「月と太陽」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 月と太陽とは

2023-09-04

anond:20230904231619

よく、最初文字を同じにしようとする人がいるけど、どちらの子を呼んでいるか判別するのに時間がかかるのでよした方が良い。

月と太陽みたいな対の名前をつけたがるけど、陰陽みたいに意味をとらえられがちなので、できるだけ意味に対比が出ない方が良い。

普通に、2人別々に子供名前を考えてあげた方が良い。

2021-09-04

KKと眞子さま記者会見

YouTube眞子さまとKKの婚約表記者会見、今は叩かれてるけど、KKとKKのお母さんに何の問題もなかったとしたら普通記者会見なんだよな

「前から怪しいと思ってた!」「月と太陽なんて作り物っぽい」「子供っぽい記者会見」とか色々と叩かれてたけど

後付けでしょそれは……ここぞとばかり叩いてる人間がこわい

今回はこういうことが起きたから叩いてるだけで、あの記者会見動画はみんな当時おめでとうって祝ってて何の問題もなかったんだよな

あの記者会見だけで「KKには何か問題がありそう」なんて見抜けた人はいるのか?

KKのヤバさを知ってるのはKKと過去に繋がりがあった人だけだよ

大多数が「あぁ、あの記者会見で良い人だって騙された。本当は皇室と繋がりを持ったらいけないくらヤバイやつだった!」となってたはずなんだよ

なんだよ前々からおかしい怪しいと思ってたって

騙されてただけでしょ。私もイケメンで海の皇子なんてすごい!眞子さま絶対幸せになる!と当時は思ってた

2021-01-04

宇宙ゴリラの朝は早い

宇宙夜明けは存在しない。なぜなら地平線が存在しないからだ。

宇宙空間では、太陽は暗闇の中にポツンと存在する少し大きな光に過ぎない。真夜中の道路脇にある自販機の明かりを夜明けと思う人はいないだろう。

  

宇宙夜明けが来ないなら、そこに浮かんでいる宇宙ステーションにも夜明けは来ないのだろうか。

宇宙飛行士は毎朝どのようにして起きているのだろう。朝起きて、太陽というには名ばかりの、暗闇の中の眩しい光を目にしたとき何を考えるのだろうか。私は知らない。

  

宇宙ゴリラについて考えている。

我々が宇宙ゴリラ存在に気づいたのはいつだったのだろう。明確に記憶している人はいない。

しかし、我々がその存在に気づくずっと前から宇宙ゴリラ宇宙にいたに違いない。

いつから存在していたのかなんて、宇宙ゴリラ自身だって知らないだろう。それは人類地球の生き物がいつから存在していたかという問いと同じようなものからだ。

  

宇宙ゴリラの朝は早い

宇宙ゴリラステーションに起床アラームが鳴り響く時、宇宙ゴリラはまだ眠そうな目を擦りながら起きてくる。そして体操室で体操をするのが日課になっている。

  

私が「おはよう」と言うと、宇宙ゴリラは返事の代わりに満面の笑みを返して体操室へと入っていった。

宇宙ゴリラ人間よりも遥か昔から宇宙にいるので、宇宙での正しい暮らし方を知っているのだ。体操をするのもそれが理由だろう。

  

宇宙船の丸い窓から地球月と太陽が見えている。宇宙ゴリラはこれらを見て何を考えるのだろうか。

一度だけ聞いてみたことがあるが、曖昧な返事を返されただけだったので、少しがっかりした記憶がある。彼らにとっては暗闇に浮かぶ他の星々と同じように見えているのかもしれない。

  

朝の体操を終えて戻ってきた宇宙ゴリラは私の目の前にある椅子に座った。私はその筋骨隆々とした身体何となく眺めていた。上腕三頭筋が盛り上がっている。

重力に耐えるために通常の三倍は鍛えているという話もあながち誇張ではないだろう。

  

宇宙ゴリラに過度に期待してはいけない。

私たちは未知のもの発見した時、しばしばその発見自体特別ものだと思いがちである

しかし、発見前でも発見後でも、それが存在しているという点では何も変わらないのだ。ただ我々の視界に映るようになったというだけのことである

当たり前だが、宇宙ゴリラ宇宙ゴリラであり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

  

