。
それも、二人も。
そう、数年日本のお笑い界のトップに踊りだした鳩山氏や菅氏のことだ。
以前より、お笑い芸人としての一部マニアの間では人気だったが、ここ数年、大ブレークした。
いや、正直、私は彼らの芸風がおもしろくない・・・
いや。。。正直いおう。
嫌いだ。憎んですらいる。
でも、韓国とか中国、ロシアなんか外国の人たちにはうけがいいようだ。
非常に安らかな顔で、彼らの芸を見ている。
私は天国のノムたんに報告したい。
どうだい。日本もやるだろ。
それも二人も。もしかすると、そろそろ三人目も。
これね。
現代アートはあれだけぶったたかれて、原作改変パロ系コラージュ作品が受け入れられる理屈が全然分からないから誰か教えて。
原作へのリスペクトはなく、アフィブログに転載された時点で両者は「金稼ぎに使われた悪意のコラージュ」という点で極めて同一の存在になっているはず。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813025538は要するに「現代アートが美術作品として格式ある評価を得ることが気に食わない」ということか。
Bクラス女子のジャンクな曲が「国民的アイドルソングと呼ばれることが許せない」っていうアンチAKBに近い考え方で合ってるだろうか。
「俺が評価したくないものが、他人に美術作品として(あるいは国民的アイドルソングとして)評価されてるのが許せない」っていうのは浅ましくて穢れた考え方だなーとしか思わないなぁ。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813025958の考え方だと明らかにミクやこなたが素材になっていると、パロディ元が分かる現代アートならば許せるってこと?
多分君は許す気ないと思うからそんな理由で怒ってるんじゃないと思うよ。
*
id:qadapの考え方だと現代アートや美味しんぼコラの改変の手法それ自体は問題なくて、芸術家の露出に対する嫌悪感がある、ということなのか。
手法自体を叩いている人が多いから的外れだと思うし、なぜ芸術家が嫌われるのかまでの説明がないと理解できないな。
*
id:tyokorataの理屈というのは例えば社会的に見ればいじめ行為も、コントであればお笑いとして許容される、というような理屈か。
現代アートと美味しんぼコラは共に社会的には犯罪であるけれど、元ネタが誰もが理解できるもので、笑いが取れているから許されていると。
許すかどうかを決めるのは「大衆」かな。もし大衆がマンガや同人誌踏み付けで笑えるなら、踏みつけアートも許していいということ?仮定の話をしてもしょうがないか。
*
id:temtexはアートの権威なの?やるべきこともやらないなら叩く、ってのは既にそれなりの実績を持った人間がいうならかっこいいけど素人が言ってもなぁ。
ただオリジナリティへの回帰の流れは来ると思うけど、もはやアナログの絵画はCGには勝てず、CGに芸術らしさを宿すことができるかどうかが課題だろうね。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813100051は大して叩かれてないからそう思うわけで。みんなアフィブログ見て、おかげで彼らは推定月収100万近く稼いでるわけで。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813110155が今のところ一番納得できた意見。
美味しんぼはそこまで好きじゃないけどああいうコラはまず嫌悪感がくる。でもそういう人間が少数なら絶賛され、多数なら糾弾されると。
とするとそれは物の価値や論理や倫理ではなく、声の大きさが評価を決める、衆愚社会そのものだとも思うんだけどね。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813141721、おぉこわいこわい。ミスってたよ。
本当に多数から叩かれたものは誰も見なくなって廃れる。アフィブログはうるさい少数派が叩いている一方で、物言わない多数派がアクセス源になっているから成立していると思うけど。
「多数派もきっと叩きながらアフィブログを見ているんだ」と考えているならそれは見解の相違だね。ゲハブログの一部を除けば現代アートほどアフィブログが嫌悪されている印象はないんだよ。
*
id:leveleとid:ululunの考え方は「ふたば(や2chやアフィブログ)はオレ達」で、アート界隈の人間は「オレ達じゃない」という文化の壁から、利用されたという敵意が生まれたという考え方で納得できる。
「オレ達」という曖昧ながら強固な連帯意識、文化意識がどこから生まれて何を拠り所にしているんだろう。そしてなにのためにあるんだろう。
*
現代アートに「オレ達」がブチぎれたように、美味しんぼの原作者は一連のコラ群にブチ切れてるかもしれない。(あまりネットが好きな作者じゃなかったから快く思っていないだろう)
またアフィブログは金稼ぎのために話題のネタを集めているだけかもしれないし、「オレ達」という保証はどこにもないわけで。
だから現代アートは「オレ達じゃない」から怒るが、美味しんぼコラをアフィブログに載せるのは「オレ達」だから許せるってのは、何を根拠にそう考えているのか理解できなくて、すごく違和感がある。
*
http://anond.hatelabo.jp/20110813145112。しっかりしたレスポンスを頂いてしまうと申し訳なく思えてくる。ありがとうございます。
「財産」に対する所有意識の根拠、が一番謎なのかもしれない。上手く説明する方法はないのかもしれない。
*
id:vidの、現代アートは「オレのもの」が可視化されているために敵意が生まれ、コラは「誰のものでもない」ように見えるために受け入れられるというのは一理ある。
でもそれは傍観者の主観でしかなくて、製作者にしてみれば匿名の人間に弄り回されていたら、「オレのもの」が勝手に「誰かのもの」にされたと考えて敵意が生まれるんじゃないかな?
コピーライトの有無は「オレのもの」にされたという事実自体は変えないと思う。
けれど一定のネットの不文律を守れば、「誰のものでもない」と錯覚されて、大多数の空気に許容される、ということか。
*
「オレのものだと主張する」「金稼ぎに利用する」を両方満たすとネットの多数派の怒りが爆発する、というのは現象から逆算するとかなり正解に近いようで、決定的な何かが欠けているという感じ。
*
いくつかまとめて。
id:himajin774 心理的に直接金銭のやり取りがあるか、というのが重要なのはわかる。
ではアフィブログが金稼ぎの為に無断転載を繰り返して運営している、と踏まえた上でコラを見たら評価が変わるか?というと恐らく変わらないと思うので、そこは本質ではないと思う。
他のポイントと総合して、怒りを感じる閾値を超えた、ということは考えられるけど。
id:md2tak も同様で作成者と販売者が別だったら、水濡れアートや踏み付けアートを許せたか?というとそんなことはないと思うので、そこは本質ではないと思う。
金稼ぎまでしていなければ、水濡れアートや踏み付けアートを展示するだけだったら、怒りは爆発しなかったのかもしれない、という可能性はあるかも。
id:lefu はあえて書いていないけど、コラ画像作成の場となっているふたばが広告収入を得ているという視点が抜けている。「アフィブログ」の方が設定としてわかりやすいから省いただけで、最初から金稼ぎの道具になっていると思う。
「広告収入」が金稼ぎの手段として認知されているのは、アフィブログに対してよい感情が抱かれていないことから自明だと思うけど、もちろん「直接商品を販売していないからOK」という人も一定数いるんだろう。
id:guldeen のような指摘のために、両者の労力がほぼ変わらないコラージュで、また原作へのリスペクトが感じられない題材を選んでみたんだけど、それでも両者に違いを感じる、ということだろうか。
*
本題と関係ない部分。
id:nagaichi 「カオスラウンジ、カオスラと呼ぶやつは擁護か身内、カスラジ、カスウジと呼ばないやつは敵だ」みたいな面倒臭い考え方の人がいるから敢えてボカしたけど、結局認定ラッシュ食らったから意味がなかった。
「カオスラウンジはネットの総意として敵であり、叩かない人間は擁護工作だから黙らせろ」と考えてしまう人は、いちいち突っかかってこなくていいからお互いに不干渉でいましょう。
pixivは「pixivはイラストを描く人や興味がある人が作品を介して気軽にコミュニケーションしたり、自分で描いたイラストや許可を得たイラストを投稿できるコミュニティ」である*1。しかし、pixivの運営から投稿者に十分な説明がないままに、pixivに投稿されたイラストが運営によって削除された事例が存在する*2。一方で、pixivには「デッサンやアナログ作品等を撮影した写真(実写)であれば」投稿することができる*3。しかし、その条件に該当しない写真が削除されずに今だに存在している*4。
明文化された利用規約などは「ルール」である。そして、コミュニティ内で定められたルールは、その構成員が互いに信頼して行動するための基礎となる。pixivであれば、例えば「特定の条件を満たす画像を投稿してはならない。投稿した場合は当該画像を削除する。」というルールが存在することにより、利用者は他の利用者の不快な投稿に遭遇することなくイラストを閲覧でき、また、利用者はルールに反しない限りは投稿したイラストを運営に削除されることはない、ということを期待することができる。しかし、先に挙げた二つの事例から、現在のpixivには明文化されていない、言わば「隠れルール」が存在すると考えられる。控えめに言っても、運営は利用者にそのような疑念を抱かせている。このようなコミュニティにおいては、運営と利用者の間で信頼関係は成立し得ない。それがイラストの投稿・削除というpixivのシステムの根幹に関わるのであれば尚の事だ。
pixivが今回の騒動を収束させたいと考えているのであれば、この「隠しルール」を明文化することだ。それは「特定のタグがつけられた投稿は規約違反でなくても削除します」「特定のユーザの投稿は規約違反でも削除しません」かもしれない。あるいは「削除するもしないも運営のさじかげんひとつです」かもしれない。あるいはもっとまともなものかもしれない(私はそれを期待している)。いずれにせよ、「隠しルール」が明文化されてルールとなることにより、運営に対する利用者の信頼は回復しうる。少なくとも、利用者が運営を信頼するに値するか否かを、より正確に判断できるようになる。それは、利用者の「おえかきたのしす」の感情を収益の源泉とする企業が行うべき、最低限の行為である。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクのLAコンサート「Mikunopolis」関連の感想和訳その3。今回は初音ミクを文字通りの神話(ブードゥー教とか日本神話とか)と結びつけていた文章を紹介する。とはいっても生真面目なものではなくどちらかというとノリと勢いで書かれており、読むのも訳すのもそんなに苦労はない。肩の力を抜いて軽~く読むのにちょうどいい感じ。
http://animediet.net/conventions/vocaletariat-at-mikunopolis-unite
ボカレタリア(ボカロ階級)革命だ。ボカレタリアート(ボカロ階級者)とはボーカロイドを使う人民階級である。アニメタリアート(アニメ階級者)のようなものであり、そして多くのボカレタリアンたちとアニメタリアンたちは間違いなく重なっている。ボーカロイディアン(ボカロ人)、ボーカロイディスト(ボカロ主義者)、ボーカロイディズム(ボカロ主義)。そう、ミクノポリスは確かに革命的体験であった。ミクノクラシー(ミク政治制)、ミクノクラティ(ミク官僚)、ミクノロジー(ミク学)、ミクノレプシー(ミク症)、ミクノマンシー(ミク術)!