私が宇宙ゴリラ出会って分かったのは彼らの朝が早いということだけである。それで十分だろう。

2020-06-19

anond:20200619092954

どちらも大事パンツを履かなければ仕事に打ち込むことができない。仕事に手がつかなければパンツを履くこともままならない。

月と太陽、空と海、花鳥風月パンツ仕事

2020-01-15

吉野晃一が好きだった話

寒くなってきましたね。

寒くなってくると、嫌でも思い出してしまうことがある。

あれから一週間、1ヶ月、半年一年と経つたびに整理しようと文章を書こうとしたけど、いつも纏まらなかった

なぜか今なら書ける気がするので、書いておきたい

ある冬の日、ももクロ有安杏果さんが辞める話を聞いた。

それで急にいつか必ず来る、吉野くんがやめた時のことを真剣に考えようと思った。

「その時が来たときは青いペンライト持って、KMBときはユーキさんだけを双眼鏡で追って、新曲は3枚買って、タカシくんの歌を真剣に聞くのだ」

具体的なプランを据えて、私は推し引退に備えられる優秀なオタクだなぁなんて誇らしげにしてた。

翌朝、起きて一番に見たのが吉野晃一が脱退するという報告だった

正直昨日の今日でこんなことある?って頭で自分は笑っているつもりだったし、「分かっていたことだから仕方ない」と落ち着いてるように錯覚してた。

ただ頭から順番に爪先まで急に血が凍ったみたいに冷たくなって、自分意思で動かせない肉の塊になったのは感じていた。

きっと身体の方が正直だったのだと思う。

その日は学校があったから、動かないと思っていた肉の塊をなんとか人間みたいに仕立て上げて家を出た。

涙は出なくて、まだ悲しいも寂しいも腹が立つも感じることはできてなかった

今思えばよくやったなぁと思う。

脱退する、と未来形みたいな言い方だったけどもう仕事はなくて、今撮り終えたもの放送が終わればその時点でいなくなる

事実上の事後報告だった。

ファンと直接お別れする場がないどころか、何かの放送を通してメンバー吉野くんを送り出す事もない

極め付けは脱退報告の謝罪文が、リョウガさんのものだったことだった。

何回読んでも分からない。

方向性の違い」?

ギャグ漫画バンド解散シーンじゃねぇんだぞ!!!!!!

何も悪くないリーダー謝罪させておいて自分一言も発さずこのまま逃げるつもりなのか?

個人更新してるブログで謝る可能性は充分にあったけど、公式の脱退発表での報告は本人のものであれよ。

そろそろ2年も経つし、すっかり忘れたつもりでも思い出す度に腹わたが煮え繰り返る感覚を思い出す。

からボーッとする頭で授業を受けているうちに頭が正常に戻り始める。

脳が回り始めるとだんだん疑問が生まれてきて、感情が沸き起こってくる。

悲しいとか寂しいとかより真っ先に悔しいとムカつくが溢れ出してきて、昼まではとにかく笑うしかないっていつもよりハイテンションだったのが、午後から一言でも発せば大暴れしてブチギレてしまいそうで喋れなくなった

初めて涙が出たのは夕方実習が終わってやっと1人になった帰り道で、「お前が辞めても絶対超特急東京ドーム行くからな」と思った瞬間だった

だって本当に、上がり目だったんだ

この調子で行けば絶対ドームも夢じゃなかった

日に日に大きくなるキャパティと分かりやすく伸びていくYouTube再生回数を見れば誰だって分かった

超特急が今一番最強の7人だってファンに思わせることができる人たちだった

そんなところにこんな最悪の水の差し方するなんて、推しとか関係なく許せなかった。

辞めることはわかりきってたくせに、いざ辞めると言われれば「もっと後でよかったじゃん」とか言ってる自分が滑稽だったけど、理性で感情は抑えられないものだと知った

そんな怒りは一週間も続いて、怒って泣いてを繰り返すうちに、ある日やっと寂しいという感情が湧いてきた。

好きなところを思い返したり過去映像を見たりして吉野くんが恋しくて泣くようになった。

もう彼が楽しそうに歌う姿もクセ強すぎて目立つダンスも、MCときニヤニヤしながら6人を眺める姿も何もかも見れなくなると思うと辛くて苦しくて寂しくて耐えられなかった。