さて、俺がミクノポリスで期待していたのは、実は完璧なホログラムだった。つまり三次元立体画像を考えていたんだ。けど彼女はスクリーンから決して出てこようとはしなかった。ステージから降り、聴衆の中に飛び込んで踊りまくることはできなかった。だから俺の期待とは違っていた。だから技術的にいえばそいつはまだマクロス・プラスのシャロンには及ばなかった。シャロンはステージを降り、お前らと交流することができる。スキンシップできない点だけだよ、同じなのは……。
初音ミクのようなボーカロイドは、新たなる神だ。伝統的にアイドルってのは三次元の人間、つまり役者/歌手が偶像(アイドル)の役を演じていた。偶像が彼女に憑依した時、彼女はアイドルになる。それが演技という概念だ。日本語で演技はhaiyuu(俳優)と言い、その本来の意味は「神に憑依される」というもの[俳優の語源については違う説明もある]。そんでもって多分、日本で最初のアイドルはウズメちゃんだな。彼女は最初のエンターテイナー兼、踊り子兼、お笑い芸人兼、役者兼、演奏家兼、歌手だった。そう、彼女こそ最初のGeigi[芸妓]、Geisha[芸者]だったんだよ。なんだってー。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ame-no-Uzume-no-Mikoto
最古の文学はどんな文明でも常に神話だった。つまり、最初の文学に出てくる登場人物は神々であり、そして役者は神々を演じた。だから演技は神の技、つまりオリシャ[ブードゥーの神々で、神ごとに踊りやリズムがある]と見なされたんだ、当然。それこそかつて俺らがmarebito[客人]を迎えたやり方だ。だけどボーカロイドの降臨以来、俺らはもはや四つ辻でエシュ=エレグバ[ブードゥーの神]を演じる人間を必要としなくなっちまった。コンピューターが女優を生み出し、本物の女優に取って代わったS1m0ne[映画]のように。そしてコンピューターに生み出されたアイドル歌手のミクが、本物のアイドルに取って代わった訳だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Orisha
http://en.wikipedia.org/wiki/Marebito
http://en.wikipedia.org/wiki/Eshu
http://www.youtube.com/watch?v=Yd60nI4sa9A
http://www.imdb.com/title/tt0258153/
ボーカロイドは演じる際に三次元の人間を必要としない。そう、miko[巫女](女性のシャーマン)は不要なんだ。日本で最も古い音楽劇はkagura[神楽](神の音楽)という。まとめて「Sarume」[猿女]と呼ばれていたウズメの末裔たちが神楽を演じた。そしてまさに、ミクノポリスこそが最新の神楽なんだ。つまりミクはウズメの直系子孫ってわけ。そしてミクはもちろんneo-marebito[新たなる客人]ってことになる。
アイドルってのは架空のキャラだ。なにしろそれはリアルじゃないんだから。なのに本物の人間がアイドルを演じるってことは、つまりアナログのアイドルとは偽物の人間、言い換えれば架空の人間ってことを意味する。かつてアナログ時代において、俺らは神の声を聞く巫女を必要とした。でももう巫女はいらない。なにしろ俺らは直接、神の声を聞けるんだから。それこそがデジタルアイドル! ボーカロイドのアイドルは偽物じゃない。架空じゃない。正真正銘、まさにそのままなのだ! 存在す、故に存在すってか。
そして今や俺らみたいな連中は好きなように音楽を作ることができる。俺らの歌を歌わせるために優秀な歌手を雇う必要はないし、音楽制作のためのスタジオもいらねえ。完全に大衆指向だ。誰でもボーカロイドを使って作曲ができる。
もしスティービー・ワンダーが音楽フレーズを創り出すためにボーカロイドを使ったらどうなるんだろうな。彼は様々な楽器からその潜在能力を引き出す方法を知っている人物の一人だ。モーグのようなとても原始的で陳腐なシンセサイザーですら、スティービー・ワンダーが使えば空前の偉大な楽器のように音を響かせるだろうさ。
http://www.youtube.com/watch?v=9CWqY94kwH4
これはプロレタリア革命というよりむしろボカレタリア革命なんだろうか? そう、確かに鏡音リンはプロレタリア革命を唱道している。だがな、労働に従事する人民は実は今なお奴隷状態にあるんだ。なぜなら、労働をするのは奴隷だけだから。労働はお前らを自由にせず、むしろ奴隷にする。アルバイト・マハト・フライ。労働は俺らを労働から解放しない。プロレタリア革命は俺ら全員を貴族ではなく、むしろ被搾取階級に仕立て上げる。
一方、ボカレタリア革命は俺らをまさに特権階級にする。かつてアイドルを雇うなんて贅沢ができたのは、成功したプロの作曲家だけだった。だが今や誰もがアイドルに自分の歌を歌わせられる。アクセスは力なり。インターネットは誰もが情報にアクセスすることを可能にし、そしてボーカロイドは誰もがアイドルにアクセスできるようにしたんだ。
ミクノポリスはフリッツ・ラングの映画メトロポリスの正統なる後継者だ。あるいは手塚治虫の方のメトロポリスかもしれない。アイドルとはつまり作曲家と聴衆の間をつなぐ仲介者/メッセンジャー。でも今じゃ仲介者に本物の人間は必要ない。かくしてフリッツ・ラングの予言は成就せり。それこそがミクノポリスであーる!
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
初音ミクのLAコンサートに関して、Promise Of Rebirthと題したそこそこ長い感想を外国人が書き込んでいた。正直、随分と難解な表現が多く、翻訳も怪しげになってしまった。書き手のHN(wintermuted)を見るに、本来なら黒丸尚風に訳すべきなんだろうが、とても私には無理。とりあえず訳してみたのを置いておく。無断翻訳なので匿名で。誤訳はあると思う。
なお原文のurlは以下の通り。
http://animediet.net/commentary/mikunopolis-at-ax-2011-promise-of-rebirth
+++++以下無断翻訳+++++
メガゾーン23に出てきた謎めいたヴァーチャルアイドルの原型たる時祭イヴがSFにおける一種の狂信的比喩として想像をかき立てる場面に現れてから四半世紀強ののち、昨夜のアニメ・エキスポにおける比類なきイベントMikunopolisがちょっとした進化的な跳躍を成し遂げた。西洋におけるこの概念の最も著名な派生例がアル・パチーノの穏健な映画[シモーヌ]、及びウィリアム・ギブスンのほとんど遺伝的に接続された精神[小説『あいどる』]を通じた形をしていることを踏まえるなら、数千人のファン(及び間違いなく好奇心旺盛な連中)がオタク世界のデジタル彼女アンドその友人たちと伴にロサンゼルスのノキア・シアターをほとんど埋め尽くすなんてのは、まだまだ先のことだと考えらていたに違いない。不可解にも外部に広がった走査線から、ケミカルライトやネギその他に鮮やかに彩られた通路に至るまで、それはリン・ミンメイだけを認める歓迎の場であった。今なお振り払っている最中である土曜夜のイベント後の残響は、かなり深い思考を私にもたらした。
いつもカリスマチックなダニー・チューによる紹介と、それに伴うダンスロイドの形をしたリズム点火係は、その先に待っているものの興味深い味見役を果たした。この前座は、おそらく秋葉系(Akiba-kei)の空気に慣れていない聴衆にとって、何が次に来るかを示す重要なリトマス試験紙だ。このショーを準備する時間がほとんどなかったことが見て取れる点が、これが日本直輸入の製品であり、一見客に対するちょっとした警告にもなっていた。私自身が見いだした特に重要な点についてはすぐに述べる。
既に日本で有名になっていたコンサートの形式をカンニング済みだった客の大半は、青緑色の髪が次々と繰り出す人気のある曲と、目がくらむようなライブ伴奏(39s Giving DayのDVDで演じたオリジナル奏者の大半、及びこの有名なディスクには含まれていない弦楽器奏者の面々)の混合物を味わった。その間ずっと聴衆は大いなる称賛のためリズミカルにケミカルライトを振り、その動きが最後まで全公演を通じて見られたのは心強かった(こうした行為、及びその概念に対する彼らの長く続いた反応は、米国の聴衆にとっては奇妙に思われるものであることを、私はこの場で認めなければならない)。ボックス席に座り、ステージから1階席、クレーンカメラ、そして複数のカメラで撮ったHDスクリーンのハイライト映像まで含んだ全景を見る。多くのミクのファンかつアーティストが作った聴衆が親しんでいるヒット曲、World is Mineやポッピッポー、サウンド[ママ]、ロミオとシンデレラ、その他多く(どこかでミラクルペイントを彼女に演じて欲しかった)は、オープンソースな現象がほんの3年でどれほど広がったかを示している。そして特に歓迎された巡音ルカ、鏡音リン&レンの登場は、観客の熱狂をさらに高めた。センターステージに置かれたほとんど透過性のスクリーンに跳ね返るホログラフィックな投影機は、時にミクが踊りながら少し両端に近づくたびにその限界を示したが、同時にこの海外遠征の短い命に対する理解を伴ってある種の魅力ももたらしていた。