早く彼のことを綺麗さっぱり忘れたかった

そう、脱退が発表されて初めて涙を流してから、私はずーっと吉野晃一という存在忘却たかった

好きだったことを引きずるのは超特急応援するのに邪魔だった

差し迫るテストに集中するのに、彼を思い出してる暇なんてなかった

好きだったこと、寂しいこと、怒ってること、悲しいこと、彼に付随してくる感情はどれも強すぎて私の心では受け止めきれなかった

から早く忘れたかった

心を守る正常な防衛本能だったと思う。だって彼を忘れてしまえばこんな不毛感情は全部消える。

早く穏やかになりたかった

私にとってコーイチは初めて好きになったアイドルだったけど、その後色んなグループを好きになっていたか情報の海に飲まれようと思った。

ライブにもたくさんいったし、色んな番組見たし、雑誌もたくさんかって色んなところに散らばった好きな人たちを追うことで忘れようとしてた

私にとって、他のグループ超特急グループとして特徴づけるための比較対象として見ている部分があったことに、そこで気が付いた気がする。

例えば後輩グループ超特急が切り開いた道を広げてくれる人たちだったし、もっと大きな事務所グループは追い越す対象だった。

超特急は私にとってアイドルだったけど、いろんなアイドルを見ることによって超特急はやっぱりちょっと王道じゃないことを確認できた。

から他のグループを見ていると、どうしてもこれからコーイチの脱退によって落ちるであろう超特急の人気のことを考えてしまっていた気がする。

その辺の時期の記憶はあまりなくて、ただ段々自分アイドル応援に疲れていることをなんとなく自覚していた。

特に、脱退発表直後から自分絶対コーイチがいなくなったことに引きずられない」と豪語していたくせに、日を追うごとに周りが好きなタレント純粋応援できていることを羨む気持ちが芽生えてしまっていることがつらかった。

あんなこと言ったくせに、自分はいつまでも彼を引きずっていることが恥ずかしくて言えなかった。

そうして私は、夏のある日ぷっつりとアイドルを見るのをやめてしまった。

情報が全く入ってこないアカウントで、いろんな二次元ジャンルに手を出してみたりした。

昔好きだった作品をたくさん見返して、今までちゃんとできてなかった勉強をして、私がドルヲタしてたことを知ってる周りの友達には何度も「休日何してるの?」と聞かれた。

本当に何してたかあんまり記憶がないけど、その間にもずっと吉野君のことは忘れたかった。まだ思い出してチクチク胸が痛んでいたし、考えることがなくなると吉野君のことばかり思い出してしまっていた。

早い段階で彼は個人での活動を開始していたけど、早く忘れたいから見なかったことにしていた。超特急が進むための一員としての彼が好きだったから、自分のために歌う彼は私にとって知らない人だった。