こうした話を正しい文脈の中に置くため、ちょっとした歴史を思い出そう――小さな子供だった私は、おそらくは地元の祭に毎年来ていたレーザーライトを使ったショーを見に行ったおかげでそれを一つの起源として啓示を受け、1980年代初頭に芽吹いてきた新たなテクノロジーに興味を抱いた。そのショーとは、要するに空気で膨らませたドームの中で音楽に合わせて行われたレーザーペインティングで、客は入場料を払い、床に置かれたたくさんのクッションの一つに腰を据えて15分から20分間、まばゆい光の列と、ミッシング・パーソンズやトーマス・ドルビーなどのアーティストの曲に合わせたアニメーションを楽しんだ。今となっては原始的なものに思える――ミュージックPVはいうまでもなく、コンピューターが生み出すアートとアニメーションにつながる想像まで至るには長い道のりがあった。また、こうした地味な傾向が存在しなければ、84年のマクロス映画における楽しいコンサートシーンもある種心を揺さぶるほどのパンチ力は持たなかったと敢えて言うこともできる。私が思うにそれは時代の刻印であるが、同時にライブエンターテインメントがどのように変化していくか数十年にわたる発展を知らせるものでもあり、おそらくは音楽芸術の愛好者がいずれはあるところで分裂に至ることまでも示唆していた。
なぜならこの時代に育った者にとって、アナログからデジタルへ向かう音楽の傾向が何か恐るべきものとみなされ、音楽業界で排斥されたことが一般的な心象として残されているからだ。子供の頃にクラフトワーク、デペッシュ・モード、ジョルジオ・モロダー、YMOやソフト・セルなどのファンだった者にとっては、誰かがシンセサイザーの人工性を嘲り、音楽の自然さを殺すと聞かされるのは珍しくもないことだった。そしてこの議論の中に何粒かの真実が含まれているとしても、それは一方で、当時は多数のコンピューターと故障の懸念とショーを乗り切るためだけに間違いのない注意深さを必要としたこれらのかさばったキーボードから音を創り出す人間の努力と創意工夫を、台無しにしていた。最終的にこの否定的な議論は多くの未来の音楽及び演奏形式に付きまとい、興味深い結末をもたらした。それはまたミクのライブ伴奏をこれほど楽しく必要な要素にもした(ギターの黒田晃年、ベースの田中晋吾、ドラムの折田新、キーボードの安部潤――言及すべき弦楽器部門を除く。いずれもとても素晴らしい)。スタジオミュージシャンは、あらかじめ簡単に録音することもできる演奏に大いに心をこめることになる。新たな道具を愛するアマチュア音楽家と、伝統的なものとの融合実験によって、このショーはさまざまな要素を混ぜたある種の喜んで受け入れられるシチューとなり、ときにいくつか二級品の歌があったにもかかわらず、既存の姿ではなく可能性を約束するものとして機能していた。――以上がショー全体で私が本質的に感じたことだ。
誰も見失わなかったよう望むのなら、この最終目標へと向かうDNAを手に入れることが私にとってベストなのだろう。なぜLAのショーはこれほど意義深いのか、そしてVOCALOID、ミク及びこのようなショーが持つ主要な意味あいとは何か。
さてこれは真に落とし穴的な回答である。なぜならアイドル歌手という概念及びヴァーチャルアイドルに伴う必然的結末まで考えを煮詰めるからだ。我らが今いるのは現実に近づいたキャラクターアニメーションの時代というだけにとどまらず、オープンソース化した大衆文化の可能性がある時代でもあり、我々はオタクの領域を超えて全く新しい何物かになるまで成長しうるアイデアをおそらく目撃している。YAMAHAが今年のNAMMショー[米国で開かれる楽器展示会]で多用途VOCALOIDを紹介したのを見ても、現状はメディアを通じた古い分配モデルが不可避の断末魔を上げるところに達したと敢えて見なせるように思える。スペイン製のソフトから取りだした一つのアイデアを、音楽作成のための輝かしい新たなモデルへと広げ、そして数が多すぎ、時に厄介な日本のアイドル歌手業界を考えた場合に多数の集団に働きかける天才の発案に過ぎないマーケティングにまで、拡大する。終わりなき競争、怪しげな才能、さらに怪しげなマネジメント、生死にかかわる健康上の危険、類似性、そして夢想を維持してほしいというファンからの圧力に満ちた困難な人生――そう、こうしたマーケティング方式とファンに駆り立てられた神話が混じり合って音楽のスーパースターたちにかくあるべしとする任務を押しつけるのは、それこそVOCALOIDにとって理想的シナリオだ――しばしば置き換え可能で、派生的、はかなく、言うまでもなく消耗品であるミューズたちが、変化もましてアイデアも嫌う文化産業のために存在している。
考えてもみてほしい。マイルズ・ダイソンの言葉を言いかえるなら、これこそ決して疲れることなく、興奮状態にもならず、二日酔いで仕事に出てくることもないアイドルだ。彼女はショーを続けなければならないことを知っており、一瞬のうちにコスチュームを変えられる。何よりファンが歌を作り、バンドが彼女の横で演奏しているという2つの理由で、その歌は偉大である。過剰な荷物と期待を持つことなく、アイドルが実行すべきだと期待されるあらゆることをする能力を自ら持つミクの存在そのものが、ある種の輝かしいアンチテーゼなのだ。彼女は文字通り、何でも人々の望み通りになれる。汗一つかくことなく。
そしてこれほど目立つ歓迎を伴う西洋への紹介は、日本人にとってだけではなく夢を共有できる分野を長く求めていた世代にとっても何か極めて特別なことの始まりであり、過保護にされることなくさらなる発展が期待できる約束されたスタートだ。そしてこの夜の感動的な聴衆たちから判断する限り、長きにわたる憧れはついにその実を結んだようだ。
イヴ、シャロン、レイ……君たちの歌がますます現実に近づいてきた……
+++++無断翻訳終了+++++
言うまでもないがシャロンはマクロスプラスのシャロン・アップル、レイはギブスンの小説に出てくるヴァーチャルアイドル、投影麗(Rei Toei)である。
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
http://anond.hatelabo.jp/20110527203744
HTMLとかデジカメとかMacとか、いろいろ改変できそうなネタだけど、すでに成熟期に入っているデジタルオーディオプレイヤー(DAP)を同じように分けてみたい。
最初期の録音可能なデジタルオーディオはDATだが、当時の民生用としてはややオーバースペックだったためもっぱらプロユースだった。DATなんか趣味で持っていたような人は、たぶん今は逆にアナログレコードとピュアAUが趣味なんじゃないだろうか。ヱヴァでシンジ君が父親の形見(生きてるけど)として使ってたあれ。その後MDが発表され、ようやく一般家庭にデジタルなポータブルオーディオが普及する。ただこれらはあくまで「オーディオ機器でメディアに録音する」物であって、現代的なDAPとは違った。
現代的なDAPが発売されたのは1998年から。この当時はまだフラッシュメモリが高価で64MBとかが当たり前だった。この時代はソニー以外の国産メーカーは殆ど無く、iRiverやiAUDIOやMpioなどの韓国勢が主流だった。
この時期のDAPは、PCにつないで使うということで、家電量販店のオーディオコーナーではなくPC周辺機器のコーナーで売られていた。ちょうどWindows98がPCがマルチメディア化してったころ。ただMP3プレイヤーはまだまだマニアックなシロモノだった。この時期にMP3プレイヤーを使っていた人は、結構なギークではないだろうか。
その後ポータブルオーディオのシェアを大きく塗り替えるiPodが発売される。他のメーカーがプレイヤーのために変換転送ソフトを付属させたのに対して、iPodはまずiTunesが先にありそこからiPodを開発した。あと、HDDを採用しPC内のプレイリストを全部持ち歩けるようにしたのも画期的だった、
またアメリカでは2003年(日本では2005年)からiTunes Storeがサービス開始、他のサービスが苦戦する中でiPodの人気を背景に成功をおさめる。
このころ国産メーカーはどうだったかというと、2001年にPanasonicがSDオーディオを発売したり、ケンウッドがWMA対応のCDプレイヤーを発売していたが、いまいちぱっとせず、Apple VS 韓国勢という情況だった。特に「ウォークマン」のソニーがATRAC3やメモリースティックなどの独自規格にこだわったことや(SonicStageがものすごく使いにくかった)、日本の家電メーカーとレコード会社の関係から著作権がらみで消極的だったこともあり、海外勢に大きく水を開けられることとなる。
特にソニーのこの時期の迷走ぶりがひどく、Hi-MDとかVaio Pocketとかその後黒歴史化するシロモノを次々と出し、Appleにシェアを奪われていった。DAPに限らずDVDレコーダーや薄型テレビなどでも同じように迷走していた。その後のソニーの凋落ってじつはここから始まっていたんじゃないだろうか。
この時期に発売されたiPod miniは小型化と低価格化により爆発的に売れ、世界的に品薄の状態が長く続いた。はじめてのDAPがiPod miniという人も結構いるのではないだろうか。
シェアを奪われようやく危機感を覚えたソニーが、MP3やAAC、WMAなどマルチコーデック対応のプレイヤーを発売。家電メーカーらしい発想でHDD搭載のミニコンポを発売。これで「パソコンがなくてもDAPが使える」環境となる。