維持を張っていたから、今でも超特急CD絶対買っているしFC更新も迷わずしているけど、現場に行くことはなくなってしまったし全ての仕事は追っていない。

今、二年目の冬にしてやっと、吉野くんが好きだったことを忘れ始めている

そして同時に、忘れることが怖くなってきている。

このままきっと私は吉野くんのソロ現場に行くこともないし、昔の友達に会って吉野君の話をすることもないと思う

十年引きずるだろうと思っていたけど、案外1/5の時間記憶はなくなってきた

彼のどんなところが好きだったかは思い出せるけど、それで胸がぎゅっとなったりはしないし、彼の顔やかたちは鮮明に思い出せるけどそれで死にたくなったりはなくなった

きっと今思い出せることもいつかばやけていって消えるのだ

私が一番怒って泣いて傷ついて死にたくなったのはタカシ君のことをかんがえるときだった

私は吉野くんと太陽くんが二人なのが好きだった

まだ二人が実家に住んでいたとき仕事東京に行くのは二人だった

タカシくんが実家から東京に行くとき、泊まるのが吉野くんの家になった夜は二人だった

動物園に行った二人

初めて顔を合わせて、「めっちゃ真面目」「すごい人」と思い合った二人

ボーカルなのに後ろに立たされて悔しかった二人

最年長と最年少だった二人

凸凹だった二人

黒と白だった二人

月と太陽だった二人

背中合わせの二人

超特急ボーカルだった二人

きっと気もそんなに合わなかったと思う

大親友でもなかったし、家族でもなかったし、師弟でもなかった気がする

だけど二人だった

日に日に歌が上手くなるタカシいつまでも待っていた吉野くんと、いい加減並んだように見えるのにいつまでも吉野くんを遠い目標みたいに語るタカシくん

みんなが持ち上げるほど濃い仲じゃなかったと思っているけど、きっと蓋を開けてみれば私が思いもしない仲があったような気もする

ここが好きとか、こういうエピソードがあったから好きとかじゃなくって、二人が出会って一緒に歌を歌うことになって、超特急としてふたりが奏でる歌声が大好きだった

私は勝手に、タカシくんがおいていかれたと思った。捨てられた、放り出された、一人にされたって勝手に傷ついていた。

きっとそんなことはなくて、タカシくんは私が思うよりずっと大人でそうでなくとも五人が守ってくれた

だけど吉野くんがタカシくんと袂を分かつ決断したことが本当に本当にショックだった

色んな「ふたり」の別れを聞いたけど、こんなにつらいことはないと思った。

だってお互い話し合って決めた別れじゃなくて、一方の明確な拒絶なんだ。そんなの受け入れなきゃいけないのはつらすぎるし、そんなことを言い渡す方は最低だと思った。

不幸なんて比べれるものじゃないってわかってたけど、その時心の中で私は世界一不幸だと思った。

1・17更新されたタカシくんのブログは、他のみんなと違ってまだ受け入れられていないのが感じられて涙が止まらなかった

カイくんがタカシサポートするから安心して、って言ってくれたのがうれしかったけど、やっぱり吉野くんがいなくなることで一番助けが必要になるのがタカシくんなんだって思うと悔しくて悲しかった

こんな終わり方は嫌だった。ずっと嫌だ。

二人の物語は、きれいでなくてもいいからせめて終わらせてほしかった。

かなわないと知りながらも、今でも二人が終わらせてくれるのを待ってる。

吉野くんのことを好きになったのは彼が我慢できないくらい楽しそうに歌う姿を見たからだ。こっちが笑っちゃうくらい、馬鹿みたいに楽しそうにステージで歌い舞う姿は誰よりもかっこよく見えた。

しゃべるとおもしろくて、もっとしゃべってるところを見たいと思った。

日本語の曲もバラードも全く聞かなかったけど、この人とタカシくんが歌うならずっと聞いていたいと思った。

好きな理由なんていくらでも後付けできるからあんまり意味はないけど、アイドルが嫌いだった私がこんなにも人を応援したいと思わせてお金時間感情も捧げるようになったのは吉野くんのせいだってことは事実で、それが何より私にとっての影響の大きさを示していると思う。