ソニー以外の国産勢は巻き返しを図るべく音質や付加機能を全面だす。東芝はワンセグ付きのプレイヤー、ケンウッドはデジタルアンプ付き、PanasonicはDIGAとの連携など。あと、日本メーカー品の多くはダイレクトエンコード対応で、PCなしで音楽を取り込めるという触れ込み(ただ決して使い勝手は良くない)。この辺はスマートフォンやPCと一緒で、よくも悪くも日本の家電メーカー的な商品開発。
一方のAppleはiPodを動画対応に。これはiTunesストアで映画やテレビ番組を配信・販売することを前提としたものだった。ただ日本ではこの時期はようやくiTunes Storeがサービス開始したばかりの頃で、動画を購入することは出来なかった。Apple以外のメーカーも、このころからオーディオプレイヤーからマルチメディアプレイヤーへの移行が始まる。更に低価格で簡素な機能のiPod shuffle、ミドルエンドのiPod nanoが発売される。iPod shuffleとnanoにより低価格化・小型化が進みより一般ユーザー向けに浸透する。
この時期はヘッドホンやスピーカー、FMトランスミッターや動画変換ソフトなど、サードパーティのアクセサリが拡充した時期だった。特にイヤホン/ヘッドホンなんか中価格・高価格帯が売れるようになった。ノイズキャンセリングヘッドホンとかDock接続スピーカーが出たのもこの時期。
DAPのデジタルデバイス化がより進む。iPod touchはマルチメディアプレイヤー機能に加え、ネットブラウズやメール、Youtube視聴、さらにApp Storeによりゲームやビジネスアプリなどを入れられる。iPod touchはiPhone替わりに購入した人も結構いた。
iPod shuffle 3GやiPod nano 6Gの滑りっぷりや見ると、「音楽プレイヤーとしてのiPod」の進化は今後大きくは見られないと思う。iPod classicもここ最近はあまり大きく変化してないし。国産メーカーは東芝・Panasonic・Victorが事実上の撤退状態。今後はスマートフォンやタブレット、電子書籍端末と競合がたくさんでるので、単なる音楽プレイヤーという市場は衰退するかも。
見てないのに批判すんなと言われたのでフラクタル見た。
1話の設定だけ見たらディスコミュニケーションというか偽りの現実を取り戻すみたいなゼーガペインみたいなのを、ループ使わず、仮想空間も使わず
テクノロジと認識の問題として取り上げるのかと思ってた。というか登場するキャラも全員厨二くさく、特に主人公はテクノロジ社会に適応できずアナログで手触りあるものに憧れるヒキオタ。こりゃどうみてもこっちの方向だろ、と正直オラワクワクしてた。
そういう意味で1話見たときはメッチャ面白いと思ったんだが、3話あたりからわけわからなくなって最後までわけわからんかった。
どう見てもキャラも設定もジブリと全く正反対にあるのに(漫画版ナウシカだけは少しつながりあるけど)、どうしてこれでジブリができると思ったのか全く理解出来ない。
コリン・ウィルソンは「アウトサイダー」の中で、アウトサイダーの意義について書いたが、そのなかで例としてあげられているアウトサイダーたちが、
すべてD・H・ロレンスとか、ニーチェとか、十九世紀的な「精神の巨人」時代の人間か、あるいは疎外の始まった頃の疎外への反抗者であったというのは、
すでにそういうかたちの疎外の消化の仕方が、現代には意味を持たないものになっていることを示している。
自己疎外が自己を拡大するための契機として意味を持ち得たのは、個人の存在というものにまだ何らかの意味があった時代においてだけである。
現代においては、すでに個人のものが存在しなくなりかけているのだ。
個人が存在するのならば、阻害されても疎外された個人として生きられるだろう。しかし、現代にあっては、疎外されたまま生きて行くことは不可能である。
かつてコリン・ウィルソンが「アウトサイダー」をあらわしたとき、まだ社会にはアウトサイダーの生きる場所がそれなりにあった。
いかにアウトサイダーであろうともその事自体が意味を持ちうるくらいにさえ社会には余地があったしパラダイムはまだ決定的ではなかったのだ。
犯罪者であること自体にコリン・ウィルソンがひとつの事故表現としての意味合いを見出すほどに社会のそのものが発展の可能性をまだ持っていた。
だがいまや犯罪者も精神病者もまた社会のアウトサイドでアウトサイダーとして自己表現する余地はない。膨張していく東京がしだいに周辺の村を合併し
埋立地をベイアエリアとし、そしてどこからが東京でどこからが地方であるのか次第に分からなくなってきつつある現状そのままに、
「インサイド」と「アウトサイド」という対立は存在しなくなり、そのかわりに
コミュニケーション不全症候群 p307 コミュニケーション不全症候群のための処方箋
なんらかの公認されない私的な共同幻想(個幻想ではない。共有されない個幻想は単なる狂気で終わってしまう)に拠ることで