大好きだった。きっと今も大好きだ。だけど、それを確かめることはもう怖くてできない。

あんなに強い感情は、今の私にはきっと重すぎる

これから先、誰も応援できないとは限らない。きっと浮気性で人間観察が好きな私だから好きなアイドルができて、自主的コンサートも行けるかもしれない。

しかしたら、その人のために何かしてあげたいと思えるような人が現れるかもしれない。

だけど、きっと吉野くんのことみたいに全てを投げ出して好きになることはないだろう。

それは初めて好きになって、一番長く見ていたからでもあるけど、なってはいけないとも思うからだ。

きっとあれは私にとっては毒で、あなたにとっても重荷だった。だからそんなことはないと、明言しておきたい。

そうして世界に、吉野晃一が私という人間の中では世界一存在であり続けるということをささやかながら伝えておきたい。

ずっと悔しいから言えなかったけど、せっかくだから最後に言っておこう

吉野晃一くん、どうかこれからあなた幸せでありますように。

微塵も思えなかったあの日から二年が経って、やっぱりあなた幸せじゃないと誰も報われないと思うから

そんな不純な動機だけど、あなたにとっても私にとってもこれから比率が小さくなるあの大好きだった時間は、やっぱり本当だったと思うから

それを忘れたくない、と思う今なら幸せになってほしいと心の底から願える気がする

あなたにとっての幸せが私にはわからいから、あなたがそう思える形に落ち着けますように。




っていうのを一か月前に書いたんだけど、マジで今回の炎上でなにもかもぶち壊されました

大嫌いだと思えば思うほど好きだったこと、今もまだ実は好きなことを思い出す

大好きだった時間否定しなきゃいけないのがつらくてしんどい

赤の他人に入れ込むことのこわさを知ったよね

2018-09-14

物心ついて間もない時期に、母から無理心中を迫られたことがある。

物心ついて間もない時期に、母から無理心中を迫られたことがある。

死についてよく分かってなかった自分は、「死にたくない」と母に答えた記憶がある。

母はその場で泣き崩れ、何とか死なずに済んだ。

後で詳細を描くかもしれないけれど、自分の生まれた家庭は不完全家庭だった。

とにかく、その日から、死ってなんなんだと考えこむようになった。

幼稚園に上がってしばらくした頃、悩みはピークに達してあまり眠れなくなった。

周りの子供に相談しても不安がらせてしまって、当時の幼稚園先生からこっぴどく怒られた覚えがある。

書いてて思ったけれど、幼児が眠れなくなるって大ごとだ。

小学校に上がってから記憶ほとんどない、ただ周りに合わせてテキトーに振舞い続けた。

唯一記憶に残っているのは三年生だった時で、担任が超熱血教師だった。

うちに家庭訪問しに来た時、和室に入った時の言葉は今でも覚えている。

和室にある仏壇を見て、「ああ、創価学会員でしたか、うちは妻が幹部をやっておりまして。ちなみに私は共産党系です。」

当時はあまりピンとこなかったが、しばらく経ってから自分で調べてみた。

けっこう対立してる組織だったのね。

対立組織に属する夫婦、すごい。

私は熱心で信仰深かったかというと、それの真逆だった。

親に連れまわされて行っていた会館などの集いも、小学校に上がる前に全力で拒否して行かなくなっていた。

当然親からは殴られた。それでも反抗した。

そして家族の中で一番信仰深かったのは母だった。

父はそれほど熱心でもなかった、気が向けば仏壇に手を合わせている程度。

三年生だったころはその熱血教師とも気が合って、それなりに楽しく過ごせた。

でも家庭はぐっちゃぐちゃで、母からよくなじられた。

「お前が信心深くないから家庭が上手くいかない。」

「お前が(ryから父さんもあまり家庭と向かい合ってくれない。」

父も父で、母に対して気に喰わないことがあると自分を経由して文句を伝えさせようとしてきた。

言わないとそれはそれで面倒なので、父の伝言を母に伝えた。

母は激怒し、私に当たり、そして父にこう伝えろ、と迫る。

その伝言を父に伝えても、特に私に当たったりなどは無かった。

そういう板挟みが続いたころ、もうどうしようもなく死にたくなって、自宅で包丁飛び降りコンボを使って未遂を起こした。

ベランダの上に立って、首を切った瞬間に飛び降りようとしたのだった。

首にあてがった包丁感覚は今でも覚えている。

その時、家には誰も居なかったのだが、実行しようとしたタイミングで母が帰ってきていた。

私は母に気が付かず、後ろから羽交い絞めにされた。

母は号泣していた。

この人、昔心中を迫ってきたくせに泣くんだなと思った。

あなたはこんなことする子じゃないでしょ、何があったの?」

いやいや、目の前でこんなことをしようとしてたのが、アンタの子だよ。

そういう事件中学に上がるまでに二回ほどあった。

ショックを受けた母はどんどん宗教にのめり込んだ。

中学に上がってから記憶もあまりない、気が付いたら中二の年越しで食物アレルギーを起こした。