社会全体に対してのあアンチの役割を務める人間は、実際に自分がそのアウトサイダーのグループに参加したり、そういう役割を務めることは出来ないけれども、
一見一応は<まとも>に社会に適応している範囲内に居ながらその内側に何らかの欠落を抱いているタイプの個人たちの小規模な共同幻想の作り手となる。
もちろん「それらしきもの」はわかるけど「それ」だけだったとは思いたくないし。
まさか最終話のアレがやりたかったわけじゃないんだよね。
彼は仕事中の私が好き。
ゴールデンウィーク中、仕事以外でずっと一緒にいて気づいてしまった。
彼は私の優柔不断さにいらついている。
彼は私の甘えをうっとおしく思ってる。
彼は二人の時間を消費的に感じている。
本当は前から気づいてたけど、
そしたら彼は喜んでくれるけど、
そのたびに私は普段の私を蔑むことになるんだ
ほんとは、
そういうことがしたい。
二度と思い出さないようなテレビ番組を見ながら二人で食べて、
翌々日になっても洗ってない食器が流しにある。
そんな二人はいや
1Kとかの、魚喃キリコの漫画に出てるみたいなぐだぐだの部屋で
私は夏の昼下がりにじっとり汗をかきながら畳にぺたんって座って
折りたたみの鏡を見ながら化粧してアルバイトに出かけていく
貧乏で将来性もないけど、楽しくて
手を伸ばせばそこに愛がある生活
でもそんな未来こなかった
踏み外さずに生きてきたら、そんな未来こなかった
24時間働ける
認めてもらえるから
こんなに私を前向きにしてくれて
向上させてくれて
たくさんのことを教えてくれる
こんな素敵な人はいないと
でもやっぱり、わたしの生産的じゃない部分が、ほんとうの私なんだ
そう思うとやるせない
お母さんは、たわいのない話も聞いてくれた
落ちがなくても
ネガティブでも
じっとずっと聞いてくれた
もともとゲームと機械系が大好きだった私はすぐさまPCに飛びついた。
”インターネット”という言葉は学校で習っていたから、すぐに接続したくなった。
当時は光回線やADSLなんてもちろん無くて電話回線から直接繋ぐダイアルアップ方式。
全く未知の機械と、わけのわからない説明書を相手に何日もかけてやっとインターネットに接続できて
自分がWEBデザイナーを目指したのは思えばこの頃からかもしれない。
中学2年の時にインターネットに初めて触れた私は、その翌年初めての携帯を持った。
今の携帯電話のように、定額じゃないから毎月のバイト代はほとんど携帯の料金に消えていった毎日。
それでも、当時ははやってた魔法のあいらんどを見たり、まだこんなに有名じゃなかった携帯小説を読んだり
ネットで得られる色んな情報を見るのが楽しくてやめれなかった。
いつのまにか友達の間でパソコンのことはあいつに聞けば大丈夫。と見られるようになった。
答えるのも全然苦じゃなかったし、むしろこの頃からPCに関わる仕事をしたいと思うようになった。
初めは魔法のあいらんどとかで作っていたけど、物足りなくなってHTMLのテーブルを勉強するようになった。
まだCSSなんて無い時代だから、テーブルで枠組みして形になっていくのが凄く楽しかった。
それから時は過ぎ、WEBデザイナーの夢もあきらめた私はネトゲにはまって画面の向こうの彼に恋をした。
遊びじゃなくて本気で恋をした。
でもその当時周りには”ネットで会った”なんて言えないし、気持ち悪がられる時代の風潮だった。
本気でこう思ってた。
ネットで知り合った事をバカにされるのが辛かった。
時は過ぎ、今までPCさえ触れなかった友人達が”mixi”を初めていた。
この時は正直びっくりした、時代が変わったと強く思った。
そしていま、Twitterが流行ってますますネットコミュニティの加速広まっている。
こんなに嬉しい事は無い。
誰にもバカにされない時代が来たんだ。
TwitterのTLを見ていても、その人個人の持ち味が非常に出ていておもしろい。
ある意味アナログよりネットの方が、その人の人間性や持ち味を出せるんじゃないだろうか。
ネットコミュニケーションを使えば、社会にある色々な問題を解決できるんじゃないだろうか。
私はこの10年ネットを通じて色んな出会いをしてきたけれど、実際リアルで初対面の人より間違いなくネットで会った方の方が信用できる。
それはたぶん、当たり前だけど”信頼関係が出来上がってる状態”で会うからだと思う。
もちろんアナログも大切だけど、初対面から信頼関係なんて、なかなか築き上げれるものでは無い。
それをあっさり、気の合う仲間を探して人と繋がれる。
何て素敵なことなんだろう。
もっとみんなやればいい。
もっとみんな出会えばいい。
これからもっと加速するネットコミュニティをみんなに使ってほしい。
そんな想いです。
ネットは好きだけど今までどこか後ろめたかった自分には、サヨナラして明日の誕生日に備えたいと思います。