唯一携帯電話を持っている友人が私の家族電話しても全く出ず、友人たちは仕方なく私を自宅に運んでくれた。

寒い寒い、とうわごとを繰り返す私に友人が毛布を掛けて温めてくれる。

両親が帰ってきたのはそれから2~30分後。宗教集会に行っていたらしい。

私の状態さらに悪くなっていて、意識が途切れ途切れだった。

そして病院に運び込まれ、友人と両親、私は病院で年越しをした。

翌日、小児科医師が私の様子を見に来た。

蕎麦アレルギーで年越しとは幸先が悪いねハハハ。ところで、その手首の傷は自分でやったの?」

思いがけない質問が飛んできたけれど、意を決して私は頷いた。

あとで知ったけれど、その医師は小児神経科も診ることが出来る人だった。

「目の下のクマもすごいね、週にどれくらい寝てるの?」

「…二時間くらい。」

「何とかしたいと思う?」

私は静かにうなずいた。

その日から私の精神疾患に対して、具体的な治療が始まった。

私につけられた診断名は自律神経失調症とそれで発生した鬱、そして重度の不眠だった。

治療内容は、ルボックスという抗うつ剤と、生活リズムを記録につけるように指示された。

治療は三歩進んで二歩下がるという感じの速度で進んでいき、気が付いたらリストカットをやめていた。

鬱がひどい時でも気合いのような何かで無理くり体を動かし、学校へ通った。

精神的に辛くて行きたくない時は、母が私をぶん殴って無理やり車に乗せ、保健室に突っ込まれた。

そんな凸凹でも何とか成績は維持していたらしく、高校入試指定校推薦を受けることが出来た。

ちなみにこの時点でまだ鬱の治療は続いている。

高校合格した時、母の言葉を未だに覚えている。

「お母さんの信心が届いたおかげよ。」

この人は自分のやっている事しか見えていないんだな、と思った。

不思議なことに落胆はしなかった。

あきらめていたんだと思う。

高校楽しい記憶で埋め尽くされていたけれど、相変わらず頭の中は生死の概念を掴むことに夢中だった。

高2の春休みが終わる頃に、自転車日光に行き、華厳の滝に飛び込んで、すべて終わらせようとした。

夜の7時ごろに家を出て、携帯の電源を切って、ひたすら自転車を走らせた。

国道四号線をずっと北上し、もうそろそろ日光につく頃だったと思う。

東の空が明るくなった。

夜明けだ。

夜明けなら、夜はどこに行ったのだろう?

そう思って反対側を見るとまだ夜だった。

月と太陽が同時に見えた。

その時の自然の美しさに心を打たれてしまって、私はその場で泣き崩れた。

けっこうな時間泣いて、家に帰った。

この時は特に家族から怒られることは無かった。

そんなこんなで、そこから数ヶ月経過した高2の夏休み最後に、小児神経科主治医判断により治療がひと段落した。

不眠は改善し、リストカット癖も消えていたからだ。

希死念慮だけは消えてなかった。

主治医見立てでは、「まあ何とか乗り切れると思うよ、強いし。」とのことだった。

実際強かったと思う、よく耐えきれたと思う。

大学入試指定校推薦理系私立短大を受けて、合格した。

大学はかなり白熱した環境だったので研究学業にのめり込んだ。

2年後の卒業を経て、私は教授のツテで食品物流会社就職した。

仕事は楽しかったけれど、忙しい部署にいたのでしょっぱなから残業まみれになった。

そして、就職してから数か月後に精神疾患を再発した。

今度の病名は統合失調症

そこからは闘病しつつも、ちょくちょくバイトを始めて、そして体力的限界で辞めての繰り返しだった。

統失治療を始めてから最初の5年の間に、母はがんで亡くなった。

しかったけれど、多分一般家庭の子供よりは悲しんでいなかったと思う。涙は一応出たけど。

そこから5年後に、当時所属していたコミュニティメンバーの誘いを受けて、ルームシェアみたいな環境引越しをした。

その日から今日までの1年の間に色々なことがあった。

引っ越した月に友達付き合いが続いていた元恋人自死

病名が統合失調症から統合失調感情障害になった。

そこから半年後に父が癌で余命半年の宣告を受け。

自分自身も体調がすぐれないので、実家に戻ってきた。

そして実家に戻ってきたときに、もう一人友達付き合いが続いていた元恋人自死

私が実家引っ越しから、父の治療は順調に事が進み、抗がん剤放射線治療、本人努力甲斐があって腫瘍が消えた。

これには驚かされた、父本人が一番驚いているけども。

あとは5年間再発が無ければ安心とのことだった。

そして現在に至る。

今日は暇だったので、思い出しながら勢いでバババっと書いてみた。

しかしたら時系列おかしくなっているかもしれない。

疲れてめんどくさいので、推敲はしないでアップします。

人生いろいろあるよねってお話でした。

ここまで読んでくださって本当にありがとうございます

お互い、人生を良い旅にしていきましょう。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん